・説教 「Gift2 使って嬉しい贈り物」 マタイ25章14節ー30節
鴨下直樹
先週からギフトというテーマで、私たちはどのような神からの贈り物を頂いているかについて考えてみたいと思っています。今朝はその二回目になりますけれども、一回目は「貰って嬉しい贈り物」という題をつけました。そして今朝、「使って嬉しい贈り物」という題です。プレゼントというのは、貰ったら喜ぶということはよくわかりますけれども、「使って嬉しい」というのはどういうことでしょうか。よく考えてみますと、実際に私たちが誰かにプレゼントを贈る時というのは、本当に相手のことをよく考えながら、何が喜ばれるかを考えてプレゼントを贈るのではないかと思います。そして、これを送ったら、実際に使ってもらえるかどうかを考えて贈るのではないかと思うのです。
今回のテーマは先週もお話しましたけれども、私が青年会のキャンプに行ったときのメッセージのテーマでした。このキャンプでは、ギフトというテーマにサブタイトルとして「わかちあうよろこび」と書かれていました。このキャンプで言おうとしているギフトというのは、自分だけの物にして喜んでいるのではなくて、誰かと分かち合うんですよということを知ってもらいたいと願ったためです。けれども、少し考えてみますと、このサブタイトルは聞いて少し変だと思いませんでしたか? ギフトというのは貰って嬉しい物であって、せっかく貰ったものを他の人にあげてしまったら、プレゼントを贈ってくれた人に失礼になってしまいます。
私がまだ牧師になったばかりの時のことです。当時、私たちは結婚をしまして、すぐに教会で奉仕を始めました。その教会で私たちは二年の間、ドイツ人の宣教師と一緒に働いたのです。ある時に、一人の方が教会に尋ねてきまして、この宣教師にお世話になったからといってプレゼントを持って来たのです。その時出られたのはこの宣教師の奥さんの方でした。「まぁ嬉しい」といって喜んでこのプレゼントを貰ったんですけれども、次の瞬間くるっと向きを変えまして、私たちの方を向いてそのプレゼントを差し出してこう言いました。「これは私たちには必要ないから、あなたたちに差し上げます」。まだプレゼントをした方が目の前にいるのです。私たちはこれに驚きまして、「先生、これは先生がいただいたものですから」と丁重に断ろうとしますと、その宣教師は「もう、私が貰ったものですから、その後はどうしたっていいでしょ?」とこのプレゼントを押しつけるわけです。もうこれ以上固辞するわけにもいきませんから、頂きまして、プレゼントを持ってきてくださった方にぺこりと頭を下げました。その時の、その方の何とも言えない顔を私は今でも忘れることができません。
もちろん、この宣教師夫人はいじわるでこうしたわけではないのです。本当にこのプレゼントを喜んだのですけれども、自分で使うよりも、結婚したばかりの私たちの方がよっぽど喜ぶと思ってこういうことをされたのだと思うのです。
プレゼントというものは、贈る人のことをよく考えて贈ります。この人には何が喜ばれるか、何が好きか、本当に悩んで贈る物ですから、普通は他の人と分かち合うというようなことはしません。ですから「-わかちあう喜び-」などと聞いても、すぐにピンとはこないのではないかと思うのです。
あるいはひょっとすると、もう教会生活に慣れてしまっている人たちであれば、「ギフト わかちあう喜び」と聞きますと、「ああ、こういうことが言いたいのね!」とこのテーマで何を言おうとしているのか察しがついてしまうかもしれません。けれども、もし分かり切っていることであれば、ここで今から丁寧な話をする必要はないわけです。どうもこのことが大切なのではないか。どうしても分かってほしいと思っているので、こういうテーマにしているわけです。
今朝のテーマは「使って嬉しい贈り物」です。この朝、今日、私がみなさんに考えてほしいと思っているのは、ここでGiftと言っている神からの贈り物は、貰って喜んでいるだけではどうもだめなんだということに気がついていただきたいし、このテーマそのものですけれども、私たちに神が与えてくださっているGift、神からの贈り物を使う喜びを味わってほしいと思っているのです。
Giftという言葉は一回目にお話ししましたけれども、「贈り物」という意味があります。先週お話しましたけれども、この贈り物は使わないとドイツ語が意味するように「毒」になってしまう、つまり身を滅ぼすものになるというのが今日の聖書です。
けれども、今日みなさんに覚えてほしい「ギフト」のもう一つの意味は「賜物」という意味です。この「賜物」という言葉はこれまたちょっと変わった言葉でして、一般に「賜物」と言いますと「たまわり物」のことです。ですから「プレゼント」、「贈り物」と同じ意味なのです。これを「天からのたまわりもの」などと使いますと、「自分に供えられた能力」というような意味を持ちます。教会でこの賜物という言葉を使う場合は、どうもこの意味で使われているようです。ですけれども、まず、この「賜物」と言う時に知ってもらいたいのは、この言葉が示すのは「自分がもともと持っている能力」ということではなくて、やはり「神から与えられた賜物」ということを知っていることが何よりも大事なことだと思うのです。
ですからここでまず理解していただきたいのは、「賜物」と言った時にまず覚えてほしいのは、「自分がどういうことができるか」、「自分の能力は何か」などと考えるのは二の次にしていただきたいわけです。まず考えなければならないのは、「自分はどんな賜物を神から与えられているか」ということの方が、自分のすでにある能力についてを考えるよりも何倍も大事だということです。
このことは、今日の聖書個所で主イエスがなされた譬え話を見てみればすぐに分かります。
「天の御国は、しもべたちを呼んで、自分の財産を預け、旅に出て行く人のようです」と14節にありますけれども、このたとえ話は「しもべ」の話です。
これは「しもべ」ですから、言い換えますと「奴隷」のことを言っているわけです。奴隷などという言葉は私たちの日常ではあまり使いませんし、なじみもありません。考えてみれば「しもべ」という言葉も今日ではあまり使いません。現代的に言ってみれば、会社で働いている「サラリーマン」のことです。もちろん、これは奴隷ではありませんけれども、会社に仕えているという意味ではそのように置き換えてもいいかもしれません。この「サラリーマン」がどんなに営業成績が良かったとしても、大切なのはそのサラリーマンが勤めている「会社」です。会社が経営不振になってしまえば、一人が頑張ったところでどうにもなりません。それは会社が大きければ大きいほどそうでしょう。
肝心なことは、どれだけのものがこのしもべに託されているかということです。どれだけ経営者がこの「しもべ」に期待しているかです。
それが、ここで「タラント」という言葉で表わされているのですが、このタラントというのは「ちっとも足らんと。」と言わなければならないような、少ない額ではどうもなかったようです。新改訳聖書には15節の下に注がありまして、「1タラントは6000デナリ」と書かれています。1デナリは大人が一日働いた労働賃金ですから、これを一日一万円と計算すれば、1タラントは6000万円ということになります。つまりこの主人は、この会社のしもべたちに少ない人で一人6000万、次が一億二千万、一番多く託された物は3億円分を信頼して託したということになります。
そして、これが神が私たちに託している「Gift」「賜物」なのだというのです。ですからもう一度言いますが、この賜物は私たちの能力そのものなのではなくて、「神が私たちに与えてくださったもの」の価値なわけです。 つまり、この主人はいかに気前が良い方であるということがまず分かるわけです。
そうだとすると、この神の前に出る時に、私たちは自己卑下することはできなくなってしまうのです。私にはたいした「たまもの」はありませんから、自分は何もできませんなどと言ってしまうことがあるかもしれませんけれど、神は私たちに非常に莫大な「賜物」を与えてくださっているのです。この神は、私たちのことを知っていて、それにふさわしいギフトを与えて下さっています。問題は、このたとえ話しにあるように、神から与えられた賜物を土の中に埋めて隠さないで、しっかりと使っていくにはどうしたらいいか?ということでしょう。
私たちはどうも自分のことを良く知りません。自分がとてつもなくダメな人間であると思って自身を小さく評価している、あるいは、ものすごいうぬぼれ屋で、人からの助けなどなくても何だってできると思い込んでいるということが多い気がいたします。このどちらも、自分のことを正しく知っているとは言えません。ではどうしたら自分を正しく知ることができるかというと、それは、神が自分にどれくらいのことを期待していてくださるかを、正しく知っている時に可能になります。 私たちが神の御前に生きる時、神が私の生活を見ていてくださるということを知る時に、私たちははじめて自分を正しく知ることができます。だから、自分を知ろうと思ったらどうしたって神を知らなければならないし、神を知らなければ、本当の自分を知る事はできないのです。
神は私たちのことを、神の御子イエス・キリストを十字架につけて身代わりにしいてもいいと思われたほどに、私たちを愛してくださいました。それは、私たちは神から見て小さな存在ではない、どうでもいい者ではないということです。そんな私たちが、そこまでしてくださった神に対して本当にへりくだって、それこそ「しもべ」のようになった気持ちで仕えて行こうと思うのは、言ってみれば当然のことです。そして、私たちがこの私たちを愛してくださるお方に、自分をささげて仕えていくときに、私たちは本当の自分を取り戻すことになるのです。
今、わたしは、神と自分との関係について語っています。そこには他の人が入りこむ余地はありません。神と私との関係に、「他の人との比較」というのは何の意味もないのです。意味がないばかりか、必要もないことです。
あの人はこういうことができるけれども私はできないとか、あの人は歌がうまいとか、あの人は健康だとか、お金があるとか、人気者だとか、そういうことも本当の自分を知るためには、ひとまず横に置いておかなければなりません。私たちの神は天におられる神です。この天から見ていてくださる神の前にどんぐりの背くらべは意味を持ちません。問題は、この神を仰ぎ見て生きるということです。このことに尽きると言ってもいいのです。私たちがこの神を仰ぎ見て生きているならば、自然に自分に与えられているもの、「賜物」を用いていることになるのです。そして、そのように生きるなら、地面のどこかに、与えられた賜物を隠す場所を探していることなんかできなくなるのです。
私たちは「神のしもべ」、「奴隷」です。ですから、ここでいう「主人」というのは神であることはおわかりいただけると思います。「しもべ」ですから、そのしもべに求められることは主人に喜ばれるということでしょう。そして、この主人を喜ばせるためにどうしたらよいかというと、それは主人の信頼に応えることですから、そこで私たちはその与えられているもの、期待されているものに応えるためには、私たちは与えられた賜物、ギフトを精一杯使うことが大切なのです。
この聖書は、いずれのしもべに対しても次のような言葉で結んでいます。
「よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたはわずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ」(マタイ25章23節)
私たちの主人である神は、私たちが主人の期待に応えた時に喜んでくださるお方なのです。このお方は、私たちに託されたGift、賜物を使えば使うほど喜んでくださるお方なのですから、せっかく頂いたものを人にあげてしまっては申し訳ないのではないか?などと考える必要はなく、大いに使ってしまえばいいのです。失敗するということすら恐れなくとも良いのです。なぜかというと、この主である神は、私たちのことを良くご存じで、それにふさわしいGiftを下さっているお方ですから、それで失敗したからなどといって私たちを責め立てようなどということを、このお方は考えていないのです。私たちの主は、そのように非常に寛容でありつつ、私たちを信頼してくださるお方ですから、私たちは遠慮することなく精いっぱい思う存分にやってみたらいいのです。
つまり、主イエスを信じてキリスト者になったのであれば、堂々と自信をもってこのお方を証ししていけばいいのです。このお方のためにしたいと思うことを片っぱしからしてみればいいのです。それには色々なことがあります。教会で求められるさまざまな奉仕と呼ばれるものがあります。あるいは、自分の生活の中で主を証すること、伝道すること、人のために仕えることそれは実に色々です。その時に自分にはできそうもないからと無理に背伸びして、難しいことから始める必要もありません。自分の持てる力で精いっぱいやればいいのです。そしてその結果は自然に出てくるのです。
最後に私が献身することになったきっかけの話をしたいと思うのですが、私が献身することを決めたのは私が二十歳の時です。工業高校で勉強をした私はすぐに会社に勤め始めました。当時の私は、もちろん教会に集っておりましたし、教会でも教団の青年会の集まりでもよく奉仕していました。けれども、だからと言って牧師になろうという考えはありませんでした。父が牧師をしていたこともあり、牧師の働きの大変さをよく知っていたからです。そのころ、私には一つの趣味がありました。それは車です。教会の向かいの家は当時、自動車修理工場でした。同級生ということで、家族ぐるみで付き合いをしていたこともあって、この自動車屋さんが私に車を下さったのです。もちろん、中古車です。ところが、この車安かったのはいいんですが、乗り始めて半年も経ちますと色々なところが壊れ始めます。カセットが壊れ、エアコンが壊れ、マフラーが壊れ、タイヤは3度パンクしました。そして、最後には助手席のドアが開かなくなってしまったのです。そんなこともあって、私はいい車に乗りたいと思うようになったのです。 気がつくと、会社に勤めて3年の間に3度車を買い換えていました。
けれども、気がつくと毎月のローンは大変なことになっていました。そんな時あるきっかけがあって、私は自分の人生とは一体何なのかを考えるようになりました。そして、その時に、気がついたのです。このままでは、自分の人生のために車があるのではなくて、車のために、自分の人生があるということになってしまうのではないかと。
その時から、私は自分の人生の生きがいについて考えるようになりました。その頃、私たちの教会に一人の人が海外から帰ってきていました。その人はその時30カ国以上の国々を回ったという話を聞かせてくれました。それで、私は一つの答えを得たのです。「自分はまだ世界などということは言えないけれども、日本の知らないところがたくさんある。だから、日本一周旅行をしたい。そのためにキャンピングカーを買おう」と思ったのです。また車か!とお思いかもしれませんが、当時の私がどれほど車好きだったのかよく分かるのではないかと思います。
けれどもそれがきっかけになって、私は自分の人生をどう生きるかということをその時から考え始めたのです。もちろん、キャンピングカーは買いませんでした。海外にも行こうと思ったのですが、うまくいきませんでした。そして、気がついたら神学校に通うようになっていたのです。そのきっかけになったのは、笠松教会におられた石川節子さんが礼拝のメッセージに来られた時に読んだ聖書の言葉でした。
「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があながたにお与えになるためです」(ヨハネ15章16節)
私はその時まで、自分の人生は自分の好きなように選ぶことができると思っていましたが、ここには、「神が選び、神が任命した」のだと書かれていました。私はすぐに逆らって思いました。でも、自分には車の借金があるから、神が選んだって神の願う生き方なんかできないと考えました。この聖書には、「あなたがたが私の名によって父に求めるものは何でも、あなたがたに与える」と書いてあるのです。
もう言い逃れをすることができなくなったのです。ですから、私は神学校に行った時に喜んで行ったというよりも、しぶしぶ神様がそういうから仕方がないという気分でしたから、他の神学生たちを見てずいぶんとショックを受けたものです。
けれども、私はその道が結局のところ正しかったのだと確信しています。神は私、賜物を与え、それを生かす道を神ご自身が考えてくださったのです。そしてそれに従って生きることは、そのまま私にとって喜びとなっているのです。
このように、神は私たちそれぞれに賜物を与え、それぞれの道を備えていてくださいます。そして神は私たちに実にさまざまなものを賜物として与えてくださっています。それは、私たちが望んでいるようなものでないこともあるかもしれません。
今週も洗礼の準備会をしている中で、ある方が言われました。その方は話すこと、耳で聞くことができないのですけれども、私が尋ねました。「あなたは自分に何が神から賜物として与えられていると思いますか?」と。するとその方は、「私はこのような状態にあることが神からの賜物であると思っています。」と言われ、続いてこう言われたのです。「こうして、聞くこと話すことができないことを通して私はそのような人たちと一緒にいることができる。それは、神様が私に与えてくださった賜物です。」と。私はこれを聞いて大変驚いたのですが、まさにこのことこそ、神からの賜物であると思いました。私たちは、自分にとって良くないと思えることであったとしても、神はそれをも神からの賜物とすることがお出来になるのです。このようにして、私たちが神から与えられている賜物を生かすなら、私たちは、どのような不安があったとしても喜んで生きることになるのです。なぜならそこに私たちの本当の人生が待っているからです。
お祈りをいたします。