・説教 マルコの福音書5章21-34節「長血の女性」
2025.03.15
内山光生
イエスは彼女に言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。苦しむことなく、健やかでいなさい。」
序論
今日の箇所から次回の箇所にかけて、イエス様による二つの奇跡が記されています。そして、この二つの共通のテーマは、「信仰による癒し」となっています。人間の力ではどうすることもできない、そういう病にかかって苦しんでいる人が、「イエス様なら癒すことができる」という信仰によって、癒しがなされていく、そういう場面です。また、これらの奇跡は、病気の癒しだけでなく、魂の救いをもたらすことも強調しています。
この事は、別の聖書箇所に記されている「神様が一方的に救い出して下さる」との教えと矛盾しているかのように思えるかもしれません。けれども、それは強調する部分が異なっているだけであって、私たちがイエス様を信じるようになるかどうかは、やはり、神様による導き、あるいは聖霊の働きがあるかどうかにかかっている、そういう点では、全く同じだと言えるでしょう。
I ヤイロの娘のところへ向かう主イエス(21~24節)
21~24節から順番に見てきます。
これらの箇所は、次回に詳しく取り扱いますので、簡単に説明していきたいと思います。
ヤイロという人物が出てきています。この人は会堂司という立場にあります。ユダヤ人の会堂では安息日ごとに礼拝がささげられていましたが、その礼拝に関する責任を任されていた人です。そのヤイロという人が、イエス様の下にやってきて「死にかけている自分の小さな娘を助けてほしい」とお願いをしたのです。
その願いに応じるために、イエス様はすぐさま、ヤイロの娘のところに向かわれたのです。ところが、その途中で、大勢の群衆がついてきたのでした。
II 長血の病で苦しんでいた女性(25~26節)
25~26節に進みます。
イエス様が、ヤイロの娘のところに行かれる途中で、別の出来事が起こりました。長血をわずらっている女性が出てきています。長血というのは女性特有の病であって、血が止まらなくなるという症状があるようです。これが現代医学において、どういう病なのかは専門家の目から見れば幾つかの候補を挙げることができるかもしれません。でも聖書には、具体的な病名までは記されていませんので、あくまでも「血が止まらなくなる病気」と理解しておけば良いでしょう。
この女性は、12年という長い期間、病で苦しんでいました。その間、いろいろなお医者さんに診てもらったのですが、しかし、医者代がかかるだけであって、治ることはありませんでした。それどころか、かえって悪い状態となっていたのです。
今の時代では、少なくとも医療が発達している国々においては、このような事はめったに起こらないのではないかと思うのです。一つの病院で原因が分からなかったとしても、別の病院に行く、あるいは、評判の良いお医者さんの下に行けば、何とか治療をしてもらえる、そういう可能性が高いからです。例外的には、いわゆる難病と呼ばれているものだとか、腫瘍が末期的な状態になっている場合は打つ手が無い場合もありますが、そうでない限りは、何とかなるのが今の医学の現状だと思うのです。
しかしながら、イエス様の時代においては、この長血という病を治すことができるお医者さんが、ほとんどいなかった、そういう時代だったのだと思われます。この女性は、自分にできる限りの事をやりつくしたのです。多くのお医者さんに治してもらうことを期待したが、もう治療してもらうお金も無なってしまった。こうして、病気による苦しみと経済的な苦しみを味わっていたのです。更には、彼女は堂々と多くの人々の前に行くことができない、そういう立場に立たされていました。
というのも、旧約聖書の教えによれば、「血を流している者は汚れている」とみなされていて、多くの人々の前に出ていくことが禁止されていたからです。今の時代でも、伝染病にかかった人が強制的に隔離されるように、イエス様の時代においても、血が止まらなくなっている人は、人々との距離を置かなければならなかったのです。
この女性は、そういう意味では三重の苦しみ、つまり「病による苦しみ」「経済的苦しみ」「隔離された生活という苦しみ」を味わっていたのです。
前回の出来事では「汚れた霊につかれた人」が出てきました。この人の場合は、想像を膨らませないと彼の気持ちを理解するのが難しかったと思うのですが、しかし今日、登場している「長血の女性」の苦しみについては、割と共感しやすいと感じる人が多いかと思うのです。
というのも、自分自身が病にかかっていなかったとしても、自分の家族や親族、あるいは友人、知人と広げていくと、病で苦しんでいる人、あるいは、苦しんでいた人が必ずいるからです。
また、経済的苦しみについても、今もそうだと思う人がいるだろうし、過去に苦しいことがあったという人もいるだろうし、自分がそうでなかったとしても、自分の知り合いの誰かが厳しい状況にある、そういう現実があれば、その苦しみについて理解しやすいと思うのです。
また、「隔離された生活」について言えば、世界中がコロナ禍を経験した事によって、その不便さが様々な不具合を起こさせる事を味わってきたのです。今はもうコロナに感染したからといって外出してはならないとか、買い物に行ってはならないという制限が撤廃されましたが、コロナ禍初期の頃は、非常に厳しい制限があったのを懐かしいと思う、しかし、あんな経験は、もうしたくないと思うのが私たちではないでしょうか。
しばしば「とりなしの祈り」というのは、相手の苦しみをどれ程理解できるかどうかと関係があると言われています。そう考えると、熱心に祈るためには、共感力が必要となってくるのです。しかし、その共感力でさえも、根本的には神様から与えられる賜物であって、私たちが「神様、どうか人々の苦しみが理解できるようにして下さい」と祈ることによって与えられる、そういう部分もあるのです。
さて、長血をわずらっている女性は、ユダヤ人社会においては、自分が汚れた人だとみなされている事を自覚していたと思うのです。それゆえ、なるべく目立たない方法で、イエス様に近づいていく必要がありました。これはツァラアトに冒された人々と同様に、社会全体に病気が蔓延しないためのルールがあったからです。
III 癒された長血の女性(27~29節)
27~29節に進みます。
どうやら長血をわずらっている女性は、「イエス様ならば病気を治すことができる」、そんな噂を聞いたようです。しかし、自分自身の病の事を思う時、慎重になって行動する必要がありました。確かに、正々堂々とイエス様の前に行き「私の病気を治してください」と言うのが礼儀にかなっていたのかもしれません。しかし、彼女の場合は特殊な病であって、人々から距離を置く必要があったのです。だから彼女は群衆の中に紛れ込んで、しかも目立たないように、イエス様の後に行き、イエス様の衣に触れたのでした。
今までのイエス様による癒しというのは、イエス様がその人に触れると病が癒された、そういう事が多かったのです。すなわち、イエス様が病人を癒すためにその人に触れたり、あるいは、祈ったりすることによって癒しが起こったのです。ところが今回は、なんと病人の方からイエス様に触れると癒されたのです。この女性は、「イエス様の衣に触れれば私は救われる」と思っていて、そして、その通りにイエス様に触った瞬間に、血が止まって癒されたのです。
IV 衣に触った人を探す主イエス(30~32節)
30~32節に進みます。
長血をわずらっていた女性は癒されました。それで、彼女はすぐにでもその場を立ち去ろうとしたと思われます。ところが、彼女が癒され、血の源が止まったと同時に、イエス様もご自分の内から力が出ていったことに気づかれたのです。
イエス様は振り向かれました。そして「だれがわたしの衣にさわったのですか。」と問いかけられたのです。これは決して小さなお声ではなく、周囲に響く程の大きなお声だったと思われます。すると、弟子たちがイエス様のお言葉に対して反論していくのです。
「これほど群衆が押し迫っているのに、それでも誰がさわったのかとおっしゃるのですか。」と。
確かに、弟子たちの言い分の方が正しいと思われます。あまりにも人が多くて、無意識の内に誰かがイエス様の衣に触ったとしてもおかしくない状況だったからです。
満員電車に乗っている状況あるいは、エレベーターが定員いっぱいになっている状況を思い浮かべると、悪気が無くても、誰かの衣服に手が当たる、そういう事が起こるのは当然だということが分かると思うのです。全く誰の衣服にも手を触れずにいることなんて、ありえない訳です。
けれども、イエス様は弟子たちの言っていることなどお構い無しに、周囲を見渡して触った本人を見つけ出そうとされたのです。イエス様はご自分の内から力が抜けた時に、すぐに反応されました。だから、触った人はまだ遠くに行っていない、そういう確信がおありだったのでしょう。
V 告白した女性を励ました主イエス(33~34節)
33~34節に進みます。
長血という病が癒された女性は、イエス様のお言葉と態度を見て、「逃げる事ができない。しかし、名乗り出ると、自分のした事が非難されるかもしれない。」そういう思いがよぎったと思われます。というのも、彼女は大勢の人々の前に出ていってはいけなかった、そういう病にかかっていたという事、その事が人々の前で明らかになると、イエス様だけでなく群衆から非難を浴びせられる。そういう危険があることが予想できたからです。
しかし、彼女は自分が何らかの罰を受ける事を承知で前に進んで行き、イエス様に対してひれ伏した上で、自分が何をしたのか、自分がどういう思いで衣に触ったのかを、告白したのでした。この行動は、とても勇気がいる事でした。場合によっては、病が治ったものの、しかし、精神的には大きなダメージを受ける危険があったからです。
けれども、この女性は押し出されるかのようにイエス様の前に出て行き真実をすべて語ることができたのです。そして、この出来事を通して、聖書は神様から受けた恵みを、自分以外の人々にも証しするようにと促しているのです。
私が高校生の頃、同盟福音とは別の団体なのですが、教会関係の高校生キャンプに参加しました。そのキャンプでは一番最後のプログラムとして「証しをする時間」がありました。多くの人々が次々と証しをしていく中で、私はどうしても証しをする勇気がありませんでした。心の中では神様が自分の高校生活を守って下さっている、友達も何人かできて感謝だという気持ちがあったのですが、しかし、それをみんなの前で告白することが、恥ずかしかったからです。それで、そのキャンプでは結局、証しをする事ができずに終わってしまいました。
翌年、またキャンプの季節がやってきました。するとキャンプの申し込みをした直後に、キャンプのスタッフの方から「内山君に証しをしてもらいたい」との連絡が入ったのでした。私は断りたい気持ちがあったものの、しかし、神様が導いて下さっていると感じ取ることができていたので「はい、分かりました。」と返事をすることができたのでした。そして、大勢の人がいる中で証しをすることができたのでした。その結果、自分が受けている恵みがどれ程、大きかったのかが、より鮮明に心に響くようになったのです。
今でこそ、私は教会で説教を語る、そういう立場となっていますが、しかし、少なくとも高校生までは、人前で何かの話をすることが苦手な性格でした。にも関わらず、神様は「自分のような者さえも用いて下さる」そのことを思う時に、「人間の感覚では不可能だと思えたとしても、神様の導きならば可能となる」その事は確かな事だと実感しております。
さてイエス様は、ご自分の内から力が抜けていった時に「あっ誰かの病気が癒されたのだ」とお分かりになったのです。そして、イエス様はその癒された人をそのままにしておくこともおできになったのですが、その人に対して祝福の言葉をかけてやりたい、そういう願いから必死になって「だれがさわったのか。」とお声を出されたのでしょう。
そして、そのお声に応答した女性は、自分の病の事について語り、どの医者にも治してもらえなかった事、しかし、イエス様なら癒すことができると確信したので、イエス様の衣に触った事をすべて告白したのです。この告白は勇気がいるものでした。しかし、イエス様から逃げるのではなく、真実を伝える事を選び取ったのです。
その結果、イエス様から「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。」との言葉を頂くことができたのです。単にイエス様の衣に触れただけならば、その人が癒されるという事は無かったはずです。しかし、信仰によって癒されると信じた上で衣に触った時に、瞬間的に病が癒されたのでした。
イエス様は「信仰があなたを救ったのです。」と表現されています。この救ったというのは、病が癒されただけでなく、魂が救われたという意味が含まれています。つまり、イエス様は、その人が本当の意味で救われた事を宣言されるために、敢えて、衣に触れた人に名乗り出るように呼びかけられたのです。
また、イエス様が「安心して行きなさい」とおっしゃったことによって、誰かが彼女のことを非難することを防ぐ事ができたのです。イエス様の周囲は、イエス様に対して好意的な人々で埋め尽くされていました。それゆえ、イエス様が「安心して行きなさい」と言われたのだから、皆は、癒された女性に対して「本当ならあなたは多くの人が集まる場所に来てはいけない人なのだ」と非難することができなくなったのです。
ある人々は、イエス様を信じる前は人から指をさされるような罪を犯していたかもしれません。人には言えないような人間関係による苦しみを味わっていたかもしれません。人生が思い通りに行かずに、神を呪いたいような気持ちになっていた、そういう事があるかもしれません。もしも過去が人々の前で明らかにされるならば、恥ずかしくて仕方がない、そういう思いになってしまう、それが人間の心だと思うのです。しかし、イエス様の十字架によって自分の罪が赦されるという信仰を持つことによって、本当の意味での救いを味わう者とさせて頂けたのです。
クリスチャンの特権として、イエス様の十字架を仰ぎ見るたびに、「このような罪人の私を赦してくださった神様、感謝します。」との思いで満たされていく、そういう喜びがあることを心に留めたいと思います。言い換えると、罪に支配されていた苦しみから救い出された、その喜びで心が満たされていく、という事です。その結果、神様から受けた恵みを人々に証しをしていきたいとの思いが与えられるのです。
お祈りいたします。