・説教 出エジプト記20章3節 「自由の道標としての十戒 第一戒 『唯一の神』」
2013.10.27
鴨下 直樹
今、十戒を学び始めています。今日はその第一の戒めの部分ですが、前回はこの十戒の二節の前文と言われている部分から「自由の道標としての十戒」と題して共に御言葉を聞きました。毎回の説教題にこそ入れてはいませんが、この十戒は、私たちを自由にする道標だということを常に心にとめていただきたいと思っています。それと同時に、この最初の二節の言葉は十戒の根拠となっている言葉ですから、このことを常に心にとめていただきたいのです。
「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。
そして、今日の三節の間に「だから」という言葉を補ってもいいと思っていますけれども、
「だから」、
あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。
と第一に戒めが語られているのです。「あなたを救ったのはわたしだ」、「あなたに自由を与え、あなたを奴隷から解放したのはわたし。だから、あなたは他の神々を自分の神とはしないよね」と主はここで語りかけておられるのです。
すでに恵みを与えたのだから、その当然の応答として、主がこの十戒、特にこの第一の戒めを語りかけておられることがお分かり頂けると思います。前にもお話ししましたけれども、まずはじめに神であられる主が、愛してくださったのです。その愛は届いているよね。伝わっているよね。だから、他の神を愛することなんかしないよね。という、実に率直な神の愛の言葉がここに記されているのです。
この十戒は人に自由を与える道標になるのだと最初に言いました。神は、神の愛の御手の中に神の民を置くことによって、その者に自由を体験させたいと願っておられるのです。モーセに導かれたこの時のイスラエルの人々は、この神の圧倒的な愛をもうすでに味わっているのです。毎日エジプト人たちによって強制労働させられていた中から、救いを得たのです。自由を味わったのです。そしてとても興味深いのは、そのようにしてエジプトから脱出して自由を与えられたイスラエルの人々の前に、神は四十年にわたる荒野の生活を強いられたのでした。そうすると、わたし達は考えなければなりません。神が人々に与えようとしておられる自由とは、どういうものなのかということを。
特にこの第一の戒めは十の戒めの中でも、すべての土台となっている戒めです。極端に言ってしまえば、この戒めさえ本当の意味で分かっていれば、他は自然に身についていくものと言うこともできるかもしれません。この第一の戒めで主が求めておられることは、「あなたを救ったわたしが神だ。他にはいない」ということです。このまことの神を神とするということは、何にもまさって優先されることなのであって、そこからあなたの本当の自由は与えられるのだと、主はこの戒めで語りかけておられるのです。
いつも礼拝で十戒を共に読む時、讃美歌21の93の3に十戒が記されています。この十戒の下の部分に※印がついていました、申命記第5章にも十戒が記されているということが書かれています。この申命記では、十戒を与えられた後で、イスラエルの人々がとても大事にしていた「シェマー」と呼ばれる部分があります。日本語では「聞きなさい」となっていますけれども、十戒の後、大事な戒めが書かれている部分があります。その最初の部分、申命記6章4節と5節を読んでみたいと思います。
聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。
冒頭に「聞きなさい。イスラエル。」とありますけれども、この言葉がヘブル語で「シェマー」と言います。そして、この部分はイスラエルの人々にとって、もっとも重要な事が語られている戒めとして心に留めるようになります。みなさんも、後に主イエスが十戒の前半部分の要約として語られた言葉と覚えておられる方も多いと思います。マタイの福音書第22章36節で、一人の律法学者が「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」と主イエスに問いかけたときに、そこで、この申命記の言葉を主イエスがお答えになられたのです。マタイのほうでは、「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』となっています。少し申命記とマタイの福音書では言葉が変わっていますけれども、内容は同じことです。「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」ということこそが、神が与えられた戒め、律法の心だと主イエスは言われたのです。
これは、この十戒の第一の戒めを積極的に言い換えた言葉だということもできます。心と思いと力を尽くして、つまり、全力でわたしを愛して欲しいのだと主は語りかけられたのです。その時に私たちが同時に覚えなくてはならないのは、神ご自身もまた、まさにそのような思いで私たちを愛してくださっているのだという、神ご自身から私たちへの愛の宣言でもあるのです。
この十戒というのは、この第一の戒めにかぎらず、すべての戒めの言葉は、主の積極的な愛の言葉であると言い換えて読むことができます。そのように、主は私たちを愛してくださっているのです。
宗教改革者ルターは、この十戒をとても大事にした人です。ルターは一家のあるじが、家庭で子どもたちに信仰を正しく教えるために、『小教理問答』という問答書をつくりました。質問が書かれていて、それに対して答える、問いと答えという形で書かれた小さな書物です。ルターはこの小教理問答を自分が書いた本の中でも一番気に入っていたようですけれども、この本はこの十戒から始まります。
第一の戒め わたしはあなたの神、主であって、あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。
これはどういう意味ですか。
答え–私どもは、何にもまして、神を畏れ、愛し、信頼しなければなりません。
そのように小教理問答は書き出されています。間違えていけないのは、この問いと答えというのは、問いを問うのはお父さんのほうで、答えるのが子どもたちです。ですから、正しく答えるためには暗記してしまわなければなりません。この第一の戒めの意味は何ですかと子どもにたずねると、子どものほうが「私どもは、何にもまして、神を畏れ、愛し、信頼しなければなりません。」と答えるのです。
ルターはこの戒めは、私たちが何をおいても、まず神を畏れ、愛し、信頼することを求めているのだと教えました。子どものころから、このことが身にしみて分かるようにと求めたのです。
この十戒の本を書いた人はたくさんいます。私は、今回の十戒の学び全体のタイトルとして「自由の道標としての十戒」と掲げましたけれども、実は、チェコの神学者のヤン・ミリチ・ロッホマンは、その十戒の解説を書きまして、その書物の名前を「自由のみちしるべ」としました。とても素晴らしい本で、ここからその名前をいただきました。ロッホマンも、宗教改革者ルターが小教理問答の冒頭で教えたことの中に、まさに自由の道標が示されていると書いています。そこでは、聖書が語る自由というのはルターがここで語っているように現実的なものなのだというのです。というのは、「自由」というのは放任の中に転げ落ちることなのではなくて、狭い道を歩むことなのだと言います。その狭さというのは、ルターがここで教えている神との関係の中に生きることなのだというのです。これは何も難しいことではなくて、愛してくださる神に対して、私たちも愛を持って答えていく。その枠の中にちゃんと入っていてはじめて、神が与えてくださる自由に生きることができるということなのです。私たちを愛してくださる神に応えて、神を愛し、神を信頼する、その中に、ロッホマンの言葉で言えば、その狭さの中に、神は自由を備えておられるということなのです。
もう少し、この第一の戒めについて考えてみたいと思います。最初に少しふれましたけれども、私たちは礼拝では新改訳聖書を使っております。讃美歌は讃美歌21を使っています。そこでは新共同訳聖書の言葉が使われています。ですから、他の聖書をみますと、時々言葉が違っていることを発見する場合があります。先週は、後藤幸男先生が説教に来てくださいましたけれども、祝祷の時は文語訳聖書の祈りの言葉で祈られたということを聞きました。いつも聞いている祈りでも訳が変わるとずいぶん違う印象を受けるものです。違う聖書に触れると新しい発見があるもので、この十戒も文語訳聖書を見ますと、少し内容が異なっていることに気づきます。
文語訳聖書ではこの第一の戒めはこのように訳されていました。
「汝、わが面の前に我の外、何物をも神とすべからず」。
お気づきになられたと思いますけれども、この文語訳では「わたしのほかに」という言葉ではなくて、「わがかおの前に」という言葉があるのです。最近の翻訳には無い言葉です。文語訳聖書の「わがかおの前に」の「かお」という言葉は「面」(つら)という字を書きます。原文では明らかにそういう言葉が記されているのです。旧約聖書はヘブル語で書かれていますが、この言葉はやはり「神の顔の前に」と読んだほうがいいのではないかと古くから言われていることで、この言葉をラテン語で「コーラム・デオ」と言います。宗教改革者カルヴァンがとても大事にした言葉です。カルヴァンは『キリスト教綱要』の第二巻で十戒について書いています。その本の中で、この「神の顔の前に」という部分をこんなふうに書いています。「人が罪を犯す時には、神の目を欺くことができると考えてそれをするけれども、それに対して、主なる神も、私たちの企てること、わたしたちが考え、つくりだすことのすべてをみな見抜いておられる」と。神のまなざしは私たちをすべて見通しておられるのとカルヴァンは言うのです。
神を自分の顔の前におくというカルヴァンの理解は、わたしたちのほうでも、神を軽んじることなく御前に誠実に生きることだし、神のほうでもわたしたちに目を向けてくださっておられるのだということです。カルヴァンの言う、「神はわたしたちのなすことのすべてを見抜いておられる」という理解は二つの意味があります。一つは、神は私たちをいつも見つめていてくださるという優しい面と、同時に、神は私たちを監視しておられるという厳しい面がそこにはあることになります。
わたしは意図的に、「神の厳しい面と優しい面」と言いましたが、まさにこの「面」という言葉が面(かお)という言葉に当てられていることはとても意味深いことだと思います。神の顔の前に生きるということは、そのように優しいかおを見られるという部分と、厳しいかおをみなければならないという部分があるのです。しかし、そこでこそ、わたしたちはこの神の御前で、自分の選び取るべき判断の自覚がうまれてくるのではないかと思うのです。
けれども、わたしたちはそういうとそれはとても厳しいことのように感じてしまうのですが、神を顔の前において生きるということは、わたしたちは主を見続けているのですから、その歩みは当然、慰めに満ちたものになるのです。私たちを愛してくださるお方を見上げ続けていて、それが不安になるとか、その生活は厳しいというようなことはどこにもないのです。なぜ不安になったり、厳しいと感じたりするのかと言うと、わたしたちが主を見上げるのをやめて、他のものに心を奪われていってしまう、神以外のものを神とするような生き方をしてしまうので、そこから、様々なものが生じてきてしまうのです。神の顔を見上げることができないと、顔を隠していたいというようなやましさが生じます。あの、エデンの園でアダムとエバがその姿を隠そうとしたように、私たちも主の御顔を見上げることができなくなってしまうのです。
そういう意味でも、私たちの毎日の生活の中で、「神の顔のまえに」、「コーラムデオ」ということを心に留めることによって、自分の向くべき方向が間違いそうになる時に、それを正すことができる道標とすることができるようになるのです。
イスラエルの人々をエジプトの奴隷の状態から救い出してくださった神は、ご自分の民を愛しておられるがゆえに、その苦しみに心痛め、救いの手を差し伸べてくださいました。この神は、今、私たちにもこの救いの御手を差し伸べてくださり、私たちも神の民として招き入れてくださいました。私たちは、この神の愛と慈しみのまなざしの前に立たされているのです。このお方は私たちに深い関心をもち、私たちがこの神のまなざしの中で、喜んで、自由に生きることを願ってくださって、私たちの生活を変えようとしていてくださっているのです。私たちの歩みはなおも、荒野のような生活であることは変わりありませんが、その荒野の生活の中で、私たちは、この神のまなざしに支えられて、自由に生きることができるのです。
この神が私たちを見ていてくださり、このお方を私たちの神として愛していく時に、私たちはこの荒野の世にあって、さまざまな厳しさを乗り越える強さを持つのです。それは同時に、様々な誘惑に対しても、抵抗する力を持つようになるということです。
あなたを救ってくださった神が、あなたを自由にするのです。あなたを愛しておられる神は、あなたから愛されることを求めておられるのです。このお方とともに歩むときに、私たちは、私たちの周りの状況が荒野であったとしても、どれほど厳しい生活であったとしても、確かな足取りで、しっかりと立つ自由を得るのです。
お祈りを致します。