2025 年 8 月 3 日

・説教 ルカの福音書18章31-34節「隠された平和への道」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 10:02

2025.08.03

鴨下直樹

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 先週の日曜日の午後、教団役員研修会が岩倉教会で行われました。講師として、お茶の水クリスチャンセンターの責任を持っておられる山崎龍一先生をお招きしました。山崎先生は、お茶の水クリスチャンセンターという東京にある、大きなクリスチャンセンタービルの建て直しに尽力された方です。この山崎先生が『教会の実務を神学する』という書物を出されました。この本の中で山崎先生は「教会の実際の運営は、この世の常識で判断されていて、神様の思いから離れたところで判断しているのではないか?」という問題提起をしておられます。

 今回の役員研修会でもこの「教会の実務を神学する」というテーマでお話しくださいました。山崎先生が役員研修会でお話しになられたのは、主に役員として教会をどのようにして導いていくかという内容でした。この研修会でとても大切なこととしてお話しになられたのは、教会が何かを決めていく時に、どういう考え方で物事の判断をするかということです。そこでもお話しになられたのはやはり、聖書の考え方ではなくて、この社会の通念上、あるいは教会の役員たちがそれぞれ社会で経験して来たことに基づいて判断していないかという問題提起です。

 会社ならこうする。世の中ならこういう考え方のはずだ、あるいはお役所はこう判断するはずだということが、判断する時の基準になっているのではないかという指摘をされました。この指摘はとても意味のある問いかけです。今、社会が目まぐるしく変わっていく中で、パワハラ防止法だとか、働き方改革だとか、最低賃金の見直しなどで、行政から要請されて、教団のあり方を見直すような話し合いが続いています。ただ、こういうことをやり始めると、次第に行政の指導に従うのが当然であるという流れになってしまって、気づくと教会はいつの間にか、主が求めておられることとは違うことをさせられているということになりかねないわけです。

 世の中の声が大きくなると、聖書が言っていることが分からなくなっていきます。聖書が語るのは、前回の聖書箇所にもあったように、「それは人にはできないが、神にはできる」というようなこともあります。私たちが自分の力でできないことまで、主はお語りになられるお方です。この世の価値基準と、聖書の価値基準は同じところにはないのです。だから、簡単に聖書の言っていることが「分かる」とはならないことがあるのです。

 今日の聖書の話は、そういう意味では、主イエスが3度目の受難の予告をなさったことが記されています。そして、その結論は、弟子たちは34節で「話されたことが理解できなかった」という言葉で結ばれているのです。

 今日の聖書箇所は少し唐突に思えるかもしれません。ただ、前の箇所の続きとして読んでいくと話の流れが見えてきます。前回の聖書箇所では神の国に入るのは、自分の力ではなしえないというところでした。神の働きかけによって、もっとはっきり言えば神の恵みの御業によって人は救いに至ることができるのだと、この前の部分で主イエスは話されました。これは、言ってみれば主イエスご自身が神から遣わされて人々を神の国に入れるために来られたのだということを明確になさったことになります。

 そこまでお話しになられた後で、今度は弟子たちだけを「そばに呼んで」こっそりとお話しになられたのが、今日の箇所である受難の予告の知らせです。

 この、「そばに呼ぶ」というのは信頼の証しです。ごくごく仲間内だけに告げる内緒話です。ですから、この内緒話に入れられた者たちというのは特別な人たちということになります。弟子たちの立場からすれば、自分は主イエスから内緒の話を告げて貰えるような弟子になったということですから、本当であれば嬉しい気持ちになるところです。ところが、その「ひそひそ話」の内容はと言えば、これから自分に敵意が向けられるようになる、そして最後には殺されるけれども、三日目に生き返るという内容です。

この話を聞いた弟子たちからしてみると複雑な気持ちになったかもしれません。それが証拠に34節にこう記されています。

弟子たちには、これらのことが何一つ分からなかった。彼らにはこのことばが隠されていて、話されたことが理解できなかった。

 もう、これで主イエスが弟子たちに受難の予告をするのは3度目なのですが、いまだに弟子たちは理解できていません。「このことばが隠されていて」とその前に記されています。これは、「ベールがかかっているようなもの」とある牧師が説明をしたことがあります。ベールがかかっていてはっきりと理解できないのです。というのは、このベールを剥がす役割をするのが聖霊の働きだからです。聖霊が働かない限り、隠されたままなのです。これが、「理解できない」ということの理由です。では、いつ理解できるようになるのかというと、ペンテコステまで待たなければなりません。聖霊が働かれる時に、分かるようになるのです。

 では、その分かりにくさはどこにあったのかですが、ここで主イエスはご自分が受ける苦しみを六つの言葉で語っています。その六つの言葉は32節と33節に記されています。
この主イエスの受ける苦難の六つの言葉というのは、次の六つです。

「異邦人に引き渡され」、「嘲(あざけ)られ」、「辱められ」、「唾をかけられ」、「むちで打って」、そして最後に「殺します」です。

 主イエスはこれからこれらの苦難にあわれるというのです。実に、さまざまな苦難です。

 私たちは、人生の歩みの中で様々な苦難を経験します。人は苦しみを避けて通ることはできません。どうしても、思いがけない苦難や、患難というものが襲ってくるわけです。私たちは、そういう自分が受けなければならない苦難があるということも、あまり理解できません。いや、理解したくない、受け入れたくないという思いがあると思うのです。

 主イエスはそれらの苦難を、私は今からこういう苦難を受けることになるからよく見ておくようにと言われるのです。「まさに、ここからだぞ」とでも言うかのように、エルサレムへ向かうにあたり、その心構えを弟子たちだけに密かに打ち明けておられるのです。

 敵意がある。暴力を受ける。蔑みを受ける。そして、最後に殺されるのだ。しかも、そのような苦しみが待ち受けていると言うのに、主イエスにはその悲壮感がありません。全然、そんな苦しみをお受けになられるような予感も感じられない。それが、この時の弟子たちが受け取っている印象なのです。

 主イエスのもとには大勢の人だかりが常にできていて、人気者で、時の人です。弟子たちは、こういうお方の弟子になったことを、誇りに感じていたかもしれません。今からエルサレムに向かうともなれば、いよいよ本丸を攻めにいくようなものです。さらに、大勢の人々が主イエスを知るようになって、いよいよローマを打ち破るような大きなムーブメントになる、そんな感じさえしていたのかもしれません。雰囲気は、前途多難というよりは、意気揚々と、エルサレムに向かう。そんな印象を弟子たちは感じていたのかもしれません。だからこそ、主イエスの言っていることの意味が分からないのです。

 特に、ここにある6つの言葉の中で、注意してみたいのは、「辱められ」という言葉です。マタイとマルコにも受難予告の言葉がありますが、ルカの福音書だけに「辱められ」という言葉が追加されています。他には書かれていない言葉です。他の翻訳では「暴行をうけ」となっていたり、「乱暴な仕打ちを受け」となっていたりするものもあります。この言葉の元にある言葉は「思い上がり」という言葉です。それは「度を越した重み」という意味があります。境を超えてしまう、超えてはいけない線を超えてしまう。それが「思い上がり」という言葉になるわけです。超えてはならない線を超えてしまうのは、そこに自分の思いがあるからです。そのために理性がきかなくなる、歯止めが効かなくなるのです。そうして、自分のうちにある重みを相手に押し付ける、それが「度を越した重み」となるのです。そうして自己を主張し始めるのです。

 最初に、役員研修会の話をしました。教会の中に、世の中の考え方が重みを持ってしまうと、それが度を越した思いとなってしまう可能性があります。それが、「乱暴な仕打ち」とか「暴行」というこの言葉、あるいは、この新改訳では「辱め」ということになっていく思いの背後にあるものです。そして、この思いというのは、簡単には無くなりません。なぜなら自分が正しいと考えるからです。自分の意見の方が、重みがある、重要であると判断するからです。

 そして、こういう思い、自分の考えが度を越していくところから、暴力の連鎖が生み出されていく土台となるわけです。人との争いがそうです。戦争もそうです。最近の政治家たちの姿もこれと重なります。「正しい」者たちの集まるところは、いつもこの暴力の力が活発に働き続けるのです。

 どうしたら戦争は終わるのでしょうか。どうしたら、この諍いは終わりを迎えることができるのでしょうか。一度拳を上げてしまうと、その拳はかならず振り下ろされなければならないのでしょうか。落ち着いて、その怒りを収める道はどこにもないのでしょうか。

 私は、今日の説教題を「隠された平和への道」としました。そんな道はいったいどこで見つけ出すことができると言うのでしょうか。

 ルカの福音書の説教の準備をするにあたって、いろいろな聖書注解に目を通しますが、残念ながら役に立つ書物の少なさをいつも感じています。その中で、いつも2冊の本が私にはとても大きな助けになっています。その一冊はクラドックの書いた『現代聖書注解のルカによる福音書』と、もう一冊はカルペパーの書いた『NIB新約聖書注解』のルカです。このカルペパー注解書の中にこんな文章を発見しました。少し紹介したいと思います。

「イエスが苦しんだのは、神がそうするようにと決めたからではなく、苦しみながら愛し御国の招きに服従することが、暴力的な人々を捉えている暴力のらせん運動を終わらせる唯一の有効手段だからである」

 私はこの言葉を見つけた時に、しばらくこの言葉の意味について考えさせられました。暴力の世界の中に主イエスが身を置かれているのは、ご自分が暴力の世界の中に生きつつ、神の国への招きをすることを通してしか、この暴力のらせん運動を終わらせられないからだと言うのです。主イエスご自身が、さまざまな暴力を受ける、敵意を向けられ、蔑まれ、殺される、そういった姿を自ら示しながらも、神の支配の中に人々を招く以外に、この暴力のらせん運動を終わらせる道はないのだというのです。この道こそが、平和への隠された唯一の道だと言うのです。

 誰かが高みの見物を決め込んで、それはダメだぞと言ったところで、誰の心も動かないのです。苦しみを身に受けておられるお方が、この苦しみの先にしか救いはないのだと、自らが示すことなしには、人の心は動かない。しかも、それは、ただそうすれば良いということでもなく、そこにさらに聖霊が働くことを通してしか、この平和への道は見えてこないのです。

 みんなが、自分が受けるべき痛み、重荷を受け止めきれずに、どこかに八つ当たりばかりしていたらどうなるでしょう。みんな不幸になるばかりです。負の連鎖は誰かがそれを受け止めなければ終わりを迎えることはありません。主イエスは、「そうであればわたしがその苦しみを受け止める」と言われるのです。負の連鎖を、苦しみの連鎖を自分が引き受けることで、その先にある生き方を、その先にある平和の道を示すことができる、そう考えることが神の救いの計画なのです。

 だからこそ、主イエスは私たちの痛みを知っている、あなたの苦しみをわたしが引き受けると言うことができるのです。それが、主イエスの苦しみであり、主イエスの十字架の御業です。

 そして、このことはこうも言い換えることができます。「ああそうなのか、それが主イエスの十字架の意味なのか」ということが理解できたということは、その心に聖霊が働いてくださっているということでもあるのです。

 主イエスは、私たちに聖霊を与え、この平和への道をお示しくださるお方なのです。この平和への道は確かに隠された道です。しかし、この主イエスのお姿の先に、神の備える救いが、平和への道があるのです。

 お祈りをいたしましょう。

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