・説教 ガラテヤ人への手紙6章11-18節 「私たちの戦い」
2013.2.10
鴨下 直樹
「戦いの手紙」と呼ばれたガラテヤ人への手紙もここでようやく筆を置くことになります。そして、今日のところでパウロは、自ら筆をとって書いています。ここにパウロがどのような思いで戦っていたのか良く分かります。
パウロの戦いというのは、相手を飲み込むように威圧して力によって戦うことをしませんでした。自分の持つ力を示すことではなくて、神の愛を、恵みをさし示すことに終始心を注ぐ戦いです。愛がとどくために戦っているのです。
戦いといいますと、私たちは先週横浜で行なわれた全日本製造業コマ大戦の話を聞いたかもしれません。私たちの教会の長老であるYさんの会社がこの大会に優勝しました。新聞にも取り上げられたようで、わたしもさっそくインターネットで調べてその戦いの様子を見させていただきました。決勝戦の様子を見たのですけれども、決勝でYさんのまわすコマが勝った時には思わず目頭に熱いものがこみ上げてきました。
全国から二百社の応募の中からの優勝ということです。色々なコマがありますけれども、様々なアイデアのなかでいかに堅実に戦うことが大切かということをもう一度考えさせられました。今日の説教題を私たちの戦いとしました。私たちの歩みにも様々な戦いがあります。教会と戦いという言葉はあまり一つに結びつくというイメージがないかもしれませんけれども、信仰の歩みは戦いの歩みです。教会の歩みは戦いの歩みです。しかし、私たちの戦いは力でよって勝利を得る戦いではありません。私たちの業や、私たちが何かをなし得ることで勝利を得るわけでもありません。
パウロはこの手紙の結びの部分でこう言いました。
「割礼を受けているか受けていないかは大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。」
パウロはここで力に生きるのではなく、大事なのは新しい創造であると語りました。最後にこの手紙を結ぶにあたってそのことはどうしても、自分の手で伝えたいと思ったのです。ここで、もう一度割礼のことが記されています。割礼というのは、パウロがここで最後に書こうとしている新しい生き方に対して、古い生き方のことと言い換えることができるかもしれません。十二節にこうあります。
「あなたがたに割礼を強制する人たちは、肉において外見を良くしたい人たちです。彼らはただ、キリストの十字架のために迫害をうけたくないだけなのです。」
ここに割礼にあらわされている古い生き方として二つのことが記されています。一つはここに「外見を良くしたい」とあります。人から認められたい、良く思われたいということです。「肉において」とありますが、まさに、私たちはそのようなことを願います。人から良く思われるということが、この世界ではもっとも確かな評価のように思われるからです。そして、もう一つのことは「迫害を受けたくない」です。これは人から嫌われたくないと言い換えることもできるかもしれません。人から良く思われることも、人から嫌われないことも、同じことを指しているということもできますけれども、これが肉に支配された人間の性質だとパウロは言います。これは、別の言い方で表現するなら自分を失った姿ともいえます。自分がないのです。人からどう見えるかと言うことに固執してしまって、自分がどういうものであるのかということが分からなくなってしまっている。だから、割礼をうけること、律法を守ることによって、自分の努力や、結果を残して行くことによって、人から認められることで自分を守ろう、そういう人間の戦いの姿がここに示されているといえます。自分を失っているからこそ、力を求めるのです。自分が分からなくなってしまっているから、その証明をしようとしている。そのために人と戦っているのだと言うのです。そして、結局のところ、自分が自分でなくなってしまっているのです。
だから、パウロは言うのです。大切なのは新しい創造なのだと。自分の存在が新しくさらなければ、本当の自分を取り戻すことはできないのだとパウロはここで最後に、力を込めてガラテヤの人々に書き記しているのです。
再創造とか、再生などということばは、今の世界のキーワードのようになっています。経済再生とか、教育再生とか、今はスポーツの世界でも次々に暴力による支配があったことが明るみになって、そこからどうしたら再生できるかというようなことが、連日のニュースとなっています。
パウロは言います。「割礼を受けているか、受けていないかは、大事なことではありません」。「何ができるか、何をしなければならないかが大事なことなのではありません」「どういうプログラムを持つか、そのようにして何ができるかを発見することが大事なのでないのです」。パウロは語ります。「大事なのは新しい創造です」。自分の力が自分を変えるのではない。自分の努力で周りを認めされるのではない。新しい存在に変えられることが、自分を見失ってしまっている私たちには必要なのだとパウロは語ります。
しかし、どうしたら私たちは新しい存在にされるのでしょうか。どうしたらこの「新しい創造」が起こるのでしょうか。パウロはその前の十四節でこう語っています。
「しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架にけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。」
パウロは主イエス・キリストの十字架が、私たちを新しくするのだということを語ろうとしています。しかし、ここでは少し難しい事を言っています。
「この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。」
一体どういうことなのでしょうか。これはこういうことです。この世界は私が十字架につけられたことによって死んだのだということです。この世界は死んだものとなったということは、この世界は私にとって意味のないものとなったということです。この世界の人が、私をどう見ようと、それは何の意味もないことだし、私もこの世界の中に意味を見出そうとはしないということです。
この世界に認められるために、人から認められるために必死になって生きる。この世界の中に自分を見出そうとして生きる。実際、みなそうやって生きています。けれども、私にとって、キリストの十字架は、この世界と私、この世界の人々と私のありかたを根底から変えてしまいました。なぜか。キリストはこの世界に認められることなく十字架にかけられて死んでしまいます。これは、ショックなことです。誰からも認められないで、神の御子が死んでしまっていいのかという驚きがあります。けれども、キリストはこの十字架において、ただ神にのみ信頼する生き方を全うします。そこで、パウロは気づくのです。この世界が意味を見出すことがなかったとしても、神が見出してくだされば、それにまさることはないのだと。
神に見出されることこそが、人間が本当に新しくされる道、再創造の道なのだとパウロは気づきます。どれだけ沢山の人々に認められるかではなくて、神に認められる道こそが、私たちを、私を本当に生かすのだとパウロは気づくのです。だから、確信を持って語ることができるのです。
「しかし、この私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものがあってはならないのだ」
と。
最後にパウロは言います。
「これからは、だれも私を煩わさないようにしてください。私は、この身に、イエスの焼き印を帯びているのですから。」
十七節です。
やはり、最後にもパウロ節(ぶし)が登場します。「いい加減にしてもらいたい。これからはもう私を煩わさないでくれ」。そう言うのです。私のこの考えは変わらないのだ。その証拠に、私にはキリストの焼き印が押されているのだからと言うのです。
「焼き印」というのは、この時代二つの種類が存在したと言われています。その一つは奴隷の印です。奴隷が自分はその主人の持ち物であることを示す印として焼き印を押されたのです。もう一つは、犯罪を犯したものがその印に焼き印を押されることがありました。ローマから押されるものです。
パウロは自分自身のことを色々なところに記しておりますけれども、コリント人への手紙第二の第十一章二十四節以下にこう記されています。
「ユダヤ人から三十九のむちを受けたことが五度、むちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度あり、一昼夜、海上を漂ったこともあります。」
ここにあるように、パウロのからだには様々な傷の跡が残っていました。ひょっとするとこの手紙を書くために大きな字で書かなければならなかったのはこのような傷のためであったかもしれないのです。決して元気な体であったわけではなかったパウロは、自分の体中にできた傷をみながら、これはキリストのために受けた焼き印であったと考えていたとしても不思議ではありません。
そのような自分の体の傷が痛むたびに、パウロはキリストの十字架の出来事を思い起こしたに違いないのです。私もこの体の痛みがあるが、キリストがあの十字架で殺された時の痛みは、苦しみはどれほどであっただろうか。そう考えながら、自分の傷をみながら、私はキリストのものにされているのだということを思い起こしたに違いないのです。
誰が何と言おうが、私はキリストのものとされている。私は神に受け入れられていて、この神に受け入れられることにまさる喜びなどどこにもないことを、パウロはよく知っていたのです。
だから、パウロにとってはその傷を「イエスの焼き印」と呼んでいたのでしょう。そう呼びながら、自分が神のものとされたことを喜んだに違いないのです。そして、パウロにとっては、このキリストのものであることに留まることこそが、何にも代えがたい戦いなのだと、自覚していたのです。戦ってくださったのは、ただ、キリストお一人です。だから、せめて、ここに留まる戦い程度のことは些細なこと、小さなことです。もう、もっとも厳しい戦いはキリストが戦い抜いてくださったからです。
パウロは語ります。
「どうか、この基準に従って進む人々、すなわち神のイスラエルの上に平安とあわれみがありますように。」
十六節です。
ここに、「基準」という言葉を使いました。これは、もともと「物差し」、とか「秤(はかり)」を意味する言葉です。これはパウロが使った独特の言葉ですけれども、これが後に「カノン」とか「キャノン」と言われる物事の基準を意味する「正典」という意味を持つ言葉になりました。
パウロはこの世界の人の目を基準とするのではなく、神のものであることが、基準なのだと宣言したのです。そして、まさにこれこそが神の価値基準なのです。神が認めてくださる、神が受け入れてくださる、神ここが真の世界の基準なのだと、パウロは宣言するのです。だから、この信仰に生きる人は神のイスラエル、真の神の民なのだと。
最近、ある雑誌を読んでおりまして、最近の言葉で「アウェー感」という言葉について書かれていました。サッカーがはやるようになって出て来た言葉です。ホームでの試合をする時と、敵地、アウェーで試合をする時があるからです。この「敵地」のことを「アウェー」といいます。自分のホームでは仲間がたくさんいて応援してもらえるのだけれども、敵地に乗り込んで行くと、いいプレーをしてもブーイングが飛んできたりして怯えなければなりません。そんなことから、自分の不本意な場所に置かれることをアウェー感を感じるなどと表現するのです。自分の仲間たちと一緒なら誰もが喜んでくれるのだけれども、ここではそうはいかない。みんな敵で、自分がそこにいることが場違いであるかのように思われる。
これを読みながら、私たちキリスト者というのは常にこのアウェー感というのを感じながら生活しているのかもしれないと改めて思わされました。神のものとされていることが私の基準、ここに私は慰めを見出すとしても、周りは誰もそうは思いません。孤独に感じることもある、まさに、敵地の中に、アウェー感を感じる歩みを強いられるのです。
けれども、私たちの神は私たちを知っていてくださる。認めていてくださる。他の誰が認めなくても、私たちはそこに立つのです。それが私たちの戦いです。けれども、ここに立つ時に、神の平和と憐れみがある。神が私たちをあわれみ、私たちに平和を与えてくださるのです。
私たちは孤独に感じても、アウェーを感じても、神が私たちと共にいてくださることを覚えて、この信仰の戦いを主に支えていただきながら、主と共に戦い抜いていこうではありませんか。そこに、実はこの世界の人々が心惹かれる生き方があるのですから。
お祈りをいたします。