2024 年 5 月 5 日

・説教 ルカの福音書12章22-34節「心配の糧と天の宝」

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〈いのれ〉
2024.5.5

鴨下直樹

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 今から20年ほど前ですが、朝日新聞の「天声人語」で一冊の本が紹介されました。『パパラギ』という本です。この本には副題がついていまして「はじめて文明を見た南海の酋長ツイアビの演説集」と書かれています。

 この本が最初に世に出たのは今から100年前の1920年のことです。見返しのところにはこんな謳い文句が書かれています。

パパラギとは、白人のこと、見知らぬ人のこと。でも、言葉どおりに訳せば、天を破って現れた人。はじめてサモアに来た白人の宣教師が白い帆船にのっていた。遠くに浮かぶ白い帆船を見て、島の人たちはそれを天の穴だと思った。白人がその穴を通って彼らのところへやって来た。――白人は天を破って現れた――

 本の内容はとても面白いものです。それまで文明とはまったく縁遠い生活をしていたサモアの島の人々のところに白人の宣教師がやってきて、キリスト教が宣べ伝えられます。こうして、島の人々はキリスト教を信じるのです。ところが、この演説は、西洋の誇りとしている文化や生活様式、そして人々が願い求めているものがいかに神の願いからかけ離れているのかを明らかにしていく内容となっているのです。痛烈な白人文化批判と言っても良いような内容です。

 中にこんなエピソードが書かれていました。この酋長がヨーロッパを訪ねた時に、ある質問をしたのだそうです。「そんなにたくさんのお金をどうするんです? 着たり、飢えや渇きをしずめるほか、この世で何ができますか?」答えは何もない。そう書かれています。そして、ヨーロッパでお金を払わなくてもいいのは空気だけだ。でもこの話を聞かれると空気にもお金がかけられるかもしれない。そのなかには、こうも書かれています。「ある人がお金をたくさん、普通の人よりはるかにたくさん持っていて、そのお金を使えば、百人、いや一千人がつらい仕事をしなくもすむとする。――だが、彼は一銭もやらない」

 まるで、主イエスが語っているのではないかという話が、延々と記されています。「お金が欲しい、時間が欲しい。彼らは神を信じていると言っているのに、実のところお金を信じている。」そう書かれています。

 この本は、今もよく読まれているようで、読んだ人たちの様々な感想がアマゾンなどでも書かれています。それで少し興味を持って調べてみると、この本は実在したサモアの酋長の話ではなくて、ドイツ人の創作話だったというようなことまで、インターネットの辞典であるウィキペディアに書かれていてびっくりしました。この『パパラギ』という本の話は実話ではないのかもしれませんが、かなり大きな影響力を与えました。ヨーロッパの人々の信仰の本質を突きつけ、実際に人々が求めているのはお金で、そのために大切なものを失っていることに気づいていないという指摘です。

 今日の聖書箇所のテーマは「心配」です。「何を食べようか、何を着ようか」という心配から始まって、主イエスの語る「幸福論」と言っても良い内容がここには記されています。私たちが生きていくために大切なものは、「衣食住」の三つだと言います。これが整っていれば「幸せ」と表面上は定義することができます。けれども、現代人のほとんどの人は誰もがこの「衣食住」が整っていますが、幸せだと感じている人はそれほど多くはありません。『パパラギ』の本で指摘されているように、「もっと、もっと」と人々は際限なくさまざまなものを求めているからなのでしょうか。

 「心配」というのは、その背後に様々な「恐れ」が潜んでいます。「もっと、もっと」と望みが決して小さくならないのは、少しでも恐れを取り除きたいと考えているからです。主イエスはここで、「いのち」と、「からだ」のことを語っています。食べるものは「いのち」のため、着るものは「からだ」のためと言います。これは、私たちにもよく分かることです。私たちはいのちを長らえさせるために、少しでも長生きしようと「サプリ」や「健康食品」を購入します。あるいは、この「からだ」が健やかでいられるためにも、からだに取り込むものは、加工食品や、化学調味料を除いた方が良いと考えます。

 ごくごく当たり前になっているようなこのような習慣そのものにも、主イエスは目を向けさせます。30節では「これらのものはすべて、この世の異邦人が切に求めているものです。」とさえ言っています。この世の人々が、神の民ではない「異邦人」が行っていることと、同じことをしていて「神の民」としてのアイデンティティーは一体どこにあるのかという厳しい問いかけです。

いのちは食べ物以上のもの、からだは着る物以上のものだからです。」と23節で主イエスは言われるのです。

 烏でさえ主イエスは養われておられると言われるのです。続く25節ではさらに面白いことを主イエスは言われます。

あなたがたのうちだれが、心配したからといって、少しでも自分のいのちを延ばすことができるでしょうか。

 この25節の「いのち」という言葉は、この前に出てきている「いのち」とは別の言葉です。これまでは「プシュケー」という言葉が使われていたのですが、この25節は「背丈」とか「寿命」を表す「ヘリキアン」という言葉が使われいます。そして、「少しでも」というところには下の註にも書かれていますが「ペキス」という言葉、「キュビト」という言葉が使われています。「キュビト」というのは、手の甲から肘までの長さのことで、だいたい45センチという長さの単位です。

 ですから、この言葉は原文のままに言うと、心配したからといって、少しでも自分の身長をのばしたり、自分のいのちを長くしたりすることはできないという意味になるわけです。

 自分の努力で身長を高くしたり、いのちを引き延ばしたりすることはできないと、主は言われるのです。ただ、これは主イエスが語られた2000年前と、現在とは少し意味合いが変わってきているかもしれません。今は、カルシウムを摂れば背が伸びるとか、サプリを飲めば長生きできるというような可能性が少し増えることを私たちはどこかで耳にするからです。

 サプリを摂ったり、カルシウムを摂ったりして少し身長が改善する、健康が改善するならどんどんやりましょうということでもないでしょう。主がここで言われているのは、自分の努力で自分のいのちを引き延ばす、コントロール出来ると考えているかもしれないが、それで「心配」の種を増やしているのだとしたら、本末転倒ではないかという指摘です。

 最近ある有名なサプリに菌が入り込んで、亡くなる方が出たということがニュースになっていたばかりです。それで、サプリをやめたという方もあるようです。これは本当に効くのか?金額に見合っているか?などといって心配が増える。けれども、口に入れるものよりも、「いのち」そのもののことを考える方が大事なことではないかと言われるのです。

 ここで主イエスが言われる「いのち」というのは、健康に左右されるいのちのことを言っているのではありません。私たちの存在そのもののことに目をとめさせようとしておられるのです。

 27節に出てくる「草花」についても同じです。これまでの翻訳は「ゆりの花」となっていましたが、新改訳2017では「草花」となっています。ゆりの花や、草花であっても、これを保っておられるのは、神なのであって、草花の努力によってその美しさが保たれているわけでもないのです。そして、主イエスは28節でこう言われます。

今日は野にあって、明日は炉に投げ込まれる草さえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたには、どんなに良くしてくださることでしょう。信仰の薄い人たちよ。

 主イエスはここで「信仰の薄い人たちよ」と言われました。ここまで来るとドキッとするのですが、ここで主イエスは、これは信仰の問題なのだということを明らかにしておられるのです。

 自分のいのちのために、からだのために思い悩んで、心配してあれこれと異邦人と同じようなことをして悩んでいるのだとすると、そのどこに信仰者の姿があるというのかという、主イエスからの問題提起です。

 もちろん、サプリを飲んではいけませんという話でもありませんし、健康食品は必要ありませんという話でもありません。主イエスは30節でこう言われました。

これらのものはすべて、この世の異邦人が切に求めているものです。これらのものがあなたがたに必要であることは、あなたがたの父が知っておられます。

 私たちが生きていくために必要なものがあるとすれば、父は、つまり父なる神様はすべて知っていてくださるから安心しなさいと主イエスは言われるのです。そこで、自分で心配して、自分で自分のことを全部なんとかしないといけないのではなくて、父なる神は、私たちに必要なものを全部知っておられると言われるのです。

 そこで、今回の中心的なみ言葉に来るのですが、31節と32節でこう言われました。

むしろ、あなたがたは御国を求めなさい。そうすれば、これらのものはそれに加えて与えられます。

 まず、31節ですが、主イエスはここで「御国を求めなさい」と言われました。「御国」というのは、神の国のことです。神の国というのは、天国という言い方をしたりしますが、死後の世界のことではなくて、神が支配してくださるということです。神が支配してくださる生活、神と共にある生活を求めなさいと言うのです。神があなたと一緒にいてくださるなら、あなたはそこで必要なものをすべて得ているのです。その生活には平安や安心が得られます。私が生きていくために必要なものを神は全部知っていてくださる。「それに加えて与えられます」と言ってくださるのです。そして、さらに、32節ではこう言われました。

小さな群れよ、恐れることはありません。あなたがたの父は、喜んであなたがたに御国を与えてくださるのです。

 「小さな群れよ」と語りかけられました。これは、主イエスの弟子たちのことです。まだでき始めたばかりの教会のこととも言えます。あるいは、小さな御国と言ってもいいかもしれません。主イエスと一緒にいる弟子たちの集まりは、神の国であり、教会なのです。そこに、いるならば、主イエスと一緒にいるならば、「恐れることはありません」と言うのです。

 さきほど言いました。「心配」の背後にあるのは「恐れ」だと。この先どうなるのか、今の健康状態ではきっと自分の寿命は短いのではないかとか、今のままでは私は将来が不安だとか、希望が見えないとか、私たちはさまざまな心配を持ち、恐れを抱くのですが、主が共にいてくださるなら、「恐れることはない」と主イエスはここで、主イエスと共に生きようとする教会の人たちに、私たちに「大丈夫だ!」と語りかけてくださるのです。

 お金ではない、物が豊かにないかもしれない、食べるものも、着るものも、不十分なのかもしれない。それでも、私たちの生活に神が入り込んでくださるなら、そこから全てが変わったと言うことができるようになるのです。

 最初に紹介したサモアの酋長が、キリスト教を知ったことで、そこに大きな安心が入ってきたように、この主イエスが私たちの生活に入ってきて下さるなら、それだけで大きな安心を私たちは得ることができるのです。

 主イエスは言われます。33節です。

自分の財産を売って施しをしなさい。

 この主イエスの結論に、私たちは戸惑うかもしれません。主イエスは、私たちは自分の中に溜め込む生活、お金をより多く所有していこうという生活ではなくて、人のために自分の持っているものを与える生活をするように招いておられるのです。続いてこう書かれています。

自分のために、天に、すり切れない財布を作り、尽きることのない宝を積みなさい。天では盗人が近寄ることも、虫が食い荒らすこともありません。

 面白い言葉があります。「天に、すり切れない財布を作り」とあります。私はドイツにいた時に買った財布を今でも使っているのですが、もうすり切れてしまって小銭がこぼれ落ちてしまうことがあります。でも、気に入っているのでなかなか新しいお財布に変えようという気持ちになりません。でも、天に持つのは「すり切れない財布」というのです。以前の翻訳は「古びない財布」でしたが、私はこの「すり切れない」のほうが良い翻訳だなと思うのです。

 すり切れるのは、出し入れするからです。けれども、天に蓄える私たちの宝は、貯めっぱなしで使うことがありませんから、すり切れるどころか、どんどん大きくなっていくのかもしれません。天に蓄えたものは、誰も手をつけることができないので溜まる一方で、もっとも安心できるのです。しかも、そのようにして天に宝を蓄えるのは、私一人の密かな楽しみということでもなく、天においては神と御使いも一緒になって喜んでくれるのです。

 私たちが蓄えるのは「自分の財産の施し」によってです。これは、お金だけのことではありません。私たちが誰かに向けた愛が、そのまま天の宝となって蓄えられていくのです。先週の説教で、「誰かのために時間を使うことが愛だ」と話しました。時間も、お金も、私たちの真心を向けることも、すべてが天に宝を蓄えることです。私たちは、この世でどれだけ愛を人に注いだとしても、私たちの財産は減ることはありません。財布が一時的に寂しくなることはあるかもしれません。あるいは、へとへとに疲れ果ててしまうことはあるでしょう。けれども、私たちの財産は、私たちに与えられている神からの恵みは、祝福は私たちから失われてしまうことはないのです。人のために、あるいは神のために何かをすればした分だけ、天に宝が蓄えられていくのです。

 私たちの心が、自分自身の方を向いている時、私たちは心配の種が大きく膨れ上がって、その心配を大きく大きく育てていくことになってしまいます。しかし、私たちの向いている方向が、自分にではなく、私たちの周りの人へ、そして神へと向いていくならば、私たちは心配事から自由になって、天に宝を蓄えていくことになるのです。なぜ、そんな生き方ができるのか。それは、主が私たちのことを私たち以上に心配してくださるからです。

 主は言われます。34節です。

あなたがたの宝のあるところ、そこにあなたがたの心もあるのです。

 私たちの宝は、この世にではなく、天に、神のみもとに預けておくのです。神のために私たちが生きる時、神のために愛するときに、私たちは心配事や、恐れから解き放たれて、安心して、喜んで生きることができるようにされるのです。私たちの主は、私たちを心配してくださり、私たちを守ってくださるお方なのです。

 先ほど洗礼式を行いました。まさに、ひとりの「いのち」が神の御前で新しくされました。Hくんのいのちが神のものとされました。そして、これからのいのちの歩みの中で、Hくんは、神を、また人を愛することを通して天に宝を蓄えていくことになるのです。すでに、洗礼を受けておられる方も、このことを今心に刻みたいのです。そして、私たちのいのちを贖ってくださった主イエスと共に、このお方の愛に応えて歩んでまいりましょう。

 お祈りをいたします。

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