2023 年 7 月 9 日

・説教 ルカの福音書7章36-50節「あなたの罪は赦された」

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2023.7.9

鴨下直樹

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 人が涙を流す時には様々な涙があります。悲しみの涙や、怒りの涙というものもあるかもしれません。惨めさを感じる時に涙を流すこともあるでしょうし、嬉しくて流す涙というのもあると思います。いずれにしても、涙が流れる時というのは、その人の中である限界を超えた時に、涙が流れるのだと思うのです。

 自分の話で恐縮なのですが、私が小学一年生の時のことです。国語の時間に「詩を書いてみよう」という時間がありました。クラスのみんなは紙にさらさらっと詩を書き始めたのですが、私は何を書いていいか、全く思い浮かべることができませんでした。

 私が何も書けないのを見た担任の先生は、「嘘でもいいから何か書け」というアドヴァイスをくれました。今思えば、先生はとにかく何か書かせることに必死だったのだと思うのですが、このアドヴァイスは私にはとても効果的でした。実際に起こったことでなくていいなら、何か書けるかもしれないと思ったのです。

 そこで私は「お母さんが泣いた」という詩を書きました。その詩は、もう手元に記録がありませんので、完全ではないのですが、大まかにいうとこんな内容の詩です。

お母さんが泣いた。
僕は、お母さんが泣いているのを見て、心配になって、お母さん大丈夫? と聞いた。
すると、お父さんが、僕に「あれは嬉し涙だよ」と言った。

 ざっくりいうとそんな内容の詩です。ちょっと凄くないですか? 小学一年生の私。この時の詩が、当時の小学校が出していた、すべての親に読まれる学校新聞の表紙を飾りました。たぶん、私の人生で、もっとも人から褒められたのは、後にも先にもこの時以外には記憶にありません。

 涙には、悲しい涙だけではなくて、嬉しい涙もあるはずだと、なぜかその時私は思って、この詩を創作したわけです。もちろんそんな事実があったわけではないのです。ただ、たぶん学校の先生をはじめ、多くの人は鴨下家の生活の一部を切り取った詩だと思ったのではないかと思うのです。近所ではずいぶん評判になって、良い証になったのだと思います。ですが、実際には当時五人の子どもを抱えていた我が家に、そんな麗しい光景はありませんでした。担任の先生のアドヴァイスによって生まれた私の想像の産物だったわけです。

 今日の聖書にも、一人の涙を流す女性が登場します。ここには名前も記されておりません。書かれているのは「その町に一人の罪深い女がいて」とあるだけです。この罪深い女の人が、主イエスと出会うまで、どんな歩みをしていたのかは、書かれていないので分かりません。想像するしかないわけですが、この「罪深い人」というのは、「遊女」などと呼ばれ、性的な罪を犯していた人だと思われます。当時のイスラエルは倫理的に非常に厳しい国で、誰かから訴えられたりすれば、石打ちの刑にされて殺されることもある時代です。私たちが今日の「娼婦」とか「売春婦」というイメージから来る、そういう仕事をしながらも逞しく生きている人とはまた少し異なるのだとも思います。今よりももっと生きにくい時代です。表立ってはいないけれども、誰もが知っているというようなことであったようです。

 そういう女性が、どこで主イエスと出会ったのかは分かりませんが、すでに主イエスの語る言葉を聞いたのか、あるいはどこかで癒やされた人なのかもしれません。その女の人が今日の箇所に登場してきます。

 主イエスはこの時、パリサイ人の家に招待されておりました。この人の名前は後で「シモン」という名であったことが記されています。シモンがどういう思いで主イエスを招いたのか、その理由もここにははっきり書かれていませんが、主イエスのことを知りたいと思ったから、主イエスを招いたのでしょう。ところが、そこに、この罪深い女がどこからともなく現れて、主イエスの足元で涙を流し始めたのです。 (続きを読む…)

2023 年 3 月 26 日

・説教 ルカの福音書5章17-26節「天井を突き抜けた救い」

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2023.3.26

鴨下直樹

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 先週、WBC、野球のワールドカップが終わりました。とてもドラマチックな展開で、日本が見事優勝しました。私も、普段はそれほど野球を見ないのですが、今回は夜に再放送をしたこともあって、何度かゲームを見ました。一か月間続いたゲームが無くなって刺激がなくなったという方も少なくないのだと思います。

 私たちは普段、毎日同じことの繰り返しの生活を退屈に感じるかもしれません。時々、私たちの生活を刺激してくれるWBCのような非日常の体験というのは、私たちに刺激を与えてくれます。普段は退屈な毎日とは思っていなくても、何か大きな出来事が終わってしまうと、自分たちの普段の生活がとても退屈なものに見えてしまう。そんな経験をすることがあるのかもしれません。それは、たとえクリスチャンであったとしても、信仰を持っていたとしても同じようなことが起こるわけです。

 私自身もそんな思いになることに、今さらながら驚きを覚えます。聖書を読んで、お祈りすれば神様との豊かな交わりの中にいるのだから、退屈さなんてないのではないかと思うのかもしれません。なぜそう思うのだろうかと、私自身考えてみると、一つ見えてくることがあります。それは、「答えが見えて来る」「先が読めて来る」という経験です。

 聖書を読んでいても、本当は分からないことばかりなのですが、いつのまにかすっかり聖書が分かったような気持ちになってしまうことがあるわけです。聖書の学びを皆さんとしているときも、何か質問があるとつい、分かっている気になって話してしまいます。そういう思いというものを持つと、いつしか足もとがぐらつくことにもなりかねないのです。もう、何もかも、分かっている。神様が何と言われるか分かっている。そういう思いによって日常が造り上げられていくときに、私たちの生活はたちどころに退屈なものとなってしまうのではないでしょうか。

 先日も、今日の聖書箇所を祈祷会でみんなと学びました。とても刺激的で楽しい時間でした。というのは、皆さんから予想もしない答えが出てくるからです。私は普段、自分一人で聖書を読んで、聖書の解説を読んでいます。そんなことをずっと続けていますから、この箇所はこうやって解釈するというのは当たり前になってしまいます。そうすると、何だかわかったような気になって、聖書を読むことすら退屈になってしまうということが起こり得るわけです。

 けれども、先日もみなさんと話していますと実に様々な意見が飛び交いました。それは私にとって、非常に刺激的な聖書の学びの時となした。

 今日の聖書は、「また」と言ってもいいかもしれません。癒しの奇跡の御業が記されているところです。「中風の患者の癒し」と呼ばれています。中風というのはギリシャ語では「片方がゆがむ」という意味の言葉です。例えば脳梗塞などの病のために体が麻痺してしまう状態にある人のことをいいます。聖書の注のところにも、「からだが麻痺した状態の人」と記されています。

 ツァラアトの病の人に続いて、中風の人が出て来るのも、人が一度病になってしまうと、そんなに簡単に癒されることがない病として記されていることが分かります。そういう病に陥った時に、その病をどのように受け止めていくのかという、人の姿がここには描き出されています。

 もちろん、それは病の場合に限りません。病というのはその人の生活が困難な状況におかれてしまいますので、その病を抱えながらとても厳しい生活をしなければなりません。毎日、その厳しい現実を目の当たりにしながら、どこかで今の自分の身に起こっている状況が改善することを人は求めるのです。それは、病だけではなくて、人との関係の中でも起こることです。あるいは、経済的な困窮という場合もあるでしょうし、受け入れがたい日常が続くなかで、多くの人がどうしたらそこから抜け出すことが出来るのかを求めているのだと思います。

 そういう生活の中で、信仰が何の助けにもならないように感じてしまう場合もあると思います。今の自分の置かれている状況が変わるとは思えないので、その中でもがき苦しむということもあるのだと思うのです。そんな変わらない現状に苦しんでいるのが、今日出て来る中風を患っている人です。
私たちは今日、この病の人に目を留めることになるのですが、今日の所にはそれ以外の人々も登場してきます。特に今日聖書に出て来る登場人物の中には、新しい人たちが姿を現します。それが「パリサイ人たちと律法の教師たち」です。

 今日の箇所から6章の前半までに4つの物語が記されています。この4つの物語に共通して登場するのが、このパリサイ人たちと律法学者たちです。彼らは、主イエスが人々の病を癒し、聖書を解き明かしているという噂を聞きつけて、至る所から集まって来たようです。最近噂になっているイエスとはいったい何者なのか、興味を持っていたのです。

 ルカはここでこのユダヤ人の宗教指導者たちが主イエスの働きを見て、何を感じたのかということを、描き出していこうとしています。その最初の出来事として、この中風の患者の癒しの出来事を、パリサイ人たちや律法学者たちが見たのだと記録していったのです。

 今日の物語は、このパリサイ派たちに代表されるユダヤ人の宗教指導者たちの視点、そして、中風の患者とその友達の視点、また主イエスの視点と3つの視点で見てみる必要があります。 (続きを読む…)

2023 年 3 月 19 日

・説教 ルカの福音書5章12-16節「主の御手は光のごとく」

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2023.3.19

鴨下直樹

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 今日の聖書の中には「ツァラアトに冒された人」という言葉が出てきます。聖書を初めて読む人には何のことだか良く分からない言葉です。今は、「重い皮膚病」とか「規定の病」と訳したり、新改訳のように原文をそのままで「ツァラアト」と訳したりしています。

 この「ツァラアト」というのは、これまでは「らい病」と訳してきました。この翻訳のために、「らい病」「ハンセン氏病」の人が長い間苦しめられてきました。聖書がこの病のことを神からの刑罰としての病として描いてきたからです。

 たとえば、モーセの姉ミリアムも(民数記12章)この病に侵されてしまいました。エリシャの従者であったゲナジもナアマン将軍が持参した貢物に目がくらんでそれを手にした時、ツァラアトに冒されたと記されています。

 レビ記14章ではこの病に冒された者は人の中を通る時には「汚れている、汚れている」と言わなければなりません。また、町の外の宿営に隔離されて生活することになります。つまり、この病は、人と一緒に生きて行くことがもはやできず、誰からも避けられて一人孤独に生活しなければならない、感染の危険のある病とされてきたのです。

 そのために、人々はこの病に冒されることは、神の裁きであり、何か悪いことをして神の怒りをかった人なのだと考えるようになりました。病のために苦しむだけではなくて、誰からも理解されず、神からも見放された病。それが、このツァラアトという病でした。

 今日の箇所は12節でこのように書かれています。

さて、イエスがある町におられたとき、見よ、全身ツァラアトに冒された人がいた。その人はイエスを見ると、ひれ伏してお願いした。「主よ、お心一つで私をきよくすることがおできになります。」

 この一節だけでも、いろいろなことが語られています。まず、「主イエスがある町におられたときに、全身ツァラアトに冒された人がいた。」と書かれていますが、このこと自体がありえない出来事です。先ほど話したように、この病の人は町の中に入れません。ということは、この人はどこかで主イエスの噂を聞いて、いてもたってもいられなくなって、その禁令を破って町の中に入って来てしまったということです。

 そこで、うまい具合に主イエスと出会うことができたようです。すると、いきなり主の前にひれ伏してお願いしたとあります。この人が男性なのか、女性なのかも分かりませんが、必死さだけはこの文章からも良く分かります。しかも、「癒してください」と願ったのではありませんでした。まず、「主よ」と呼びかけていることもそうですが、「お心一つで私をきよくすることがおできになります」と語っています。自分の願っていることではなくて、主イエスの願ってくださることが重要なのだと、言っているのです。 (続きを読む…)

2023 年 3 月 12 日

・説教 ルカの福音書5章1-11節「深みへの招き」

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2023.3.12

鴨下直樹

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 今、私たちは受難節を過ごしております。受難節というのは、十字架に向かわれるために苦しみを受けられた主イエスのお姿を心に刻み、主の御前に悔い改める時です。それは、また自分を見つめる時でもあります。

 今日のところでは、シモン・ペテロという主イエスの最初の弟子となる人が出てきます。シモンは漁師です。ペテロはここで、一日の漁を終え、網を繕いながら自分を見つめています。

 一晩中漁をしたのに、その夜は何も捕れませんでした。夜通し働いたのに何の収穫もないのです。けれども、次の漁のために、網を繕わなくてはなりません。シモンは、そんな作業に明け暮れながら虚しさがあったと思います。食べていく不安があったかもしれません。苛立ちがあったかもしれません。漁師としての力のなさに打ちひしがれていたかもしれません。網を繕いながら、いろんな考えが頭をよぎったと思うのです。

 みなさんも、そういう経験をしたことがこれまでの歩みの中でもあったと思います。そういう時というのはどうしても、物事を悪い方に、悪い方にと考えてしまうものです。自分の力の無さや、自分の失敗という事柄の前に、私たちは暗い気持ちに支配されることがあるのだと思うのです。

 受難節というのは、ここに描かれているシモン・ペテロのように、自分を見つめる時となるのです。

 そんなシモンに主イエスは声をかけられます。舟を出してくれないか、少し沖から話をしたいのだがと頼まれたのです。この前の4章で主イエスはシモンの家に来られて、シモンの姑を癒しておられますから、シモンとの面識はあったことになります。他の福音書では、シモンが弟子になった後で、シモンの家を訪れていますが、ルカの福音書は順序が逆になっていますから、ルカは時間的な順序ということをあまり気に留めていないのかもしれません。いずれにしても、ルカはここでシモンと主イエスの出会いの出来事を描き出そうとしているのです。

 舟を沖に出すように頼まれたシモンは自分の舟に主イエスをお乗せし、少し沖へ漕ぎ出します。そこから群衆に向かって説教される主イエスの言葉に耳を傾けます。シモンはその時、どんな気持ちで主イエスの言葉を聞いたのでしょう。シモンからしてみれば、内心それどころではなかったかもしれません。主イエスの話を聞きたかったから協力したわけでもなさそうです。ただ、そこでじっと話を聞いたのは間違いありません。

 その時に主イエスが何をお語りになられたのか、シモンがどのように説教を聞いたのか、あるいは説教を聞きに来たと記されているその群衆の反応も、ルカはここで記しておりません。ということは、ルカは主イエスの説教と、その説教に対する群衆やシモンの反応については、ここでは描こうとしていないわけです。むしろ、その後の出来事に力点を置いています。

 4節にはこう記されています。

話が終わるとシモンに言われた。「深みに漕ぎ出し、網を下ろして魚を捕りなさい。」

 この主イエスの言葉は、シモンにどのように響いたでしょう。完全にシモンの想定外の言葉だったはずです。この当時の漁師たちは、昼間は魚が捕れないという経験から、夜に舟を出して朝戻って来るのが常でした。真昼に魚など捕れるはずがないのです。それは、漁師であるシモン自身が一番よく理解していたはずです。

 主イエスは何よりも、シモンの心の内にある思いをよく分かっていたと思います。自分を見つめ、自分の力や、自分の経験というものを見つめようとしているシモンに対して、主イエスはそこから抜け出すようにと、ここで語りかけておられるのです。

 自分の力を信じる、自分のこれまでの経験や、一般的な常識にとらわれている考え方のままでいるのではなく、「その考え方を捨てよ! そこから抜け出せ! そして、わたしの言葉に委ねてみよ!」と主イエスはここで語りかけておられるのです。常識に逆らってでも、自分の思い込みから抜け出してみよと、主イエスは語りかけておられるのです。

 神の言葉のすばらしさは、私たちの理解を超えたところにあります。そして、それは思いもよらないような出来事になるのです。

 シモンは思いがけない言葉をかけられてどうしたというのでしょう。5節にこう記されています。

すると、シモンが答えた。「先生。私たちは夜通し働きましたが、何一つ捕れませんでした。でも、おことばですので、網を下ろしてみましょう。」

 ルカは、このシモンの言葉を信仰の決断として描き出そうとはしていません。特に主イエスの言葉を信じて、その言葉に従ったという積極的な応答の姿ではありませんでした。むしろ、不本意で、疑いながらだったようです。ただ、そこまで言われるのであれば少し試してみましょうか? それがシモンの答えでした。

 ところが、シモンはそこで予想もしていない出来事に遭遇することになります。結果は、大漁です。捕れた沢山の魚はシモンの舟だけでは入りきらないので、岸辺にいたであろう友達のヨハネとヤコブを呼んで、その二人も巻き込み大漁を経験するのです。

 ルカはここで、主イエスの言葉は、従うと出来事が起こるのだということを描き出しています。そして、この神の御業とは、私たちの想像をはるかに超えた出来事が起こるのだと描き出しているのです。

 これが、シモンと、ヨハネとヤコブの、キリストとの出会いの出来事となったのです。それは、とても印象的な出来事だったのです。 (続きを読む…)

2023 年 3 月 5 日

・説教 ルカの福音書4章31-44節「神の言葉の力」

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2023.3.5

鴨下直樹

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 聖書を読む時に私たちは主イエスのお姿に目を留めます。主イエスのお姿に注目しながら今日の箇所を見ていきますと、私たちはここで衝撃的な印象を持つことになります。ここで描かれている主イエスのお姿というのは、りつけておられる厳しいお姿だからです。

 ガリラヤの町カペナウムに行かれた主イエスは、安息日になると会堂に入られました。すると、そこに悪霊につかれた人が出てきます。この人は主イエスに向かって「私たちを滅ぼしに来たのですか?」と語り「あなたが誰だか知っている。神の聖者だ」と言うのです。すると、主イエスは彼を叱ったと35節に書かれています。

 その後の記事でもそうです。会堂を出てシモンの家に行くと、そこでシモンの姑がひどい熱で苦しんでおり、人々は主イエスに治してくれるようお願いすると、主イエスは枕元に立って「熱を叱りつけられた」と記されています。

 「ちょっとイエス様は切れすぎなんじゃないか?」とか「カルシウム不足なんじゃないか?」とか思われても仕方がない書き方です。

 私たちは普段すぐに怒って大きな声をあげる人のことを、あまり好きにはなれないと思います。主イエスを紹介することを目的とした伝道の戦略としては、あまり賢い書き方だとも思えません。

 どうしてルカはこんなマイナスの印象を持たれてしまいがちな主イエスのお姿を、ここで描くのでしょうか。

 その他にも、今日の箇所には私たちが首を傾げたくなるようなことがいくつか記されています。例えば福音書に登場する「悪霊につかれた人」という描写を考えてみてもそうです。旧約聖書には悪霊に取りつかれた人の話はほとんどありません。ところが主イエスが登場すると、まるでそんなことは日常茶飯事でもあったかのように、頻繁に起こっているように描き出しています。これは、どういうことなのでしょうか。

 「悪霊」というのは神に敵対する霊の働きです。悪霊は神の国の支配を阻止したいと考えている、神に敵対する存在です。主イエスが活動を始めることを通して、人々は神の国のことを知るようになります。そうして人々が神に近づこうとすればするほど、悪魔の働きは活発化してくる。そんなふうに考えることができるのかもしれません。

 人々が神から離れている時は、悪魔はおとなしくしているものです。旧約聖書の場合、多くの人々は神から遠く離れたところにいましたから、それほど悪魔が働く必要がなかった。けれども、主イエスが働き始めると、いよいよ悪魔はうかうかしていられなくなって、活発に活動するようになった。そう考えることもできるのかもしれません。

 いずれにしても、ルカはこの前の出来事のような主イエスと群衆という構図ではなくて、ここでは主イエスと悪霊や病というように描き出そうとしていることが分かります。

 そして主イエスは、そういう神に敵対し人々から神さまを遠ざけようとしている存在に対して、ここで怒っておられるのだということが分かってくるのではないでしょうか。

 主イエスがここで叱っているのは、ペテロの姑に対してではなく、病に対してです。会堂に座っていた人に向かって叱ったのではなく、主イエスに近づいて主が何者なのかを人々に知らせようとしている悪霊に向かって叱っておられるのです。

 40節以降になるとこんな記事が書かれています。

日が沈むと、様々な病で弱っている者をかかえている人たちがみな、病人たちをみもとに連れて来た。
イエスは一人ひとりに手を置いて癒された。

 主イエスはここで病の癒しを求める人々に、とても親切に接しておられます。病を抱えている人が主イエスのみもとに来ると、主イエスは十把一絡げで癒されたのではなくて、一人ひとりに手を置いて癒しをしておられます。

 前回の説教箇所に記されていたナザレでは、身勝手で奇跡ばかりを期待する人に対して、主イエスは癒しをなさいませんでした。しかし、このカペナウムではまるで別人のように癒しをしておられる主のお姿が目に留まります。

 私たちはこういう場面を見るとすぐに、癒してもらえるケースと、癒してもらえないケースをしっかりと分析して、正しい求め方をしたら癒してもらえるに違いない。そんな考えを抱くのかもしれません。しかし私たちが、ここで主のお姿を見て心に留めなければならないのは、残念ながらどうすれば癒してもらえるのかという方法の問題なのではないのです。

 主がここで何を大切なこととして示そうとしておられるのか、その本質に目を留めることが大切です。 (続きを読む…)

2023 年 2 月 26 日

・説教 ルカの福音書4章14-30節「みことばから始める歩み」

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2023.2.26

鴨下直樹

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 先週は、荒野の誘惑の箇所から説教しました。その説教の中で、私たちのする、奇跡を期待する祈りは主イエスを誘惑するものにもなりかねないという話をいたしました。すいぶん驚いた方があったかもしれません。その後のお祈りの中でも、たとえばロシアとの戦争が終わるように祈ることも、主を誘惑することになるのか。そんな疑問を感じられながら祈られておりました。言葉が足りなかったかなと反省しております。

 その説教の中で、はじめに「神学する」という話をしました。信仰の筋道が見えて来るようになることを「神学する」と言います。そういうところからいうと、まだまだその道筋が見えていないのかもしれません。

 祈りというのは、私たちの願うとおりにではなく、神の御心がなるようにと祈ります。神を自分の願いをきかせる僕(しもべ)のようにすることはできないのです。そういうところから考えれば、人々が殺し合いをするような戦いを収めてくださいという祈りは、神の御心が行われますように、御国が来ますようにという祈りを具体的に祈るということです。そういう祈りのことを「誘惑」と言っているのではないことは明らかです。ですから、主の御心を求める祈りとして、私たちはどんなことでも祈ることができることを覚えていただければと思います。

 さて、とはいっても私たちは様々なところで過ちを犯してしまう弱さがあります。祈りにおいても、神を誘惑するような、まさに身勝手な祈りをしかねない者です。まさに、そのことを記したのが、今日、私たちに与えられているこの誘惑の続きが記されている4章の14節以下の箇所です。

 そこでルカが記しているのは、主イエスが会堂で教えられたことから書き始めています。「イエスは彼らの会堂で教え、すべての人に称賛された。」と15節に記されています。その後、ルカはこう記しました。16節です。

それからイエスはご自分が育ったナザレに行き、いつもしているとおり安息日に会堂に入り、朗読しようとして立たれた。

 いつものように主イエスは安息日に会堂に入って、聖書を朗読して、み言葉を語り始めます。主イエスが選んだみ言葉は、イザヤ書61章の1節と2節でした。

 そこにはこう記されていました。ルカの福音書の4章の18節と19節をお読みします。

主の霊がわたしの上にある。
貧しい人に良い知らせを伝えるため、
主はわたしに油を注ぎ、
わたしを遣わされた。
捕らわれ人には解放を、
目の見えない人には目の開かれることを告げ、
虐げられている人を自由の身とし、
主の恵みの年を告げるために。

 主イエスはたまたま、偶然にこのイザヤ書を開いたのではありません。主イエスは意図的にこの箇所をお選びになられました。

 そのみ言葉に続いて主が語られたのはこういう内容でした。21節です。

イエスは人々に向かって話し始められた。「あなたがたが耳にしたとおり、今日、この聖書のことばが実現しました。」

 主イエスは、この貧しい人に良い知らせが告げられ、捕らわれ人が解放され、目の見えない人は目が開かれ、虐げられている人は自由となるというイザヤの語った約束の言葉は、今日このところから実現していくのだと言われました。

 まさに福音がこの世界にこの時からもたらされるようになるのだと、主は宣言されたのです。 (続きを読む…)

2023 年 2 月 19 日

・説教 ルカの福音書4章1-13節「誘惑の正体」

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2023.2.19

鴨下直樹

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 今、私たちはルカの福音書から順にみ言葉を聞き続けておりまして、今日から第4章に入ります。ここで、いよいよ主イエスが登場してきます。ここからが、主イエスの公の生涯、公生涯の活動ということになります。そこで、このルカが記すのは主イエスの荒野の誘惑です。

 先日の祈祷会でも、ある方が「どの福音書でもそうだけれども、なぜ主イエスの生涯を書き記すにあたってこの出来事を記すのか、著者の意図が良く分からない」という質問がありました。

 どの福音書もそうですけれども、みな判をついたかのように、皆この「荒野の誘惑」の出来事を記すわけです。このことにどんな意味があるのか。そのことも頭に置きながら、このみ言葉に耳を傾けていきたいと思います。

 先日の金曜日、私は名古屋の東海聖書神学塾で説教学を教えておりました。今、そこで加藤常昭先生の書かれた『説教への道』という本をテキストにしながら学びをしております。この加藤常昭先生は説教をするときに「黙想」が大切だということを教えるために、説教塾という牧師たちを対象にした説教のセミナーを開催しておられます。聖書を解釈しただけでは説教にはならない。そこから、説教の聞き手や、この時代のことを黙想しながらみ言葉を聞くことの重要性を教えておられるのです。

 この本の中で加藤先生は、宗教改革者ルターの言葉を紹介しながら、ルターは説教のために神の言葉を黙想することを「神学すること」だと言っていると書いています。そして、さらにルターは、そのことは「祈り」と深く結びついていると言いました。

 「神学する」と言いますと何か難しいことと考えられてしまいますけれども、神さまは、私たちに信仰の筋道をしっかりと聖書を通して示してくださっているということです。ちゃんと信仰に至る筋道がある。このことを神学というのですが、そのためには祈りが必要だとルターは言ったのです。そして、ルターはさらにそこには当然のこととして神からの「試練」があるということを挙げたというのです。

 そこで加藤先生は、主イエスが荒野の誘惑を受けられたことを紹介しています。主イエスは、この荒野の誘惑を受けられた時に、ここにも書かれていますように、聖霊に満ちていたのですが、この御霊に導かれて荒野に赴いて、そこで悪魔から誘惑を受けられたのです。それは、神様から試練を受けたということだと加藤先生は書いています。こういうことを黙想することで、信仰の道筋を明らかにしていくのです。加藤先生はこの本の中で「神様の言葉を聞き続けてひたすら生き抜くことに伴う試練」と言っています。

 こういうと私たちにもよく分かるのだと思います。私たちは、聖霊に導かれて、誘惑を受けるというと、神様が働いておられるのに、なぜ試練を受けるのだろうと初めは思うのです。けれども、神様と共に生きようと願うところには、試練が伴うものなのです。神の言葉を聞くことを通して、神の願っておられることが分かるからです。神の願いが分かってしまうと、その後は従うか従わないかという選択の前に立たされることになります。そして、まさにそこで誘惑が起こるのです。

 さて、では主イエスはどのような試練、誘惑を受けられたのでしょうか? (続きを読む…)

2023 年 2 月 12 日

・説教 ルカの福音書3章15-38節「洗礼者ヨハネと主イエス」

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2023.2.12

鴨下直樹

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 今日は、バプテスマのヨハネと主イエスという二人の人物が、入れ替わるように出てきます。そこで、まず、ヨハネが授けていた「洗礼」、または「バプテスマ」とはどういう背景から来ているのかを考えてみるところから始めてみたいと思います。

 そこで、いきなりですが、まず「(けが)れ」と「罪」ということを聖書がどのように理解して来たのかを簡単にお話ししたいと思います。

 まず、「汚れ」というのは「罪」のことではありません。人の本質的な「罪」の問題を「汚れ」という言葉で表現しているのではなくて、「汚れ」というのは「ばい菌」がついている程度の意味です。イスラエルの民は、モーセの時代に40年間荒野を旅していました。そこでは、「ばい菌」との戦いが必須です。それは、このコロナの時代の私たちにもよく理解できることでしょう。一族の中で誰かが「菌」に冒されると、民族がそのまま滅んでしまうことになりかねません。それで、神は律法を与えて、「汚れ」についての対処の方法を教えます。

 簡単にいうとこの「汚れ」について、3つのことをレビ記では書いています。まず第一は、汚れたら「洗う」ということです。食べる前には手を洗うというようなことを徹底しました。動物の死体に触れた時とか、汚れたものを触った時、血に触れた時、人々に「洗うこと」を徹底します。そして、第二に、その「汚れ」というのは、そのままで大丈夫な「汚れ」なのか、民から隔離した方がいい「汚れ」、つまり感染拡大の恐れがあるかどうかを祭司が見て、判断します。これは、「ツァラアト」とか「重い皮膚病」という病の時の対処方法として、祭司がどう判断するかが記されています。

 そして、第三の最後に、汚れた者は「犠牲をささげること」でもう一度民の中に戻ることができるという方法について記されています。これは、神との関係をもう一度回復することと、同時に、一度汚れた人が、もう一度人々の生活の中に戻りやすくするという神の配慮の意味も込められていました。

 一度汚れてしまうと、周りの人々は変な目でみるようになります。これは、犠牲をささげて神との和解が成立したなら、もう安心できる状態になったので民の中に戻ることができるようになります。神様が受け入れられたのですから、他の誰にもそれ以上何も言わせないという効果がそこにはあったわけです。

 そういう意味では今から何千前の戒めですけれども、今の日本でもできていないような細やかな人間理解を神様はしておられるということが、分かっていただけると思います。

 さて、その次に考えてみたいのは、この時に行われた「犠牲をささげる」という祭儀の考え方についてです。汚れた者や、罪を犯した者は、神との和解をするために「犠牲をささげる」ことを神さまは要求なさいました。ここでは、「汚れ」の問題と同時に「罪」の問題が出てきます。「汚れ」は外側の問題ですが「罪」は内面の問題です。つまり、神様との関係を軽んじたために起こる様々な出来事に対しても、「犠牲」をささげることで、神様は和解することができることを示したのです。 (続きを読む…)

2023 年 2 月 5 日

・説教 ルカの福音書3章1-14節「荒野を新しい地に」

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2023.2.05

鴨下直樹

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 皆さんは、NHKの大河ドラマを見ておられるでしょうか? 私は今回の『どうする家康』をとても楽しみにしています。こういう大河ドラマなどでは、よくオープニングの曲が終わるとナレーションが入って、短く簡単に、今回のストーリーの背景を説明することがあります。今回の『どうする家康』では今のところ、あまりそういう場面がなかったと思いますが、これからそういう場面が時々出てくると思います。

 今日の聖書は、まさにこのドラマの本編が始まる前のナレーションの部分だと思っていただけると、理解しやすくなると思います。

 そこでは「いつ」「どこで」「誰が」「何を」「どうした」という背景となるべきことの基本が説明されます。

 「いつ」についてはかなり丁寧な記述がなされています。1節から2節までです。

皇帝ティベリウスの治世の第十五年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督であり、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟ピリポがイトラヤとトラコニテ地方のの領主、リサニアがアビレネの領主、
アンナスとカヤパが大祭司であったころ、

 ここまで読んできますと、これから登場するヨハネが、いつの時代の人物であったが、かなり厳密に特定できるようになります。つづく「どこで」は、ユダヤで、ヨルダン川周辺の地域でということになります。「誰が、何を、どうした」は、バプテスマのヨハネが、罪の悔い改めのバプテスマを、宣べ伝えたとなっています。

 このように、ルカはこの3章から、いよいよ主イエスの、公の生涯と言いますけれども、この公生涯を書き記すにあたって丁寧に、その備えとして場面設定を記しているわけです。主イエスの物語を書き記すのに際して、ナレーションとして書き記しているのです。

 このルカの記述のおかげで、主イエスのことは昔の伝説上の人物としてではなくて、歴史的な記録として認識されることとなりました。何でもないことのように思いますが、これはヨハネと主イエスの歴史的な記録であると、後世にしっかりと覚えられるようになったわけですから、どれだけ重要なことであったかが、お分かりいただけると思います。

 ルカのナレーションはまだ続きます。ルカは主イエスを登場させる前に、ザカリヤとエリサベツから生まれた、あの赤ちゃんがどうなったのかを書き記していきます。これから登場するヨハネは、旧約聖書のイザヤ書の預言の成就として現れたのだということを6節までのところで語っていくのです。

 ここでルカは、イザヤ書40章の3節と4節を取り上げています。このイザヤの預言で語られているのは、道がまっすぐになること、それに山や谷が真っ平な土地になることです。高慢な者は謙遜にさせられ、蔑まれていた者は引き上げられるということがイザヤによって語られたのです。

 これは、実は、部分的にはマリアの賛歌にも同じような内容がすでに語られていました。(このマリアの賛歌の部分はまだ説教ができていません。説教をする予定だったのですが、コロナになってしまったために飛ばしたままになっていますので、どこかで説教をしたいと思っています。)マリアは、このマグニフィカートと呼ばれる賛歌、ルカの福音書の1章52節でこう歌っています。

権力のある者を王位から引き降ろし、
低い者を高く引き上げられました。

 マリアが歌ったあの歌が、荒野で叫ぶ預言者の言葉となって世界に届けられたのだとルカはここで描き出しているのです。

 イザヤの言葉は6節でこう結ばれています。

こうして、すべての者が神の救いを見る。

 神の救いをこの世界のすべての者が見るために、これから記されている本編が行われていくのだと言うのです。

「荒野で叫ぶ者の声がする。
『主の道を用意せよ。主の通られる道をまっすぐにせよ。
すべての谷は埋められ、すべての山や丘は低くなる。
曲がったところはまっすぐになり、険しい道は平らになる。
こうして、すべての者が神の救いを見る。』」

 預言者イザヤが、かつてイスラエルの人々に語ったこの預言の言葉は、今ヨハネの言葉を通して、再びこの世界で語られたのだと言うのです。しかも、この預言が告げられたのは「荒野」という場所でだと、ルカは記していくのです。 (続きを読む…)

2023 年 1 月 29 日

・説教 ルカの福音書2章41-52節「主イエスの姿を見失うことなく」

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2023.1.29

鴨下直樹

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午前10時30分よりライブ配信いたします。終了後は録画でご覧いただけます。


 

 聖書の中には4つの福音書があります。いずれも主イエスの宣教の業を私たちに伝えるものです。その中でも、主イエスの少年時代について記されているのは、このルカの福音書だけです。そういう意味でも、この12歳の主イエスの記述はとても重要な意味を持っています。

 まず、ここでルカがなぜこの12歳の時の出来事を記したのかですが、ここにはとても大切な意味があります。

 申命記16章16節にこういう戒めがあります。

あなたのうちの男子はみな、年に三度、種なしパンの祭り、七週の祭り、仮庵の祭りのときに、あなたの神、主が選ばれる場所で御前に出なければならない。主の前には何も持たずに出てはならない。

 ここで言う「男子」というのは11歳から12歳に至る年齢を過ぎたイスラエルの男子がすべて含まれています。そして、12歳になってこの戒めを守った者は「律法の子」と呼ばれるようになるのです。「律法の子」というのは、律法を守って生活する者という意味です。つまり、ルカは、主イエスはこの戒めに忠実に従って律法の子となったということを描き出しているのです。

 このイスラエルの三大祭には、イスラエル中の人々が、この戒めに従ってエルサレムを訪れました。実際には、遠方の者や、貧しい者は年に三度訪れることができませんでしたので、年に一度エルサレムを訪れるようになっていたようです。それぞれの祭りは七日間続きます。そのために、村から出て来る人たちは、一緒にグループを作ってエルサレムを訪れたようです。

 主イエスも12歳になる年に、ナザレの村の人々と共にこの旅に加わってエルサレムを訪れました。その時に、一つの出来事が起こりました。それが、主イエスが両親から離れて迷子になってしまったという出来事です。

 主イエスの両親は慌てました。息子が帰りの一行の中にいると思っていたのに、いなかったからです。両親はその時、どれほどがっかりしたことでしょう。12歳というのは大人になって、自分で律法を守ることができるようになったという意味です。それなのに、主イエスは親から離れて迷子になってしまうような子どもだったのです。両親の落胆はどれほど大きかったかと思います。

 まだ、我が家の娘が幼稚園の頃のことです。デパートに行って買い物をすると、娘はいつもお菓子売り場に行ってしまいます。子どもは親が付いて来てくれるものだと思い込んでいます。それで、ある時、私たちは、しばらく遠くから様子を見ようということになりました。一度迷子になって、慌てて親を探すという経験をさせた方がいいと思ったのです。

 ところが、そこで予想外の出来事が起こりました。私たちが物陰から見ていると、ひとりの年配の女性が娘に近づいて声をかけました。その人は周りを見回して、親の姿が見えないことを確認すると、子どもの手をとってインフォメーションまで連れていったのです。その時、娘は泣いたり慌てたりすることもなく、そのままその人の手に引かれてインフォメーションまで連れて行かれます。そうなると、今度はこちらが慌てる番です。急いでその方の所まで行って、子どもを迎えに行くことになりました。

 その時、娘は「どうして私がお菓子売り場にいることを、ご存じないのですか?」とは言いませんでしたけれども、迷子になっても動じない娘に驚いたものです。

 子どもが迷子になるという経験を、子どもをお持ちの方は経験したことがあると思います。そこには、親の不安な姿があります。その時、いろんな考えが頭をよぎると思います。何か危ないことが起こっていないかと心配するのです。

 不思議なことですけれども、私たちの信仰の歩みの中でもこれと似たようなことが起こります。私たちが主イエスの姿を見失うと、私たちはたちどころに不安になるのです。

 親は、子どものことを自分の手の中にあると思い込んでいます。自分の願うようになってくれないと困るのです。腹が立ちます。心配になります。子どもを見失うとどうしていいか分からなくなるのです。私たちも、主イエスと共に歩んで行く中で、どこかで自分の手の中にあるものだと思い込んでしまうのかもしれません。主イエスは、神様だから自分の願うようになる。祈った通りになる。そうでないと困ります。思うようにならなければ腹が立つし、どうしていいか分からなくなるのです。

 主イエスの両親ほど、主イエスのことを理解している人はいないはずです。しかし、神殿まで戻って来た時に、この両親は驚くべき光景を目の当たりにします。45節から47節にこう書かれています。

見つからなかったので、イエスを探しながらエルサレムまで引き返した。そして三日後になって、イエスが宮で教師たちの真ん中に座って、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。聞いている人たちはみな、イエスの知恵と答えに驚いていた。

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