・説教 ルカの福音書20章27-40節「人はみな神に生きるのだから」
2025.12.07
鴨下直樹
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今日の聖書の箇所は、私たちにとってとても興味深い箇所です。というのは、天の御国に行った後、夫婦の関係はどうなっているのかということが書かれている箇所だからです。先日の祈祷会でも、みなさんいろんな意見を出されて、大変興味深い時となりました。
実は、今週の月曜に私の東海聖書神学塾の恩師でもあった鈴木健二牧師が突然召されました。日曜の礼拝には元気に顔を見せて、みんなと一緒に食事をしておられたのに、その日の晩に、脳梗塞で召されてしまったというのです。この鈴木先生は、この地域のキリシタンの研究家でもあり、東海地区の宣教の歴史を丁寧にまとめ上げて、神学塾で昨年まで講義を受け持っておられました。難しい古文書などの解析にも長けておられた先生でした。そのために後任の教師を探すことが難しく、誰かが鈴木先生の講義を引き継がなければという話をしていたばかりだったのです。
今日の聖書には36節でこう書かれています。
「彼らが死ぬことは、もうあり得ないからです。彼らは御使いのようであり、復活の子として神の子なのです。」
とあります。天の御国で復活した人は、そこで御使いのような存在として、まさに復活の子として生きている、そのように書かれています。天の御国に生きる者とされた人は、そこで神と共に生きるものとされているのです。鈴木先生もまた、今、天の御国で復活の子として歩んでおられるのだと、今日の箇所から私自身も慰めを受けたのでした。
私たちは、天の御国へいく時、そこで果たしてどんな生活をするのか、とても興味があります。それこそ、葬儀でよく語られる内容として「天の御国で再会」というテーマがあります。先月も私たちは召天者記念礼拝を行ったばかりです。すでに天に送った信仰の友や、家族のことを覚える時に、私たちは天の御国でもう一度再会する時のことを思い巡らしながら、その時をとても楽しみにしています。そんなこともありますから、私たちは天の御国、その人たちが、今どんな生活をしているのかと、想像することもあると思うのです。
今日の箇所は、主イエスに対して神殿側の人間である祭司長や、律法学者たちとの議論が終わって、また別の種類の人が登場して主イエスと議論をしています。今回新しく登場するのは、「サドカイ派」の人々です。この27節では「復活があることを否定しているサドカイ人たち」とあります。この人たちは、旧約聖書のモーセ五書だけを重んじる人々で、モーセ五書には「復活の話が書いてない」ということを理由に、復活はないと考えている人たちでした。
確かに、旧約聖書を読んでいると、新約聖書のような「永遠のいのち」とか、「復活」というテーマはあまり出てきません。むしろ、「この地上で長く生きることができる」とか、「千代に至る祝福」という言葉が多くて、その内容は、先祖に与えられた土地を、子孫が受け継いでいくことが神の祝福であるという考え方があるのです。ですからサドカイ派のような考え方も当然できるわけです。ここでサドカイ人が主イエスに復活はないことの証明として、聖書の申命記に書かれている「レビラート婚」という結婚についての考え方を取り上げています。これは、ここに書かれているように、子孫が先祖の土地を受け継ぐために、子どもがないままに夫が死んでしまった時には、弟たちが、その土地を受け継ぐべく兄嫁を妻として迎えるということが書かれているのです。それで、一つの例として、そうやって兄弟七人が次々に兄の妻を迎え入れたとして最後に、子どもが生まれないままみな死んでしまったとしたら、その妻は天の御国があるとしたら、誰の妻となるのか? ということを問いかけたわけです。この例は極端ですけれども、弟とその弟くらいまでが引き継いで土地を治めようと思ったけれども、子どもが与えられないままに亡くなってしまうようなケースというのは、当時も考えられたわけです。ただ、そうなると復活があった場合、天国では少しおかしなことになるのではないか? そう考えるとやはり、復活ということを考えるのは無理があるのではないかというのが、このサドカイ人の主張なわけです。
「では復活の際、彼女は彼らのうちのだれの妻になるのでしょうか。七人とも彼女を妻にしたのですが。」
33節にはそう記されています。
サドカイ人には、サドカイ人の理屈があります。彼らの理屈では、この主張は正しい主張なのでしょう。それほどに、当時の価値観は土地を子孫に残すということが重要視されていたのです。日本でも100年ほど前までは同じような価値観がまだ存在していたと言えると思います。お家を存続させるために、先祖伝来の土地を守り継いでいくためには、個人の気持ちは無視される、そういう価値観です。
しかし、この例に挙げられているような女性が存在したとしたらどうでしょう。死後にまで、この世のしがらみを持ち出され、一体誰の妻であるのかなどと言われたら、そんな天国ならいらないということにはならないのでしょうか。そういった想像の余地がないほどに、この時代の人々の価値観は絶対視されていたのです。 (続きを読む…)
