2021 年 1 月 17 日

・宣教40周年記念礼拝説教 詩篇100篇「感謝の歌を!」

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宣教40周年記念礼拝

2021.01.17

鴨下 直樹

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説教全文はただいま入力・校正作業中です。 近日中に掲載いたします。

Lineライブ

午前10時30分よりライブ配信いたします。終了後は録画でご覧いただけます。

(礼拝前半)証し:赤塚尚武


 

(礼拝後半)説教:鴨下直樹


 
 芥見キリスト教会の皆さん、宣教40周年おめでとうございます。

 1981年1月18日の礼拝からこの教会の宣教は開始されました。先ほど、芥見教会の最初の受洗者であるAさんが証しをしてくださいましたが、そこでお話しされたように最初の礼拝に集われたのは、Oさん夫妻とAさん夫妻、そして今は高山にみえるIさんご夫妻と学生の7名だったそうです。

 その時から、今週で40年を迎えました。本来でしたら、これまでこの教会で労してくださった先生方をお招きして、特別な記念礼拝をしたいところですが、今はコロナウィルスのために、大きなお祝いをすることもできません。それどころか、先週からこの岐阜県でも緊急事態宣言がだされていまして、この場に集って礼拝をすることを控えておられる方もいるという状況です。

 そう考えてみれば、芥見教会の40年の歩みというのは、荒野の40年であったということができるのかもしれません。30周年の時にもお話ししたのですが、この教会はこれまで、最初の宣教師であるストルツ先生、そして宮園先生、飯沼先生、脊戸先生、浅野先生、後藤先生をお迎えし、私で7人目の牧師ということになります。30年で7人の牧師というのは、かなり多い方です。その間、きっとみなさん色んな思い出や経験がおありになると思います。

 この40年の間、芥見教会は実に豊かな経験を与えられてきました。そして、イスラエルの民が、荒野を40年さまよいながら主に導かれてきたように、この教会も主に導かれてきた40年であったということができます。

 イスラエルの民は40年ですべての世代が入れ替わりました。けれども、本当に幸いなことですが、芥見教会のほとんどの方々が、今日まで代替わりすることもなく、こうして40年のお祝いをすることができるということも、本当に感謝なことです。

 神の民は、主との契約に生きる民です。主は、その民に約束を与えてくださいました。あなたがたを約束の御国に招き入れ、そこで子孫繁栄の約束を頂いたのです。この約束は、今も変わることはありません。

 神の民であるイスラエルは、約束を与え、果たしてくださる主なる神さまに感謝をささげる歌として、この詩篇100篇を賛美してきました。この詩篇には、神の約束に生きる民にとって大切なことが歌われています。

全地よ に向かって喜びの声をあげよ。

 この詩篇は主の御前に感謝をささげる賛美の歌です。その内容は喜びと感謝に満ちています。命令形で書かれていますけれども、この言葉には嫌な響きはありません。主は喜びと感謝を創造してくださる主だからです。

 この詩篇は、冒頭の1節から7つの命令形の言葉が続きます。
「喜びの声をあげよ」
「主に仕えよ」
「御前に来たれ」
「知れ 主こそ神」
「賛美しつつ大庭に入れ」
「感謝せよ」
「御名をほめたたえよ」

 この七つの命令形の言葉の中に、約束に生きる主の民が、何を大切にしてきたのかが、全て語られています。主を喜ぶこと、主に従う事、主の御前で礼拝をささげること、主を知ること、御前で賛美すること、感謝すること、主の御名をほめたたえること。

 この七つの命令形の言葉の主語はすべて「あなたがた」です。つまり、私たちに期待されていることです。

 そして、この七つの言葉はすべて、礼拝と深くかかわっている言葉です。主を礼拝すること。これこそが、主の民の最大の使命であり、私たちの務め、責任なのです。

 私たちは、この40年間、礼拝し続けてきました。今日で、2087回の礼拝を捧げて来た計算になります。最初からほとんど礼拝を休まずに今日まで集ってきておられるOさんご家族は2000回以上礼拝を捧げてきた計算になります。

 それは、どんなにすごいことでしょう。そして、そのことを主はどれほど喜んでくださることでしょう。

 ヴァルター・リュティーの書いた『あなたの日曜日』という本の中にこんなエピソードが書かれています。少し長いのですが、紹介したいと思います。

 ずっと前からその人が小柄な人だということは気づいていました。どの日曜日にも、前から三列目の、真ん中の通路にいちばん近い席に座って説教を聞いていました。

 後から知ったのですが、この人は妹といっしょに裏通りに住んでおり、時たま、夜の間だけ、てんかんの発作で苦しむことがあり、日中はあちこちの電車の停留所で新聞を売っていました。この人のことを知っている人は、快く新聞を受け取っていましたが、彼が話すのを初めて聞いた人は、この人がうまく発音できなかったものですから、おかしな人だと思ったかもしれません。

 仕事の時は灰色のつばの広いソフト帽をかぶっていますが、教会ではすっかりはげた頭のままでいるので目立ちました。

 ある日曜日、礼拝が終わった後で、突然、この人が改まって私のところへやって来て、とてもいわくありげに「今日で礼拝に出るのが二千回目なのです」と教えてくれました。ちょうどその時そばを通りかかった別の教会員が、その内容を小耳にはさんで、私にちょっと目くばせをし、「この小柄な人はよく冗談を言うので、あまり本気にしないほうがいいですよ」と伝えてくれました。

 二千回の礼拝出席――ああ、なんとおめでたいことでしょう! それにつけても、この小柄な新聞販売人の二千回の礼拝出席というおめでたい出来事は、日曜日に関する他の記録と比べても、かなりのものと思えます。たとえ週刊誌が、この頭のはげあがった人物の記念すべきささやかな記録にちっとも注目しなくても、おそらくこの記録は天の御使いたちのもとにまで波紋を広げることでしょう。

 人々はあざけるでしょう! しかし、おそらくこのようなめでたい出来事は、この世の知恵にまさって賢いことなのです。

 ・・・・・・中略・・・・・・

 日曜日の礼拝に参加するなど、この世の目からすると愚かなふるまいです。なぜ晴れわたった日曜の朝のそれも九時に教会に座り、古めかしく分厚い書物から話が読まれるのを聞かなくてはならないのか、生まれながらの人には一体全体、訳がわかりません。なぜそれが大事なのかを知り始めるには、きっと奇跡が起こらなくてはなりません。

 まだ続くのですが、ここまでにしたいと思います。

 2000回の礼拝出席、それはどんなにすごいことでしょう。40年の礼拝、それを神はどんなに喜んでくださることでしょう。ここに、みなさんがこうして集っているのは、まさに、このリュティーが語ったように「奇跡が起こった」からです。

 みな、はじめはこの芥見教会とは関係のない歩みをしておられたはずです。ところが、ある時に主と出会って、主を礼拝するという神から与えられた祝福の意味を知るようになったのです。そして、それ以来、教会に通い続ける。皆が2000回までいかないかもしれません。1000回の人もいるでしょう。50回の人もあるでしょう。

 その小さな当たり前のような積み重ねは、まさに神の奇跡の積み重ねです。「今日も教会に来て、御前に出て、礼拝をささげてくれたね。私の御名を賛美し、ほめたたえ、感謝をささげて、私に従ってくれたね。」主はそう言ってくださるに違いないのです。私たちがこうして礼拝に集うことをこの上なく喜んでくださるのです。

 なぜなら、私たちの主は私たちがそうするために、私たちにいのちを与え、仕事をあたえ、役割を与えて、今日まで支えてこられたからです。

 7人の宣教師や牧師たちによって引き継がれながら、今日まで礼拝が続けられているのはまさに、神の奇跡に他ならないのです。私たちは、この私たちを御前に招いてくださる主を心から喜んで、この40年のお祝いの時に、主の御名をほめたたえ、主に感謝を表したいのです。

 この詩篇の最後には三つの言葉で主のご性質が記されています。

 それは「慈しみ」、「恵み」そして「真実」です。

 この「いつくしみ」という言葉は原語では「善い」という意味の言葉です。主は善であるお方という意味です。そして、この「恵み」は「永遠の愛」という意味です。最後の「真実」という言葉は「信仰」という意味の言葉です。

 主は善なるお方で、永遠に約束を守られるお方であって、私たちを信頼してくださるお方なのです。イスラエルの人々は主のご性質を、慈しみ、恵み、そして真実という言葉で言いあらわしてきたのです。

 このお方に、私たちは感謝し、このお方を喜んで生きることができるのです。

 主は、40年、変わることのないお方です。そして、この主はこれからも変わることはないのです。私たちに与えてくださった約束をたがえることなく、慈しみ深く、恵みに満ち、真実でいてくださるのです。

 この主を今日、この40周年の記念の礼拝で、私たちは互いに覚えながら、この主に心からの感謝の思いを表したいのです。

 感謝のお祈りをささげて参りましょう。お祈りをいたします。

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