2009 年 9 月 13 日

・説教 「Gift1 もらって嬉しい贈り物!」 ローマ人への手紙8章1-39節

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 20:59

鴨下直樹

 二週間の間休みをいただきまして、今朝久しぶりにみなさんの顔を見ることができ嬉しく思っています。いつもは創世記を順番に説教していますけれども、今日からしばらくの間創世記を離れて説教したいと思っています。今回から三回に分けて、「ギフト」という題のシリーズで主題説教をしてみたいと思っているのです。ですから、今日は創世記ではありませんで、ローマ人への手紙第8章を先ほどお読みしたのです。

 この朝、創世記を離れてギフトというテーマで説教しようと思ったのには一つの理由があります。それは、この夏岡山にあります私たちと姉妹団体になる聖約教団という教会の青年会のキャンプに招かれまして、私たち同盟福音の青年たちとキャンプを一緒に致しました。その時のテーマが「ギフト」というテーマだったのです。そこで三回にわたって私が説教をしました。今回のようなテーマの説教をこの芥見でもやった方がいいのではないかと思いまして、今日から三週間にわたって説教してみたいと思ったのです。

 

 さて、今回からの説教のテーマは「ギフト」です。その意味はもちろん「贈り物」という意味です。この夏になりますと、みなさんもあるいはお中元と呼ばれる「贈り物」、「ギフト」を贈ったりされた方が多いのではないかと思います。

 贈り物を頂くというのは大変嬉しいものです。私はあまりお中元を貰うという経験はないのですが(別に催促しているつもりもありませんけれども(笑))、お中元でなくても、やはり何か頂くと嬉しい気持ちになります。少し前と言っても、もう何年も前のことになりますけれども、ある方から教会にお中元が届いたことがあります。「鴨下先生にお渡しください」と添えられておりまして、喜んで頂きました。ところが、後になって、この「鴨下先生に」というのが、私の父ではないのかと考えるようになりました。ご存じの方も多いのですが、父も牧師をしておりましたから、日ごろの父への感謝を、私の所に持って来られて渡して下さいということだったようなのです。ところが、私は頂いた時にそんなこととは気づきませんでしたので、その戴き物が幸か不幸か食べ物であったために、全て食べてしまいました。それが分かった時にはもう遅いわけです。それで、後で父に電話をしまして、その方から大変良い贈り物を頂いたけれども、食べてしまったので、おいしかったと伝えておいてほしいと、ちゃんと伝えておきました。電話でしたけれども、その時の苦笑いをしている父の顔が見えるようでした。

 けれども、こういうことはまず起こりません。大抵贈り物というのは本人のところに届きます。そのプレゼントというのは、何かの感謝であったり、誕生日の贈り物であったり、かならず何かそこには理由があるわけです。もし、何の理由もないのにプレゼントを頂きますと、少し考える必要が出てくるわけです。このプレゼントには何か意味があるのではないか? 何か裏があるのではないか? そう考えないと、後で怖いことになります。

 たとえば最近ですと、新しい携帯電話にご契約頂くといくら分の金券をプレゼントなどとやったりするわけですけれども、後でしっかりその会社はその分は取り返すことができるからそういうプレゼントができるわけです。バレンタインのプレゼントとしてチョコレートなどを頂こうものなら、後が大変です。何倍かにして返さなければなりません。世の中というのは、だいたいがそういうシステムで動いています。私がこんな例をあげなくても、みなさんはいくらでもその手の例えを上げることができるだろうと思うのです。

 

 この礼拝では、まず第一回目として「もらって嬉しい贈り物」という題でお話をしたいと思っておりますけれど、そこにはそのような裏はありません。そんなこと言ったってどこでも「裏はありません」と言っても、実はあるというのがこの世界ですから、それはしっかりと聞いて自分で判断して頂かなければなりません。聖書は何を私たちに贈り物として贈ろうと願っているか、そのことを今日、わたしはみなさんに知っていただきたいと思っているのです。

 

 さて、私事で申し訳ないのですけれども、私は四年前からちょうどほぼ一年前までの三年半の間、ドイツにおりました。そういうこともあって、今回の岡山の青年キャンプで「Gift」というテーマで説教してほしいと聞いた時に、実は少し変な気がしました。というのは「Gift」というのは、英語で言えば「贈り物」、「プレゼント」という意味ですけれども、ドイツ語では同じスペルを書きますが意味は全く異なります。かすりもしません。ドイツ語で「Gift」と言いますと、ドイツ語では名詞には冠詞がつくので「das Gift」ですが、意味は「毒」という意味です。「毒」ですから、そんなものを貰おうものならもう大変なことです。下手をすれば死んでしまいますから、嬉しくもなんともない。なぜ、これほど意味が違うのかは良くわかりませんけれども、恐らくは、英語かドイツ語のどちらかの意味が途中で変わったのだろうと思います。それで、私は「Gift」と聞いてすぐに「毒」の方をイメージしてしまったわけです。

 しかも、そのキャンプのテーマはプログラムにこう書かれていました。「Gift 分かち合う喜び」です。もし、自分が毒に犯されて、他の人にも分かち合ってしまいますと、みんなして共倒れということになってしまうんです。こうなってしまうと、もう嬉しいどころの話ではなくて、一体どうしてくれるんだということになもなりかねませんし、貰って何か裏があるのか?というどころの騒ぎでもないことになってしまいます。

 ですから、そういうことにならないためにも、このテーマとして語られているGiftということを、しっかりと受け止めて頂きたいと思っていますし、また、神様がどれほどの贈り物をプレゼントとして、Giftとして与えようとしてくださるかということに、間違えないで聞き取って頂きたいと思っているのです。

 

 

 さて、前置きはそのくらいにしておきまして、早速今日のメッセージの中心に入っていきたいと思います。今日、私たちに与えられている聖書の箇所はローマ書第8章です。このローマ書の第8章は、実に色々なことが書かれていますので、これを丁寧に説明しようとしますと、到底この時間では足りません。全部の集会の時間を合わせても、説明しきれるものではありませんから、特に大切なところだけに焦点を絞ってお話をしたいと思っております。

 この初めの1節のところにこのように記されています。

「こういうわけで、今は、キリストにある者が罪に定められることは決してありません。」(8章1節)

 このローマ人への手紙には「キリストにある」という言葉が何度も出てきます。この言葉は、キーワードと言ってもいい言葉です。ギリシャ語で「エン・クリストー」という言葉、英語で言えば「イン・クライスト」となるわけですけれども、「キリストの中に」という意味です。

 そうです。今日、私がみなさんに伝えたい、神が私たちに与えてくださるGiftというのは、この言葉に尽きると言ってもいいわけです。「キリストの中に入れられている」ということが、神が私たちにGift、プレゼントとして与えようとしていてくださる事柄なのです。すでに主イエスを信じて、クリスチャンになっておられる方にいうならば、「すでに与えられているGift」ということになります。

 「えっちょっと待って、Giftというのはふつう貰う物なわけで、私たちが手に入れる物のことを普通はいうんじゃないの?」と思われた方は、大変勘がいい方だと思います。というのは、「キリストの中に入れられている」というのは、貰い物としてのプレゼントではなくて、プレゼントの中に入ってしまうということになってしまうからです。

 普通プレゼントというのは、小さければ小さいほど価値があると言います。その象徴がダイヤモンドの指輪でしょうか。そういうわけで、普通贈り物というのは、そういう自分の手に入れられるものを指すのですけれども、この神が私たちに与えたいGiftというのはそうではないのです。あまりにも大きすぎるために、私たちの手の中に収めるどころか、私たち自身のものにならないほど大きいので、そうすると、どうするかというと、私たちがそのプレゼントの中に入るしかないほど大きなものなのです。こう聞くと、いかにこのプレゼントが私たちの常識を超えたプレゼントであるということがおわかりいただけるのではないかと思います。

 

 そして、これほどの贈り物を与えることができるのは、やはり神しかおられないだろうと私は思います。「こういうわけで、今は、キリストにある者が罪に定められることは決してありません」というのは、まさに私たちへの神が与えてくださるGiftの大きさが表されているわけです。

 ここで「罪」という言葉が出てきます。私たちの中には罪があるという訳ですけれども、「罪」と一言で言っても色々な罪があります。「お金を盗む」という罪もあれば「人殺しをする」という罪もあれば、「悪口を言う」、「いじめる」とか「人を大切にしない」とか挙げればきりがありませんけれども、そういうものはみんな「人間の心の中のこと」と考えます。心の中にあることが、行動となってあらわれるなどと言いますけれども、まあそう言っても間違いではないだろうと思います。

 今日は、罪の話をしたいのではなくGiftの話をしたいと思っているので、これ以上罪の話はしませんけれども、「心の中に悪い思いがある」ということは、誰もが認めなければならない事実でしょう。これは人と比較してもどうしようもないことですから、単純にあるか、ないかと言われれば、私たちの中にそういう部分があるわけです。じゃぁ、その心の中身を入れ替えればいいのか?ということになります。よく「心を入れ替えてがんばります」などという表現をつかいます。けれども、「心を入れ替える」なんてことは簡単にできることではありません。

 最近、教会のパソコンが故障しました。専門の方に聞きますと、マザーボードというコンピューターの基板の部分が故障しているので、新しいのを買った方が早いんだそうです。私なんかはもったいないと思うので何とかできるのではないかと考えるわけですが、その方が安いと言われてしまうと諦めざるをえません。けれども、本当は悪くなったところだけ交換すれば一応修理できるわけです。

 人間の場合はといいますとそうはいきません。心が悪いからといって、心だけを交換するなんてことはできないのです。ところが、神様というお方は大変ユニークなお方でして、私たちの心だけを何とかするのではなくて、私たちの全てをひっくりまとめて変えてしまうことができると考えておられるのです。

 あそことここはいいから、というのではなくて、まるっきり全部変えてしまうというのです。しかし、どうやってそんなことができるのでしょう。それが、イエス・キリストを私たちにそのまま贈り物として与えましょうということなんです。これは、あまりにも大きな話なので、聞いてもあまりピンとこない話なんですけれども、このローマ8章というのは、そういうことが書いてあるわけなんです。

 この「罪」というのは、簡単に言うと「よくない」ということなわけですけれども、私たちの何が「よくない」というと、神様の目から見ると「全部よくない」ということのようです。ところが、私たちはそうは思いません。まだ、この頭もそれほど使っていないし、体力だってまだけっこうあるし、顔もそこそこだし、とか色々言えるわけですが、私たちはもったいながり屋さんなもんですから、「まだまだいける」と判断します。けれども、神様はそうではなくて、全てをまるっと新しくしてしまったほうがいいとお考えなのです。中途半端に良くするんじゃなくて、どうせ新しくするなら、もっとも素晴らしものをプレゼントとして与えます!とお考えになって、神の御子である主イエス・キリストをそのまま私たちへのプレゼントとしてあなたに差し上げるというのです。それが、Giftです。けれども、主イエスを心の中にだけ置いておいて、心だけキリストの心を上げましょうというのではなくて、キリストの中にすっぽり入ってしまうといいということなんです。それはまるで、新しく家を頂くようなもので、私たちの生活そのものがキリストの中でなされるのです。それが、「イン・クライスト」、「キリストの中に生きる」という言葉で表わされている、私たちへの神からの贈り物なのです。

 

 

 けれども、私たちは「すべてが良くない」などと言われても抵抗したくなります。本質的に私たちはもったいながり屋さんで、まだまだつかえる、まだまだ私は大丈夫だと思っているからです。

 それで、2節に進みたいわけです。「えっまだ2節?」と今何人か思ったんじゃないかと思います。気にしないで行きたいと思いますが、2節にはこうあります。

 「なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理からあなた方を解放したからです。」(8章2節)

 ここに「罪と死の原理」という言葉がありますけれども、これは私たちはまだまだいけるんじゃないか?と思っていても、その自分にはよくない部分があることを認めざるを得ません。というのは、どこかで限界がきてしまうからです。たとえば肉体的なことでもそうです。「今はまだ若いつもりだし、見てくれもそこそこだし、まだ体力だってある」と思えるわけですし、実際そうだろうと思いますけれども、やっぱりそれも「死の原理」というのに支配されていますから、だんだんと老いてきます。心のことにしても、いつも悪いことばっかり考えているわけではないのはよく分かりますけれども、悪いことを考え始めると眠れなくなってしまうことがあるし、一度腹が立つと、ちっとも気が治まらないということだってあるわけで、そういうやはり「罪の原理」に支配されていしまっているのが私たちなんです。聖書はそのように、私たちには限界があることを「罪と死の原理」という言葉を使って、これに支配されているのですと説明しているのです。

 だから神は私たちに、そういうものを全部ひっくりまとめて、もっとも素晴らしい、完全なものを与えようではないか!と考えてくださって、イエス・キリストを私たちに下さったわけです。そうやって、キリストを頂くのです。それは、私たち自身の存在を否定するのではなくて、そのままキリストによってすっぽりと包みこむように覆ってしまおうということなのです。

 ですから、このイエス・キリストという贈り物を、ただ心の中に入れるというよりも、先ほど言ったように、新しい家に住むようにしてこのキリストの中にどっぷりつかって生きるのです。そうすると、私たちはキリストに支配されているのですから、私たちの持つ罪と、死の原理から私たちは解放されることになるのです。なぜなら、私たち自身は限界のある体や心を持って生活しているわけですが、キリストの中で生きるなら、もはや、私の持っている弱さよりも、キリストの完全さでつつみこまれているので、心だけではなくて体もこのキリストによって死の支配から解放されるからです。そして、私たちはそのような完全な救いを頂いたことを、私たちが死に直面した時に、身を持って体験することになるのです。キリストが死を打ち破ってよみがえったように、私もまた、キリストご自身をいただいたので同じようになるということが分かるのです。

 

  これが、聖書の言う救われるということです。ですから、私たちが信じている神は、私たちにとてつもなく大きなプレゼントを贈ってくださって、ただ、くださっただけでなくて、私たちがそのGiftが与えられているということを、あらゆる方法で確認できるようにしてくださいました。そのことが、このローマ書の8章には色々な言葉で記されています。

 たとえば、9節には「神の御霊があなたがたのうちに住んでおられる」と言います。私たちはキリストにすっぽりと覆われているだけでなくて、心の中ももちろんこのキリストの霊が支配してくださる。この霊が義であるので、正しいので、このプレゼントを頂いた人は死んでいく体、悪いことをしてしまう体を持ち続けていても、この死には支配されていないから老いていっても、どこかが悪くなったとしても、大丈夫だという保障を与えてくださいました。

 そればかりではなくて、「アバ、父」と神に向かって「お父さん」と祈ることができる心が与えられるのです。ですから、もし、みなさんが神に向かって「お父さん」と祈りたいという心を持っているなら、その人の中にこのプレゼントが与えられていることを確認することができるわけです。それが15節に書いてあります。

 今度は26節なんかを読むと、祈ることができない時のことが書いてあります。今は気分がいいから神様と祈れるけれども、祈れなくなる時もあるということがあります。その時も、この聖霊が私たちの心で、私たちの状態を知っていてくださるので、神に、私たちに代わって祈っていてくださると書いてあります。

 28節には「神は全てのことを働かせて益としてくださる」と書かれています。私たちは何をやってもダメだ、ということではなくなったのだといいます。だから、神はそういう私たちのことを義である、神の目に義しい人である、と認めてくださるということがここから続いて書かれています。

 

 そして、この8章の最後には31節から39節までですけれども一度お読みします。

 

 ローマ人への手紙8章31節~39節(朗読)

 

 ここを読むと、この神からの救いを与えられた人は、今後何が起こったとしても、どんなことが起こったとしても、絶対に神から引き離されることはないということが約束されているのです。どんなことが起こっても、神の愛から引き離されることはない、たとえ苦しいことがあったとしても、危険が迫ってきたとしても、今あるものも、後に来るものも、どんなことがおこっても、この方の愛から引き離されることはないというのです。

 これが、神が私たちに与えてくださるGiftです。それは一回きりではない、完全で、永遠に続き、変わることのない確かな贈り物です。それは、「私はイエス・キリストを信じます」、「私は、このままではだめなので、あなたに何とかしていただくてはならない」と主イエスを信じて、この方に身をゆだねるなら、その人に与えられる神からの贈り物なのです。

 

 ぜひこのGiftを貰っていただきたいし、また、すでに貰っている方は知っていただきたい、私たちに与えられているものがこれほど大きなものであると。そして、この贈り物を頂いているのだから、本当に安心してほしいし喜んでいただきたいのです。

 せっかく頂いたのですから、これを私たちの何ものにも代えがたい喜びとして、この主イエスの中で歩んでいただきたいのです。

 

 お祈りをいたします。

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