2009 年 9 月 27 日

・説教 「Gift3 心を神に注ぎだして」 ルカ福音書16章1節-18節

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 13:19

 

鴨下直樹

 この9月に入りましてから、Giftというテーマで三回のメッセージをしておりますけれども、今日はその最後の三度目になります。私たちは神さまからどのように大きなギフト、贈り物を頂いているかということについて御言葉から聞き続けております。

 今日は三回目ですから、少し違った角度からまたこのギフトについて考えてみたいと思っているのですけれども、私たちはこの聖書から二度にわたってどんなに素晴らしい贈り物を与えられているかを学んできました。それは、この神からの贈り物は、聖書を通して与えられるということを同時に意味していたということができます。つまり、聖書をどのように読むかということと、私たちが神様から頂いた贈り物、ギフトを用いて生きることとは非常に深く関わりあっているのです。

 

 聖書をどのように読むかということについては、主イエスがおられた時代にもさまざまな読まれ方があったようです。一つの例をあげたいと思うのですけれども、申命記24章の1節にこういう聖書の言葉があります。

 

「人が妻をめとって、夫となったとき、妻に何か恥ずべき事を発見したために、気に入らなくなった場合は、夫は離婚状を書いてその女の手に渡し、彼女を家から去らせなければならない。」(24章1節)

 

 ちょっとびっくりするような聖書の個所ですけれども、当時の人々はこの聖書の言葉はことさらに大切にしたようです。というのは、実に男にとって都合のよい聖書の言葉であると考えることができたからです。ここには、「妻に何か恥ずべき事を発見したら離婚することができる」というわけですから、当時の夫たちは離婚したくなるとどうやら妻の荒探しをしまして、離婚の理由を見つけようとしたようです。考えてみれば、いや考えるまでもなく、これは大変にひどい話です。

 

 この聖書の時代、つまり、主イエスが歩んでおられた時代のことです。ユダヤの教師のことをラビと言いますけれども、その中でもシャンマイ派という聖書を厳密に解釈する人々がおりました。このシャンマイ派は、ここに書かれている「恥ずべき事」というのは、「姦淫の罪」のことであって他はあり得ないとしていました。これが、当時の代表的な聖書の読み方であったと言っていいとおもいます。ところが、シャンマイ派に対してヒルレル派という人々はこの「恥ずべき事」というのは、もっと広い意味でとるべきだとしました。つまり、「妻に何か恥ずべき事を発見した」ということの中にはこういう意味があると言いました。「食器を洗っていてお皿を割った」、「道で長話をした」、「見知らぬ男に話しかけた」、「夫の両親の悪口を言った」、「大きな声で近所にまで聞こえる声で叫んだ」というものです。こうなると妻はたまったものではありません。家を追い出された人に尋ねてみると、「実は買い物の帰りに隣の奥さんとばったり出会って長話してしまったの」とか、そうかと思うと「私は先日主人の言い争った時に、ついつい夫の両親の悪口を言ってしまったの」などということになってしまうのです。

 ところが、これだけでは終わりません。このヒルレル派よりももっとすごい立場の人が登場します。それが、ラビ・アキバです。アキバは「妻の恥ずべき事」というのは、「今の妻よりも綺麗な人を見つけたら、それだけで離婚できる」と言いだしたのです。今の妻より綺麗な人を見つけたら、もうそれは自分にとって恥なので家から追い出してもいいとなると、「あなたはなぜ追い出されたの?」と尋ねてみると、「それが、私よりも綺麗な人を見つけたんですって」となる。もうこうなってしまうと、そこには聖書の権威などというものはどこかにいってしまって、それは男のエゴ以外の何物でもありません。そのように当時の人々はいかに自分たちの都合がいいように聖書を使うことができるかと考えてしまう人たちがいたようです。

 

 何だか冗談のような話しですけれども、これは現代の話ではなくて、すでに主イエスがおられた時代からしてそうであったのです。そのような自分勝手な聖書の読み方をした、自分に都合のよい解釈に人気が集まったのです。

 それが、今日の聖書の個所の17節から18節の背後にあります。

 

「しかし律法の一画が落ちるよりも、天地の滅びるほうがやさしいのです。だれでも妻を離別して他の女と結婚する者は、姦淫を犯す者です。」(ルカ16章17節~18節)

 

 主イエスはここで、「もし、誰かが自分勝手な理由でそのように妻を去らせるようなことがあるなら、それは姦淫の罪だ。」と言われました。しかし、この主イエスの聖書理解は、当時の聖書の専門家たちにとって驚くような聖書理解だったのです。

 

 聖書を読むことは大事なことです。私たちが聖書を読むなら、そのことを通して神の思いを知ることができます。神は私たちがどのように生きることを願っていてくださるかが分かるのです。けれども、私たちはそれを自分の都合の良いように読んでしまうことができます。そういうことが起こってしまうなら、私たちは正しく生きるどころか、聖書を用いながらどんどんと間違った生き方をしてしまうこともあるのです。ですから、ここで語られている聖書の出来事は、私たちがよく聞いて理解しなければならない話であることがお分かりいただけると思います。

 

 

 主イエスがこの話をされたのは、ルカの福音書16章1節~13節にある一般に「不正な管理人のたとえ」として知られるたとえ話です。この物語をお聞きして、みなさんは主イエスというお方は、お話をなさることにとても長けていた方だということが、よくお分かりいただけたのではないかと思います。思わず、耳を傾けて聞きたくなるような話しを主イエスはなさったのです。

 ここで、主イエスがなさった話は一つのたとえ話です。ある金持ちの所に一人の管理人がいたのです。ところが、この管理人は主人の仕事を忠実に果たさずに、「主人の財産を乱費している」と訴えられてしまいます。普通であれば、この管理人は自分の責任を認めて、主人に悔い改めて、もう一度やり直したいという話でと思うのではないでしょうか。もしそういうことであれば、誰もが理解しやすいのですが、この管理人は違います。このままだと仕事を辞めさせられてしまうので、その前に、この主人の取引先の人の伝票を勝手に安く書き改めてしまうのです。今のうちに恩を売っておいて、後で助けてもらおうというのです。

 そんな話は許されるようなことではないのですが、この話をよりによって主イエスがほめられているような気がする。そうなると、この物語を聞いた人は訳が分からなくなってしまいます。ここに、主イエスの話がいかに人の心を惹きつけるものであったかということが良く分かるわけですけれども、ここで主イエスはこう言っておられます。

 

 「この世の子らは、自分たちの世のことについては、光の子らよりも抜けめがないものなので、主人は、不正な管理人がこうも抜けめなくやったのをほめた。」

 「そこで、わたしはあなたがたに言いますが、不正の富で、自分のために友をつくりなさい。そうしておけば、富がなくなったとき、彼らはあなたがたを、永遠の住まいに迎えるのです。」(ルカ16章8節~9節)

 

 このように8節と9節に書かれております。私たちはこういう話を読みますと混乱いたします。実はもうすでに私にその物語について質問してくださった方もあります。普通に読んだらそれは良くないことだと分かり切っていることなのに、この主人は不正な管理人をほめ、主イエスもまた「不正の富で、自分のために友をつくりなさい」などとこれを奨励してしまっているではないか。これはいったいどうしたことかと思うのです。

 

 今日は聖書を読むことの大切さについて知っていただきたいと思っているわけですが、このような少し考えさせられてしまうような聖書の箇所をどう読むかということも、やはり心に留めていただきたいと思います。

 これを読むときに、まず、物語の内容に驚きます。こういう驚きは大事にしていただきたいのですけれども、あえてこのような書き方をして読む者に驚きを与え、考えるようにと主イエスは促しておられるのです。そうすると、ここで、立ち止まって金持ちの主人が抜け目のない管理人をほめているというのはどういうことかと考えざるを得ません。こういうところは、立ち止まって考えながら読むということこそが、実はとても大事なのですけれども、そうすると、この金持ちの気持ちになってみれば見えてくるのです。そうやって考えてみますと、これは決して心の底から絶賛しているわけではないとうことが分かってくるでしょう。大したものだといいながらも、この言葉に皮肉の響きがあることが分かってくるのです。そうだとすると、このあとの9節の主イエスの言葉も同様です。

 「そこで、わたしはあなたがたに言いますが、不正の富で、自分のために友をつくりなさい。そうしておけば、富がなくなったとき、彼らはあなたがたを、永遠の住まいに迎えるのです」ということのことばの最後にある、「永遠の住まいに迎えるのです」というところに、皮肉が込められていることが見えてくるのではないかと思うのです。

 「こんなにもずる賢く生きたいのであれば、そのように生きればいい、そうしたら、きっとその人たちがあなたを永遠にやしなってくれるだろうから!」などと言う言葉は嫌み以外の何物でもないのです。私たちは、主イエスが嫌みのようなことを言われるはずがないと思い込んでしまいますと、ああ、悪いことも必要か、やはり処世術というのがこの世で生きるためには必要で、主イエスもそれをここで証言なさっておられる、などと読んでしまう。そうなると大変なことになってしまいます。

 あまり、この説明に時間をさくことができませんけれども、このたとえ話は、主イエスの嫌みのことばで締めくくられているのです。ですからこのたとえの最後には「しもべは、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、または一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは神にも仕え、また富にも仕えるということはできません」と13節で主イエスが語っているように、私たちはどちらかに忠実に仕えるしかないのです。「あっちも、こっちも上手にやってうまくやっていけばいいのだ」というような、この世の処世術などというもので、神の前で生きていけるのではないのだと、主イエスはここではっきりとお語りになられたのです。

 

 といいますのは、この主イエスの話を聞いていた人々というのは、聖書であろうが、神であろうが、生きていくためには何でも上手に利用して生きていくことが上手な生き方、賢い生き方で、そのためには少々きたないことをしたっていいと思っている人たちでした。まさにそれは、現在人の姿そのものであると言っていいと思います。ですから、この人々はこの主イエスの話の「一部始終を聞いて、イエスをあざ笑った」のです。彼らには理解できないのです。ばかばかしい話に思えるのです。というのは、彼らにも一つの考え方がありました。それは富を得るということは神からの祝福のしるしであると考えたのです。ずるいことを多少したとしても、富を得る、つまり、成功すればそれは神がおゆるしになっているどころか、祝福さえしていただける。それがこの世界のルールだと思っているのです。

 

 けれども、主イエスはこのようなお考え方に対してはっきりと「No!、違うのだ!」と言われるのです。成功するためだったら、聖書だって利用してかまわないのだという人々は、主イエスの言葉をあざ笑います。それは、今日でもまったく同じでしょう。けれども、主イエスは続く15節でそのような人々に言われます。


 「あなたがたは、人の前に自分を正しいとする者です。しかし、神は、あなたがたの心をご存じです。人間の間であがめられる者は、神の前で憎まれ、嫌われます」(15節)

 

 この世界でどんなに上手に生きることができたとしても、この世界でどれほど、抜け目なく生きることができたとしても、そのような生き方を神は憎まれるのです。これは大変厳しい言葉です。けれども、主イエスは言われます。「神はあなたがたの心をご存じです」と。神の目には、成功しているかどうかが映るのではない。確かにこの世界で、処世術を生かしていきるなら成功したように見えるかもしれません。けれども、それはこの世で上手に生きたというだけのことであって、それは神からの祝福などではないのです。神が見ておられるのは、そのようなこの世界が称賛するようなところではなくて、その人の心なのです。神は心を見られる。これが、全ての神の基準です。それ以外にはないのです。

 

 アッシジのフランチェスコと呼ばれた修道士がかつておりました。フランシスコ会という修道会を創生した人です。このフランチェスコが旅の途中で弟子たちと語り合った話が残っています。ある弟子が尋ねました。「真の喜びというのは何でしょうか?」すると、フランチェスコは答えました。「たとえ、一度に何千をも感動させるような説教をしたとしても、天地宇宙の秘密をうまく解明する知識を得たとしても、手を触れれば病人がたちまち癒され、更には死人をよみがえらせる霊の力に満ちていたとしても、そこには真の喜びはない。ただ、報いを求めないで神と人に謙遜に仕えてこそ、まことの喜びがあるのではないだろうか」そのように語ったというのです。すると、それを聞いた弟子たちの顔がウンブリア平原の太陽のように輝いた。 そのように伝えられています。

 

 私はそのウンブリア平原というのを見たことがありませんけれども、弟子たちのその時の喜びの表情を、そう聞くとなんとなく想像することができるような気がします。自分には、人々に絶賛されるような色々な力はないかもしれない。人が羨むような生き方をすることができないかもしれない。けれども。もっと大事なことは、そのようなことを求めることではなくて、むしろ、そのような報いを求めない心で謙遜に神に仕え、人に仕えることだというのです。そうと知って、フランチェスコの弟子たちは喜んだのです。それは言って見れば、それは誰にだってできることです。そして、その中にこそ本当の喜びがあるのです。

 

 今、岐阜県美術館で「ゴヤの四大連作版画展」をやっております。教会員でもあり美術館の館長の古川さんから、ちょうど昨日、名古屋芸術大学で教授をしておられる西村正幸さんが、版画をどう見るかというのを版画作家の視点から講演してくださることになっていると教えてくださいまして、昨日行ってまいりました。

 私がこの西村さんと知り合いになったのは、神学生の時のことです。名古屋にあります私たちの団体の天白教会の宣教師であったホッテンバッハ先生が夏休みをとる一か月の間、教会に住み込んで奉仕するようにとこの教会に遣わされていったことがあるのです。当時、この西村さんはこの教会の役員をしておりまして、色々な集会で話をしているうちに、すっかり影響を受けまして、キリスト教美術の楽しさを私に教えてくださったのです。ですから、昨日は十年ぶりくらいの再会を喜びまして、また、この講演を楽しく聞かせていただきました。このゴヤというのは18世紀のスペインの画家です。この時代というのは、宗教改革の後で、後に死せる正統主義などと言われた時代ですけれども、この時代というのは、カトリックもプロテスタントの教会もあまり評価されることのない時代でした。そういうこともあって、このゴヤという画家は当時のスペイン、この場合はカトリックになるわけですけれども、痛烈な批判をしながらそれを版画に表しているのです。その中には伝統的なキリスト教美術の構図をそのまま使いながら、真理などというものはもはや無くなってしまったのだということを批判として表したということでした。大変興味深い講演で、当時の人々がいかに聖書から離れた生き方をしているかということを、激しい非難として描かれているということです。ぜひ、見に行ってくださったらと思います。ゴヤの版画の中には、心を見ておられる神を忘れてしまった人々の醜い生活の姿が刻銘に描かれています。

 聖書の時代であろうと、ゴヤの生きた18世紀であろうと、私たちが生きている21世紀の今日であろうと、人はあいも変わらず聖書に逆らい、神に逆らい、まさにこの世界でいかに上手に不正を働きながら生きて行こうとしている。昨日私は美術館からそんなことを考えさせられながら帰ってきました。自分が得することが良いことだという、いつの時代にもそれが物事の判断基準になってしまっています。そして、そういう世界で上手に生きれることが、まるで生きる喜びなのだと、この世界では言わんばかりです。しかし、神は心を見られるお方なのです。

 

 そのような中で主イエスの言葉が響きます。

「律法と預言者はヨハネまでです。それ以来、神の国の福音は宣べ伝えられ、だれもかれも、無理にでも、これにはいろうとしています。」

「しかし、律法の一画が落ちるよりも、天地の滅びるほうがやさしいのです。」(16節~17節)

 主イエスの激しい言葉がつづきます。聖書の言葉は、神の戒めは、どれほど時代が変わろうと人々が都合のいいように生きたいと願おうと、何も変わることはない。神の心が変わるなどということはない。それよりも、この世界がなくなることのほうがたやすいのだと、主イエスは言われるのです。

 自分で自分の生き方を勝手に合格だとすることはできるかもしれない。この世界の価値基準が変わろうとも、この世界がどれほど人間本位に変わろうと、変わらないものがある。それが神の言葉です。聖書です。そして、この聖書は語るのです。主イエスが来られた今、

「神の国」、つまり「天国」には、この時代の人々がこんな人たちは人生の落後者ではないかと思っているような人が、天国に入ろうと押しかけて来ている。けれども、あなたはどうなのか?と主イエスは問いかけておられるのです。

 

 華やかに生きることはできないかもしれません。人が羨むような派手な生活ではない。けれども、神の言葉に従って生きることができるなら、そこには神から与えられた贈り物のような生き方ができるのです。もし、私たちがそのように神の御言葉にしっかりと耳を傾け、自らの心を神の御前に注ぎだして生きるなら、きっと私たちは、フランチェスコの弟子たちのように、ウンブリア平原の太陽にように輝いて生きることができるのです。

 

 お祈りをいたします。

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