・説教 ルカの福音書2章41-52節「主イエスの姿を見失うことなく」
2023.1.29
鴨下直樹
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聖書の中には4つの福音書があります。いずれも主イエスの宣教の業を私たちに伝えるものです。その中でも、主イエスの少年時代について記されているのは、このルカの福音書だけです。そういう意味でも、この12歳の主イエスの記述はとても重要な意味を持っています。
まず、ここでルカがなぜこの12歳の時の出来事を記したのかですが、ここにはとても大切な意味があります。
申命記16章16節にこういう戒めがあります。
あなたのうちの男子はみな、年に三度、種なしパンの祭り、七週の祭り、仮庵の祭りのときに、あなたの神、主が選ばれる場所で御前に出なければならない。主の前には何も持たずに出てはならない。
ここで言う「男子」というのは11歳から12歳に至る年齢を過ぎたイスラエルの男子がすべて含まれています。そして、12歳になってこの戒めを守った者は「律法の子」と呼ばれるようになるのです。「律法の子」というのは、律法を守って生活する者という意味です。つまり、ルカは、主イエスはこの戒めに忠実に従って律法の子となったということを描き出しているのです。
このイスラエルの三大祭には、イスラエル中の人々が、この戒めに従ってエルサレムを訪れました。実際には、遠方の者や、貧しい者は年に三度訪れることができませんでしたので、年に一度エルサレムを訪れるようになっていたようです。それぞれの祭りは七日間続きます。そのために、村から出て来る人たちは、一緒にグループを作ってエルサレムを訪れたようです。
主イエスも12歳になる年に、ナザレの村の人々と共にこの旅に加わってエルサレムを訪れました。その時に、一つの出来事が起こりました。それが、主イエスが両親から離れて迷子になってしまったという出来事です。
主イエスの両親は慌てました。息子が帰りの一行の中にいると思っていたのに、いなかったからです。両親はその時、どれほどがっかりしたことでしょう。12歳というのは大人になって、自分で律法を守ることができるようになったという意味です。それなのに、主イエスは親から離れて迷子になってしまうような子どもだったのです。両親の落胆はどれほど大きかったかと思います。
まだ、我が家の娘が幼稚園の頃のことです。デパートに行って買い物をすると、娘はいつもお菓子売り場に行ってしまいます。子どもは親が付いて来てくれるものだと思い込んでいます。それで、ある時、私たちは、しばらく遠くから様子を見ようということになりました。一度迷子になって、慌てて親を探すという経験をさせた方がいいと思ったのです。
ところが、そこで予想外の出来事が起こりました。私たちが物陰から見ていると、ひとりの年配の女性が娘に近づいて声をかけました。その人は周りを見回して、親の姿が見えないことを確認すると、子どもの手をとってインフォメーションまで連れていったのです。その時、娘は泣いたり慌てたりすることもなく、そのままその人の手に引かれてインフォメーションまで連れて行かれます。そうなると、今度はこちらが慌てる番です。急いでその方の所まで行って、子どもを迎えに行くことになりました。
その時、娘は「どうして私がお菓子売り場にいることを、ご存じないのですか?」とは言いませんでしたけれども、迷子になっても動じない娘に驚いたものです。
子どもが迷子になるという経験を、子どもをお持ちの方は経験したことがあると思います。そこには、親の不安な姿があります。その時、いろんな考えが頭をよぎると思います。何か危ないことが起こっていないかと心配するのです。
不思議なことですけれども、私たちの信仰の歩みの中でもこれと似たようなことが起こります。私たちが主イエスの姿を見失うと、私たちはたちどころに不安になるのです。
親は、子どものことを自分の手の中にあると思い込んでいます。自分の願うようになってくれないと困るのです。腹が立ちます。心配になります。子どもを見失うとどうしていいか分からなくなるのです。私たちも、主イエスと共に歩んで行く中で、どこかで自分の手の中にあるものだと思い込んでしまうのかもしれません。主イエスは、神様だから自分の願うようになる。祈った通りになる。そうでないと困ります。思うようにならなければ腹が立つし、どうしていいか分からなくなるのです。
主イエスの両親ほど、主イエスのことを理解している人はいないはずです。しかし、神殿まで戻って来た時に、この両親は驚くべき光景を目の当たりにします。45節から47節にこう書かれています。
見つからなかったので、イエスを探しながらエルサレムまで引き返した。そして三日後になって、イエスが宮で教師たちの真ん中に座って、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。聞いている人たちはみな、イエスの知恵と答えに驚いていた。
まだまだ子どもだと思っていた主イエスが、神殿で教師たちと話し合っていたというのです。衝撃的な光景です。両親はこんな場面を想像もしていなかったのだと思うのです。子どものことだからどこかで道草をしているとか、どこかで遊んでいるとか、おやつ売り場でいつまでも眺めているとか、そんなことを考えたに違いないのです。
つづく48節でこう言いました。
両親は彼を見て驚き、母は言った。「どうしてこんなことをしたのですか。見なさい。お父さんも私も、心配してあなたを捜していたのです。」
親としては当然の言葉だと思います。親は、いつまでたっても子どもの親です。親の元に子どもはいつもいるものだし、親の保護のもとに子どもはいるのです。ここで、「両親」という言葉が何度も使われています。マリアとヨセフのことです。二人は自分勝手なふるまいをした少年イエスを叱ります。「どうしてこんなことをしたの? 私たちは心配したんだから」いたって当たり前の言葉です。 すると、主イエスはこう答えます。49節です。
「どうしてわたしを捜されたのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当然であることを、ご存じなかったのですか。」
主イエスは驚くようなことばをこの時、両親に伝えました。この主イエスの答えに対して、続く50節にこう書かれています。
しかし両親には、イエスの語られたことばが理解できなかった。
主イエスの両親は、主イエスを理解できなかったというのです。主イエスの両親は、子どものことを自分の手の中にあるものと思っています。分かっていると思っています。けれども、この12歳の時に、主イエスは両親の理解の範疇の外にあるということに、衝撃を受けるのです。
考えてみると、マリアは主イエスを宿した時から、理解できないことばかりでした。天使がマリアに子どもの誕生を告げた時も、何のあいさつかと考え込んだと書かれています。どうして、自分のお腹に子どもが宿っているのか、そのことも理解できないことでした。主イエスが生まれた後に、羊飼いたちが尋ねて来たときも、その一連の出来事に思いを巡らしていました。生まれて八日目にエルサレムを訪れた時も、老シメオンの語る言葉にも驚いていました。
これまでも驚きの連続です。自分の子どもでありながら両親は、主イエスのことが理解できないでいるのです。それは、両親だけに留まりません。主イエスの周りにいる者もみな、主イエスを理解できないのです。そして、このことは、主イエスのよみがえりの時まで続き、人々が主イエスのことを理解できるようにはならなかったのです。
主イエスのもっとも近くにいた両親でさえ、それも、まだ宣教を始める前の少年イエスの時から、主イエスのことを理解できないのです。ルカはこのことを、ここで描き出そうとしているのです。それと、同時に、私たちがここで気づくように求められているのは、主イエスがここで何をしておられたかということを目に焼き付けることです。
少年イエスは神の宮で教師たちの話を聞いたり、質問したりしておられたのです。主イエスご自身がここで、神の御許にいることを喜んでおられ、また神のことを語っておられるのです。神の言葉を語っておられる。これが、主イエスのお姿なのです。
今日の説教題を、「主イエスの姿を求めて」としました。「理解されない主イエス」とするかとも悩んだのですが、私たちが目を留めるべきは、やはり主イエスのお姿そのものです。私たちが、分かったような気になって、見失ってしまうことのないように心がけるのは、この主のお姿です。それは、主イエスもまた、神のことばに耳を傾けることで、自立した一人の人としての姿を見せておられるということです。
み言葉を聞くこと。主の宮で主と共にあること。このお姿こそ、私たちが見失うことのない姿として、目に焼き付ける必要があるのです。
神の子だから、当たり前のことというのではないのです。神の子である主イエスの、人としての姿がここでは描き出されているのです。
そして、この主イエスのお姿は続く51節にこう記されています。
それからイエスは一緒に下って行き、ナザレに帰って両親に仕えられた。母はこれらのことをみな、心に留めておいた。
主イエスは、まさに人のあるべき姿として、神の言葉を聞き、神と共にあろうとしておられたと示すと同時に、子どもとして親に仕えられたのです。ここに、私たちが見るべき主イエスのお姿があるのです。主の子どもとして、両親に仕えるという姿を私たちはここで知るのです。主イエスには、なぜ、大事なことも分からないのかと、両親を見下すような姿は見られません。両親を敬い、まさに律法の子として、み言葉に忠実に歩まれたのです。
最後に一つの詩を紹介したいと思います。「たったひとつの生涯」という題がつけられた作者不詳の詩です。
世に知られぬ小さな村に、ユダヤ人を両親として生まれた一人の男がいた。
母親は農夫であった。
彼は別の、これまた世に知られぬ小さな村で育っていた。
彼は30になるまで大工の小屋で働いていた。それから旅まわりの説教者となって三年を過ごした。
一冊の本も書かず、決まった仕事場もなく、自分の家もなかった。家族をもったこともなく、大学に行ったこともなかった。大きな町に足を踏み入れたことがなく、自分の生まれた村から200マイル以上外に出たことはなかった。
偉大な人物には普通つきものの、目をみはらせるようなことは何一つやらなかった。
人に見せる紹介状なぞなかったから、自分を見てもらうことがただ一つのたよりであった。
裸一貫、もって生まれた力以外に、この世とかかわりをもつものは何もなかった。
ほどなく世間は彼に敵対しはじめた。
友人たちはみな逃げ去った。その一人は彼を裏切った。彼は敵の手に渡され、まねごとの裁判に引きずり出された。
彼は十字架に釘づけられ、二人の盗人の間に立たされた。
彼は死の寸前にあるとき、処刑者たちは、彼が地上でもっていた唯一の財産、すなわち彼の上衣をくじで引いていた。
彼が死ぬと、その死体は降ろされて、借り物の墓に横たえられた。ある友人のせめてものはなむけであった。
長い19世紀が過ぎ去っていた。
今日、彼は人類の中心であり、前進する隊列の先頭に立っている。
かつて進軍したすべての陸軍、かつて建造されたすべての海軍、かつて開催されたすべての会議、かつて統治したすべての王たち、これらをことごとく合わせて一つにしても、人類の生活に与えた影響において、あの孤独な生涯にとうてい及びもつかないだろう。
たったひとつの生涯に。
この詩には、主イエスの生涯が短くまとめられています。自分の力を誇示するような出来事は何もなかった人であったのに、世界で最も大きな影響力を与えた人物となった。それが、主イエスです。人の理解を超えているのです。大切なことは、このお方のお姿を見ることです。このお方の生涯に触れていくことです。そうすると、何でもないことのような小さな出来事の一つ一つがとてつもなく、大切な事なのだということが分かってくるのです。
主と共に生きること、主の御言葉に聞き続けること。これこそが、ここで示されている福音なのです。ここで描かれている主イエスの見るべきお姿は、この2つです。主と共にあること、そして、み言葉に耳を傾けること。そんなことがいったい何になるのか? 当たり前のことではないか。大したことではないし、それがはぜ福音なのか? 良い知らせというのは、もっとすごいことなのではないのか、みなさんはそう思うのかもしれません。けれども、誰にでもできるこの小さなことを大切にすることの中に、神の福音の祝福が秘められているのです。
主と共に歩むことの中に、迷子になっても不安になることのない平安があります。何があっても、主は私たちに平安を与えられるのです。そして、み言葉に耳を傾けることの中に、私たちはすべての出来事の解決を見出すことができるのです。主が子どもの頃から大切にしておられたのは、この2つです。つまり、それは、私たちにとっても、もっとも大切なことなのだとういうことです。この主のお姿を、私たちはいつも求めて主を仰ぎ見て行くのです。
お祈りをいたします。