・説教 ガラテヤ人への手紙6章1-10節「兄弟として共に生きる」
2013.2.3
鴨下 直樹
間もなく総会を迎えます。今朝、総会資料が配られておりますので、すでに目を通された方も多いと思います。その時に、ちょうどこの御言葉が与えられております不思議を感じずにはおられません。
今日の聖書個所の冒頭にこのように記されています。
「兄弟たちよ。もしだれかが過ちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心で正してあげなさい。」
今朝はこの聖書の言葉を少し考えてみたいと思います。
「もし誰かが過ちに陥ったなら」とパウロは語りかけます。私たちの身近に、日常によく起こることです。私たちの日常の生活の中で、家族が過ちを犯す、兄弟が過ちを犯した時に、私たちはどうするのかということが問われているのです。もちろん、それは家の中のことだけに留まりません。教会でも同じことですし、地域の人との関わりも同じことです。そこで、私たちがよく経験するのは、誰か近しい人が過ちを犯した現場を目撃したら、鬼の首をとったかのように攻撃をしてしまうという場面です。攻撃する側は気持ちがいいのですが、攻撃される方としてみれば大変なことです。人はなかなか人の過ちを簡単に見過ごしにすることができないようです。何故なのでしょうか。
ひょっとすると、またこのテーマか、と思った方が中にはあるかもしれません。もうこのテーマについては何度も説教してきました。これはそれだけ聖書が心を配っているテーマだということに気づくと思います。なぜなら、ここにこそ、律法主義に陥る罠があるからです。
すこし考えてみたいと思うのですが、私たちは「過ちは正してあげなければならない」と考えます。もちろん、パウロも同様です。ですから、過ちを犯しそうになっているガラテヤの教会に手紙を書いて、正そうとしているのです。聖書がこのテーマを取り上げる時に、私たちが神は間違ったことを望んではおられないことを心に留めておくことが必要です。しかし、同時に、そこで覚えておかなければならないのは、そこで生まれる正しさはどこから来るかということを知っていなければなりません。それは決して指摘する人の正しさを主張するということではないのです。そして、この後半の部分が意外に難しいのです。
たとえばこういう場合があります。誰かのしていることを、自分のやり方の方がすぐれていると気がつきます。そうすると、こうやった方がいいということを教えてあげたくなります。その人のやり方も間違っているわけではないのですが、自分のアイデアの方が優れていると思える。こういう場合、どうするかというと、多くの場合は口をはさんでしまいます。より良いことが行なえると考えるからです。
けれども、それは同時にもう一つの面があることにはなかなか思いが至りません。私たちがそこで、自分のアイデアの正しさを相手に押し付けてしまうなら、その相手を悲しませることになるということです。なぜなら、その人なりに考えてすでにやっているからです。いくら自分のアイデアが優れていたとしても、これを押し付ける時に、相手の自尊心を奪います。そこに残るのは指摘した人の満足感と、指摘された人の悲しみです。パウロも当然このことに気をつけていました。それでここでこれをしてしまわないために必要なのは「柔和な心」だと書いているのです。
しかし、これも面白いものです。パウロはここまでの手紙の中で相当強い言葉を使いました。三章の一節では「ああ愚かなガラテヤ人」と言ってしまっているのです。四章の二十節では「こんな語調でなく話せたらと思います」と言っているのです。自分の語調が強くなってしまっていることに気づいているのです。そのパウロは、自分は得意になって過ちを犯した人を攻め立てているのではない、自分もまたこの柔和の心でそれをしているのだということでしょう。
「柔和な心」というのは簡単に言えば優しい心ということです。柔らかな思いで平和を築くのです。それは、人と一緒の世界を築き上げる心です。平和を築く心です。その次に「正してあげなさい」とあります。この言葉はもともとのギリシャ語では面白い言葉が使われていて、「折れた骨をつなぐ」という言葉です。過ちを犯すということは、骨が折れてしまっていることだというわけです。神とのつながりが切れてしまっていることをさすのです。
そうすると、少しはっきりしてくるのですけれども、ここで言う過ちというのは自分と意見が異なるという程度のことではなくて、神とかかわりが持てなくなってしまっている状態のことです。神とかかわりが持てなくなっている人にむかって、それを繋ぎとめる心をもって語ることが、「柔和の心」であるということになります。ですから、パウロは少々強い言葉をつかっても、自分も柔和の心で行なっているのだと言うことができたのではなかったかと思います。
間違えてならないのは、ここでパウロが「兄弟の過ち」と言っているのは神との関わりが切れてしまっていることを指しているということです。それは、神とのつながりが切れてしまっているのですから、本当に悲しいこと、痛みの伴うことです。神ご自身も痛んでいるのです。傷ついているのです。そこに手を差しのばすことは、ひょっとするとさらに相手の痛みを増すことになるのかもしれないのです。手を出さないほうが簡単だと分かっていても、手を出す。それが、ここで言う正してあげるということなのです。
ですから、パウロはこれを続く六章の二節でこう表現しました。「互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい」。ここでパウロは、それはお互いにとって重荷であると言っているのです。相手の痛みに手を置くことは、相手にも負担だし、自分にも負担となる。そこには私たちの小さな正義感などというようなものは存在する隙間はありません。そうではなくて、そこにあるのはキリストの愛です。それを、パウロはここでキリストの律法という言葉で表現しました。
パウロはこれまでこの手紙の中で、律法に支配されてしまうことは間違っている、律法主義の道に陥るなと何度も語り続けて来ました。しかし、ここではキリストの律法を全うするようにと語りかけます。キリストの律法とは何か。それは、互いの重荷を負い合うことです。別の言い方をすれば、互いに愛し合うことです。愛し合うことこそが、本当の神からの戒めだと言うのです。
それは、自分を語ることではありません。自分のために生きることでもありません。人のために生き、人と共に生きる、生きていく覚悟をすることです。これこそが、神が与えられた律法に生きること、キリストの示された愛に生きることなのです。
茨城県に独立学園という学校があります。この四月からまた私たちの教会のAさんが入学することになりました。この学校で指導しておられるのは安積力也先生です。この方については私はほとんど知らなかったのですけれども、昨年私たちの教会から入学していったTさんのお父さんであるYさんから教えていただきました。この安積先生が書かれた「教育の力」という岩波のパンフレットがあります。小さな読み物ですけれども、私はここに書かれている内容に非常に驚きながら、それこそ興奮して読んでおります。
この本の中に、日本聾話学校を訪ねた時のことが書かれています。私たちは聾唖という言葉は耳慣れているかもしれません。聾というのは聞くことができない人のこと、唖というのは話すことができないという意味で使います。しかし、この学校は聾という字と話すという字を使って聾話学校と言うのだそうです。この学校は、耳に聞こえない生涯を持って生まれて来た子どものほんのすこしでも聞く力の残っている聴力をフル活用して。耳を開き、聞こえる子にするという学校なのだそうです。ここでは徹底的に「聴く」と言うことに力を注ぎます。安積先生はそこで受けた衝撃のことをかなり丁寧に書いています。
ここで丁寧にお話しすることはできませんので、興味のある方は読んでいただいたらいいと思いますけれども、私たちは普段聞いているときに、色々な音を聞き分けています。そして、必要な音とそうでない音とを区別して、選び取っていきます。その時に、大切なことは語りかけている大切な相手が、あるいは大切なものがいるということだということに気づかなければなりません。それで、門構えの「聞く」という漢字と、耳偏の「聴く」という漢字の違いにもそこが現れている。そして、この耳偏の「聴く」の方はただ聴いているのではなくて、選び取って聴いているから、そこで関係性が生まれて来るのだというのです。そして、この関係の中で聴き取ったことこそが、聴くことのもっとも大切なものなのだと気づいたと書いておられるのです。
そこでひとつ赤ちゃんがどのようにして言葉を覚えていくかを書いております。赤ちゃんが何かを不快に感じると「おぎゃー、おぎゃー」と泣きます。そうすると「お腹がすいたのかしら」と言っておっぱいを与えます。こうして、自分に必要な声を聞き分けていくのだそうです。そして、何千回も何万回も同じ言葉がくりかえされているうちに、「おっぱい」とか、「ママ―」という言葉に理解を示していくのだそうです。ところが日本聾話学校にくる子どもの母親、父親はそうではないのです。その子が生まれた時から耳が聞こえなくても、心の通う人間関係をつくり上げる。忍耐極まりない道を歩みながら、待ち続けながら、かすかに聴き取ることのできる言葉を待つのだそうです。こうして、その子特有の言葉がでてくるまで何年も待つのだそうです。そうして、ようやく言葉が出た時には魂が震えるのだそうです。それが、母語としての人間の言葉だと書いておられます。愛の産物として言葉があるのだということを、ここではじめて知ったのだと安積先生は書いておられます。
パウロはここで難しい事を語っているのではないのです。愛に生きようという時に、そこに豊かな人間関係が築き上げられるのだということを気づいてほしいのです。いや、何よりも人間の関係に先だって神が私たちとそれほどの深い言葉をかわそうとしておられるこの神の言葉を、愛のいましめの言葉を、キリストの律法の言葉を聞いて欲しいと願っているのです。
そこで、神とつながっているはずの骨が折れてしまうことがないように、そこに手を添えながら、痛みを分かち合いながら、互いの重荷を負い合いながら生きる道があるのです。そして、その重荷は、決して私たちの負担とはならないのです。
パウロはここで「重荷」という言葉を使いました。五節でも使っています。「人にはおのおの、負うべき自分自身の重荷があるのです」。パウロは二節では「互いの」といい、ここでも「おのおの」と言っています。お互いに負い合いべき重荷があると語っています。このことはとても大切なことです。自分だけが負わなければならないということではないし、また、また相手にも担われているということを覚える必要があるのです。
さきほどの安積先生が語られた人との関わりが、愛の産物としての言葉の語りかけが、相手を聴くことが、じっと耐えて聴くことがそこでこそ、問われるのです。けっして自分だけ負ってもらう、負ってやっているという関係ではないのだということを覚えなければならないのです。
パウロはここでこの手紙の総まとめとしてこう語ります。七節と八節です。
「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。」
パウロが語っているのはこういうことです。この人は私の手に負えないからお手上げだなどということではないですよ。ここでパウロはきっとこういうことを考えているのです。ガラテヤの教会が二つに分裂してしまった。そこには律法支持者たちと、パウロの語る福音に立とうとする人たちです。そして、パウロが律法推進派の人々に注意を呼び掛けると教会の中で何が起こるかということです。
たちまち、「ほら私の言う通りだったではないか。パウロ先生の言うことを聞いておいた方がよかったのだ」と、言ってみれば勝ち組と負け組が生まれてしまうのです。けれども、それはパウロの望むことではないのです。強い人が、強い意見を言う人が、いや、正しい人が、自分が正しいと思い込んでいる人が教会で大きな顔をして、人を支配するようになってしまうのだとしたら、それはもう教会とは呼べなくなってしまうのだということです。いままで、正しい側にいたつもりだった人が、ほら私たちの方が正しかったのだと口にした瞬間から、その人たちも肉から滅びを刈り取る者となる危険がそこから生じてしまうのだから、気をつけなさいということです。
けれども、神の御霊に支配されているならば、つまり、愛に生きているならば、そこには互いに傷だけを残して、もう教会には行けない、あの人とは顔を合わすことはできない、などと思うようなことはおこらなくなる。むしろ、違う考えでいても、たとえ、間違えたとしても、お互いに痛みを分かち合いながらそこで、ともに和解して、理解しあって生きる道がひらけるのだということをパウロはここで語ろうとしているのです。
私たちの芥見教会の総会が近づいております。そのためにみなさん資料を整えるためにさまざまな準備をしておられます。特に、総会資料も出来ましてみなさんのところに配布されたのをすでに礼拝の前に目を通しておられる方もあるかもしれません。こういうものが配られますと、今まで気にならなかった教会のさまざまな働きに目が向けられます。それは大事なことです。けれども、そこで、誰かがもっとこうすれば良くなると言うような、たとえ善意であれ、それを声高に主張して、そこで働いている人のことに目が向かないで意見がされるとすれば・・・。もう言わなくてもいいことでしょう。
私たちは愛をもって互いに、重荷を負い合うのです。自分だけが負っているのではなくて、お互いにおっていることを忘れないでいることです。
「善をおこなうのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。ですから、私たちは、機会あるたびに、すべての人に対して、特に信仰の家族の人たちに善をおこないましょう。」
お祈りをいたします。