2025 年 3 月 30 日

・説教 ヨハネの福音書15章16節「私が牧師になったわけ 〜憧れの福音〜」

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2025.03.30

鴨下直樹

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 今日は進級式の礼拝ということで、子どもたちや学生たちも一緒にこの礼拝に集ってくれています。できるだけ難しい話はしないで分かりやすく話したいと思っています。

 先ほど楽しいスキットを見ました。最近は「推し活」と言うんでしょうか。皆さんにも、いろんな「推し」というのがあると思います。「推し」というのは、念の為に説明しておくと、その人がハマっているものや、人のことをさします。アイドルだったり、ゲームのキャラクターだったり、YouTuberだったり、いろんなものに夢中になって「推し活」なるものを始めるわけです。

 私が子どもの頃とてもハマったものがあります。それは、今で言えば「推しのゲーム」であったわけですが、それが「ドラクエ」と呼ばれるゲームでした。シナリオも絵も音楽も、そのゲームの世界観に当時小学6年生の私は夢中になったわけです。あまりにも夢中になって、いつか自分はゲームクリエイターになりたいとさえ思うほどでした。

 そんな具合でしたから、小学生の時も、中学校に入ってもゲームでよく遊びました。中学生になってから夢中になったものも沢山あります。中学では卓球部で、卓球にのめり込みました。音楽も中学生の時は洋楽にハマりました。マイケル・ジャクソンから始まって、いろんなアーティストにハマり込みました。でも、これらは今の推し活とは少し違うような気もします。

 それで、「推し活」の意味を調べてみると「自分にとって一押しのキャラクター(推し)を様々な形で応援する活動のこと」と書かれていました。調べてみて気づくのは「推し」は「キャラクター」なんですね。もちろん、それがアーティストであることも多いわけです。私の場合は、特定のキャラクターというよりも、たとえばゲームであればその世界が全部好きという感じだったのかもしれません。

 推し活にもいろいろあるんだと思います。好きなキャクターの缶バッチを集めたり、アクスタと呼ばれるそのキャラクターの描かれたアクリル製のスタンドを集めたり、ぬいぐるみやフィギュアを集めたり、あるいはそのキャラクターの出るコンサートや催しに参加したり、実にさまざまな応援の仕方があるようです。

 私の子どもの頃は推し活ではなかったわけですが、好きなものに夢中になってそれにのめり込んでいきましたので、勉強もあまりしませんでした。それでも毎日楽しかったのをよく憶えています。

 ところが、中学も2年生が終わり3年生になりますと、だんだんと現実的な問題が差し迫って来ます。自分がどういう道に進んでいくのかということを考えて決断していかなくてはならないわけです。その時点で、自分の進路を考えると気分が落ち込み始めます。それまでは、毎日とても楽しいことばかりだったのに、自分の現実が突きつけられるわけです。勉強をしてこなかったつけが回って来ます。というのは、高校を選ぶにあたって、私には選べる選択肢が無いことに気がつくようになるわけです。

 そうなると今まで自分の毎日を楽しくしてくれていたゲームや音楽が、実は自分の足を引っ張っているんじゃないかと感じ始めるわけです。でも、大好きですからそんなに簡単には捨てられません。

 思うに「推し活」というのは、普段頑張っている自分が、いろんな壁や問題に直面する中で、小さな慰めや希望を見つけ出して私たちにちょっとした希望や勇気をくれるものだと思うのです。その中にはさまざまな形で「憧れ」と呼べるものが存在しているはずです。そこには、自分の「こういうものが好き」という自分の中にある例えば「応援したい気持ち」だったりが隠れているわけです。

 中学3年生の時の私は、自分のことがよく分からなくなっていました。一所懸命に励んできた卓球部の部活は3年の春までは100人の生徒の中でわずか数名しか選ばれないレギュラーでした。けれども、夏の大会の直前で調子を落としてレギュラーから外されてしまいます。そこからやる気が失われていきました。勉強も全然していませんでしたから、進路を決める時に私が希望を出した高校は、担任の先生から100%落ちるからやめておけと言われる始末でした。

 それでも私には一つの希望がありました。それは、聖書の中に出てくるソロモンという王様の話です。ソロモンは、自分は王様にはなれないと自信が無かったのですが、神様にお祈りすると、神様から知恵を与えられて立派に国を治めた王様です。あの頃の私には、この聖書の話だけが希望でした。私はこのソロモン王にどこかで憧れていたのだと思います。それで、勉強もしないで毎日真剣に神様に「どうか、ソロモンのように頭を良くしてください」と祈り続けたわけです。

 結果的に、残念ながら頭は良くはなりませんでした。ですが、担任の先生に100%落ちると言われた高校には何とか合格させていただいたので、神様は私のお祈りをギリギリのところで聞いてくださったのだと思います。

 高校に進むと、私が行ったのは工業高校で「工業化学科」という科に進みました。別に化学(ばけ学の方です)が好きだったわけでもありませんが、フラスコやビーカーにいろんな薬を入れては化学反応を見るというのは不思議な世界だったなと思います。けれども、高校を卒業する頃になると、次の進路を選ばなくてはなりません。また、そこで憂鬱な日々が始まるわけです。いろんな会社を受けましたが、うまく合格できません。自分のやりたい仕事が見つからないのです。自分のやりたい仕事を選ぶのではなくて、選択できる中から手当たり次第に試験を受けて合格した会社に行く。そんな感じで仕事を選びました。

 こうして高校を卒業して仕事についたのですが、当時はバブル絶頂期でしたので仕事は忙しく、朝の6時に起きて、家に戻ってくるのはいつも夜の11時過ぎ、しかも交代勤務もあって、休みのはずの土曜日も休日出勤。給料は沢山もらえましたが、自分が好きでやりたいこともできないという生活になってしまいました。

 その頃の私がハマっていったのが車でした。というのも、うちの向かいで、同級生のお父さんが車屋をしていました。その方が、会社に入った時に就職祝いに車をタダでくださいました。「トヨタカローラ」10年落ちの車です。ところが、この車が毎月故障しました。そのたびに修理に出すわけですが、毎月修理代に3万円とか5万円かかるわけです。途中でエアコンは効かない、カセットは聞けない、最後は助手席のドアが開かなくなって、半年で別の車に買い替えることにしたわけです。今度は好きな車を買おう。毎月3~5万円出しても修理代を払うよりはましと考えたわけです。これが悪かったと今考えれば思うわけですが、当然ローンで車を買います。その1年後、一つ年下の弟が免許を取ったこともあって、それまで乗っていた車を弟に譲って、新しい車を買うことになりました。その時には初めて「新車」を手にいれたわけです。こうして車好きが加速していってしまったのです。

 ところが、この私に人生の転機がやってきます。それはその新車を購入した時です。仲の良かった友だちと買ったばかりの車で慣らし運転をしようとドライブに行くことになりました。そこに私の友人が自分の知り合いを連れてきました。その人はその時会社を辞めて、自分で新しく会社を立ち上げる準備をしているという人でした。その人が、私に自分がどんな将来設計をしているか、自分の夢を私に語りだしたんです。なかなか壮大な人生設計でした。けれども、その人の話を聞いているうちに、私は何だか自分がとても惨めに思えてきたのです。

 この人は憧れを抱いている。自分の夢に向かって生きている。でも、自分はどうだろうか? と自分を振り返ってみると、自分はクリスチャンなのにやりたいことも無い、車の借金だけが自分のところにはあるわけです。けれども、この人には夢があって輝いて見えたのです。憧れをその心のうちに秘めている人というのは何て魅力的なんだろうかと考えるようになったのです。

 その時から私は、自分はこの後どうなりたいんだろうか? どういう人生を歩みたいんだろうか、自分の夢を持ちたいと考えるようになりました。

 そんな時に、私の通っていた教会に一人の人が礼拝に来るようになりました。その人は少し変わった人で、海外を10年間旅し続けていた人です。大学に失敗して恥ずかしくなって日本を飛び出して行った先で、ドイツの元日本宣教師の下を訪ねます。そこで、その人に導かれてクリスチャンになるんですが、その後イギリスの聖書学校、バイブルスクールに行った後、海外のいろんな国々を巡り歩いて、10年ぶりに日本に戻って来た人でした。それが、少し前に、この教会の礼拝でもメッセージしてくださった方で、2年前まで天白教会で牧師をしていた野田喜裕さんです。

 私はこの人の話を聞くようになって、海外で旅を続ける生活に憧れを抱くようになりました。でも自分は英語ができないので世界中を旅することはできない。それなら、自分は日本一周旅行でもしようかと考えるようになったわけです。そこで初めて自分の人生に夢を持った、憧れを抱くようになったわけです。それで私が考えたのは、何とかしてキャンピングカーを手に入れようということでした。

 新しい車を手に入れたばかりで借金がまだあるのに、また次の車のことを考え始めている。あまり現実的な夢とは言えませんでしたが、自分も「ああいう人になりたい」という憧れを持つことができたという意味では、私はそこから大きく変わるきっかけを得たと思います。

 そして、ここから私に大きな新しい転機が訪れます。それはある日の礼拝の時に突然やって来ました。

 その日の礼拝で私たちの教会に一人の信徒の女性の方が証しに来ました。隣町にあった笠松教会の婦人で、Iさんという方です。私はその笠松教会で生まれたので、何度か顔を見たことがあった方でした。その方が礼拝で、お話をしたのです。その方の話を聞いてみると、若い時に献身をして海外に行ってキリスト教のことを伝える宣教師になろうとしていたんだそうです。ところが、急に病気になってまって、人工透析を受けなければならなくなって、自分はその道を諦めなければならなくなってしまったという話でした。

 その中で、この方が読んだ聖書のみ言葉が、今日の聖書の箇所、ヨハネの福音書の15章16節です。そこにはこう書かれています。

あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。それは、あなたがたが行って実を結び、その実が残るようになるため、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものをすべて、父が与えてくださるようになるためです。

 この言葉を聞いた時に、私は困ってしまいました。もう、神様に隅に追い詰められて逃げ場が無くなってしまった感じがしました。私は、その時に、自分の夢、自分の人生設計というのは自分で持つものだと思っていたからです。自分で自分のやりたいことを選ぶんだと思っていました。ところが、この聖書によると神様の方から、もうおまえの道は選んであるからと言われてしまったんです。しかもそれは、その前から薄々と「牧師になる」という道に神様は私を進ませようとしておられるんじゃないかと感じ始めていた頃だったわけです。

 でも、私は絶対になりたくない仕事がありました。それは父がやっていた「牧師」という仕事です。子どもながらに父のしている牧師という仕事がどれだけ大変かをよく知っていましたし、自分にはできないと思っていました。

 そもそも私にも言い分があります。そんなこと一方的に言われたって、そもそも自分には車のローンがあります。買ったばかりの車の借金があるんです。無理です。神様が選んだ道に進むなんて、そんなこと急に言われても無理ですと、そう考えたわけです。

 すると、この聖書の後半にこう書いてあったのです。

あなたがたがわたしの名によって父に求めるものをすべて、父が与えてくださるようになるためです。

 求めるものはすべて与えるとまで書いてあるんです。もう参ってしまいました。車の借金も何とかなると神様に言われているように私は感じたわけです。もう完全に降参です。それで、どうしたかというと、私はその翌月会社を辞めました。車の借金もそのままにして、神様、後は全部お願いしますよって、仕事を辞めたんです。

 この時から私の止まっていた時間が動き始めます。そこからは何かを手に入れたいという憧れではなくて、こういう生き方をしたいという憧れが私の心の中に生まれて来たからです。

 それまで、私は自分がやりたいことをするという思いで生きてきました。けれども、神様が私の人生に関心を持っておられて、神様が私の人生に何かわからないけれども計画を持っていらっしゃるというのです。この自分にいったい何ができるんだろうかという、不思議な感覚が自分の中に生まれていきました。

 私の中に生まれた小さな憧れが、自分の中で少しずつ形を変えていって、自分の生き方そのものを変えてしまっても構わないとさえ思えるようになったのです。

 よく、教会でもお話をする言葉があります。それが、「大切な言葉は外から来る」という言葉です。ぜひ、覚えてほしい言葉です。自分の言葉は自分の心の中から聞こえて来ます。けれども、大切な言葉、神からの言葉は外から聞こえて来るのです。自分の中には無い思いが、急に外から自分に向かって注がれるのです。それが、私にとってはこのヨハネの福音書の15章16節の言葉でした。

あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。それは、あなたがたが行って実を結び、その実が残るようになるため、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものをすべて、父が与えてくださるようになるためです。

 この言葉は、私がこれまで心の中に抱えていた不安や心配を全部取り除く言葉でした。神には、何やら私の人生に計画がおありだというのです。しかも、ここには、「父に求めるものは何でも与えてくださる」とあります。必要なものは神様が備えてくださるというのです。

 この後、私は初め東京の神学大学に入るために英語の勉強も兼ねてイギリスに行くことにするんですが、イギリスから強制送還されて戻されて、名古屋の神学塾で学ぶことになります。ですが、この辺りの話をすると長くなるので私の話はこのくらいにしておきたいと思います。
 
 今日、皆さんにぜひ知っていただきたいことは、「憧れ」というのは本当に大切なものなのだということです。

 先週の日曜日も私はある所でこの「憧れ」について話をしてきました。それは、私が初めて憧れの話を聞いた時のことで、今から30年ほど前のことです。ドイツからルドルフ・ボーレンという牧師が日本に講演に来られたことがあります。私は当時そのボーレン先生の話を聞きに行ったのですが、そこでボーレン先生は「憧れと福音」というタイトルで講演をなさいました。

 私たちがこうなりたいと思う、その憧れはイエス・キリストに繋がっていくのだというのです。私たちは小さな時から、さまざまなものに憧れを見出してきました。私の場合はゴレンジャーや仮面ライダー、ウルトラマンから始まって、ゲームクリエイターに憧れ、独り立ちして仕事をしようとしている人や野田さんに憧れ、そして、Iさんの話を聞いて牧師になるようにと変わってきました。そして、最初のスキットにあったように、その憧れはイエス・キリストへの憧れへと移り変わっていくのです。

 このボーレン先生が30年前に東京駅に着いた時、東京駅にはルーズソックスを履いた女子高生が溢れていたのだそうです。それを見たボーレン先生は「彼女たちは素晴らしい、皆、憧れを持って生きている」と言われたんだそうです。そんな姿の中にも、人の心の中にある憧れの気持ちを見つけ出しておられたのです。

 今の「推し活」もそうでしょう。私たちは形を変えながらもさまざまな憧れを抱いています。その憧れは私たちを少しずつ成長させていきます。次々に形は変わっていくはずです。それで良いのです。その自分が変わることへの期待感が有れば、ある時どこか外からの言葉を耳にする日がやって来るでしょう。神の言葉は外から来る。この聖書の言葉と出会う時に、私たちはそこから新しい憧れを持つようになるのです。

 皆さん、4月から新しい生活が始まります。学年が変わり、学校が変わる人もいるでしょう。もうすでに大人になられている皆さんもそうです。学校や仕事は変わらないかもしれません。しかし、日本では毎年4月になると環境がどこかしら新しく変わっていきます。その中で、小さな憧れを抱いてください。そして、そこで主イエスを見出してください、神の言葉を聞いてください。変わることを恐れないでください。神はいつも私たちと共にいて、私たちをより良いものへと導いてくださるお方なのです。

 お祈りをいたしましょう。

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