・説教 マルコの福音書3章13-19節「十二使徒を任命」
2024.9.22
内山光生
序論
今日の箇所は、前回の箇所から舞台が変わります。すなわち、イエス様たちが一旦、群衆たちから離れ、山の上で起こった出来事が記されています。13節から順番に見ていきましょう。
I 山に登られた主イエス(13節)
13節には、「イエスが山に登り」とあります。マルコの福音書では省略されていますが、別の福音書では、イエス様がお一人で山に登って祈られたことが記されています。福音書では、何度も、イエス様やその弟子たちが山に登る場面がありますが、多くの場合、何らかの意味があって山に登っているのです。
ではイエス様は何を祈られたのでしょうか。それは、イエス様について来ている人々がたくさんいる中から、ついに12人を選ぶ時がやってきたので、誰を選べば良いかについて、父なる神のみこころを探り求めるために祈りをささげられたのです。
多くのクリスチャンは、イエス様が重大な決断をされる時に、深い祈りをささげられたことを見習って、同じように、自分たちに重大な決断が迫られた時に、みこころが示されるようにと祈りをささげるのです。いつも、そのような深い祈りをささげる訳ではないが、人生の岐路に立たされるような、例えば、進学先だとか、就職先だとか、結婚相手を決める時などは、多くの人が、いつも以上に神に深い祈りをささげるのではないでしょうか。
時には、自分の願っている通りにはならない、そんな苦しみを味わいながらも、しかし、最終的には、神様が示されたた道をしっかりと受け止めるようになる、そんな事を人生の内で何度も何度も味わうのです。そして、そのような経験を通して私たちは、神様への信頼が深まっていくのです。
さて、多くの人々は、組織の中の重要な人物を選ぶ際に、優秀な人なのかどうか? 人格的に優れているかどうか? 誠実かどうか? 信頼できるかどうか? 等を基準に考えるのではないでしょうか。もちろん、そのような選び方が間違っているとは言えません。ところが、イエス様が十二使徒を選ばれた基準は、人間の感覚とは異なっていたのです。
すなわち、16節以降に記されている十二使徒は、その時代において、特別、優秀な人物だった訳ではないのです。また、人々から尊敬されていたという訳でもありません。家柄が良いとか、人格的にすばらしいという事でもなかったのです。
選ばれた使徒たちは、皆、ごく普通の人々であって、むしろ欠点だらけであり、信仰心が弱い人も含まれていました。世の中の基準からすれば、「なぜ、あのような人が選ばれたの?」と疑問に感じる、そういう人々が選ばれたのです。
イエス様は山に登られ、父なる神様に十分に祈りをささげられました。そしてその後、選ばれた12人をお呼びになり、そして、彼らはイエス様のところにやって来たのです。
II 使徒を任命された理由(14~15節)
14~15節に進みます。
選ばれた12人は、使徒と呼ばれました。ちなみに、聖書の中で使徒と呼ばれるのは、今日の箇所に記されている12人と、イスカリオテのユダの代わりに選ばれたマッテヤ、そして、パウロとバルナバだけです。なぜバルバナが使徒と呼ばれているのか、はっきりした理由は分かりませんが、とにかく、誰でも使徒と呼ばれる訳ではなく、新約聖書の時代に、イエス様の福音を伝える働きをした、ごく限られたわずかな人だけが、使徒と呼ばれているのです。
ですから、14節、15節には、イエス様が使徒たちを任命されたた理由が3つ記されていますが、これは、当時の使徒たちに当てはまることであって、今の時代の私たちには、当てはまらないことも含まれています。
イエス様が使徒たちを任命された理由の一つ目は、「彼らをご自分のそばに置くため」でした。ということは、それまでは、この12人は、イエス様と生活を共にしていた訳ではなく、イエス様から任命を受けた後で、イエス様と生活を共にするようになったのです。
使徒としての働きをするためには、まずは、イエス様が発せられる言葉をしっかりと聞き、そしてイエス様が毎日、どのような生き方をしていらっしゃるのかを身近で感じ取ることによって、霊的成長をする必要があったのでしょう。
残念ながら、今の時代においては、イエス様と共に生活することはできません。今、イエス様は、天の右の座におられるからです。しかしながら、私たちは、聖書を読むことによって、イエス様が何を仰ったのか?イエス様はどういう行いをしておられたのか?イエス様はどういう人格の方だったのかについて、知ることができるのではないでしょうか。
そういう意味では、イエス様の福音を伝えたいと願う人々は、まず、みことばを通して、イエス様がどういうお方かを知るところから始めると良いのです。
イエス様が使徒たちを任命された二つ目の理由は、「彼らを遣わして宣教させるため」でした。イエス様が伝えようとされている福音は、一部の人々だけではなく、世界中のあらゆる民族に伝えるという願いがありました。それを実現するためには、多くの人々が必要となります。だから、まず代表となる12人を選んで、彼らをあらゆる町や村に派遣させるという目的があったのです。
この時、選ばれた使徒たちは、まだイエス様の十字架の福音の本質を理解できていない状態でした。罪について、また、十字架による救いについて、霊的に理解することができる状態になっていませんでした。彼らが、本当の意味で福音が分かるのは、イエス様が天に昇られ、その後、聖霊が下った後なのです。
しかしながら、イエス様は、まだまだ未熟な状態であった使徒たちを、堂々と町や村に遣わされたのです。この辺りは、今の時代の福音宣教の方法とは異なっているかもしれません。私たちの時代では、福音を伝えるためには、ある程度、聖書の知識と霊的訓練を受けた上で、神学校などを卒業しているかどうかが問われる、それが常識となっています。けれどもイエス様は、あらゆる点で未熟な彼らを宣教の働き手として用いられたのです。これは驚くべきことです。
私が大学2年生になった時、中国系マレーシア人のクリスチャンが入学してきました。私は、彼と偶然、出会ったのですが、まだ何も話さないうちから、互いにクリスチャンだという事に気づきました。不思議な感覚でした。私と彼はすぐに祈りの友となりました。当時、彼は熱心に自分の友人たちが救われるようにと伝道をしていました。彼は何も特別な訓練を受けた訳ではありません。聖書の知識がたくさんあった訳でもありません。神学校などで正式に学んだという経験はなかったのです。にもかかわらず、大胆に「イエス・キリストは救い主です」と友達に告白していたのでした。
私は「彼のような事をすると友達から嫌われるので、真似してはいけない」と思っていました。案の定、彼は友達から「イエス様の話はしないでくれ」と言われたと嘆いていました。けれども、純粋に自分の信じていることを伝えるというその行動によって、やがて、何人ものクリスチャンが生まれる結果となりました。その出来事から、伝道というのは聖書の知識があればできる事ではなく、神様から与えられる霊的力によって、推し進められるものだと思わされました。
イエス様が使徒たちを任命された三つ目の理由は、「悪霊を追い出す権威を持たせるため」でした。聖書の中の様々な時代に、いつでも悪霊の働きが活発だったかというと、そうではありません。特に旧約聖書においては、悪霊の働きについては、断片的に記されているにとどまっています。一方、イエス様の時代や使徒たちが活躍した時代は、悪霊の働きが活発だった事が示されています。その後のキリスト教の歴史を見ても、悪霊について強調されている時代と、そうでない時代とが入り混じっています。
イエス様の時代においては、「悪霊を追い出す働き」が、宣教活動を進めていく上で必要だったということは確かだと思います。そして、使徒たちには、悪霊を追い出す権威が与えられ、更には、使徒ではない人の中にも悪霊を追い出すことができる人がいた事も記録されています。
では今の時代は、どうなのでしょうか。この問題については、教団教派によって意見が分かれるところで、微妙な緊張関係がある領域です。そういう中で、少なくとも、宣教師や牧師が「悪霊の追い出し」を積極的に行っているかと言えば、そうではないのが現状だと思われます。
そういう訳で、使徒たちには「悪霊を追い出す権威」が与えられましたが、それはいつの時代でも当然のことかと言えば、そうではないと言えるのです。私たちは、福音が多くの人々に広められることを願っていますが、その時代によって、また、文化によって、福音を伝えるための方法にはバリエーションがあるのです。
ある人々は、伝道をするためのマニュアルが有ると助かると思うかもしれません。しかしながら、伝道をマニュアル化したとしても、必ずしも、良い結果が生まれる訳ではないのです。教会員の人数が増えている教会の真似をしたとしても、同じような結果が得られるとは限らないのです。大切なのは、福音を伝える人々が、神様の栄光が現わされることを切に願っているかどうか、そういう生き方をしたいと神に祈り続けているかどうかにかかっているでしょう。
III シモン、ヤコブ、ヨハネについて(16~17節)
16~17節に進みます。
この節からは、選ばれた12人のリストが記されています。シモンは、すべての福音書の中で、一番最初に記されています。シモンはペテロという名前を頂きました。ペテロとは「岩」という意味です。彼は性格的な未熟さが有りながらも、しかし、使徒たちのリーダー格として岩のような信仰が与えられるのです。
シモンは、元々は決して立派なリーダーではありませんでした。イエス様の質問に対して的外れな回答をすることがよくありました。また、一番、印象に残るのが、イエス様が十字架につけられるために捕らえられた時、彼が「イエス様の事を知らない」と3度も、イエス様と自分の関係を否定した事です。あれほど熱心にイエス様についていきますと断言していたシモン・ペテロでしたが、イエス様が捕らえられた時、彼の弱さが明らかにされたのです。
多くのクリスチャンは、ペテロを一方的に責め立てることはできないと自覚していると思います。なぜなら、私たちもまた、ペテロのように「イエス様を知らない」と裏切った、そういう経験があるからです。あるいは、イエス様が悲しまれるような罪に陥っていた、そういう経験があるからです。
イエス様は、ペテロが自分を裏切るということをご存じでしたが、ペテロを切り捨てようとなさいませんでした。むしろ、ペテロの信仰が回復することを祈っておられたのです。そして、ペテロの信仰は、イエス様が復活された時に回復したのでした。
次にゼベダイの子ヤコブとヨハネを見ていきます。この兄弟は「雷の子」と名づけられたように、確かに、気が短いところがあったようです。また、ヤコブとヨハネは、自分たちが他の使徒たちよりも偉い立場につくことを願っていたように、野心家だったのです。そう考えると、なぜこのような人々がイエス様の使徒として選ばれたのか不思議だと思うかもしれません。
しかしながら、皆がそうではないにしろ、宣教師や牧師としての働きをしている人の中には、かつては、気が短かったり、野心家だったという人の居るのはよく聞く話です。確かに、そのままの状態では、人々からの信頼を得ることができないかもしれないですが、神は、たとえ短気な人であっても、宣教の働き人として用いることができるお方であり、たとえ、野心家だったとしても、伝道者として用いられることがある、それは確かな事です。そして、色々な経験を通して、その人の弱さが強さに変えられていくのです。
神は、今のその人の姿を見て選ばれるのではなく、その状態を変える事ができるお方です。ですから、このようなタイプの人は、宣教の働き人としてふさわしくないと私たちが安易に決めつけることはできないのです。教会の中には、自分の好むタイプの人とそうでない人が存在するかもしれません。しかし、神は色々な種類の人を通して、福音宣教が広がることを願っておられるのです。
IV ピリポ、マタイ、熱心党員シモンについて(18節)
18節に進みます。
18節に書かれている使徒を全部、説明するには時間が足りません。一部の人だけ見ていきたいと思います。ピリポは、とても賢い人でした。例えば、イエス様が5000人の男たちに、パンを与えられた奇蹟の出来事の場面で、するどい事を指摘しました。「200デナリのパンでは足りません」と。彼は頭の中で、パンの値段と人々の数を計算したのです。確かに、ピリポの言っていることは、この世の常識から考えれば当然の事でした。しかしながら、イエス様がどういうお方なのかを信仰の目で見ることができていなかった点で、霊的には盲目な人だったと言えるのです。
ある人は、ピリポのような不信仰な人が、どうして宣教活動ができるのだろうか、と思うかもしれません。けれども、神は不信仰だったピリポをイエス様の力に信頼することができるように変えて下さるお方なのです。
続いて、マタイと熱心党シモンについて見ていきましょう。
この二人は犬猿の仲だったのではないかと考えられています。というのも、マタイの元々の職業は取税人でした。取税人はローマの手先だと言われていました。一方、熱心党とはユダヤ民族主義者と呼ばれていて、ローマ帝国に支配されていることに納得していない立場でした。ですから、熱心党の立場の人からすれば、取税人は「敵の仲間」ということになってしまうのです。
そういう訳で、熱心党のシモンが取税人マタイに対してネガティブな感情を持っていた可能性は高いのです。また、マタイはマタイで、敢えて熱心党の人とは深い交わりをしなかったと思われるのです。
イエス様は、彼らが馬が合わないことを承知で、敢えて同じ十二使徒に選ばれました。この感覚は、私たちの常識と異なっているかもしれません。職場等では、仲が悪いと分かっていれば、その人たちを別の部署に配置するのはよくあることです。けれども、神は、たとえ人間関係が微妙な人々でさえも、共に宣教という同じ働きをするように導かれたのです。
それは、イエス様の命令、「互いに愛し合いなさい」を実践するための訓練だったかもしれません。そして、その訓練を乗り越える事ができるように神は助け導いて下さるのです。
V イスカリオテのユダについて(19節)
19節に進みます。イスカリオテのユダがなぜ、使徒の中の一人に選ばれたのか。これはとても良い質問ですが、しかし、それに対する明確な答えを見出すのが難しいのが現状です。
ある人は、イエス様が、裏切り者のユダを使徒として選んだのは、大きな失敗だったのではないかと思うかもしれません。けれども、イエス様は失敗をしたという訳ではありません。私たちの感覚では理解しがたいのですが、イエス様は、ユダが裏切ることを初めからご存じの上で敢えて使徒の一人として選ばれたのです。この事に思い巡らすと、「納得できない」「理解しがたい」との思いに陥る危険があります。ですが、イエス様の視点で考えていく時、なんらかの意味を見出すことができるかもしれません。
イエス様は、ユダを切り捨てようとは思っておられませんでした。むしろ、何度も何度もユダが自分の罪の大きさに気づいて、本当の意味で悔い改めることができるようにと、最後まで祈っておられたのです。イエス様は、どんな裏切り者であったとしても、その人が悔い改めることを願って待ち続けておられるのです。
そういう事を考える時、今、罪を犯しているあの人は、もう地獄しかない、と思ったり、あの人は悔い改めることはないだろう、と私たちが決めつけるのは、良くないことだと気づかされるのです。
神様の感覚、すなわちイエス様の感覚と私たち人間の感覚は異なっています。私たちは、「裏切り者は罰を受けて当然だ」と思う、それが自然だと思うのです。けれども、私たちは、イエス様が最後までユダが悔い改めることを願っておられたことを受け、どのような罪人であっても、悔い改めのチャンスがあるということを受け止めていくことが大切なのです。
まとめ
イエス様が十二使徒を選ばれた基準は、人間の感覚とは異なっていました。私たち人間は、立派な人だとか、優秀な人、人格的にすばらしい人こそが、選ばれるべきだと思うのです。ところが、イエス様は、弱さがあり、欠点があり、不信仰な人々、互いに馬が合わないような人々、そんな人を敢えてお選びになりました。同じように、神は、罪深く欠点だらけの私たちに、イエス様を信じる信仰を与えてくださいました。この神様に心から感謝をいたしましょう。
お祈りします。