2009 年 10 月 25 日

・説教 「ご聖霊について」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 10:41

本日は、名古屋市にある神の倉教会のベルナス・カーステン宣教師が礼拝説教をしてくださいました。

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今日の説教はご聖霊についてです。クリスチャンの信仰のためにとても大切なことですが、分かりやすいテーマではありません。聖書はたくさんの箇所で、ご聖霊について語っています。旧約聖書と新約聖書の両方に、神様のみたまについての記事があります。 

創世記1章2節には「神の霊が水の上にうごいていた」と書いてあります。

また、旧約聖書はダビデについて、次のように書いています。

「主の霊がその日以来、ダビデの上に激しく下った。」(サムエル記第一16章13節)。 

たぶん、みなさんはご聖霊についての記事を聖書のあちこちで読むことがあるでしょう。しかし、「それらは、ご聖霊はだれだろうか」とか「ご聖霊の目的はなんだろうか」という疑問にはなかなか答えてくれないでしょう。 

クリスチャンの信仰の基本的な真理は、三位一体の教えです。

聖書の神様はお一人で、はっきり、ちがう三つの別個の人格が認められます:父なる神様、御子イエス様とご聖霊です。 父なる神様、御子イエス様とご聖霊を特徴によって、わけることはできません。三位一体の神様のみ心と個性はお一人です。三位一体の神様には父なる神様、御子イエス様とご聖霊が存在しておられますが、言葉で全てのことを説明することはできません。しかし私から見て、父なる神様と御子イエス様はご聖霊より分かりやすいテーマだと思います。 

父なる神様はこの世を創造して下さった方です。人間は自分のお父さんを思い出すことによって、父なる神様を想像することができます。もちろん、それ以上に、聖書の神様はとてもよいお父さんです。

御子イエス様は私たちの罪のために死んで下った方です。主イエス様はこの世に住んでおられました。人間になって、人間の生活をされました。ですから、私たち人間はイエス様をも想像することができます。

では、ご聖霊とは、いったいだれでしょうか?  (続きを読む…)

2009 年 10 月 18 日

・説教 「新しい創造」 ガラテヤ人への手紙6章11節-18節

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 11:02

鴨下直樹

 私たちは半年にわたり、創世記の御言葉を聞き続けてきました。この朝は、これまでの創世記の前半を振り返りながら、もう一度、御言葉に耳を傾けたいと思います。

 それで、この朝私たちに与えられている聖書のテキストは、パウロがガラテヤの人たちに宛てた手紙の最後の部分で語られている「大事なのは新しい創造です」という言葉です。新共同訳の聖書では「大切なのは、新しく創造されることです」となっている言葉です。

 何度もお話しておりますけれども、今、水曜日と木曜日の祈祷会で「パウロ伝」を学び続けております。先回は、パウロが三度の伝道を終えた後エルサレムに戻りまして、そこでユダヤ人たちに捕えられてしまうところまでを学びました。使徒の働きの21章27節から36節に、その時の出来事が記されています。

 パウロは、アンテオケの教会からつかわされ、イスラエルにありますシリアから、キリキア、パンフリア、ガラテヤを通ってピリピやテサロニケのある海の向こうのマケドニヤ、さらにコリントやアテネなどのあるアカヤ地方、そして、エペソ、コロサイなどのあるアジアなどのローマの属州を次々にわたって伝道いたします。その期間にいくつもの教会を建て上げて行きました。これらの国々は、もちろんイスラエル人たちの国ではありませんから、ユダヤ人たちが異邦人と呼んだ人々に福音を語り続けていったのです。そこで、パウロはこの異邦人たちに対しては、ユダヤ人のように、聖書の戒めに従って生きるのではなく、主イエスへの信仰に生きることが大切だと語り続けていきました。

 ところが、パウロが伝道すると必ずそこに、ユダヤ人のパウロの教えに反対する人々が現れます。この人々はエルサレムの教会で信仰をもった人々も中にはいたのでしょう。このユダヤ人のキリスト者たちというのは、パウロは、モーセの律法を軽んじていると、常につきまとってまいりまして、パウロの伝道の妨害をするのです。 (続きを読む…)

2009 年 10 月 11 日

・説教 「神の選び」 創世記11章10節-32節/エペソ人への手紙1章3節-14節

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 11:50

鴨下直樹

 私たちはともに、創世記から主の御言葉を聞き続けてまいりましたけれども、その創世記の学びも今朝で最後になります。創世記からの説教の初めにお話ししたように、創世記は大きく分けると二つに分けられます。この1章から11章までの歴史以前と呼ばれる部分と、12章からはじまる信仰の歴史の部分とにです。そして、今朝がその前半部分の最後にあたるわけです。

 そしてこの朝、私たちに与えられた御言葉はこの系図が記されたところです。この創世記にもすでにこのような系図がでてくるのは二度目になります。最初は創世記第五章にアダムからノアまでの系図が載っておりました。また、系図ではありませんけれども民族表と呼ばれるものが、10章にもありました。礼拝で聖書朗読をする方は、こういう沢山の馴染みのない名前ばかりを読まなくてはならないというのは、少し気の毒な気もしますけれども、お聞きになった皆さんも、聞きながら一体ここからどういう説教をするのかと楽しみにしておられたかもしれません。創世記第5章の系図ではアダムから始まってこの創世記に名前の出て来た、言って見れば知られた名前がありますから、まだ何とかなりそうなものだけれども、この11章の系図はテラの系図とあって、最後のアブラムの名前が出るまで何も知った名前がない。そのようなところから一体何が語り得るかと考えるのではないかと思うのです。と言いますのは、ご自分で聖書をお読みになる時にも、こういうところは何となく読むけれどもそれほど重要ではないように思えてくるからです。

 先ほど、創世記第10章の民族表の話を少ししました。この10章の21節からは、セムの家系のことが記されております。丁寧に、この11章の系図と名前を比べて読んでいくと面白いのですけれども、特に25節にこう記されています。 (続きを読む…)

2009 年 10 月 4 日

・説教 「バベルの塔 ー 言葉の届く喜びー 」 創世記11章1節-9節

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 12:58

鴨下直樹

 私事で始めて大変恐縮なのですが、今週でドイツから帰国して一年が経ちました。時々、こんな質問を受けることがあります。 「日本に戻って来て何か違いがありますか?」というものです。その度に、私は心の中で思うのは、「日本は言葉が通じるからいい」という思いです。まだ、私たちがドイツで生活し始めて間もない頃の事ですけれども、通っていた教会のお年寄りの方々が、言葉がまだあまりできない私たちに向かってこう言ったことがあります。「バベルの塔のせいで言葉が通じなくなってしまったのは残念ね。だけど、天国では十分に話し合うことができるから楽しみだわ。」と。 もちろん、三年半という期間ドイツに住んでおりましたので、最後の方はだいぶ苦労もしなくなってきましたけれども、十分とは言えません。けれども、言葉が通じるという経験は、本当に大きな喜びとなりました。 ですから、こうして日本語でお互いにストレスなく話すことができることは、私にとって本当にありがたい事です。けれども、同じ日本語を使いながら、普段からよく話していても、言葉が通じるとは言えないということも同時に考えさせられています。 (続きを読む…)

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