2025 年 3 月 2 日

・説教 ルカの福音書16章14-18節「神の国の福音に生きる」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 06:41

2025.03.02

鴨下直樹

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 主イエスは話のとても上手なお方です。今日のルカの福音書のこの箇所にも主イエスのお話の上手さがよく現れていると言えます。

 前回の話、不正な管理人の譬え話をなさったあとで、神に対して忠実に富を用いることをお話しになられました。この話を主イエスは弟子たちに向けてお語りになられたわけですが、その話を聞いていたパリサイ人たちは、この話を嘲笑いながら聞いていました。主イエスの話をあざ笑ったのです。それに対して話されたのが今日の箇所です。ここには、主イエスの話の巧みさがよく出ているとても面白い箇所だと言えると思います。

 パリサイ人たちがこの時、主イエスの話を聞いて、なぜ笑ったのかというとパリサイ人なりの理由があります。それは、申命記28章にも書かれているのですが、イスラエルの民が主の戒めを守り従うなら祝福されるという約束があります。それで、ユダヤ人たちは仕事が成功して富を得るのは神からの祝福のしるしだと考えていました。それなのに、主イエスは「神にも富にも仕えることはできない」と言われたので、それはおかしいと考えたのです。この考え方に関しては、パリサイ人たちは自信を持っていたと思いますし、実感でもあったのだと思うのです。

 富を得られるのは神からの祝福のしるし。パリサイ人たちはそのように考えていたのです。それなのに、主イエスは富のことを「不正の富」と言ったり、「この世の富」と言ったりして、神と富を別々のものとする考え方を示されました。この話を聞いて、パリサイ人たちは主イエスの考え方には同意できない、これは神の考えに反する教えだと考えて嘲笑ったのでした。

 それで、主イエスはお金の好きなパリサイ人たちに対して話されたのが、この14節以下の話です。この時に主イエスが話された言葉、今日の聖書箇所には少しびっくりする言葉が投げかけられています。15節です。途中からお読みします。

神はあなたがたの心をご存知です。人々の間で尊ばれるものは、神の前では忌み嫌われるものなのです。

 ドキッとする言葉です。「人々の間で尊ばれるもの」でイメージするのはなんでしょうか? 今だと野球は新しいシーズンのための準備の期間ですが、大谷選手の話でいつもニュースは持ちきりです。人々の間で尊ばれている大谷選手は、神には忌み嫌われているのか? そんなふうに考えてしまうと、よく分からない言葉とも言えます。

 主イエスはこのように少しドキッとする言葉を発されて、人々が考えるように促しておられるわけです。 (続きを読む…)

2025 年 2 月 23 日

・説教 ルカの福音書16章1-13節「不正な富の用い方」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 08:12

2025.02.23

鴨下直樹

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 私ごとから始めて恐縮なのですが、この一週間この聖書箇所にずいぶんと悩まされてきました。手元にある本を何十冊読んだか分かりません。この聖書箇所は難解な箇所としてよく知られているのですが、実に、さまざまな解釈が存在します。同じように読んでいる人は一人もいないと言ってもいいくらい、それぞれが、まるっきり読み方が違うのです。

 聖書朗読をお聞きになられて、皆さんもこれが何を語っている話なのか、すぐには理解できないのではないかと思います。というのは、聞いていて引っかかる箇所がいくつもあるのです。

 ある管理人が「主人の財産を無駄遣いしている」という訴えから話が始まります。この管理人は「不正な管理人」と8節で命名されています。この「不正な管理人」は、「主人のお金の無駄遣い」がバレてしまって、首を宣告されます。ところが、まだ取引先のお客さんは、その管理人が首になったことを知りませんから、証文を安く書き換えてやることで、恩を売って自分が失職した際に家に迎え入れてもらおうと画策したという譬え話を主イエスがなさいました。どうみても、不正のうえにさらに不正を働いているわけですが、主人は、これを知ってこの「不正な管理人を褒めた」というのです。

 皆さんはこの話を聞いて、どう思われるでしょうか? ここに出てくる不正な管理人というのは、不正に不正を重ねて自己保身のために知恵を使った人物です。ここで主イエスが「この人はやがて裁かれるのだ」とか「こういう人の末路は惨めなものだ」と仰ったのであれば理解することもできます。しかしもし本当に主イエスが褒めておられるのだとしたら、真面目に、誠実に生きようとしているのが馬鹿みたいです。そもそも主イエスがこんなことを仰るなんて、きっと何か理由があるはずで、ここで語ろうとされている福音は何なのかが気になって仕方がないのではないでしょうか。

 主イエスのなさる話というのは、いつもそうですが予想のはるか上をいっている感じがします。「主人がほめた」のだとしたら一体何を褒めたのか? あるいは、そもそも褒められているわけだから、この管理人のしたことは実は悪いことではなかったのではないか? と、それらをめぐって実にさまざまな聖書解釈が存在します。 (続きを読む…)

2025 年 2 月 2 日

・説教 ルカの福音書15章25-32節「不満が溢れる心に」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 07:45

2025.02.02

鴨下直樹

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 今日の説教題ですが、予定を変えて「不満が溢れる心に」としました。今日の聖書に出てくる兄息子の心を表した言葉です。

 「不満」。今日はこの言葉を少し考えてみたいと思うのです。というのは、私たちが生活している時、常に私たちはこの「不満」と対峙しながら生活しているからです。ガソリンがまた高くなった。スーパーの野菜が高い。そんな日常の細かな不満をあげればキリがありませんが、そういう物事に対する不満もありますが、「不満」の多くは人に向けられる感情であることが多いと思います。そして、そのような人に向けられる不満の感情の多くは、どこかに表されることなく、心の中に仕舞い込んでいることが多いかもしれません。それを口に出した途端、その人との関係が壊れてしまうこともあるからです。

 今日の聖書に出てくる二人の息子にもそれぞれに、異なる不満があったはずです。ここに出てくる二人の息子には、それぞれに心のうちに秘めた思いがあったはずです。そして、弟息子はある時それを口に出し、行動に移しました。それが、父に向けて言ったことば「お父さん、財産のうち私がいただく分をください」という12節の言葉に表されています。

 そして、「弟息子は、すべてのものをまとめて遠い国に旅立った。」と続く13節に記されています。

 弟息子は、父への不満、家への不満をそのような態度で表しました。しかし、この兄息子の方は、この時に一緒に財産をもらいましたが、弟のように財産を持って旅立つことはせず、父親の元に留まったのです。兄にも家を出るチャンスはあったかもしれませんが、兄は父のもとでそのまま仕事に従事していたわけです。立派な跡取りとしての務めは果たしていると言えます。少なくとも、周りからはそう見えているはずです。けれども、今日の聖書の箇所まで進むと、この時の兄息子の心の中に秘められていた不満が明らかになっています。

 兄が畑でいつものように仕事をしていると、何やら楽しそうな音楽と踊りの音が聞こえてきます。それでしもべに尋ねると、弟息子が帰ってきたので、父親が子牛を屠って盛大な宴会を催しているというのです。この瞬間、兄の心は一気に崩れてしまいます。

 兄には父の思いが理解できません。どうして弟息子を喜んで迎え入れるのか。盛大な宴会を開いているということは、弟息子を喜んで迎え入れたにちがいないのです。兄の心の中がざわつきます。弟に対する怒り、父親への不満が一気に噴出します。「こんな馬鹿らしいことがあるか!」それが、兄息子の心の中の思いです。

 この兄の思いは、誰もが共感する思いでもあります。兄からすれば自分が不当に扱われているような、そんな気持ちになるのも私たちには良く理解できるのです。

 「正直者が馬鹿を見る」という諺があります。それは、この世の中のあり方を表している言葉でもあります。けれども、それは聖書の考え方ではないし、神はそういうことを認めない。そうでなければ何が信仰かという思いが、私たちの中にはどこかにあると思います。

 信仰というものは、心を見てくださる神の御前にあって、誠実に生きること、真実に生きること。そこに神の祝福もあるはずです。私たちはそう考えます。私たちの主は人の心を見られるお方だからです。

 けれども、この聖書を読んでいるとやはり「正直者が馬鹿を見る」という思いが拭えない、そんな思いになるのかもしれません。聖書はここで何を私たちに語ろうとしているのでしょうか? (続きを読む…)

2025 年 1 月 26 日

・説教 ルカの福音書15章11-24節「家へ帰ろう!」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 00:01

2025.01.26

鴨下直樹

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 皆さんは、自分の人生をやり直したいと考えることがありますか? この世の中には、高校生から人生をやり直して勉強したいとか、会社の選択をやり直したいとか、結婚生活をやり直したいとかいろんなことを考える人たちがいます。私は最近、特にコロナ禍に入ってからでしょうか、Amazonプライムという動画配信サービスでいろんなドラマやアニメを見ることがあります。そこで感じるのは特にアニメの作品では「異世界転生もの」と呼ばれる作品がたくさんあるということです。

 そんなことを言っても皆さんにはあまりピンとこないかもしれませんが、自分がひょんなことから異世界に飛ばされてしまって、そこで新しく人生をやり直す、そんな設定のアニメやドラマがたくさんあるのです。

 実は、この異世界転生ものの先駆けとなったのは、イギリスのキリスト者の小説家、C・S・ルイスの描いた『ライオンと魔女』から始まるシリーズ『ナルニア国物語』です。ナルニアという異世界はアスランというライオンの王が治めている世界です。しかしその世界は魔女の力によって氷漬けにされ、人々は自由を奪われてしまっているのです。そこに、現代から(と言っても古い作品なので第二次世界大戦中のイギリスから)ナルニア国に招き入れられた主人公たちによって、世界が回復されていくという物語です。

 C・S・ルイスはこの作品を通して、「信じる力」をテーマにキリスト教の信仰を分かりやすく物語ろうとしています。その他にも「転生もの」とは少し違いますが、やはりキリスト者の作家で『指輪物語』を記したトールキンの描いた世界も異世界でした。このトールキンの物語は多くのファンタジー作品の土台となった作品でもあります。

 今、子どもたちや若い人たちが好むゲームや映画、アニメや小説などでは、この異世界で冒険をする物語がたくさん描かれています。この最近の流行りを見ていると、どこかこの世界ではない別の世界でなら自分は自由に羽ばたいて生きることができるのではないか? そんな憧れをこの世界の人々が持っているのではないか、そんな気がしてなりません。

 今日の聖書の中にも、そんな一人の若者が登場してきます。彼は二人兄弟の弟で、父親のもとを離れて新しい世界に旅立つことに憧れを抱いていたようです。誰も自分のことを知らない世界、それこそ異世界のようなところへ行って、うるさい親から離れて、自分の力で好きなことをやって生きていく。彼にはそんな希望が有ったに違いありません。自分の家のしきたりや、親のもとでの生活は窮屈に感じられ、自分の生きている世界は魅力の無い世界だと感じていたようです。それで、今の生活とは全く異なった新しい世界に希望を見出したのです。そういう思いというのは、私たち誰もがどこかで抱いたことがある考えなのではないでしょうか?

 それで、この物語の弟息子は父親に、ある日こう言います。 (続きを読む…)

2024 年 12 月 29 日

・説教 ルカの福音書15章8-10節「再発見する喜び!」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 00:19

2024.12.29

鴨下直樹


 今日は今年の最後の礼拝となりました。最後というと、どうしてもこの一年を振り返りたくなります。皆さんにとって、この一年はどんな一年だったでしょうか?

 先日のイブ礼拝の時にも少しお話ししたのですが、今年はお正月から能登の地震がありました。また、その後も何度も地震や水害が起こって、被災地域の人々には本当に厳しい一年となりました。ウクライナとロシアの戦争は更に拡大しましたし、イスラエルとハマスの戦争も起こりました。教会でも今年は2名の方が天に召されました。悲しい知らせの多い一年であったと言えます。

 そんな中で、今日はMくんの洗礼式をすることができました。天にある、いのちの書に名前が書き記される人が増えるということは、この上もない喜びです。主が一年の最後に私たちに大きな喜びを備えてくださいました。

 今日の聖書のみ言葉は次のように書かれています。「一人の罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちの前には喜びがあるのです。」と10節に記されているように、今、御使いたちの前には大きな喜びが湧き起こっています。そして、私たちも今、大きな喜びの中にあります。

 この世界のことを愛しておられる主は、この世界で起こる悲劇的な出来事の数々に心を痛めておられます。しかし、同時に救いに至る人々のことを神の御国では大きな喜びでお祝いしてくださるのです。今日は祝いの日です。教会の暦の中では今週から降誕祭です。主の御降誕を皆で喜んでお祝いする日です。そして、洗礼を受けて神の国の民に加えられたMくんのことを覚えて共にお祝いする日でもあるのです。

 今日の聖書は私たちに「救いとは何か」を語ります。救われるというのは、どういうことなのか。そのことが、このルカの福音書には三つの譬え話で記されています。前回は、1節から7節までのところを読みました。ここには見つけ出された羊のことが記されていました。ここで語られている救いというのは、神に見つけ出されることです。ひとつ目の譬え話では、見つけ出されるということは、いのちが救われることだということが記されていました。迷い出た羊が陥っている危機というのは死の危険です。羊が迷い出てしまったままでは、常に死が傍に潜んでいるのです。けれども羊飼いに見つけ出された羊は、死の危険から抜け出すことができます。いのちが贖われること、確かないのちに入れられること、これが聖書の語る救いです。これを聖書は「永遠のいのち」という言葉で紹介しています。救いとは、死の危険から救い出されて、永遠のいのちを頂くことなのです。

 今日洗礼を受けたM君もそうです。今日から、M君はたとえ死ぬことがあったとしても、神から永遠のいのちを頂いていますから、死の滅びを味わうことなく、神の御国で永遠に生きる者となったのです。だから、嬉しいのです。お祝いするのです。それが、前回の1節から7節までで語られている救いです。

 では、今日の8節から10節には何が書かれているのでしょうか。この譬え話も、迷い出た羊の譬え話と非常に似ている話です。けれども、羊の場合は自分の意思で迷い出てしまうのですが、お金には意思はありません。ドラクマ銀貨10枚のうちの1枚が無くなってしまったというのです。「失われたお金、銀貨」の話です。 (続きを読む…)

2024 年 12 月 1 日

・説教 ルカの福音書15章1-7節「見つけ出された羊」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 07:08

2024.12.01

鴨下直樹

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 今日からルカの福音書の第15章に入ります。ここは、有名な三つの譬え話が記されているところです。「迷える子羊」の譬え話と、「失われた銀貨」の譬え、そして「放蕩息子」と呼ばれる譬え話が記されています。

 はじめにお話ししておくと、この三つの譬え話というのは、主イエスが私たちにもたらしてくださる「救い」を3つの視点で語っているものです。もし誰かに、「聖書が語る救いって何ですか?」と聞かれたら、このルカの15章を思い出してくだされば良いわけです。

 さて、ルカの福音書の第15章にある主イエスが話された三つの譬え話は、ある出来事がきっかけになっています。それが1節と2節に記されています。これによると、主イエスの話を聞こうと、その周りに取税人たちや罪人たちが集まっていたようです。どうも、食事も一緒にしていた様子です。その姿を見て、パリサイ人や律法学者たちは文句を言ったと書かれています。

 別に、誰が誰とご飯を食べようが、誰と話そうが勝手にしたらよいと考えがちですが、この光景を、パリサイ人たちはどうしても認められませんでした。というのは、取税人や罪人たちというのは、神様の意思に逆らう人と考えられていたからです。パリサイ人のように神様の戒めに従おうとする人たちというのは、できるだけきちんとした生活をすることを志していました。誰からも後ろ指をさされることがないように、生活を律していました。この人たちの志はたいしたものであったと言えると思います。ですから、ここで罪人とよばれるような人とのお付き合いは避けました。どうしてかというと、いつどこでその人たちが悪いことをしでかすか分かりません。そうなれば、後々誰かに咎められる可能性があったからです。

 連日、兵庫の知事さんの話題でもちきりでした。公職選挙法に違反したのではないかと考えられていましたが、あの問題となった広告代理店の女性の社長さんが「話を盛っただけだ」と答弁すると、「なるほどそういうこともあるかもしれない」とみんな納得して、それ以上追及されなくなりました。けれども、こういう教訓というのは大切で、普段の脇の甘さが肝心なときに問題となる怖さというのを、私たちはあそこで見たわけです。そういうものをイメージすると良いのかもしれません。

 パリサイ派の人々は他の人の目をいつも気にしています。そういう人たちですから、主イエスの周りに罪人たちがいて一緒に食事をしている光景というのは、ひどくだらしなくみえるのです。一言、言わないではいらないような気持ちになるのです。罪人と一緒にいるということは、自分もその影響を受ける。それは聖書を教える立場の人には相応しくないと考えたのかもしれません。 (続きを読む…)

2024 年 11 月 24 日

・説教 ルカの福音書14章25-35節「十字架を背負って」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 07:14

2024.11.24

鴨下直樹

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 今日はこの礼拝の後で、役員会による洗礼希望者の諮問会が行われます。洗礼式の前にはいつも洗礼を受ける人の証しを聞き、信仰告白の言葉を聞きます。役員の一人一人が、その言葉に耳を傾けます。そして、その後に、洗礼入会式の時になると、司式者の問いかけに対して受洗者は「はい、信じます」という告白をすることになるのです。

 洗礼式の時に必ずいくつかの問いかけをします。初めはこういう問いから始まります。

「あなたは天地の造り主、生けるまことの神のみを信じますか」

 すると、洗礼を希望される人は皆「はい、信じます」と答えるのです。ここにおられる教会員の皆さんも、かつて洗礼を受けられた時に、そう告白されたと思います。

 私は、あの「はい、信じます」という言葉を聞くと、いつも不思議に思います。決して簡単な言葉ではないはずなのです。

 主イエスが今日のところで群衆に問いかけておられる言葉があります。

「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分のいのちまでも憎まないなら、わたしの弟子になることはできません。」

 26節の言葉です。

 驚くような言葉であるかもしれません。主イエスの弟子となるためには家族を憎むのだと言われるのです。しかし、私たちが洗礼の時に「はい、信じます」と告白するということは、この26節の主イエスの言われる言葉に「はい、分かりました」と答えるのと同じ意味を持っています。

 そんなことを言われると、びっくりする方があるかもしれません。「私はそこまで考えて洗礼を受けたわけではありません」と思うかもしれません。そのくらい、この26節の主イエスの言葉は厳しい言葉です。主イエスの弟子になるというのは、並々ならぬ覚悟が要る。そう語ろうとしているのでしょうか?

 主イエスはこう言われた後で二つの短い譬え話をされてています。一つは塔を建てる時に、完成できるかどうか、あらかじめ計算するという話です。もう一つは、戦いに勝つためには勝てる見込みがあるかどうか、よくよく考えるという譬え話です。

 この二つの譬え話が言おうとしていることは、それほど難しい話ではありません。この先に起こることを予め見越して決断しなさいということです。この後どうなるかよく見極めなさいという話です。

 なぜ、そういうことを主イエスはここで言われたのでしょうか? (続きを読む…)

2024 年 11 月 3 日

・説教 ルカの福音書14章15-24節「盛大な宴への招き」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 00:32

2024.11.03

鴨下直樹

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 今日は、主イエスのなさった「盛大な宴会、宴の譬え話」に耳を傾けてみたいと思います。皆さんは、宴や宴会に招かれるということがあるでしょうか?

 私のことをお話しして恐縮なのですが、ちょっと最近頑張っていたなと思う時に、宴を開くことはありませんが、美味しいご飯を食べに行きたいと思うことがあります。それで、ということでもないのですが、先週の月曜に、今、マレーネ先生が来日しておられますので、一緒にお昼を食べに行きました。鵜沼にある「ワールド・ビュッフェ」という食べ放題のお店です。いろんな国の料理が並び、ドリンクも、デザートも並んでいます。お店に入ると平日の月曜日だというのにホールにはお客さんがいっぱいで驚きました。どうも、前日の日曜日に運動会だった学校があったようで、子ども達も大勢きていました。次々とお客さんが入ってくるのです。

 今日の聖書の譬え話とは大違いです。今日の聖書箇所は「盛大な宴会の譬え話」とか「盛大な宴の譬え話」と呼ばれています。この盛大な宴も食べ放題だったと思うのですが、なぜか人気がありません。前もって招待しているのにも関わらず、時間になっても人が来ないのです。しかも、この宴会の主催者は、来ない客に対して、もう一度しもべを遣わしていますから、とても丁寧な主催者だということが分かると思います。主催者としてはどうしても、この宴、宴会に大勢の人々が来てほしいと思っていたのでしょう。月曜に見た食べ放題と、譬え話の宴、片や大勢次々に入ってくるところがあり、片やまるっきり人気のない宴があるのです。この違いはいったい何だろうかと、私は聖書を読みながらつい考えてしまいます。

 皆さんはどうお考えになるでしょうか? あらかじめ招かれている人たちはどうしてこの宴会に行かないのでしょうか。一応、しもべがもう一度、時間になってもこない客を招きに行ったと記されています。そして、その時に3通りの断り方が聖書に書かれています。

 最初の人は、「畑を買ったので、見に行かなければならない」と言います。二番目の人は「5くびきの牛を買った」と言います。三番目の人は「結婚したので」という理由です。

 理由はそれぞれもっともな理由だと思うのですが、それにしても招かれておいていかないのは失礼すぎるのではないかとも思うのです。

 先日の祈祷会でみなさんに尋ねると、水曜の方々は「何か裏があると考えたのではないか」という答えが返ってきました。「ただより高いものはない」という言葉もあるくらいです。

 先日もある方から電話でお話がしたいと頼まれまして、その方に電話をしました。すると、音声ガイドが流れました。最初に「この電話は防犯上の理由で音声を録音しています」という音声が流れました。今の電話は普通の家でもこんな音声ガイドが流れるのかと思いながら、電話を切らずにいると、今度は「詐欺などの電話が多く、それを確認するためにあらかじめお名前をお願いします」と音声ガイドが流れるのです。それで、私は自分の名前を言って、しばらく待っていると、最後は「只今留守にしていますので、改めて御掛け直しください」と言われて電話が切れました。

 徹底した防犯対策で、私も驚いてしまいました。ただ、もう一度掛け直したくはないなという気持ちになりました。何というか私は電話をしてほしいと頼まれて電話をしたのに、一方的に疑われているような気持ちに少しなるわけです。ただ、今はこのくらいやらないといけないくらい、詐欺の電話が横行しているのです。電話がかかってきただけでも、「何か裏があるはずだ」と警戒を抱くのが、私たちが生活している日常です。

 木曜の祈祷会ではこんなふうに言われた方があります。「日本人はだいたい『都合がつけば行かせてもらいますね』と返事をしておいて、待っていると来ない場合が多いので、この聖書の人はちゃんと断っただけでも立派だ」と。確かに、「都合がつけば行かせてもらいますね」は、表面上は好意的な返事です。本当に行こうと思っている場合もあるわけで、悪い答えとも言い切れません。ただ、実際はそういう返事をして来てくれたことは少ないという印象は拭えません。

 いずれにしても、この宴会に断りを入れた人々はみな、自分の都合と宴会とを天秤にかけて、自分の都合を優先させたわけです。けれども、考えて欲しいのは、人々を招いた人(神様)の気持ちはどうだったのだろうかということです。食事を準備して、人々が来るのを楽しみにしているのに、人々がやってこない。この神の悲しみが、この物語の背後にはあるのです。

 今日の譬え話は、15節のある人の言葉から始まっています。15節。 (続きを読む…)

2024 年 10 月 27 日

・説教 ルカの福音書14章1-14節「えっ? わたしですか?」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 08:43

2024.10.27

鴨下直樹

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 今、私は笠松教会とこの芥見教会の兼牧をしています。そうすると、芥見教会で礼拝細目を作っているのと同じように、笠松教会でも礼拝細目を作成します。笠松教会では月に2回、小林先生が説教をしてくださるのですが、小林先生の毎回の説教題がとても印象的です。

 たとえば今日の小林先生の説教題は「それはどこから?」というタイトルが付いています。毎回の説教タイトルがユニークで、どんな話になるのか興味を抱きます。それで、私も少し真似をしてみまして、今週の説教題は「えっ?私ですか?」としてみました。いつも看板を書いてくださっている方は、いつもと違うタイトルの付け方なので気になったかもしれません。何でこんなタイトルなのかは、おいおい分かってくると思います。

 今日の聖書箇所は、ルカの福音書第14章の1節から14節までです。司式者の聖書朗読をお聞きになられて、3つのテーマが語られていることに、皆さん気づかれたと思います。どこで聖書箇所を区切るかというのは、いつも悩むのですが、今日は1節から14節までとしました。場面は、ある安息日の出来事です。この日、主イエスが、パリサイ派の指導者の家に入られて食事をされる場面です。この話は24節まで続いていますが、今日はその途中で一度区切りました。

 あまり細かな前置きはしたくないのですが、3つの話をまずは見てみたいと思います。最初の話は1節から6節までです。

 主イエスが、安息日の食事の席で、突然、律法学者やパリサイ人たちに、こうお尋ねになられました。3節です。

「安息日に癒やすのは律法にかなっているでしょうか、いないでしょうか」

 さて、皆さんなら何とお答えになられるでしょうか? パリサイ人たちや律法学者たちは普段、人々に「安息日には働いてはいけない」と教えている側の人間です。私たちも「安息日の律法」と聞けば、「安息日には労働してはいけない」という教えだと理解していると思います。

 では、十戒にはどう書かれていたか、もう一度思い起こしてみたいと思います。出エジプト記の20章8節にこうあります。「安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ。」これが、安息日の戒めです。もちろん、仕事をしてはならないということも書かれています。9節以下は「六日間働いて、あなたのすべての仕事をせよ。/七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはいかなる仕事もしてはらない。」と続きます。 (続きを読む…)

2024 年 9 月 1 日

・説教 ルカの福音書13章22-30節「主イエスという門をくぐって」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 06:52

2024.9.1

鴨下直樹

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 9月に入りました。私たちの教会では夏休みの期間、「信徒交流会」という名前で、毎週行っている水曜と木曜の祈祷会の時間に、信徒の方々に証しや、聖書研究や、さまざまな発題をしていただいております。今年は、7月の後半から始まり、10回10名の方が発題してくださいました。毎週、とても多くの方が参加してくださって、水曜と木曜の参加者を合わせると毎週20人以上の方の参加がありました。

 今、笠松教会と兼牧をしていることもあって、合同で祈祷会をしますと笠松教会の方がびっくりします。どうしてこんなに大勢の参加があるのかと質問が出るのです。一番の理由は楽しいからだと思うのです。発題してくださる方の内容に興味があるということもありますし、また、参加者の皆さんが思いのままに発題されるその発言を聞くのが面白い、あるいは、その発言に対して自分たちの思いを好きなように話せるから楽しいということでもあると思います。みなさん、かなりリラックスして参加してくださっていますから、時折びっくりするような発言を耳にすることもあります。それも含めて楽しいのだと思うのです。

 そう考えながら、今日の聖書を読みますと主イエスの周りにいる人々も同じようであったことが分かります。今日の、聖書箇所であるルカの13章23節にこんなことが書かれています。

すると、ある人が言った。「主よ、救われる人は少ないのですか。」

 この質問をした「ある人」というのが弟子なのか群衆だったのかも分かりませんが、かなり直球な質問です。「救われる人は少ないのですか?」こういう質問を主イエスにできるというのも、やはり何でも言える環境であったのだろうということが分かります。

 この12章から主イエスは群衆や、弟子たちといろんな話をされています。この前のところでは安息日に癒しの出来事をなさって、そこで「神の国」の話をされたばかりです。神の国というのは、小さいもの、弱いものであっても、その人から神は大きなみ業をなさるのだという話をされたばかりでした。そんな中で、「主よ、救われる人は少ないのですか?」という問いかけがあったのです。

 私は、祈祷会の時でもそうなのですが、いろいろな質問が出て来る時にどうしてその質問がでてくるのかという、その背後にある思いに目をとめることが大切だと考えています。そうでないと、質問の意図が読めなくて、質問をした人の願っていることと違うことを答えてしまうことになってしまうからです。

 この場合、質問をした人は何を思ってこういう質問をしたのでしょうか。考えられる一つの可能性は、「自分は神の国に入れてもらえないのではないか?」と考えたのではないかということです。こういう考え方は、私たちでもよく理解できることだと思います。自分の信仰と他の人の信仰を比較する時に、こういう思いというのはどうしても出てきてしまうのです。

 この出来事の前に主イエスは、「神の国はからし種に似ている」と言われました。あるいは「パン種に似ている」とも言われました。小さなものであっても、そこから大きな実りをもたらすと言われた主イエスの話を聞いて、ひょっとして自分の中には「からし種」ほどの信仰もないのではないかという不安を抱いた可能性があるのではないかと思うのです。 (続きを読む…)

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