・奨励 「テモテの信仰」 テモテ第Ⅱ 1章5節、3章15〜17節
本日は、芥見教会員の舛田忠興執事が奨励をして下さいました。
鴨下直樹
「求めなさい。そうすれば与えられます。」とあります。大変有名な言葉です。文語訳聖書の「求めよ、さらば与えられん。」という言葉の方が良く知られていますが、この言葉は、もはや聖書の言葉であるということを知らない人までいるほどに、様々なところで使われるようになりました。普通の会話でも使われるでしょうし、テレビのコマーシャルなどでも使われます。
一般にこの言葉が使われるのは、考えてみれば、「努力すれば何でも手に入れられる」というような意味で理解されることが多いのではないかと思います。そう聞くと、この主イエスの言葉がそのような意味の言葉ではないということは簡単に想像できると思います。けれども、それとそれほど違わない意味で教会でもしばしば用いられます。何事も神に熱心に祈れば、神はかならずその祈りに応えてくださるという意味に理解するということがあるからです。
たとえば、信仰の雑誌の中に、さまざまな信仰の証しが出てきます。そういうものを読んでいてもそうですし、あるいは、キリスト者の救いの証しというのを聞くときにもそのように語られることが多いのではないかと思うのです。聖書に、「求めなさい、そうすれば与えられる」と記されているので、信じて病気が治るように祈ったとか、自分の悩みの解決を求めて祈った。すると、神がその祈りに応えてくださったと本当に喜びながら、主の御業を喜んで証しするということがあります。それは、本当に幸いな経験だと思います。
けれども、同時に、同じ病におかれている人が、同じように信じて祈っても病が治らないということだって起こります。すると、どうしても考えざるを得ないのは、ある祈りは聞かれて、ある祈りは聞かれないという事実です。祈りが聞かれる場合は、主は御言葉のとおりにしてくださったと感謝することができるかもしれませんけれども、そうでない場合は、その原因がどこにあるのかということが気になります。そして、自分の祈りが不信仰だったからではないかとか、祈り方が十分ではなかったという結論になるとすれば、それは本当に残念なことです。まして、自分は神から愛されていないから自分の祈りは聞かれなかったのだと考えなければならない悲しみはどれほどのことだろうかと思うのです。
果たして、ここで主イエスは何でも祈ればそれは手に入れられるというような意味でこのことを語っておられるのでしょうか。 (続きを読む…)
鴨下直樹
今日、私たちに与えられている聖書の言葉が「さばいてはいけません」という言葉からはじまっています。唐突にこの言葉が出てきたかのような印象さえ持ちます。この前に何が語られていたかというと、そこでは「明日のための心配は無用」だと言われているのです。先ほどまでは、実に憐れみ深い方として優しく語りかけていてくださったかと思えば、今度は、その顔がすぐに鬼のように変わったかのように「裁くな!」と言われるのです。裁くというのはどういうことでしょうか。 (続きを読む…)
鴨下直樹
今、ずっと「山上の説教」から御言葉を聴き続けておりますけれども、この山上の説教にはとても有名な言葉がいくつも語られています。最初の「悲しむ者は幸いです。」という幸いを告げる言葉や、主の祈りもそうですけれども、そのほかにも実に様々な言葉が知られています。今日、私たちに与えられている「空の鳥を見なさい、野のゆりを見なさい」という言葉もよく知られた御言葉ですし、あるいは、そのあとに記されている「神の国と、その義をまず第一に求めなさい」という言葉もよく知られている言葉です。どうして、こういう言葉が良く知られるようになるのだろうかと考えてみますと、やはりそれは、多くの人の心をひきつける言葉が、そこに語られているからなのだろうと思います。そして、特に、今日私たちに与えられている言葉が良く知られるようになったのは、やはり、ここで語られている主イエスの言葉に多くの人が慰めを得たからだろうと思います。
今日の私たちに与えられている聖書の中には「心配」という言葉が六回も出てきます。新共同訳聖書では「思いわずらう」と訳されている言葉です。私たちの生活を振り返ってみますと、私たちの生活にはさまざまな「心配事」や「思いわずらい」があると言っていいと思います。そういう私たちの「心配」の中で起こる様々な心配や、思いわずらいを、聖書はどう語っているのかというのは、やはりキリスト者だけでなくても知りたいと思うところなのだろうと思います。 (続きを読む…)
鴨下直樹
今日の説教の題は「あなたの宝のあるところ」という題をつけました。私はいつも、自分のつけた説教の題が、下手な題のつけ方だなと少し心苦しい思いを持っています。ひと月前に、説教の箇所と題をすでに記いて、みなさんに今月の予定と共にお渡しするために、いつも説教代は暫定的につけます。まだ説教ができているわけではないのでやむを得ないということもありますし、後で変えればいいと思うのですけれど、それでもうまい言葉が見つかりません。けれども、今日のところについて言いますと、言いたいことはだいたい伝わるかなとも思っています。
今日のタイトルにあるように、ここの聖書の箇所の主題は明らかに宝です。後半のところでは富と言い換えられていますけれども、私たちの宝とは何か、私たちの心はどこに向かっているかということを、主イエスは問うておられるのです。しかし、宝などという言い方をしますと、すぐに連想されるものは「宝箱」です。古めかしい箱に入って、人目に触れないようにして隠してあるもののことをまず考えます。
私の子供のころの話で恐縮ですけれども、母親に「うちには宝箱はないのか」と尋ねたことがあります。そうすると母は少し考えてから、「ある」と言って、押入れの中から小さな箱を取り出してきました。 (続きを読む…)
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