・説教 出エジプト記14章13ー14節 「黙っていなければならない」
本日はマレーネ・シュトラスブルガー師が説教をして下さいました。
2014.3.2
鴨下 直樹
十戒を学びはじめましてようやく今日で最後の戒めの部分を学びます。順にこのように十戒の意味を学んでいきますと、私たちを導いてくださる主が、私たちにどのように生きることを願っておられるかが少しづつ見えてきたのではないかと期待しています。私たちの主が願っておられるのは、主によって支えられていることを覚えながら、お互いをも支え合って生きていくことができる生活を語っていると言っていいと思います。そのように考えてみますと、この十戒の最後の部分、この「あなたがたの隣人の家を欲しがってはならない」という第十の戒めの意味も、もうすでに何を語ろうとしているのか分かってきます。人のものを欲しがらなくても、安心して生きることができる喜びを知ってほしいと主が願っておられるということです。
「欲しがってはならない」。この言葉だけをそのまま考えてみますと、もうこの戒めを守ることは不可能に思えてきます。子どもが生まれてから最初にする能動的な行為は、この欲しがるという行為です。ミルクが欲しい。もっと欲しいと切実な嘆きと共に訴えかけられると、親としてはどうしたって与えたくなります。ミルクを卒業して色々なものを食べるようになりますが、それでも、またもっと欲しいと訴えかけます。説教の時に、私は出来るかぎり自分の子どものことを話さないようにと思うのですけれども、最近、祈祷会でもそうですが、たとえで話すのはほとんど子どもの事ばかりになりつつあるので、だいぶ反省しています。それでも今日もお話しするのをお許しいただきたいと思いますが、先日も幼稚園の先生が園での様子を書いてくれる手帳の中に「お昼御飯は一回おかわりをしましたが、まだ足りない様子でした」と書かれていました。本当に、食べたがります。どうやって欲しがるのをやめさせたらよいのだろうかと毎日考えていますから、今日の聖書の箇所を読みながら、もうほとんど絶望的な気持ちになるのです。
人間は小さい時からずっと、欲しい、欲しいと訴え続けて大人になっていくものです。考えてみれば、私たちの生活の大部分が何かを手に入れることで成り立つ社会の中で生きているのです。そして、その中から豊かさというものを味わって生きていくのです。子どもを見ていてもそうです。子ども同士で自分の持ち物を取りあう、兄弟と奪い合う、そうして、自分の所有権を主張しながら争いをつづけて、大人になっていくのです。
第八の戒めであった「盗んではならない」を学んだ時に、物を盗むことは第十の戒めで考えられていて、第八の戒めは、何よりも人を盗むことが戒められていて、物に対して戒められているのがこの第十戒だとすでに説明しました。ところが、この聖書の言葉を読んでいきますとこう記されています。 (続きを読む…)
2014.2.9
鴨下 直樹
「盗んではならない」とあります。二歳になった娘の慈乃が、週に数回ですが幼稚園に通っています。ご覧になった方も多いと思いますけれども、とても食べるのが好きな子です。幼稚園の給食の時間も人一倍食べ終わるのが早いようで、どうも聞いていますと、隣のまだ食べている子どものお皿に手を伸ばしてしまうことがあるようです。私たちがまだ食べていても、私たちのお皿に手を伸ばしてきますから、そういうこともあるだろうと思うのです。いくら「それは盗みである」と教えても、「まだ食べたいんだから何が悪い」と言わんばかりに泣いて抗議します。もちろん、少しづつ学んでいくことですからそれほど心配しておりません。むしろ、そんなに食べて大丈夫かということのほうが心配なくらいです。しかし、いつかは学ばなくてはなりません。人のものを取ることがどれほど悪い事なのか。自分もそうされてみて気づいていくのでしょうか。
そのことを考えてみてもそうですけれども、「盗んではならない」という戒めを正しく理解するために必要なことは、想像力を持つことです。奪われた相手がそのことでどれほど悲しい思いをし、悔しい思いをするか、自分に当てはめてみればすぐに分かることです。ところが、なかなかいつまでたっても、新聞やニュースから盗むという事件が姿を消すことがないのです。
「盗み」と一言でいっても、そこには様々なものがあります。 (続きを読む…)
2014.1.26
鴨下 直樹
姦淫してはならない。
これが今朝私たちに与えられている十戒の第七の戒めの言葉です。この短い戒めですけれども、この戒めを通して私たちが本当に考えなければならない問題が、ここにはたくさん潜んでいると言っていいと思います。
まだ、若い時にこの戒めをめぐってずいぶん悩みました。私たち同盟福音基督教会という教会は、敬虔主義の流れを持っています。敬虔主義の「敬虔」という字は、よく「敬虔なクリスチャン」と言う時に使われる言葉です。信仰の歩みは実生活に証されるべきであるという考え方が、この敬虔主義の考え方の根底に流れています。ですから、たとえば「聖日厳守」とか「禁酒禁煙」というような標語が教会でも掲げられてきました。私の父も牧師をしておりましたけれども、非常に厳格な敬虔な牧師です。毎朝早天祈祷をし、大きな祈りの課題があれば断食をし、暇があればトラクトを配るか、車の上にスピーカーを載せて町に伝道に出かけるという生活です。そういう両親に育てられましたので、聖書の戒めについては厳格に守るように子どもの頃から教えられてきました。そのことについては、私は今となっては本当に感謝しています。そのように教えられなければ、本当に神さまに従うことについて考えてこなかったと思うからです。
先ほどもお読みしましたけれども、マタイの福音書の山上の説教の中で、主イエスがこの「姦淫してはならない」という戒めをこのように教えられました。五章の二十七節です。
「姦淫してはならない」と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。もし、右の目が、あなたをつまづかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。
と続きます。以前すでにここから説教しましたので丁寧に解説する時間はありませんが、ここでは「すでに心の中で姦淫を犯した」と言われています。そのために、本当に自分はどうしたらいいんだろうかと思うほどに、毎日のようにこの聖書の言葉に苦しめられました。しかし、今考えても、あのように御言葉に苦しめられるという経験は、本当に聖書を理解していくうえで非常に大事なことだと思います。
少しつづこの戒めについて考えてみたいと思います。 (続きを読む…)
2014.1.12
鴨下 直樹
「殺してはならない」これが第六の戒めです。非常に短い戒めで、ここで言っていることはとても単純なことです。殺してはいけないのです。しかし、誰にでも分かるこの戒めも、角度を変えてもう一度問い直してみると、なかなか単純とはいきません。自分のいのちを断つ自殺、胎児のいのちを奪う中絶、国家が国の利権を守るために行なわれる戦争も、公の殺戮です。また殺人犯などに対する死刑、環境破壊からくる第三国の飢餓死、あげ始めるときりがありません。誰もが人を殺すことはよくないことなのだと分かっているのにも関わらず、私たちの生活の中には実に様々な形で人を殺す行為が行なわれてしまっています。
この説教の準備のためにルターの書いた「大教理問答」を読んでおりました。すると、 (続きを読む…)
2013.1.5
鴨下 直樹
新しい年を迎えました。今年は詩篇七十三篇二十八節の「わたしは、神に近くあることを幸いとします。」(新共同訳)がローズンゲンによる年間聖句として与えられています。元旦礼拝でも、「来る一年にこれからどのようなことがあったとしても、主の近くいる幸いを覚える一年となるように祈ります」と説教いたしました。
二日の日ですが、私の両親を訪ねました。ところが、まだ兄弟たちが集まる前に、娘の慈乃が膝の上で絵本を読んでやっていますと急に様子がおかしくなってしまいまして、ひきつけているのです。もう二回目のことですので、少しすれば治るはずなのですが、収まるようすもありません。お正月から自分で医者を探すことも難しいので救急車を呼びました。救急車が来てもまだひきつけがおさまりません。20分から30分ほどたったでしょうか、救急車の中で、一度意識が戻って少しほっとしたのですが、病院に到着してからもまたひきつけをおこしてしまいました。しかも、今度は意識が回復しません。入院して様子を見るということになったのですが、お医者さんのはなしでは「脳症」という診断でした。詳しい事はよく分かりませんけれども、最初のひきつけの時間が長すぎたために、脳の機能が回復しないのです。検査をして分かったのは小さな子どもがかかりやすい最近流行しているRSウィルスという菌が原因ということでした。二歳以下の子どもは非常にかかりやすく、特に効く薬もないんだそうです。病院で、様子を見ながら回復を待つということでしたが、五時間たった夕方に、ようやく意識を回復しました。
私たちの会話が聞こえていたのか、「慈乃、意識、ないないした」と言って看護師さんたちを驚かせました。今は、だいぶ回復しておりますが、まだ何だかぼーっとした状態でいます。もう、何度も何度もひたすらに、「主よ、どうか癒してください、助けてやってください」という祈りとも言えないような叫びを繰り返すだけでした。
けれども、前日、ここで御言葉を語ったように、本当に、「しかし私にとっては、神の近くにいることが、しあせなのです。」という新改訳の言葉がそのまま私の頭を何度もよぎりました。本当に、親として目の前で病に苦しんでいる娘に対して祈ることしかできないのです。けれども、何もしてやれないのですけれども、祈ることができる。いのちの主にいのることができるということは、何という幸いなことなのだろうかと思わずにはいられませんでした。どうなったとしても、この主がいてくださるのだから大丈夫だという確信があるのです。私自身、今年与えられている御言葉を改めて味わうことのできる時となりました。 (続きを読む…)
2013.11.17
鴨下 直樹
もう少し前のことになりますけれども、スイスの説教者でヴァルター・リュティの書いた「あなたの日曜日」というエッセーが翻訳されました。日曜日の礼拝の祝福についてあらゆる事柄がその中で考察されているとてもユニークな読み物です。以前紹介したことがありますので覚えておられる方もあると思います。その時にもお話ししたと思いますが、この本の冒頭で月曜日に野良に出かける農耕馬のことが書かれています。こんなはなしです。農耕馬は月曜日になると、早く馬具をつけてもらいたくて、せかせかとしながら、納屋から出されると、綱をぐいぐいひっぱっていきます。ところが、人間は月曜の朝を迎えると、冷え切ったモーターをやっと動かすように重たい足取りで出かけて行きます。そこでリュティは書いています。「どうしても考えないわけにはいきません。なぜ馬はあのように月曜の朝、元気いっぱいに蹄で地面をガリガリかくのに、私たち人間は冴えない気持ちで同じ朝を思い、不機嫌な気持ちと戦わなくてはならないのか。どうして農耕馬には日曜日が実にはっきりした祝福になっているのに、今日の私たちにとっては日曜日がますます厄介なものとなっているのでしょうか。結局、馬には秘儀が分かっており、私たちには分からなくなっているということなのでしょうか」。こんな風にこの本ははじまっていきます。
リュティーがこの本の中で問いかけていることは、私たちにとってとても切実な問いです。馬は月曜日が待ち遠しくて仕方がないのに、私たちは月曜日は気が重くなってしまっているという現実があるからです。私たちにとって日曜日が祝福となっていないならば、私たちの一週間は、私たちの働きもまた、気を重たいものとなってしまいます。では、日曜日の祝福の秘密とはいったいどこにあるのでしょうか。 (続きを読む…)
2013.11.10
鴨下 直樹
あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。主は、御名をみだりに唱える者を、罰せずにはおかれない。
今日は十戒の第三の戒め、「主の御名をみだりに唱えてはならない」という戒めです。
みなさんの中にもご経験のある方がおられるかと思いますが、自分がいない場所で、自分の名前が使われるという経験がおありになるのではないでしょうか。「たしか、あの人があの時にこう言っていた」、「これはなになにさんの言っていたことだけれども」、「なになにさんも参加すると聞いたので、私も参加したんだけれどもなぜいないのか」。色々な状況があると思いますけれども、自分の名前が正しく使われていればいいのですけれども、まったく身に覚えのないこと、あるいは悪意をもって使われているとすればいい気持ちはしません。そんな話が耳に入ってきますと、自分の名前を出して話をした人に対して嫌な気持ちをもつことになってしまうことがあります。この第三の戒めが戒めていることは、まさにこのことです。
名前が正しく用いられていないということは、はじめにその意図はなかったとしても、結果として自分の名前が軽んじていると感じてしまいます。まして、その名前が神さまの名前だというのですから、これはよほど注意深くする必要があります。 (続きを読む…)
2013.11.3
鴨下 直樹
今日は召天者記念礼拝ということで、これまで私たちの教会で共に礼拝を捧げて来られた方で、今は天に召されている方々のことを覚えながら礼拝をささげています。また、先月から十戒の御言葉を聞き続けておりまして、今朝はちょうど第二の戒め、「偶像を造ってはならない」という戒めの御言葉を聞こうとしています。今日私たちは礼拝の後で鳩吹苑にまいりまして、墓地礼拝を致します。そこでも、私たちは亡骸に手を合わせて礼拝するということをいたしません。この戒めに書かれていることを、そこでも覚えているのです。私たちは教会の墓の前で、もう一度主にある復活の望みを確認し、共に主の御業を思い起こしながら、主をたたえる礼拝をするのです。
先日もマレーネ先生と話していたのですけれども、ドイツの墓地では亡骸を二十五年の間、墓地を借りて家族を偲ぶことができますが、二十五年たちますとまた更地にされて、直ぐに他の家族に貸し出されるんだそうです。この背景にはもちろん、キリスト教の信仰があるのですけれども、信仰者の亡骸はすでに天にあるのだから、ある一定の期間、家族の慰めのために墓地を造るけれども、そこに永遠に留まるのではないということを意味しています。
今日の戒めは「偶像を造ってはならない」ということですけれども、五節には「それらを拝んではならない」と記されています。偶像を造ることと、拝むことがここで戒められています。ここでよく考える必要があるのは、この「偶像を造ってはならない」と言う言葉は、もともとの言葉は「刻んだ像を造ってはならない」ということです。私たちはこの戒めを読みますと、別の神を造ってはならないという意味にすぐに理解してしまいますけれども、それはすでに第一の戒めで「わたしのほかに、他の神々があってはならない」と十分に教えられていますから、「別の神をつくる」という意味でこの戒めが記されているのではないことをまず理解しておく必要があります。ですから、死んだ者を神としてはならないということも、第一の戒めですでに教えられていることなのです。
では、この「刻んだ像を造ってはならない」というのはどういう意味を持つのでしょうか。 (続きを読む…)
2013.10.27
鴨下 直樹
今、十戒を学び始めています。今日はその第一の戒めの部分ですが、前回はこの十戒の二節の前文と言われている部分から「自由の道標としての十戒」と題して共に御言葉を聞きました。毎回の説教題にこそ入れてはいませんが、この十戒は、私たちを自由にする道標だということを常に心にとめていただきたいと思っています。それと同時に、この最初の二節の言葉は十戒の根拠となっている言葉ですから、このことを常に心にとめていただきたいのです。
「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。
そして、今日の三節の間に「だから」という言葉を補ってもいいと思っていますけれども、
「だから」、
あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。
と第一に戒めが語られているのです。「あなたを救ったのはわたしだ」、「あなたに自由を与え、あなたを奴隷から解放したのはわたし。だから、あなたは他の神々を自分の神とはしないよね」と主はここで語りかけておられるのです。
すでに恵みを与えたのだから、その当然の応答として、主がこの十戒、特にこの第一の戒めを語りかけておられることがお分かり頂けると思います。前にもお話ししましたけれども、まずはじめに神であられる主が、愛してくださったのです。その愛は届いているよね。伝わっているよね。だから、他の神を愛することなんかしないよね。という、実に率直な神の愛の言葉がここに記されているのです。
この十戒は人に自由を与える道標になるのだと最初に言いました。神は、神の愛の御手の中に神の民を置くことによって、その者に自由を体験させたいと願っておられるのです。モーセに導かれたこの時のイスラエルの人々は、この神の圧倒的な愛をもうすでに味わっているのです。毎日エジプト人たちによって強制労働させられていた中から、救いを得たのです。自由を味わったのです。そしてとても興味深いのは、そのようにしてエジプトから脱出して自由を与えられたイスラエルの人々の前に、神は四十年にわたる荒野の生活を強いられたのでした。そうすると、わたし達は考えなければなりません。神が人々に与えようとしておられる自由とは、どういうものなのかということを。 (続きを読む…)
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