2024 年 11 月 3 日

・説教 ルカの福音書14章15-24節「盛大な宴への招き」

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2024.11.03

鴨下直樹

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 今日は、主イエスのなさった「盛大な宴会、宴の譬え話」に耳を傾けてみたいと思います。皆さんは、宴や宴会に招かれるということがあるでしょうか?

 私のことをお話しして恐縮なのですが、ちょっと最近頑張っていたなと思う時に、宴を開くことはありませんが、美味しいご飯を食べに行きたいと思うことがあります。それで、ということでもないのですが、先週の月曜に、今、マレーネ先生が来日しておられますので、一緒にお昼を食べに行きました。鵜沼にある「ワールド・ビュッフェ」という食べ放題のお店です。いろんな国の料理が並び、ドリンクも、デザートも並んでいます。お店に入ると平日の月曜日だというのにホールにはお客さんがいっぱいで驚きました。どうも、前日の日曜日に運動会だった学校があったようで、子ども達も大勢きていました。次々とお客さんが入ってくるのです。

 今日の聖書の譬え話とは大違いです。今日の聖書箇所は「盛大な宴会の譬え話」とか「盛大な宴の譬え話」と呼ばれています。この盛大な宴も食べ放題だったと思うのですが、なぜか人気がありません。前もって招待しているのにも関わらず、時間になっても人が来ないのです。しかも、この宴会の主催者は、来ない客に対して、もう一度しもべを遣わしていますから、とても丁寧な主催者だということが分かると思います。主催者としてはどうしても、この宴、宴会に大勢の人々が来てほしいと思っていたのでしょう。月曜に見た食べ放題と、譬え話の宴、片や大勢次々に入ってくるところがあり、片やまるっきり人気のない宴があるのです。この違いはいったい何だろうかと、私は聖書を読みながらつい考えてしまいます。

 皆さんはどうお考えになるでしょうか? あらかじめ招かれている人たちはどうしてこの宴会に行かないのでしょうか。一応、しもべがもう一度、時間になってもこない客を招きに行ったと記されています。そして、その時に3通りの断り方が聖書に書かれています。

 最初の人は、「畑を買ったので、見に行かなければならない」と言います。二番目の人は「5くびきの牛を買った」と言います。三番目の人は「結婚したので」という理由です。

 理由はそれぞれもっともな理由だと思うのですが、それにしても招かれておいていかないのは失礼すぎるのではないかとも思うのです。

 先日の祈祷会でみなさんに尋ねると、水曜の方々は「何か裏があると考えたのではないか」という答えが返ってきました。「ただより高いものはない」という言葉もあるくらいです。

 先日もある方から電話でお話がしたいと頼まれまして、その方に電話をしました。すると、音声ガイドが流れました。最初に「この電話は防犯上の理由で音声を録音しています」という音声が流れました。今の電話は普通の家でもこんな音声ガイドが流れるのかと思いながら、電話を切らずにいると、今度は「詐欺などの電話が多く、それを確認するためにあらかじめお名前をお願いします」と音声ガイドが流れるのです。それで、私は自分の名前を言って、しばらく待っていると、最後は「只今留守にしていますので、改めて御掛け直しください」と言われて電話が切れました。

 徹底した防犯対策で、私も驚いてしまいました。ただ、もう一度掛け直したくはないなという気持ちになりました。何というか私は電話をしてほしいと頼まれて電話をしたのに、一方的に疑われているような気持ちに少しなるわけです。ただ、今はこのくらいやらないといけないくらい、詐欺の電話が横行しているのです。電話がかかってきただけでも、「何か裏があるはずだ」と警戒を抱くのが、私たちが生活している日常です。

 木曜の祈祷会ではこんなふうに言われた方があります。「日本人はだいたい『都合がつけば行かせてもらいますね』と返事をしておいて、待っていると来ない場合が多いので、この聖書の人はちゃんと断っただけでも立派だ」と。確かに、「都合がつけば行かせてもらいますね」は、表面上は好意的な返事です。本当に行こうと思っている場合もあるわけで、悪い答えとも言い切れません。ただ、実際はそういう返事をして来てくれたことは少ないという印象は拭えません。

 いずれにしても、この宴会に断りを入れた人々はみな、自分の都合と宴会とを天秤にかけて、自分の都合を優先させたわけです。けれども、考えて欲しいのは、人々を招いた人(神様)の気持ちはどうだったのだろうかということです。食事を準備して、人々が来るのを楽しみにしているのに、人々がやってこない。この神の悲しみが、この物語の背後にはあるのです。

 今日の譬え話は、15節のある人の言葉から始まっています。15節。 (続きを読む…)

2024 年 10 月 27 日

・説教 ルカの福音書14章1-14節「えっ? わたしですか?」

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2024.10.27

鴨下直樹

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 今、私は笠松教会とこの芥見教会の兼牧をしています。そうすると、芥見教会で礼拝細目を作っているのと同じように、笠松教会でも礼拝細目を作成します。笠松教会では月に2回、小林先生が説教をしてくださるのですが、小林先生の毎回の説教題がとても印象的です。

 たとえば今日の小林先生の説教題は「それはどこから?」というタイトルが付いています。毎回の説教タイトルがユニークで、どんな話になるのか興味を抱きます。それで、私も少し真似をしてみまして、今週の説教題は「えっ?私ですか?」としてみました。いつも看板を書いてくださっている方は、いつもと違うタイトルの付け方なので気になったかもしれません。何でこんなタイトルなのかは、おいおい分かってくると思います。

 今日の聖書箇所は、ルカの福音書第14章の1節から14節までです。司式者の聖書朗読をお聞きになられて、3つのテーマが語られていることに、皆さん気づかれたと思います。どこで聖書箇所を区切るかというのは、いつも悩むのですが、今日は1節から14節までとしました。場面は、ある安息日の出来事です。この日、主イエスが、パリサイ派の指導者の家に入られて食事をされる場面です。この話は24節まで続いていますが、今日はその途中で一度区切りました。

 あまり細かな前置きはしたくないのですが、3つの話をまずは見てみたいと思います。最初の話は1節から6節までです。

 主イエスが、安息日の食事の席で、突然、律法学者やパリサイ人たちに、こうお尋ねになられました。3節です。

「安息日に癒やすのは律法にかなっているでしょうか、いないでしょうか」

 さて、皆さんなら何とお答えになられるでしょうか? パリサイ人たちや律法学者たちは普段、人々に「安息日には働いてはいけない」と教えている側の人間です。私たちも「安息日の律法」と聞けば、「安息日には労働してはいけない」という教えだと理解していると思います。

 では、十戒にはどう書かれていたか、もう一度思い起こしてみたいと思います。出エジプト記の20章8節にこうあります。「安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ。」これが、安息日の戒めです。もちろん、仕事をしてはならないということも書かれています。9節以下は「六日間働いて、あなたのすべての仕事をせよ。/七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはいかなる仕事もしてはらない。」と続きます。 (続きを読む…)

2024 年 9 月 1 日

・説教 ルカの福音書13章22-30節「主イエスという門をくぐって」

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2024.9.1

鴨下直樹

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 9月に入りました。私たちの教会では夏休みの期間、「信徒交流会」という名前で、毎週行っている水曜と木曜の祈祷会の時間に、信徒の方々に証しや、聖書研究や、さまざまな発題をしていただいております。今年は、7月の後半から始まり、10回10名の方が発題してくださいました。毎週、とても多くの方が参加してくださって、水曜と木曜の参加者を合わせると毎週20人以上の方の参加がありました。

 今、笠松教会と兼牧をしていることもあって、合同で祈祷会をしますと笠松教会の方がびっくりします。どうしてこんなに大勢の参加があるのかと質問が出るのです。一番の理由は楽しいからだと思うのです。発題してくださる方の内容に興味があるということもありますし、また、参加者の皆さんが思いのままに発題されるその発言を聞くのが面白い、あるいは、その発言に対して自分たちの思いを好きなように話せるから楽しいということでもあると思います。みなさん、かなりリラックスして参加してくださっていますから、時折びっくりするような発言を耳にすることもあります。それも含めて楽しいのだと思うのです。

 そう考えながら、今日の聖書を読みますと主イエスの周りにいる人々も同じようであったことが分かります。今日の、聖書箇所であるルカの13章23節にこんなことが書かれています。

すると、ある人が言った。「主よ、救われる人は少ないのですか。」

 この質問をした「ある人」というのが弟子なのか群衆だったのかも分かりませんが、かなり直球な質問です。「救われる人は少ないのですか?」こういう質問を主イエスにできるというのも、やはり何でも言える環境であったのだろうということが分かります。

 この12章から主イエスは群衆や、弟子たちといろんな話をされています。この前のところでは安息日に癒しの出来事をなさって、そこで「神の国」の話をされたばかりです。神の国というのは、小さいもの、弱いものであっても、その人から神は大きなみ業をなさるのだという話をされたばかりでした。そんな中で、「主よ、救われる人は少ないのですか?」という問いかけがあったのです。

 私は、祈祷会の時でもそうなのですが、いろいろな質問が出て来る時にどうしてその質問がでてくるのかという、その背後にある思いに目をとめることが大切だと考えています。そうでないと、質問の意図が読めなくて、質問をした人の願っていることと違うことを答えてしまうことになってしまうからです。

 この場合、質問をした人は何を思ってこういう質問をしたのでしょうか。考えられる一つの可能性は、「自分は神の国に入れてもらえないのではないか?」と考えたのではないかということです。こういう考え方は、私たちでもよく理解できることだと思います。自分の信仰と他の人の信仰を比較する時に、こういう思いというのはどうしても出てきてしまうのです。

 この出来事の前に主イエスは、「神の国はからし種に似ている」と言われました。あるいは「パン種に似ている」とも言われました。小さなものであっても、そこから大きな実りをもたらすと言われた主イエスの話を聞いて、ひょっとして自分の中には「からし種」ほどの信仰もないのではないかという不安を抱いた可能性があるのではないかと思うのです。 (続きを読む…)

2024 年 8 月 4 日

・説教 ルカの福音書13章10-21節「解放の主」

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2024.8.4

鴨下直樹

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 私たちは、毎週、毎週こうして礼拝に集っています。私たちは何を期待して、礼拝に集うのでしょうか。私は名古屋の東海聖書神学塾で毎週礼拝学を教えているのですが、いつもこの問いが頭に浮かんできます。何を期待して礼拝に集うのか? 私たちは神に何を期待しながら毎週こうしてみ前に集っているのでしょうか。

 今日の聖書の箇所で、18年もの間、腰が曲がってしまったまま、安息日に会堂に集い礼拝をささげていたであろう一人の女性の姿を見ることができます。果たして彼女は何を期待して礼拝に集っていたのでしょうか。

 これは、私の想像ですけれども、ひょっとすると彼女は、18年間、自分の体のことではなく、ただ神のみ言葉を聴くことを期待して、来る日も来る日も、会堂で神のみ前に集っていたのではないかと思うのです。この人は、主のみ前に出る喜びを知っていた人ではなかったか。きっとそうであったのではないかと、私には思えるのです。そして、この女の人のことを、見てきた周りの人は、彼女のことをどう思っていたのでしょうか。

 ここで彼女のことを「十八年も病の霊につかれ」と10節に書かれています。この病は、悪霊による働きだというのです。この「病」という言葉はギリシャ語で「アステネイア」という言葉なのですが、この言葉は「病」のほかに「弱さ」という意味もある言葉です。ということは、「病の霊」、というのは「弱さの霊」とも言うことができるわけです。

 そうなると、これはもう立ち所に他人事ではなくなります。自分の「弱さ」に対して悪霊がそこに付け込んでくるというのです。そうなると、私たち自身、実感があるのではないでしょうか。私たちは自分の弱い部分に気づきながらも、同じことで何度も、何度も同じ過ちを犯してしまうことがあるのです。たとえになっているかどうか分かりませんが、私の場合、車でトンネルを走っていると、気がつくといつも速度オーバーをしてしまっています。そのように、ごく日常的に、正しくないと分かっていても同じことを繰り返してしまうのです。そこに、私たちの弱さがあります。今週も愛することができなかった。振り返ってみると今週もまた、この自分の弱さが克服されていない。そんなことを繰り返しながら、礼拝に集うのです。悪に立ち向かう強さがないのです。弱さの霊に支配されているとしかいえない状況は、誰にだってあるのです。そのようにして、もう18年の間、いやそれ以上に礼拝に通い続けている。そうであるとすれば、これはもはや私たち自身の物語です。

 私ごとで恐縮ですが、私自身も腰の骨が曲がってしまっていて、来月手術することになりました。見た目は真っ直ぐに見えても、隠れたところで曲がっているわけです。見えている部分だけではないのです。体はまっすぐかもしれません。けれども、見えないところがまがっている、心が曲がっていく、ずれていってしまう。そうするとまっすぐに伸ばせなくなるのです。まっすぐがどういう状態だったかさえ分からなくなるのかもしれません。そうなると、自分の曲がってしまった弱さ、脆さに悪魔につけ込まれて、何度も同じような過ちを繰り返してしまうという経験を、私たちは繰り返してしまうのです。この、弱さのために、罪のゆえに、曲がってしまったところを持つ私たち。そのような思いを持っている私たちが、毎週礼拝に集ってくるのです。そして、そこで、主イエスは突然私たちに声をかけられる。「あなたの弱さは癒された」「あなたの病は癒された」と宣言してくださるのです。ここにこそ、礼拝に集う私たちの喜びがあるのです。 (続きを読む…)

2024 年 7 月 28 日

・説教 ルカの福音書13章1-9節「神の裁きは因果応報なのか?」

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2024.7.28

鴨下直樹

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 今日からルカの福音書の第13章に入ります。今日の説教題を「神の裁きは因果応報なのか?」としました。今日は、このところから「因果応報」という考え方について、少し考えてみたいと思います。

 私が神学生の時のことです。名古屋の金山にある神学塾の建物は、当時は今の場所とは少し違うところにありましたが、神学塾の周りには駐車場があまりありませんでした。また、当時は神学生で経済的に苦しかったこともあって、神学塾へ車で行くと、駐車場に停めないで、塾の建物のすぐ隣の道路に停めるということがありました。そんなある日、とうとう駐車違反で車をレッカー移動されてしまったことがあります。

 駐車違反だけなら反則金だけですみますが、レッカー移動されますと罰金が跳ね上がります。だいたい当時で4万円弱。お金が無いから路駐するわけですから、4万円も払えるわけがありません。私が神学塾でそのことを嘆いていると、友達の塾生が私にこう言いました。

「やっぱりねぇ、日頃の行いが悪いからだよ」と。

 そこで、私がこう言い返しました。

「クリスチャンでもやっぱり日頃の行いは大事なのかなぁ」と。

 その友人は、私の一言でようやく、自分が変なことを言ったと気付いたようです。いくら神学生でも、自然に、「日頃の行いが悪いから」というセリフが出てしまうわけです。そのくらい、私たちには「因果応報」という考え方が体に染み込んでいるようです。

 今日の聖書は、まさにこのことを問いかけているところです。まず、1節に「ちょうどそのとき」とあります。12章の話を主イエスが弟子たちにしていた「ちょうどそのとき」です。

 「そのとき」というのは、主イエスが弟子たちに神の裁きの厳しさを語っていた、まさにその時に、何人かの人々が主イエスの近くにやってきて、一つの報告をしたのです。聞くところによると、エルサレムの神殿で捧げ物をしていたガリラヤ人が、ユダヤの総督ピラトに殺害されて、神殿で捧げ物にしていた血と、殺害された人々の血が一緒にされたという事件が起こったようなのです。

 これは、ガリラヤの人々のみならず、ユダヤ人たちには衝撃的なニュースだったはずです。今で言えばトップニュースが飛び込んできたわけです。

 そこでそのニュースをもたらした人々は主イエスにこんな質問を投げかけたようです。2節で主イエスはこう言われました。

「そのガリラヤ人たちは、そのような災難にあったのだから、ほかのすべてのガリラヤ人よりも罪深い人たちだったと思いますか。」

 主イエスはここで人々の顔を見ながら、その思いを代弁したわけです。この神殿で捧げ物をしていたガリラヤ人たちは、信仰的には熱心な人々だったはずです。熱心にガリラヤから、わざわざ神殿のあるエルサレムまで訪ねて捧げ物をしたのに、その時に、ピラトの事件に巻き込まれるなんて、災難もいいところだ。けれども、きっとこの人たちは何か悪いことをしていた人であったに違いない。多くの人々はそう考えていたと思われるのです。

 私自身も、レッカー移動された車を取りに行く時に、心の中で同じようなことを考えました。「あれ?俺、何か悪いことをしたかなぁ」そんな考えが、一瞬私の頭に思い浮かんだのです。

 皆さんはいかがでしょうか。自分の身に何か不慮の出来事が起こると、何か悪いことをしてしまったから、こういう出来事が起こったのではないかと考えてしまうことがあるのではないでしょうか。

 さらに、主イエスはもう一つの出来事を例にあげます。4節ではシロアムの塔が何らかの原因で倒壊して、その下敷きになって18人の人が亡くなったという例をあげたのです。それが嵐や地震というような「自然災害」だったのか、「人為的なミス」なのかは分かりませんが、そういう時の犠牲になってしまう人というのが少なからずあるわけです。

 今でも街中で倒れたクレーン車の下敷きになってしまったとか、古くなった建物の壁が剥がれ落ちて犠牲者が出たとかいうニュースを、私たちは耳にすることがあります「不慮の事故」としか呼べないようなものがあるのです。

 そういう出来事で犠牲になった人は、「因果応報」とか、「神さまの罰(バチ)が当たったのだ」と言われてしまうと、たまったものではありません。けれども、時としてそんな考えが頭に思い浮かぶこともあるわけです。

 そこで、主イエスは何と言われたかというと、3節と5節で主イエスは同じことを2度繰り返してこう言われました。

「そんなことはありません。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。」

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2024 年 7 月 7 日

・説教 ルカの福音書12章54-59節「主はどこを見ておられるのか?」

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2024.7.7

鴨下直樹

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 今日の聖書の箇所はルカの福音書の第12章の最後のところです。この12章は主イエスが群衆や弟子たち、パリサイ人たちに向けてお語りになられた警告の言葉が次々に語られているところでした。そして、その結びの箇所が今日の54節から59節です。

 前回の聖書箇所では、主イエスを受け入れると、分裂が起こるという話をなさったところまでお話ししました。この12章は、主イエスの厳しい言葉が続きます。警告の言葉ばかりですから、厳しい言葉と感じるのは当たり前と言えばそうなのかもしれません。「警告の言葉」というのはどうしても強い言葉になります。けれども、その背後にあるのは、主イエスの深い愛情です。こういう厳しい言葉を聞くときには、私たちはその背後にある主イエスの深い愛情を受け止めることが大切です。

 しかし、実際に警告の言葉を耳にする時というのは、なかなかその背後にある愛情を受け止めるまでの余裕がありません。私も、子どもの頃は度々父や母から厳しい警告の言葉を投げかけられ続けていました。「ちゃんと勉強しないと、ろくな大人になれないぞ」とか、「宿題をちゃんと出すように」、「忘れ物をしないように」という言葉などは、本当に耳にタコができるほど聞き続けてきました。親になってみると、そういう言葉を親は本当に子どものことを思って言っているのだということが分かります。けれども、子どもの頃は「うるさいなー、毎日毎日飽きもせず同じことばっかりでうんざりする」と内心思っていました。

 「親の心、子知らず」と言いますが、まさにそういうものだと思います。この芥見教会でも、子どもたちが何人も礼拝に出ていますが、厳しい言葉の背後にある親の愛情を受け取って欲しいなと願っています。もちろん、それは、子どもたちだけではありません。主イエスの言葉を向けられている私たちも同様です。

 厳しい言葉を毎週次々と説教しなくてはならないと、私自身もため息が出そうになることがあります。けれども、こういった厳しい箇所こそ、私たちは、心を開いてよく聞き、その背後にある主イエスの愛情を受け止める必要があるのだと思うのです。

 さて、今日の箇所も、主イエスはここで二つのことを話しておられます。前半は、54節から57節です。ここでは、あなたがたは天候の見分け方の知恵をもっているのに、自分のための大事は判断をしないで、時代を見極めることができないのは何故かと主イエスは問いかけておられます。後半の58節と59節では、自分が隣人から何か訴えられるようなことがあるときには、裁判が始まる前に、和解しておくようにという勧めがなされています。そこまでは比較的簡単に理解できます。けれども、ここで主イエスが何を意図されているかを掴もうと思うと、少しわかりにくく感じるかもしれません。

 今日の部分の話の聞き手は「群衆」です。54節で「主イエスは群衆にもこう言われた。」と書かれています。その前にされていたのは、ペテロをはじめとする弟子たちへの教えでした。ここで主イエスはペテロの質問に答えて弟子たちに心構えを教えられた後で、群衆にも同じように終わりの時の心構えをお話ししておられるわけです。

 そこで、人々に向かって主イエスが言われるのは「これはあなたがたにとって大切な問題なのだから人任せにしないで、自分で判断しなさい」というメッセージです。 (続きを読む…)

2024 年 6 月 30 日

・説教 ルカの福音書12章49-53節「主がもたらすもの」

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2024.6.30

鴨下直樹

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 間が3週間空きましたが、今日は久しぶりに、こうしてまた芥見教会の皆さんと共に、み言葉を聞くことができることを嬉しく思います。今、私たちはルカの福音書の第12章から、み言葉を聞いています。

 ルカの福音書の第12章というのは、主イエスが群衆たちや弟子たちに語り掛けられた教えのみ言葉が次々と語られているところです。そのほとんどは「警告の言葉」と言っても良いような内容ばかりです。

 今日の聖書は、少し、というよりは、かなり衝撃的な言葉が記されています。49節には「わたしは、地上に火を投げ込むために来ました。」とあります。また、51節には「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思っていますか。そうではありません・・・むしろ分裂です。」とも書かれています。

 こういう聖書箇所を聞くだけでも、少し気持ちが重たくなる思いになります。主イエスは、私たちに「平和をもたらすために」あるいは「愛や幸いをもたらすために、おいでになられた」というイメージがあります。また、いつもそういうメッセージを聖書から受け取っていますから、今日の箇所のような言葉を目にすると、少なくとも私たちは、あまり良い気持ちにはなりません。私たちを不安にするような言葉がいくつも続いているからです。

 たとえば、初めに出てくる「地上に火を投げ込む」という言葉を聞くと、そこからどうしてもイメージするのは「神の裁き」です。皆さんの中でも家族の中で、自分が最初にクリスチャンになったという方は、51節以降にある「分裂」の話も、ある程度同じような経験をされている方があると思います。教会に行くようになると、家族から教会に行くことを反対される。あるいは、教会の話をするだけでも、家の中の雰囲気が悪くなってしまうというような経験をされたことのある方も少なからずおられるのだと思うのです。ですから、聖書がここで言おうとしている事は何となく理解できるのですが、それではあまりにも慰めがない、福音の言葉が響いてこないという思いになるのかもしれません。

 主イエスはここで私たちに、いったい何をお語りになろうとしておられるのでしょうか。

 49節を見てみます。「わたしは、地上に火を投げ込むために来ました。火がすでに燃えていたらと、どんなに願っていることでしょう。」とあります。主イエスはここで、火が地上に燃えていてほしいと願っておられます。けれども、地上では主イエスが願っておられるような火が燃えていないというのです。だから、この地上に火をもたらしたいと仰っています。ということは、主イエスがここで仰っている「火」というのは、「裁きの火」のことではなさそうです。そうすると、この「火」は何のことを指しているのかを考える必要があります。 (続きを読む…)

2024 年 6 月 2 日

・説教 ルカの福音書12章41-48節「必ず帰ってくる主人」

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2024.6.2

鴨下直樹

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先日、インターネットを見ていましたらガス会社のCMが流れて来ました。「子育てのプレイボール」篇というCMです。

 このCMは若い夫婦のもとに赤ちゃんが生まれるところから始まります。この子育てを野球に例えているのですが、はじめにご主人が先発ピッチャーとして登場します。ところが、ご主人の育休はすぐに終わってしまって、そのあとは奥さんがリリーフピッチャーとして交代します。もう疲れ果てたところに、おばあちゃんが助っ人として登場したり、保育園に入った子どもが熱を出してしまってピンチになると、ご主人が子どもをお迎えにいくために、ご主人の会社の新入社員が仕事を代わってくれたりと続いていきます。そして、子育てをするためには街のみんなの協力が不可欠というメッセージで結ばれています。

 私はインスタでこのCMを見たのですが、そこにコメントがいっぱい載っていて、このCMを見て涙が出てくるというコメントで溢れていました。その中で、いくつか気になったコメントがありました。「ワンオペ育児」なる言葉がありますが、そこには自分一人で子育てに苦しんでいる人たちの訴えが書かれていました。夫にも頼れない、両親も遠くに住んでいるとか、いろんな事情で頼れない、そんな苦しみの言葉が目に留まりました。そこには人が孤独であることの辛さが溢れていました。自分の苦しみを誰にも分かってもらえない。共有することのできない悲しみが綴られていました。それを読みながら、私自身も反省する部分がたくさんあることに気付かされました。このCMを見ながら、今日の聖書箇所に通じる部分があるなと思わされました。

 今日の聖書の箇所は前回の続きの部分で、主人のしもべが主人が留守の間に自分の務めを果たしているかどうか、自分のやるべき仕事をこなしているかどうかが問われる話です。

 前回は35節から40節までの部分で結婚式に出かけた主人の留守をあずかるしもべの譬え話と、泥棒が来ても大切なものを奪われないように備えておく譬え話が記されていました。この前の部分を読みますと、主人の帰りを待つしもべも一人で孤独に待つよりは、他の仲間や協力者があるのとではだいぶ違うかなと思わされます。

 今日は、その続きからなのですが、弟子のペテロの質問から始まっています。41節。

そこでペテロが言った。「主よ。このたとえを話されたのは私たちのためですか、皆のためですか。」

 ペテロは主イエスの譬え話が、何を意味するのか主イエスの意図がつかめなかったようです。そこで、主イエスはさらに譬え話をして、ペテロの問いかけにお答えになられました。

 それが今日の42節から記されている「忠実な管理人の譬え話」です。

 この管理人は「主人によって、その家の召使いたちの上に任命され、食事時には彼らに決められた分を与える」仕事を任されていました。そして、主人が帰って来た時にちゃんと管理人の務めを果たしている僕は幸いであると43節に書かれています。

 そして、さらには忠実な管理人に「自分の全財産を任せるようになります」と44節に書かれています。これが、忠実な管理人に対する主人の態度です。ここには、主人の管理人に対する絶大な信頼が表わされています。 (続きを読む…)

2024 年 5 月 26 日

・説教 ルカの福音書12章35-40節「待つことを喜びとして」

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2024.5.26

鴨下直樹

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 主イエスの譬え話がここに記されています。主イエスの話はとてもイメージしやすく、聞く人たちの気持ちに寄り添った話し方をなさいました。

 今日の箇所は本来35節から48節までを一括りの話として理解することもできます。けれども、今日はこの40節までとしました。ここは短い箇所ですが、二つの譬え話が記されています。一つは35節から38節の「結婚式に出かけた主人を待つしもべ」の譬え話です。もう一つは「泥棒への備え」の譬え話です。

 この二つの譬え話、またこれに続く48節までの部分のテーマは「再臨」と呼ばれるテーマです。主はもう一度戻ってこられるという話です。けれども、この当時、主イエスから話を聞いていた人々や弟子たちは、まだ「再臨」というテーマの話は聞いたことがありませんでした。私たちも人によっては、この「再臨」ということが、あまりよく分からないという人があるかもしれません。

 「再臨」とは何でしょうか? それは、主イエスが再び来られるという約束です。先週、私たちはペンテコステをお祝いしました。ペンテコステというのは、神の霊である聖霊が私たちに与えられたことを覚えてお祝いする日です。聖霊が、私たちの心に与えられているので、私たちは主イエスを、私たちの救い主ですと告白することができるようになります。この出来事が起こったのはいつかというと、主イエスの復活の後、弟子たちに姿を現されてから、40日経って主イエスは天に帰っていかれました。私たちを天に迎え入れる準備をする、そう言っておられました。そして、それから10日後のペンテコステの日に、約束通りに弟子たちに聖霊が与えられたのです。この時から教会は、主イエスがもう一度この世に来てくださるとの約束を待ち望んでいます。この主イエスが、もう一度この世に来てくださることを「再臨」と言います。再び主イエスがご臨在くださる。このことを「再臨」と言うのです。「再臨」の時というのは、私たちが天に迎えられる準備が整ったということでもあります。

 まだ、主イエスの十字架も、受難の出来事も起こる前に、主イエスはずっと将来のことを見据えて、譬えを通して、この「再臨」についてお話しになられました。それが、ここに記されている主人を待ち望んでいるしもべの譬え話です。あまりにもこの話がよく分からなかったので、この話を聞いていた弟子のペテロがこの後の41節で、今の話は誰に話されたのですか? と尋ねています。それくらい分からない話だったのです。

 この聖書の箇所が語ろうとしている一つの重要なテーマは「タイムリミットがある」ということです。しもべの主人は結婚式に出かけたようです。当時の結婚式は一週間続いたという話があるくらいですから、主人がいつ戻って来るか分からないのです。けれども必ずいつかお戻りになられるわけです。当分の間、主人が戻ってこないことが分かっている時に、しもべがその間何をするか。そのことがここで問われています。

 皆さんならどうでしょうか? 主人がいない間、自分がしもべだとすると、どうやってその時間を過ごすでしょうか?

 しもべに期待されていることといえば、その間にするべき務めを果たすことです。けれども、いつ戻ってくるかわかりません。今のように監視カメラがある時代ではありませんから、「やったー!ついに自由だ!」と束の間の自由を楽しむこともできます。

 こういう場面というのは、私たちの生活のさまざまな場面でも見られる光景です。「出かけている間に、洗濯物を取り込んでおいてね」とか、子どもであれば「少し買い物に出掛けてくるので、その間に宿題を終わらせておくように」とか、あるいは、職場であれば「納期がいついつまでなので、それまでにこの仕事とこの仕事をやり終えておくように」とか、まあいろんな場面でこういう出来事が起こります。

 いついつまでにやるべきことがある。そんな時、ついつい先延ばしにしたい人もあるでしょうし、まず最初にやるべきことは終わらせておきたいと考える人もあるかもしれません。あるいは、頑張って先にやるべき用事を終わらせておくと、そこから更に仕事を増やされてしまうので、ほどほどに手を抜いて、ちょうど終わるように調整するというような達人もあるかもしれません。

 問題なのは、やらなければならないことがあるのに、その前に自分のやりたいことを優先させてしまうという思いが私たちの中に出てくることです。この問題は、相手よりも自分の気持ちを優先させるというところから出てきます。聖書は面白いもので、こういう、私たちが毎日の生活の中で、何でもないことのようにしていることに踏み込んできます。

 自分が人に仕事を頼む場合と、自分がする側に立つ場合とで態度が変わってくるなんていう人も、あるいはあるかもしれません。

 そんなお話をなさったこの譬え話の冒頭、主イエスはこのように話を始められました。 (続きを読む…)

2024 年 5 月 5 日

・説教 ルカの福音書12章22-34節「心配の糧と天の宝」

Filed under: YouTube動画,礼拝説教,説教音声 — susumu @ 07:54

〈いのれ〉
2024.5.5

鴨下直樹

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 今から20年ほど前ですが、朝日新聞の「天声人語」で一冊の本が紹介されました。『パパラギ』という本です。この本には副題がついていまして「はじめて文明を見た南海の酋長ツイアビの演説集」と書かれています。

 この本が最初に世に出たのは今から100年前の1920年のことです。見返しのところにはこんな謳い文句が書かれています。

パパラギとは、白人のこと、見知らぬ人のこと。でも、言葉どおりに訳せば、天を破って現れた人。はじめてサモアに来た白人の宣教師が白い帆船にのっていた。遠くに浮かぶ白い帆船を見て、島の人たちはそれを天の穴だと思った。白人がその穴を通って彼らのところへやって来た。――白人は天を破って現れた――

 本の内容はとても面白いものです。それまで文明とはまったく縁遠い生活をしていたサモアの島の人々のところに白人の宣教師がやってきて、キリスト教が宣べ伝えられます。こうして、島の人々はキリスト教を信じるのです。ところが、この演説は、西洋の誇りとしている文化や生活様式、そして人々が願い求めているものがいかに神の願いからかけ離れているのかを明らかにしていく内容となっているのです。痛烈な白人文化批判と言っても良いような内容です。

 中にこんなエピソードが書かれていました。この酋長がヨーロッパを訪ねた時に、ある質問をしたのだそうです。「そんなにたくさんのお金をどうするんです? 着たり、飢えや渇きをしずめるほか、この世で何ができますか?」答えは何もない。そう書かれています。そして、ヨーロッパでお金を払わなくてもいいのは空気だけだ。でもこの話を聞かれると空気にもお金がかけられるかもしれない。そのなかには、こうも書かれています。「ある人がお金をたくさん、普通の人よりはるかにたくさん持っていて、そのお金を使えば、百人、いや一千人がつらい仕事をしなくもすむとする。――だが、彼は一銭もやらない」

 まるで、主イエスが語っているのではないかという話が、延々と記されています。「お金が欲しい、時間が欲しい。彼らは神を信じていると言っているのに、実のところお金を信じている。」そう書かれています。

 この本は、今もよく読まれているようで、読んだ人たちの様々な感想がアマゾンなどでも書かれています。それで少し興味を持って調べてみると、この本は実在したサモアの酋長の話ではなくて、ドイツ人の創作話だったというようなことまで、インターネットの辞典であるウィキペディアに書かれていてびっくりしました。この『パパラギ』という本の話は実話ではないのかもしれませんが、かなり大きな影響力を与えました。ヨーロッパの人々の信仰の本質を突きつけ、実際に人々が求めているのはお金で、そのために大切なものを失っていることに気づいていないという指摘です。

 今日の聖書箇所のテーマは「心配」です。「何を食べようか、何を着ようか」という心配から始まって、主イエスの語る「幸福論」と言っても良い内容がここには記されています。私たちが生きていくために大切なものは、「衣食住」の三つだと言います。これが整っていれば「幸せ」と表面上は定義することができます。けれども、現代人のほとんどの人は誰もがこの「衣食住」が整っていますが、幸せだと感じている人はそれほど多くはありません。『パパラギ』の本で指摘されているように、「もっと、もっと」と人々は際限なくさまざまなものを求めているからなのでしょうか。

 「心配」というのは、その背後に様々な「恐れ」が潜んでいます。「もっと、もっと」と望みが決して小さくならないのは、少しでも恐れを取り除きたいと考えているからです。主イエスはここで、「いのち」と、「からだ」のことを語っています。食べるものは「いのち」のため、着るものは「からだ」のためと言います。これは、私たちにもよく分かることです。私たちはいのちを長らえさせるために、少しでも長生きしようと「サプリ」や「健康食品」を購入します。あるいは、この「からだ」が健やかでいられるためにも、からだに取り込むものは、加工食品や、化学調味料を除いた方が良いと考えます。

 ごくごく当たり前になっているようなこのような習慣そのものにも、主イエスは目を向けさせます。30節では「これらのものはすべて、この世の異邦人が切に求めているものです。」とさえ言っています。この世の人々が、神の民ではない「異邦人」が行っていることと、同じことをしていて「神の民」としてのアイデンティティーは一体どこにあるのかという厳しい問いかけです。

いのちは食べ物以上のもの、からだは着る物以上のものだからです。」と23節で主イエスは言われるのです。

 烏でさえ主イエスは養われておられると言われるのです。続く25節ではさらに面白いことを主イエスは言われます。 (続きを読む…)

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