2024 年 5 月 5 日

・説教 ルカの福音書12章22-34節「心配の糧と天の宝」

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〈いのれ〉
2024.5.5

鴨下直樹

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 今から20年ほど前ですが、朝日新聞の「天声人語」で一冊の本が紹介されました。『パパラギ』という本です。この本には副題がついていまして「はじめて文明を見た南海の酋長ツイアビの演説集」と書かれています。

 この本が最初に世に出たのは今から100年前の1920年のことです。見返しのところにはこんな謳い文句が書かれています。

パパラギとは、白人のこと、見知らぬ人のこと。でも、言葉どおりに訳せば、天を破って現れた人。はじめてサモアに来た白人の宣教師が白い帆船にのっていた。遠くに浮かぶ白い帆船を見て、島の人たちはそれを天の穴だと思った。白人がその穴を通って彼らのところへやって来た。――白人は天を破って現れた――

 本の内容はとても面白いものです。それまで文明とはまったく縁遠い生活をしていたサモアの島の人々のところに白人の宣教師がやってきて、キリスト教が宣べ伝えられます。こうして、島の人々はキリスト教を信じるのです。ところが、この演説は、西洋の誇りとしている文化や生活様式、そして人々が願い求めているものがいかに神の願いからかけ離れているのかを明らかにしていく内容となっているのです。痛烈な白人文化批判と言っても良いような内容です。

 中にこんなエピソードが書かれていました。この酋長がヨーロッパを訪ねた時に、ある質問をしたのだそうです。「そんなにたくさんのお金をどうするんです? 着たり、飢えや渇きをしずめるほか、この世で何ができますか?」答えは何もない。そう書かれています。そして、ヨーロッパでお金を払わなくてもいいのは空気だけだ。でもこの話を聞かれると空気にもお金がかけられるかもしれない。そのなかには、こうも書かれています。「ある人がお金をたくさん、普通の人よりはるかにたくさん持っていて、そのお金を使えば、百人、いや一千人がつらい仕事をしなくもすむとする。――だが、彼は一銭もやらない」

 まるで、主イエスが語っているのではないかという話が、延々と記されています。「お金が欲しい、時間が欲しい。彼らは神を信じていると言っているのに、実のところお金を信じている。」そう書かれています。

 この本は、今もよく読まれているようで、読んだ人たちの様々な感想がアマゾンなどでも書かれています。それで少し興味を持って調べてみると、この本は実在したサモアの酋長の話ではなくて、ドイツ人の創作話だったというようなことまで、インターネットの辞典であるウィキペディアに書かれていてびっくりしました。この『パパラギ』という本の話は実話ではないのかもしれませんが、かなり大きな影響力を与えました。ヨーロッパの人々の信仰の本質を突きつけ、実際に人々が求めているのはお金で、そのために大切なものを失っていることに気づいていないという指摘です。

 今日の聖書箇所のテーマは「心配」です。「何を食べようか、何を着ようか」という心配から始まって、主イエスの語る「幸福論」と言っても良い内容がここには記されています。私たちが生きていくために大切なものは、「衣食住」の三つだと言います。これが整っていれば「幸せ」と表面上は定義することができます。けれども、現代人のほとんどの人は誰もがこの「衣食住」が整っていますが、幸せだと感じている人はそれほど多くはありません。『パパラギ』の本で指摘されているように、「もっと、もっと」と人々は際限なくさまざまなものを求めているからなのでしょうか。

 「心配」というのは、その背後に様々な「恐れ」が潜んでいます。「もっと、もっと」と望みが決して小さくならないのは、少しでも恐れを取り除きたいと考えているからです。主イエスはここで、「いのち」と、「からだ」のことを語っています。食べるものは「いのち」のため、着るものは「からだ」のためと言います。これは、私たちにもよく分かることです。私たちはいのちを長らえさせるために、少しでも長生きしようと「サプリ」や「健康食品」を購入します。あるいは、この「からだ」が健やかでいられるためにも、からだに取り込むものは、加工食品や、化学調味料を除いた方が良いと考えます。

 ごくごく当たり前になっているようなこのような習慣そのものにも、主イエスは目を向けさせます。30節では「これらのものはすべて、この世の異邦人が切に求めているものです。」とさえ言っています。この世の人々が、神の民ではない「異邦人」が行っていることと、同じことをしていて「神の民」としてのアイデンティティーは一体どこにあるのかという厳しい問いかけです。

いのちは食べ物以上のもの、からだは着る物以上のものだからです。」と23節で主イエスは言われるのです。

 烏でさえ主イエスは養われておられると言われるのです。続く25節ではさらに面白いことを主イエスは言われます。 (続きを読む…)

2024 年 4 月 14 日

・説教 マルコの福音書1章1-8節「力のある方が来られる」

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〈主の慈しみ〉
2024.4.14

内山光生

序論

 皆さん、おはようございます。

 4月から芥見教会で奉仕させて頂いております内山光生です。

 私たち家族は諸事情によって昨年の9月頃から芥見教会の礼拝に集っております。そして私たちが芥見に集い始めてすでに半年以上経ちましたので、ようやく人々の顔と名前が分かるようになってきました。まだまだお話しした事のない方が大勢おられますが、皆様と少しずつ交わりを深めていけたらと願っています。

 短く、自己紹介をいたします。

 私は1972年生まれです。年齢は今は51才。今年の11月で52才になります。生まれは三重県の桑名市多度町で、両親共にクリスチャンです。幼い頃から教会学校や礼拝に集っていて、小学5年の頃にイエス様が救い主だということを知識としてではなく、心の底から信じることができるようになりました。そして、中学1年の夏に洗礼を受ける恵みにあずかりました。しかしながら、中学時代や高校時代は、あまりぱっとしない信仰生活を送っていました。今思うと、学校での悩みや受験の悩みなどで、神様に心を向ける余裕がなかったのでしょう。

 その後、大学受験で失敗し、2年間の浪人生活を送りました。その試練を通して、私は神様の存在をより強く感じるようになり、大学1年の冬に、献身の思いが与えられました。祈りと導きの中で、5年間、会社員として働きました。そして29才の時に神学校に入学し、33才の時から牧師として奉仕をしています。

 家族は妻と息子です。それでは聖書を順番に見ていきます。

I 表題(1節) ~はじめ~

 1節を見ていきます。

 ここには、イエス様がどういうお方なのかが示されています。そして、イエス様は神の子であって、キリストだということが分かってきます。そこで、「イエス・キリストの福音のはじめ」と表現されていますが、福音とは、どういう意味でしょうか。

 私たちはしばしば福音とは「良い知らせ」という意味だと受け止めます。厳密には、「福音」は元々は別の意味だったのですが、聖書の中に出てくる「福音」は「良い知らせ」という意味でよいかと思います。 (続きを読む…)

2024 年 3 月 31 日

・説教 ルカの福音書12章1-7節「一羽の雀」

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イースター礼拝
2024.3.31

鴨下直樹

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 イースターおめでとうございます。今朝は、イースターということで、みなさんと共に朝食をいただき、その後で聖餐式をして、子どもたちは「イースターエッグ探し」をしてと、楽しい一時を過ごしています。今日は主イエスがよみがえられた祝いの日です。私たちが苦しみや試練、そして、私たちの最後に待ち構えている死、これらの恐れを主イエスが取り去ってくださったことをお祝いする日です。

 このイースターの礼拝において、私たちに与えられている聖書箇所はルカの福音書12章の1節から7節です。この箇所で扱われているテーマもまた「恐れからの解放」です。

 主イエスはパリサイ人や律法の専門家たちに向かって、神の思いがどこにあるかをお話になられました。この主イエスの話を聞いたパリサイ人や律法学者たちは主イエスに対する敵意を剥き出しにします。ところが、そのようすを見ていた群衆たちと、さらに大勢の人々がやってきます。1節には「数えきれないほどの群衆が集まって来て」と書かれています。また、「足を踏み合うほど」とも書かれています。それほどの人混みというのは満員電車か、ディズニーランドのアトラクションの待ち時間くらいでしか経験することはないかもしれません。それほど多くの人々の関心を集めたと、ここに書かれています。言ってみれば主イエスの伝道は大成功を収めたかのように見えるわけです。

 ところが、主イエスはこれだけ人々が主イエスに関心を持ち、大勢の群衆が集まって来たにも関わらず、その群衆たちに語りかけたのではなくて、弟子たちに向かって語りかけます。ということは、主イエスの伝道というのは、大勢の人々に語りかけるというよりも、弟子たちに対して福音を徹底的に教えるということの方が重要であったことが分かります。それが、今日の箇所です。

 この時弟子たちに向かって語られた主イエスの言葉は、12節まで続きますから、本来なら12節までまとめて説教すべきですが、二回に分けまして今朝は7節までとしました。ここで主イエスがまず弟子たちに向けて語られたのは、理由があります。主イエスがパリサイ人や律法学者たちに向けて語られた後、今度は弟子たちに話をされたのは、その意図を明らかにする必要があるからです。

 ここで主イエスが語られたのは、一言でまとめると隠れているものは全て明らかにされるということです。 (続きを読む…)

2024 年 3 月 29 日

・説教 ルカの福音書11章45-54節「預言者の血の責任を問う」

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受難日
2024.3.29

鴨下直樹

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 今日は受難日です。灰の水曜日から始まったレントも、今日で日曜を除いて40日が経ちました。前に並んでいた受難節のろうそくも全て消え、今日は黒いろうそく1本に火が灯されました。毎年お話ししていることですけれども、これで主イエスの命が完全に尽きたことを表現しています。教会の暦の中で生まれた習慣の1つです。

 毎週1本ずつろうそくの灯火が消えていって、この日全てのろうそくが消える。主イエスの命が尽きたことを、このように表現してきたのです。

 私たちの人生のことを考えてみる時に、私たちの寿命の残りがあとどれくらいで、今何本目のろうそくまで来ているのかが分かれば、残りの人生の過ごし方を考える機会にできるかもしれませんが、私たちは誰も自分の寿命の残り時間を知りません。ということは、私たちは、自分の人生をどう歩むかを先延ばしにすることはできないわけです。

 全ての人は、やがて死を迎えます。そして、その時に全てのことが清算されることになります。死んだ後からは何もすることができませんから、今、私たちがどう生きるかということが問われています。

 私たちは誰もが、この世界で生きるための判断基準を持っています。何が良いことで、何が悪いことか、善悪の基準は人によって違いますし、文化や時代によっても変わります。そこには、さまざまな価値観や、信念の違いが生まれます。そして、何が正しくて、何が正しくないのかを見極めることはとても難しいことです。

 聖書は、神がこの世界を創造されたと語っています。そして、この世界を創造された神は、この世界に生きる一人一人に、どう生きてほしいかを記録として残されました。それが聖書です。そして、聖書の興味深いことは、ここには人にとって都合の悪いことがたくさん書かれているということです。誰か頭の良い人の創作であるとすれば、完全な理想像を示そうとするのだと思うのですが、聖書はそうは書いていません。

 聖書の時代、この神の教えのことを「律法」と呼び、この律法をどのように正しく読み解くのかを教える「律法の専門家」と呼ばれる人たちがいました。

 この律法の専門家は、人々に聖書の読み方を助言するのが役割でした。ただ、ここで大きな問題が起こります。当時のパリサイ人や律法学者たちが、聖書に書かれている神の願いを受け取ることができていたら、なんの問題もなく、パリサイ人や律法学者の教えに耳を傾ければ良いわけです。ところが、この人たちが神の思いを受け取り損なってしまうと大変なことになってしまいます。 (続きを読む…)

2024 年 3 月 24 日

・説教 ルカの福音書11章37-44節「心の内側を見られる神」

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2024.3.24

鴨下直樹

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 今から20年以上前のことです。以前牧会していた教会でもこのルカの福音書から説教をしたことがあります。それで、時々ですが、以前どんな説教をしたか見てみることがあります。すると、今回の説教の原稿に面白いことを書いていました。

 ちょうどこの時期に説教していたのですが、当時私は教団学生会の責任を持っていまして、この季節になると教団学生会の春キャンプが行われます。春キャンプでは、中学生から大学生までが集まるのですが、その時のエピソードが書かれていました。

 そのキャンプの中で行われた分科会で、ある一つのアンケートを取ったのです。

 「あなたにとってクリスチャンというのはどんなイメージですか?」という問いかけです。

 アンケートの結果は大きく二つに分かれました。一つの意見は敬虔なクリスチャン像です。「やさしい」「まじめ」「聖書をいつも読んでいる」「いつも礼拝に通っている」。そんな言葉がアンケートに埋め尽くされています。もう一つの答えはこれとは真逆です。とても否定的な意見が強く、その中にはこんな答えがありました。「自分の力では何もやろうとしない人」「しなければならないことがたくさんある」「聖書の通りには生きていない人」こういった言葉が続きます。なかなか厳しい答えです。

 当時のキャンプに集まってくる学生は、クリスチャンホームの学生が半分ほど、半分は自分から教会に来ている学生たちです。おそらくですが、クリスチャンホームの学生たちの意見の中に否定的なものが強いのだろうと思います。ただ、このアンケートは20年前です。今ならもう少し違った結果になったのかもしれません。あるいは、今もそれほど変わらないのかもしれません。

 その時のアンケートを見ながら、これは今日の聖書箇所の導入としては興味深いものだと思いました。

 クリスチャンはしなければいけないことがたくさんあるというイメージがあるのです。礼拝に参加しなければならない。聖書を読まなければならない。お祈りしなければならない。献金しなければならない。そんな「やらせられている」というイメージです。これは、クリスチャンホームの子どもたちの中にあるイメージなのでしょう。

 ある意味では、仕方がない部分もあると思います。スポーツを身につけるのも同じですが、基礎訓練というのは大抵つまらないものです。やらされていると感じる場合もあると思います。けれども、基礎訓練をしっかりしなければ、どんなスポーツも同じですが自由自在にプレイすることはできません。そういう意味では当時のクリスチャンホームの家庭の親たちが、そのイメージを持っていたので、子どもたちにしっかりと信仰生活の基本を身につけさせようとしていたのだということは言えるかなと思います。

 ただ、このクリスチャンは硬くて厳しくてというイメージのまま、それが本当にそういうものだという理解になってしまうのだとすると、それはとても残念なことです。

 アンケートに答えた子どもたちにも、その親たちの思いのイメージが共有されていなかったことはとても残念なことだと思いました。

 今日の聖書箇所は、あるパリサイ人が主イエスを家に招いたところから始まります。しかも、今日の箇所を読んでみると、このパリサイ人は一言も発していません。ただ、38節で「そのパリサイ人は、イエスが食事の前に、まずきよめの洗いをなさらないのを見て驚いた。」と書かれているだけです。 (続きを読む…)

2024 年 3 月 17 日

・説教 ルカの福音書11章29-36節「あなたの目に見えているもの」

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2024.3.17

鴨下直樹

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 今日の説教箇所はルカの福音書11章29節から36節です。この前のところでは主イエスによって悪霊から解放されて話すことができるようなった人の出来事が記されていました。そこではこの出来事をきっかけにして、集まってきた群衆とのやりとりが記されていました。そして、今日の29節ではこのように記されています。

さて、群衆の数が増えてくると、イエスは話し始められた。「この時代は悪い時代です。しるしを求めますが、しるしは与えられません。ただし、ヨナのしるしは別です。」

 この冒頭の言葉だけでもかなりいろいろなことが語られています。

「群衆の数が増えてくると」とあります。別の翻訳では「押し寄せてきた」とか「集結して来た」と訳されています。これは少し珍しい言葉で「さらに集まる」とか「どっと押し寄せる」という意味の言葉で、新約聖書の中でここだけに使われている珍しい言葉です。悪霊追い出しの一件から、人々の関心が一気に主イエスに傾いて来たことをここで表しています。

 この時に、集結して来た人々の要求は何かというと、「しるし」を見たいということです。主イエスは信頼に足る人物かどうかを見極めようということです。

 私たちの周りには今、さまざまな情報が溢れています。スマホのおかげで手軽に情報を得ることができるようになりました。もちろんそれはスマホに限った話ではありません。書店に行くと、いろいろな雑誌が積み上げられています。健康食品やサプリなど、どうしたら健康が維持できるかという情報や、新型NISAや投資などでいかにして利益を出すかといった経済の情報、美味しい食べ物や旅行案内などの旅情報、あげればきりがありません。その中で、人々は自分なりに最善の判断をするための「しるし」を求めているといえるでしょう。どうやったら間違いないか、失敗しないか、その見極めをしようとやっきになっています。

 「この時代は悪い時代です」と主イエスは言われました。この言葉は、考えてみれば今でも全く同じように言うことができます。戦争や災害、政治不信や経済情勢、あげればきりがありませんが、今は良い時代であるとはなかなか言えません。

 しかも、この「悪い」という言葉は、ただ「良い悪い」という判断の言葉ではなく、とても厳しい言葉です。「邪悪」という言葉です。「よこしまな」と訳している聖書もあります。ただの「良い悪い」という判断の言葉ではなくて、悪に引き込もうとしている時代だと主イエスは言われます。

 それこそ、悪に引き込もうという話は、私たちの周りには溢れています。こういう投資をしたら儲かるよと言われて、お金を儲けたいのに、そのお金がまるまる奪われてしまうなどというニュースを、私たちはひっきりなしに耳にするのです。

 誰もが生きるために賢い選択をしたいと思いながら、さ迷い歩いています。もうずいぶん前のことですが、私たちがドイツにいた時に時間ができると時折旅に出かけました。お金が豊かにあるわけではありませんから、旅に出る前は大抵前もって宿を探しておいてから出かけます。けれども、いつもそうできるわけではなくて、思いつきで旅に出かけることもあります。そうすると、その目的の街に到着すると、まずその街の観光案内所を訪ねます。そこで宿の情報を貰うのです。少しでも安くて、より条件の良いところを探そうと必死になって探します。すぐに見つかることもありますが、なかなか見つからないこともあります。すぐに良さそうな宿を見つけても、街中を観光していると思いがけずもっと良さそうな宿を見つけてしまうことがあります。そうすると、しまったもっと探せば良かったと後悔するのです。

 私たちの人生というのは、このような経験の連続なのかもしれません。居心地の良い場所、最善の場所を求めて旅する者のようなのです。良い人がいて、良い環境があって、良い職場があって、よい信頼関係を築くことができる。そういう私たちが安心して生活できる場所を得たいと思うのです。誰も、失敗したいと思う人などいないのです。居心地の良い、生活のしやすい場所を私たちは探し求めています。

 だから、「これは良い」という知らせを耳にすれば、そこに人々が集まってくるのは当然のことです。そういう噂を耳にして人々が主イエスの周りに大勢集まって来たのです。「集結した」「どっと押し寄せて来た」のです。そういう人々をご覧になりながら主イエスは「この時代は悪い時代だ」と言っておられる。この主イエスの言葉の重みをどうしても、ここで感じざるを得ないのです。そのために人々は「しるしを求めますが、しるしはあたえられない」と主イエスはここで言っておられるのです。

 主イエスはここで、私たちに何を気づかせようとしておられるのでしょうか。私たちの何が問題だと言っておられるのでしょう。 (続きを読む…)

2024 年 3 月 10 日

・説教 ルカの福音書11章14-28節「もう神の国は来ている」

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2024.3.10

鴨下直樹

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 主の祈りがようやく終わりまして、今日からその続きのみ言葉に耳を傾けようとしています。前回の結びの言葉は「聖霊を与えてくださいます。」という言葉でした。

 そして、今日の冒頭の箇所は「さて、イエスは悪霊を追い出しておられた。」と繋がります。この福音書を書いたルカの意図は、ここからもよくわかります。祈る人に聖霊が与えられるということは、悪霊が追い出されることだからです。

 「悪霊を追い出す」などという物々しい言葉を耳にすると、ホラー映画の「エクソシスト」のようなものをイメージしてしまう方があるかもしれません。私はホラー映画をあまり見たことがないので、良くわからないのですが、悪霊追い出しがテーマの映画なのでしょう。自分ではどうすることもできない「霊」や「悪霊」の働きというのは、私たちの心に「恐怖心」を植え付けます。

 映画などでは、悪霊を追い出す人がいるというのはポピュラーなのですが、実際に教会では、悪霊追い出しの話を耳にすることは、あまりないかもしれません。けれども、耳にしないからといって、悪霊の働きが無いわけではないのです。私自身も、これまでに何度かそういう祈りをしてきたことがあります。以前にもお話ししたことがありますが、ナルニア国物語を書いたイギリスの文学者のC・S・ルイスは、「悪魔の働きは2種類ある。1つは、悪魔など存在しないと思わせること、もう1つは、悪魔はとても恐ろしいものだと信じ込ませること」と言っています。悪魔の働きを信じないことも、過度に恐れることも、どちらの反応も健全ではないのです。

 聖書には、こんなにもたくさん悪霊の追い出しの話が出てくるのに、このテーマを取り上げて教会でお話しする機会はあまり多くはありません。その理由は、C・S・ルイスがあげているように、悪魔や悪霊の働きを過度に恐れる心配があるからです。けれども、悪魔の働きを侮ることもできません。

 別に、私はここで悪霊論を展開しようなどとは考えていません。けれども、私たちは占いだとか、ホラーだとか、ミステリーといったテーマに心を惹かれるうちに悪魔に対する過度の恐怖を持つことがないように気を付けなければなりませんし、同時に、侮ってはならないことも心に留める必要があります。悪魔の働きは、神様から私たちの関心を引き離すことです。神様との関係を断ち切るような働きは、すべて悪魔の働きであると言っても言い過ぎではないのです。とすれば、それらの働きは私たちにとって日常的なテーマだと言わなければなりません。そして、私たちは誰かが、そのような悪霊の働きに関心を持つようになる場合には、そのことを明確に指摘していくことも大切です。

 今日の聖書箇所に、1人の、悪霊に支配されていた人が登場します。この人は、この悪霊の働きのために話すことができませんでした。このように聖書に書かれている時には、聖書を読む私たちも気を付けなければなりません。病気や、さまざまなその人の弱さを簡単に悪霊の働きとすることはできないからです。先ほども言ったように、悪霊の働きというのは私たちを神様から引き離すことです。

 主イエスはここで、話すことができなくされていた人をご覧になられて、この人を悪霊から解放し、自由に話ができるようにしてやりました。その場にいた人たちは皆驚きました。普通であれば、こういう出来事を目の当たりにした人たちは、口々に主の名を褒め称え、癒された人のところに行って、喜びの言葉を口にするはずです。

 ところが、今日の聖書の箇所には、続いてこのように書かれています。15節です。

しかし、彼らのうちのある者たちは、「悪霊どものかしらベルゼブルによって、悪霊どもを追い出しているのだ」と言った。

 びっくりする反応です。この人たちは、主イエスのなさった御業を見て、これは悪魔の親玉であるベルゼブルが、悪霊を追い出しているのだと言っているわけで、主イエスのことを悪魔の親玉扱いしているわけです。 (続きを読む…)

2024 年 3 月 3 日

・説教 ルカの福音書11章1-13節「本当に必要なものを~主の祈り8」

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2024.3.3

鴨下直樹

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 主の祈りからの説教も今回で8回目となりました。ここで最後です。今日は主に5節から13節の御言葉に耳を傾けたいと願っています。

 この主の祈りは、はじめに主イエスの弟子たちが主イエスに「主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。」と問いかけたところから始まっています。主イエスの弟子たちは、祈ることに憧れを持っていました。神との交わりのすばらしさを知りたいと願っていたのです。

 それで、主イエスは主の祈りを教えた後で、5節からの譬え話をなさいました。5節から8節にひとつの譬え話が書かれています。そこには、あなたがたの友だちが訪ねてきたので、真夜中に別の友だちのところに「パンを三つ貸して欲しい」とお願いに行ったという話が書かれています。パンを借りに行ったのはもう真夜中です。友だちはすでに寝ています。子どもたちも寝ています。そんな状態ですから、友だちはこの願いを断ります。8節で主イエスはこう答えておられます。

「この人は、友だちだからというだけでは、起きて何かをあげることはしないでしょう。」

 先日の祈祷会でも、みなさんここからいろいろな意見が飛び出してきました。「もう真夜中なんだから、明日の朝まで待たせることができたんじゃないか?」とか「パンを三つも求めるのは多すぎじゃないか? 友だちの分だけではなくて、自分も食べるつもりだろうか?」とか色々な意見がでました。

 私たちは、ここで感じるのはパンを借りにいく人の厚かましさです。ただ、同時に私たちは聖書の中に「旅人をもてなしなさい」という御言葉があるとこも知っています。そう考えれば、この人はこの御言葉を誠実に実行しようとした人、隣人に対する愛に満ちた人だという考え方もできるのかもしれません。

 ところが、ここで主イエスは「この人は、友だちだからというだけでは、起きて何かをあげることはしないでしょう。」の後に、こう言われました。

「しかし、友だちのしつこさのゆえなら起き上り、必要なものを何でもあげるでしょう。」

 そうしますと、ここで主イエスが教えようとしておられることは、どういうことになるかというと、「しつこく求めれば何でも与えられる」という理解になると思います。

 すると、私たちはすぐに首を傾げたくなるわけです。私たちがしつこくお祈りすれば必要なものは何でも与えられるのか? という疑問です。きっと、みなさんもこれまでの信仰の歩みの中で、何度も、何度もしつこいくらいに願い事のお祈りをした経験がおありになると思います。そのお祈りはどうなったでしょうか? もちろん、その祈りが叶えられたという経験をした方もあると思います。けれども、ダメだったという経験を持っておられる方も少なくないと思うのです。

 それで、その疑問を解消するためにもう少し丁寧に聖書を読んでみますと、原文ではこの「しかし」という言葉がないことにまず気がつきます。つまりこれは、「しかし」という意味を成り立たせるために、後で補った言葉です。そうだとすると、「しかし」の後の文章は、何らかの意訳が入っていると考えられます。 (続きを読む…)

2024 年 2 月 25 日

・説教 マタイの福音書6章25-31節「心配しなくて良いのです」田村洸太神学生

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2024.2.25

田村洸太

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 皆さんおはようございます。今日は2月最後の主日礼拝となります。次週からは、もう早いもので3月になります。

 皆さんは、3月と聞きますと、どのようなことをイメージされるでしょうか。3月というのは、子どもにとっても大人にとっても、年度替わりの季節です。学生であれば1年間のまとめ、進級、進学、または就職といった新しいステージへと飛び込んでいく時期です。大人であれば、新卒社員が入社してくる4月に向けて、人事異動や部署内の人員調節などが行われていく時期です。当教会でも先週、教会総会が行われ、来年度に向けた話し合いの場がもたれました。

 新しいスタートを迎えようとするこの季節は、来年度に向けての期待感と共に、今までとは違った状況に身を置くことになるため、心配や不安もまた大きくなる時期ではないでしょうか。

 本日は、そのように心配や不安が大きくなる時期を迎えるにあたって、私たちキリスト者が一体、何に目を向け、どのようにして信仰生活を歩んでいけば良いのか、そのことをマタイの福音書6章25節から31節のみことばを通して、味わっていきたいと思います。

 まず初めに今日の説教箇所のみ言葉が、どのような状況の中で語られたものであるのかについて、見ていきたいと思います。マタイの福音書6章の少し前、4章23節〜25節にこのようにあります。

イエスはガリラヤ全域を巡って会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病、あらゆるわずらいを癒やされた。
イエスの評判はシリア全域に広まった。それで人々は様々な病や痛みに苦しむ人、悪霊につかれた人、てんかんの人、中風の人など病人たちをみな、みもとに連れて来た。イエスは彼らを癒やされた。
こうして大勢の群衆が、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、およびヨルダンの川向こうから来て、イエスに従った。

 あらゆる悩みを抱える大勢の人々が、全土からイエス様のもとに集まり、癒やされ、従ったとここに書かれています。そして、次、5章の初め。

その群衆を見て、イエスは山に登られた。そして腰を下ろされると、みもとに弟子たちが来た。
そこでイエスは口を開き、彼らに教え始められた。

 大勢の群衆が集まって来るのを見て、イエス様は山に登られたとあります。そして、山の上で弟子たちや群衆に向けて、教えを語り始められました。イエス様のこの教えは、5章の初めから7章の最後まで続いていきます。

 ここで語られた多くの教えは、山上の垂訓や山上の説教とも呼ばれ、当時の人々の考えや価値観を大きく刷新するものでした。

 本日の説教箇所もそのような状況の中で、多くの悩みをもつ人々に対して語られたみ言葉です。それでは、早速今日の聖書箇所に移っていきたいと思います。25節。

ですから、わたしはあなたがたに言います。何を食べようか何を飲もうかと、自分のいのちのことで心配したり、何を着ようかと、自分のからだのことで心配したりするのはやめなさい。いのちは食べ物以上のもの、からだは着る物以上のものではありませんか。

 25節冒頭、「ですから」という接続詞によって始められています。イエス様は、この一つ前、24節において、「あなたがたは神と富とに仕えることはできません。」と語っています。そして、この25節から神に仕える者たち、言わば私たちキリスト者が一体どのような価値観、視点を持って、生きていけばよいのかについて語り始めます。

 何を食べようか何を飲もうかと、自分のいのちのことで心配したり、何を着ようかと、自分のからだのことで心配したりするのはやめなさい。いのちは食べ物以上のもの、からだは着る物以上のものではありませんか。

 ここでイエス様が語るのは、人々の生活の中で起こってくる価値観、優先順位の迷走についてです。 (続きを読む…)

2024 年 2 月 18 日

・説教 ルカの福音書11章1-4節「試みにあわせないでください~主の祈り7」

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2024.2.18

鴨下直樹

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 今週から受難節、レントを迎えました。主イエスが十字架にかけられるまでの40日間、教会では主の苦しみを心に留めて過ごすという習慣があります。国によってはこのレントの期間、肉を絶って生活するというような習慣のある国もあります。謝肉祭とか、カーニバルという言葉を聞いたことのある方もあると思います。これは、この期間は主の受難を覚えるために肉が食べられなくなるので、その前にどんちゃん騒ぎをして、この期間を乗り越えるためのエネルギーをつけておこうなどという習慣が生まれたのです。

 私たちは今週からレントを迎えるというタイミングで、主の祈りの中にある「私たちに試みにあわせないでください」という御言葉に耳を傾けようとしています。レントの期間というのは、先ほどお話したように、肉を食べないとか、好きなものを絶って、主イエスの苦しみを偲ぶ季節ということができます。このように、一方では自らに試練を課して、主の苦難を偲ぼうという習慣、もう一方では「試みにあわせないでください」と祈る。こうなると、私たちは互いに相反するようなことをしているのではないかという印象を持つのではないでしょうか?

 私たちは「試練」をどう考えているでしょう? 多くの場合、「試練」というのは、私たちを成長させるためには必要不可欠なものという認識が、どこかで私たちにはあると思います。けれども、ここでは「試みにあわせないでください」と祈るように勧められています。とすれば試練はない方がいいというわけです。これはいったいどういうことなのでしょう。

 「若い時の苦労は買ってでもしろ」という諺もあるくらいです。そう考えると、私たちが「試み」にあわないようにと祈るのは少しおかしい気もするのです。

「試練」というのは、この言葉にも表されていますが「試み」という言葉と「練る」という言葉で作られています。たとえば、私は鉄の専門家ではないので詳しくは分かりませんが、鉄を強くするためには精錬して、鉄を高熱で練り上げて、不純物を取り除いて、強い鉄を作り出していきます。ここには鉄の専門家がおりますから、あまり適当なことを言わない方がいいかもしれませんが、少なくとも私にはそんなイメージがあります。

 それで、少し気になって「試み」という日本語の意味を調べてみました。すると、面白いことが書かれていました。「心を見る」という言葉から、「試み」という言葉が生まれたというのです。その人の心を見る。その人が本当は何を考えているのかを見る。表面に出てきていない、その内側を見るというわけです。私たちは普段、心の内側は誰にも知られていないと思って、うまいこと表面上を取り繕って、ごまかしながら生きているかも知れません。だから、その人の内面を、心を見るために、試みに合わせる、テストするというわけです。

 私たちは、ひょっとすると神様からテストされてばかりではなくて、私たちの方でも神様の心を見てやろうと、テストするということがあるのかもしれません。本当にこのお方は信じるに値するのか、試してみたくなる。そうやって、たとえば願い事を祈ってみて、それが叶うかどうか、そういうことで判断をしようとすることがあるかもしれません。私たちが神を試みるということについては、今日のテーマではないので簡単にお話したいと思いますが、これは神を侮る態度ですし、結局のところ自分本位な態度だと言わなければなりません。

 今日、私たちが考えたいのは神が私たちを試みられることです。私たちが試されることがある。私たちの心が見られることがあるのです。けれどもそれは、神からの罰ではないということを、一方で私たちは知る必要があります。私たちは思いがけない不幸が訪れると、それは試練だと考えます。それと同時に、反射的に考えてしまうのは「何か悪いことをしてしまって、神様を怒らせてしまっただろうか?」と考えたり、「神のバチが当たった」と考えたりしてしまうのではないでしょうか。

 原因があって結果があるわけで、こうなったのには自分に何か悪い原因があるのではないかと、自分を責めてしまったり、神様を恨んだりする感情が私たちの心の中に浮かんできてしまいます。ここが、試練の怖いところです。

 病気になる、事故に遭う、災害で被害を被る、いろんな試練が私たちの人生の中で襲いかかってくることがあります。それらの出来事が起こると、それに付随して色々なことが起こります。そのためにたとえば仕事ができなくなる、経済的に厳しくなる、人が怖くなって外に出られなくなる、人を信じられなくなる。さまざまな感情が私たちを襲うようになります。そうなっていくと、平安でいられなくなってしまいます。そんな中で他の人を見ると、案外幸せそうにやっている気がして、他の人が羨ましく思えてしまう。自分だけが苦労を背負っているかのような錯覚を起こしてしまうことがあるのです。

 簡単に乗り越えられそうなことを「試練」とは言いません。「試練」には深い闇が潜んでいます。私たちはこの試練に対して、どう向き合うことができるのでしょう。 (続きを読む…)

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