2013 年 1 月 29 日

今月の礼拝予定(2013年2月)

Filed under: 今月の礼拝予定 — susumu @ 16:15

2月3日 降誕節第4主日

主日主題: 神の家族
聖書: ガラテヤ6章1-10節
説教:「兄弟として共に生きる」 鴨下直樹牧師
聖餐式

教会総会資料配付
午後:各部会、聖歌隊練習

2月10日 降誕節第5主日

主日主題: 信仰
聖書: ガラテヤ6章11-18節
説教:「私たちの戦い」 鴨下直樹牧師

教会総会資料に関する質問受付
午後:役員会、礼拝準備会

2月17日 受難節第1主日

主日主題: 祝福
聖書: 未定
説教: マレーネ師

午後:教会総会

2月24日 受難節第2主日

主日主題: 苦難
聖書: 詩篇51篇
説教: 「清き心を造り給え」 鴨下直樹牧師

午後:聖歌隊練習

2013 年 1 月 27 日

・説教 ガラテヤ人への手紙5章16-26節 「自由への戦い」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 20:24

2013.1.27

鴨下 直樹

今日の説教題を「自由への戦い」としました。今日の十六節からの聖書箇所には自由という言葉はありませんので、なぜこんな題をと思う方があるかもしれませんが、その前の十三節から自由についてパウロが語っているからです。ですから本当でしたら今日は十三節からにするべきだったかもしれません。
この「自由」という言葉は色々なものを連想させます。自由と言った時に連想するのは、多くの場合、自分の願いが満たされること、自分がまさに自由に、気ままに生きることができる時であろうと思います。けれども、私たちがキリスト者としてこのテーマから連想する自由のイメージは、もしかすると、信仰に生きるために欲望を我慢して不自由を強いられることが信仰的な生き方で、それを聖書は御霊に生きると言っていると理解してしまうことがあるかもしれません。
このような考え方を禁欲主義といいます。禁欲主義などという言葉を使いますと、自分はそんな堅苦しく考えていないと思うかもしれませんが、信仰に生きるというのは、禁欲的な生活を強いられるというイメージを持っている人は意外に多いと思います。今日の箇所は私たちが信仰者としてどのような自由に召されているのかを考えてみたいと思います。

私は今、「自由に召される」と言いました。召されるという言葉は、たとえば牧師になるために神学校にいくように召されたなどという使い方をしますから、何か特別な召命を受けた人のことと考えてしまうかもしれません。しかし、パウロはこの十三節で「兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。」と書いています。召すというのはそのために任命するということです。神は私たちが自由に生きるように任命してくださったのだというのです。

けれども私たちが信仰に生きる時、この自由によって与えられる喜びが失われていることに気づくことがあるのではないかと思います。教会に来始めた頃、聖書の話に興味をもって礼拝に来ていた時は喜んで来ていたのだけれども、信仰に生きるようになって、洗礼を受けていつのまにか、喜びが心の中に感じられなくなってしまって、何となくの義務感や、人付き合いから来る責任感の方が大きくなってきてしまうということがあるようです。これは残念なことです。いくら残念と言っても、簡単に喜びを取り戻すことができなくなっていくと、それは深刻な問題です。
今日の聖書の箇所は私たちが失いそうになってしまいがちな、この信仰の喜びに深く根差す自由はどこから来るのかということを、パウロは教えようとしているのです。

パウロは今朝のところでこう言っています。 (続きを読む…)

2013 年 1 月 20 日

・説教 ガラテヤ人への手紙5章2ー15節 「愛によって働く信仰」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 20:02

2013.1.20

鴨下 直樹

先ほど、詩篇の五十一篇を聞きました。「ダビデがバテ・シェバのもとに通ったのちに、預言者ナタンが彼のもとに来たとき」との表題がついています。イスラエルの王ダビデが、自分の部下ウリヤの妻バテ・シェバと姦淫の罪を犯します。そして、部下のウリヤを戦争のもっとも激しい所に送り出して殺してしまうという出来事が起こりました。今日流の言葉で言えば不倫です。そして、それが殺人事件に発展したのです。しかし、ダビデは王さまです。自分のしたことをうまく隠すこともできれば、それを攻め立てる人もおりません。この出来事の書かれているサムエル記第二の第十一章、十二章を見てみますと、ダビデはその出来事を隠そうとはしていても、悪びれている様子はありません。けれども、預言者ナタンがダビデを訪ねて来て、このダビデの罪を臆することなく指摘します。その時にダビデが悔い改めた祈りが、この詩篇五十一篇です。
ダビデの時代というのは、罪の赦しのために犠牲を捧げることが律法に定められていました。けれども、ダビデはこの詩篇の中で、自分の罪に目をとめながら神は本当は犠牲を捧げることを願っているのではなく、心から悔い改めることを求めているのではないかと気づきます。それが、この詩篇の祈りの中で現れているのです。

神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。

十節。そして、

たとい私がささげても、まことに、あなたはいけにえを喜ばれません。全焼のいけにえを、望まれません。神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。

と十六節、十七節にあります。
ダビデはこの詩篇で、自分には母親から生まれた時から罪があるのだとの自覚を告白し、その罪から完全にきよめられるためには全焼のいけにえを捧げることによって罪が赦されるのではなくて、神によって新しい存在にされることだとの結論に達します。パウロの時代から約千年も前の出来事です。

人が罪からきよめられるために必要なことは、律法の規定のとおり全焼のいけにえを捧げることか、それとも、神によってきよめられることか。 (続きを読む…)

2013 年 1 月 6 日

・説教 ガラテヤ人への手紙4章12-20節  「パウロの願い」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 00:51

2013.1.6

鴨下 直樹

今日の説教の題を「パウロの願い」としました。それは今日の聖書の冒頭の言葉、「お願いです。兄弟たち。私のようになってください。」という十二節の言葉からとりました。もっと色々な題をつけることができると思います。いつも単純な題しかつけられないのですが、今日の聖書が語っているのは、パウロのこの言葉につきるのです。

お願いです。兄弟たち。私のようになってください。

しかし、よく考えてみますと、私たちは普段そのように誰かに言うことができるでしょうか。たとえば、昨年のクリスマスに洗礼式がありまして、洗礼を受けられた方に教保という人がつきます。新しい信仰の歩みの支えとなるように役員会でよく祈りながら教保をつけるのです。教えを保つと書きます。その教保が新しく教会員となった方に、「なに、心配することはないのです。私のように生きたらよいのです」と言えるかということです。そんなことを言うと、誰かの教保をしておられる方はびっくりしてしまうかもしれません。「私はそんな立派なキリスト者ではない」と言いたくなるのではないかと思うのです。

私たちは、「私のようになってください」などと言えるのは、よほど立派な人間でないと言えることではないとまず考えるのではないでしょうか。実際、そんなに軽々しく言える言葉ではないのです。しかし、パウロはここでそれこそ確信をもって語っています。もちろん口先だけの言葉ではなかったはずです。心からそう願っていたに違いないのです。
私たちが言うことができるとしたらどうでしょう。前任の後藤先生の書かれた『キリスト教Q&A21』という本があります。この本はこれまで洗礼を受ける方のテキストにしてきたということもあって、今もそれを使って洗礼の方の学びをしています。その中にもでてきますけれども、後藤先生自身、洗礼を受けたときに誰かにこう言われたそうです。「人間をみてはいけません。キリストを見ることが大事です。」と。人が何をしたとか、何をしなかったとかそういうところにいつも目を向けていると、腹が立ったりします。けれども、主イエスを見つめていれば、そういうことから回避できるというのです。後藤先生自身、そのアドバイスはとても役にたったと書いておられます。

パウロが、「私のようになってください」と言っているのは、自分は立派なキリスト者で、私を手本にすると良いという意味で言っているのでしょうか。パウロはこのすぐ後で「私もあなたがたのようになったのですから」と言っています。これは、どういうことなのでしょうか。 (続きを読む…)

2013 年 1 月 1 日

・元旦礼拝 ヘブル人への手紙13章14節 「永遠の都を求めて」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 00:32

2013.1.1

鴨下 直樹

<ローズンゲンの年間聖句>

わたしたちはこの地上に永続する都をもっておらず、来るべき都を探し求めているのです。

ヘブライの信徒への手紙13章14節  新共同訳

私たちは、この地上に永遠の都を持っているのではなく、むしろ後に来ようとしている都を求めているのです。

ヘブル人への手紙13章14節 新改訳

2013年を迎え、今朝、私たちは元旦礼拝の時を持っています。そこで、年間聖句から御言葉を聞くことになっています。今年、私たちに与えられているのが、このヘブル人への手紙13章14節のみ言葉です。
「私たちは、この地上に永遠の都を持っているのではなく、むしろ後に来ようとしている都を求めているのです。」
私たちは、この新しい年に、私たちがもとめているのはこの地上の都ではないのだという、はっきりした否定の言葉を聞いています。私たちが求めているのは、この地上にあるものではないのだとこの御言葉は宣言しています。新年に聞く御言葉としては少し驚くかもしれません。私たちは、この地上での生活が少しでも善くなれば、少しでも幸いな生き方ができればと考えています。けれども、私たちが求めているのは、この地上の生活なのではなくて、この後に来る永遠の都での生き方なのだというのです。

そのことを考えるのに、私たちがまず考えなければならないのは、私たちの生活から考えるのを止めるということです。私たちの生活を土台にして考えるのではなく、まず、イエス・キリストは何をなさったのかということを考えてみることが大事です。 (続きを読む…)

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