2020 年 1 月 12 日

・説教 創世記15章1-21節「星空を仰ぎ見て」

Filed under: 特別説教,礼拝説教 — susumu @ 13:18

2020.01.12

鴨下 直樹

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 みなさんは、アウトドアキャンプというのをされたことがあるでしょうか。テントを張って、野外でするキャンプです。私たちの教団では岐阜の根尾にキャンプ場をもっています。それもキャンプですけれども、宿泊施設ですから、また同じキャンプでも雰囲気が異なります。私の思い出から始めて恐縮なのですが、まだ私が教団の学生や青年の担当の牧師をしていた時に、毎年教団で行っている夏のキャンプとは別にアウトドアキャンプを行っていました。岐阜の根尾に知り合いがキャンプ場をもっておりますので、そこをお借りして20名ほどの青年たちとで、毎年キャンプを楽しんでいました。夜、バーベキューをして、温泉にいって、夜もだいぶ遅くなりますとみんなで車に乗り込みます。根尾の川の上流に車で一時間ほどでしょうか、そのくらい走りますと上大須ダムという大きなダムがあります。山の上の方ですし、ダムですから明かりもほとんどありません。そこを車で一周数キロあるのですが、そこをドライブしたり、途中で降りたしながら自然を満喫するのです。そうすると、鹿やら猪やら、サルの群れやら次々に野生の動物たちが出てきますので、「ナイトサファリ」などと呼んでいました。途中でおりて散歩をしたりしますと、サルの群れに襲われそうになって、慌てて車で走って逃げたりとか、結構楽しい時間を過ごすことができました。

 ダムの真上の部分は橋のようになっていまして、右側がダムの湖、反対側は水を流す方ですから、すごく高いところにいるのが分かります。その橋のあたりは動物も出てきませんので、その橋のところにみんなで寝そべって、夜空を眺めますと、もうこれはすごい数の星を見ることができます。

 以前、しし座流星群が見えるという時に、その時も何人かで車を走らせまして、岡山県の美星町という町がありまして、そこが星がよく見えるというので、行ったことがありましたが、根尾では、美星町で見た星の数なんて比較にならないくらいたくさんの星を数えることができました。美星町は、周りに高い山がないので、周り一面見渡せるという意味では、流星群は見ごたえがありましたが、あまり高い山ではありませんから、どうしてもたくさんの星は見ることができません。私の知る限り、その上大須ダムで見た星空の星が、いままでで一番たくさんの星を見た時だと思います。

 きっと、みなさんもこれまでの歩みの中で何度も何度も美しい夜空を見たことがあると思います。

 聖書に記されている神さまのイメージというのは、それぞれ実に豊かなイメージがありますが、今日の箇所はその中でも最高に素敵な、それこそ神様はけっこうロマンチストだなというようなイメージを抱くことができます。

 順に今日の聖書を見てみたいと思うのですが、まず15章の1節にこう記されています。

これらの出来事の後、主のことばが幻のうちにアブラムに臨んだ。「アブラムよ、恐れるな。私はあなたの盾である。あなたへの報いは非常に大きい。」

 ここには、アブラムを気遣って語りかけておられる主の慈しみ深さが示されています。「これらの出来事の後」というのは、先の戦争の出来事の後ということです。そして、「恐れるな」との語りかけから考えると、アブラムはその戦いの後、恐れを持っていたと言うことが分かります。いつまたエラムの王ケドルラオメルが連合軍を引き連れて、今度はアブラムを攻撃するためにやってくるかもわからないという恐れを持ったことは想像に難くないことです。しかし、主はそのアブラムに「わたしがあなたの盾となってやろう」と言ってくださるのです。こんなに心安らかになる励ましの言葉はありません。どんな恐れを持っていたとしても、この一言さえいただけるならば、一瞬で問題は解決です。そして、主は「あなたへの報いは大きい」と、アブラムを励ましておられます。主は、アブラハムの生涯の中で、何度もこのような確かな平安を得られるような言葉を語りかけてくださいます。それは、信仰に生きる者にとって大きな支えとなったはずです。主の愛と、主の近さを覚えることができたはずです。

 この創世記15章はアブラハムの生涯の中心の出来事と言っていい箇所です。そして、ここで主はアブラムと語り合っておられます。これまで、主とアブラムが具体的な言葉で語り合っておられる姿は記されていませんでした。ここで、主はアブラムのとても近くにいてくださり、アブラムと語り合っていてくださいます。

 さて、そこでアブラムはなんと答えたかですが、2節を見ると驚きます。

アブラムは言った。「神、主よ、あなたは私に何を下さるのですか。私は子がないままで死のうとしています。私の家の相続人は、ダマスコのエリエゼルなのでしょうか。」

 ちょっと耳を疑いたくなる言葉です。恐れをもっているアブラムに、主は優しく語りかけていてくださるのに、アブラムはあろうことか嫌味で言い返したのです。 (続きを読む…)

2017 年 11 月 25 日

故・村上伸師告別式

Filed under: 特別説教 — susumu @ 13:00

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2014 年 1 月 1 日

・元旦礼拝説教 詩篇73篇 28節 「神の近くにある幸い」

Filed under: 特別説教 — miki @ 23:11

 

2014.1.1

元旦礼拝

鴨下 直樹

ローズンゲン2014年 年間聖句  

 

詩篇73篇28節

「わたしは、神に近くあることを幸いとします。」 新共同訳 

「わたしにとっては、神の近くにいることが、しあわせなのです。」 新改訳

 

 

 新年を迎え、この新しい一年の御言葉として今年はこの詩篇73篇28節の御言葉が与えられています。ローズンゲンは新共同訳聖書を使っておりますので、新共同訳の聖書を取り上げたいと思いますが、そこには「わたしは、神の近くにあることを幸いとします。」と書かれています。「神の近くにある幸い」をこの一年覚えようと勧められているのです。何と素晴らしい御言葉が私たちに与えられているのでしょうか。この御言葉の通りに、神の近くにいる幸いを覚えることができる一年となるように誰もが願うことでしょう。

 今日の御言葉は詩篇73篇の一節です。詩篇73篇というのは、旧約版放蕩息子の物語などと言われる場合があります。と言いますのは、この詩篇の前半で、作者は悪者が神に対して敵対して生きているにも関わらず、富みを得ていることに目をとめながら、そのような生活にどこかで心惹かれている姿が描かれているからです。神に逆らって生きても、豊かな富を得、幸せそうに見える。作者はその姿を見て、おかしいではないかと嘆いているのです。

 これは、私たちでも同じような心を持つことがあるのではないかと思います。「正直者が馬鹿を見る」というこの世の中で、信仰に生きることのむなしさを覚えることが少なからずあるのです。今日も、多くの人々が初詣に行きます。そのように多くの人々がさまざまな豊かさを求めて祈りをする。私たちの信じている神が真の神であるならば、どうして私たちは僅かな人々しか教会に集わないのかと感じることがあるかもしれません。ある方々は、家族が初詣にいくのを断って、家族から離れて一人でこの礼拝に来たという方も少なくないと思います。けれども、ここに集っても、この世の中が持つような華やかさはありません。そこで、少しさびしい思いを持つ方があるかもしれないのです。

 ところが、この詩人は十七節でこのように書いています。 (続きを読む…)

2013 年 12 月 24 日

・燭火礼拝説教 ヨハネの福音書1章1-18節 「いのちの光」

Filed under: 特別説教 — miki @ 22:38

 

2013.12.24

聖夜、燭火礼拝説教

鴨下 直樹

 

 最近クリスマスの季節になると、色々なところでイルミネーションを使った飾り付けをしているところが増えてきました。木曽川の河川敷にある138タワーの公園も夜になると沢山の電飾をつけたクリスマス・イルミネーションの飾り付けをしています。先日、車で通りかかって、家族で見て来ました。とても寒い夜でしたけれども、駐車場に車が入りきれないほど沢山の人が来ておりました。公園の中に入ってみて納得したのですけれども、とても色鮮やかな電飾で、本当に公園が不思議な光のイルミネーションで全く別世界にいるかのような不思議な美しさでした。子どもがとても喜びまして、今では遠くから一宮タワーを見つけるたびに、「ピカピカ見たい!」と叫んでいます。

 光というのはとても不思議なものです。そのように、人の心に訴える優しさがあるのでしょう。今晩もこうして、蝋燭の輝きを見ておりますが、この光もまたとても幻想的です。

 

5節「光はやみの中に輝いている、やみはこれに打ち勝たなかった。」とあります。

光は闇の中で輝くものです。闇に対する恐れがあるからこそ、光に私たちは慰められるのでしょう。 

 光というのは、いつも外から来るものです。自分自身で輝くことはできません。自分自身で光をつくり出すこともできません。私たちはその光を見る、あるいはその光に包みこまれることしかできません。この聖書箇所は「やみはこれに打ち勝たなかった」と言っています。

 この「打ち勝たなかった」という言葉は他の聖書のでは実に色々な翻訳がされています。 (続きを読む…)

2010 年 11 月 7 日

・説教「信頼の力」 詩篇84篇

Filed under: 特別説教,礼拝説教 — susumu @ 15:34
H.メッツガー師

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2010 年 9 月 5 日

説教「ささげる恵み」 富澤 誠治

Filed under: 特別説教,説教音声 — susumu @ 12:00

本日は名古屋市の富澤誠治牧師が説教をして下さいました。

説教 「ささげる恵み」
ルカ 21章 1~4節

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2010 年 8 月 29 日

説教「私たちの信仰」 明田 勝利

Filed under: 特別説教,説教音声 — susumu @ 12:00

本日は甲府市の明田勝利牧師が説教をして下さいました。

説教 「私たちの信仰」
ヨハネ 9章 35~38節

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「私たちの信仰」   ヨハネ9章35〜38節

この朝、ヨハネ福音書を通して、私たちの信仰の背景について考えてみます。私たちの信仰を支えているものは何か。そのようなことを考えてみるとき、自分の信仰は、自分が支えているのではなく、過去から現在に続く、受け継がれてきた歴史があることに気づかされます。

ヨハネ福音書が、いつ、誰が、どこで書いたのか、正確には分かりません。ただ、四福音書の中では最後に書かれており、たぶん、紀元90年代後半終わりころに書かれていると考えられています。私にとって、聖書を読むとき、その時代背景に興味があります。人々がどのような時代に、何をどのように信じ、どのように生きていたのか。 (続きを読む…)

2010 年 6 月 27 日

特別伝道礼拝「私たちをひとつに結ぶキリスト賛歌」ピリピ人への手紙 2章1-11節

Filed under: 特別説教 — admin @ 14:00

加藤 常昭

キリスト者になるということは讃美歌を覚えるということです。「歌う存在」という言葉があります。存在そのものが歌を歌い始めるのです。生きていることは、歌うことだと言うことすらできるようになる。

私の信仰は多くの方たちの感化によって養われてまいりましたけれども、何といっても最初に私に信仰の感化を与えたのは母です。母は徳川御三家のひとつに仕えておりました。奥女中の女中頭というのです。しばらく前にNHKの大河ドラマに「篤姫」というのが登場いたしまして、そこに徳川家の昔、といってもそんなに遠くはない、明治維新のころの姿が描き出されました。やたら重たそうな着物を着た女中たちが登場しました。その時代からそんなに時も立っていない徳川家に仕えた母も、あんな恰好をしていたのかしら、とちょっと心配になったぐらいですが、まあもちろんそんなことはなかったと思いますけれども、徳川家の御三家のひとつに仕えていたのです。女中頭というのですから、ただの女中ではなくて「頭」だというので、少しは偉いのかと思っていたら、「なに、女中頭なんてたくさんいたから」と言って笑っておりました。けれども、主人の家の家族に近いところで働いていたようです。

母はそのおかげで信仰に導かれたのです。東京飯田橋駅の近くに富士見町教会というのがありますが、この富士見町教会を建設いたしましたのは旧日本基督教会の植村正久という牧師でした。この人は旗本の息子なのです。そのせいだっただろうと言われておりますけれども、徳川家に特別な関心を持っておりました。ただ徳川家だけではなかったようですけれども、貴族伝道、あるいは華族伝道と言って、そういう家に伝道師を派遣して一生懸命一種の家庭集会をやったのです。徳川御三家の殿様が洗礼を受ける、ということまではいかなかったようですけれども、かなりの感化を与えたようでして、私の子どものころには、その徳川家で、クリスマスの大きなツリーを囲んだ家族の写真を見たこともあります。

殿様は洗礼を受けなくても、仕えている人たちに感化が及びまして、随分多くの人たちがキリスト者になって、母もその一人でありました。とにかく讃美歌が好きでした。台所でも歌を歌っている。特に私ども子どもの心に残っておりますのは、子どもをお風呂に入れまして、一緒に入ってくれることもありますけれど、多くの場合は子どもたちだけをお風呂に入れておいて、母は焚口に座りまして、昔の風呂ですから薪をくべるのです。薪を入れて湯の加減を聞きながら讃美歌を歌っているのです。私はお風呂の湯の中につかりながら、母が細い声で讃美歌を歌っていたのをよく思い出します。母は昔の女性のことですから、習ったことといえば「謡」だとか「清本」だとか「長唄」だとか、そんな、こっちから言うと、「そんな」と言いたくなるようなものばかりを習っているものですから、讃美歌に妙なこぶしがつくのです。ちょっと真似が出来ないようなこぶしをつけて歌うのです。けれども、今から考えるとやはり母の歌う歌というのが、子どもたちの心に沁み入ったと思います。
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特別伝道礼拝「あなたの居場所」ピリピ人への手紙3章2-11節

Filed under: 特別説教,礼拝説教 — admin @ 10:30

加藤 常昭

今から二十三年前に「説教塾」というグループが生まれました。今は成長して正式にメンバーとなっている者は二百人を超えます。二十教派を超える説教者たち、牧師、伝道師たちが集まって色々なかたちで説教を学んでいます。明日から名古屋でその学びが四日間あります。ここの教会の鴨下先生も、もうかなり前からこの説教の学びの仲間でありまして、大変親しくさせていただいている若い、頼もしい説教者です。その先生から皆様のこと、この教会のことを何度も伺ってまいりました。今回ようやく導かれて、この日の朝の礼拝をその皆様と共に捧げることができます。
皆様も同じですけど、私は日曜日の朝が来ると、この日曜日はもう二度と戻ってこない、自分の生涯にとってかけがえのない時、その時をこのような礼拝で過ごすことができる。今すでに読まれた聖書の中に「復活に生きる」という言葉がありました。日曜日は主イエス・キリストがよみがえりになったお祝いの日です。その生命(いのち)を祝う時を、今朝は私は皆様と共に過ごすことが出来る。もう二度と帰ってこない。そして恐らく、この教会のこの場所に立って説教することもないかもしれません。その様な思いを込めまして、私は何年か前から、一つの教会の伝統に従いまして説教のはじめに、聖書の言葉によって、説教を聴く方たちに祝福の言葉を贈ることにしています。

今朝、私どもが神の言葉として聴きますのは、伝道者パウロがピリピの教会に書き送った手紙であります。その手紙の中にあります、これはしばしばキリスト教会で祝福の言葉として朗読されるものでありますが、それをここで皆様に贈ります。

「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。あなたがたの寛容な心を、すべての人に知らせなさい。主は近いのです。何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくださいます。」

アーメン。(ピリピ4:4-7)。

信じること、キリスト者になること。それはどういうことだろう。色々と説明することが出来ます。今朝、司式者によって朗読されましたピリピ人への手紙の第三章の言葉はこの手紙を書いたパウロが、ある意味では珍しいことですけれども、自分の歩みについて、とても簡潔な言葉で自分の生涯を語ってくれているところです。何故、自分がキリスト者になったか。これはとても大きな変化でした。このパウロの言葉の中に、六節に、「その熱心は教会を迫害した程」とあります。パウロ、この人が聖書の中に登場してくるのは、使徒の働きと呼ばれる、教会がどのように最初の歩みを始めたか、ということを語っている書物の最初の方です。教会の指導者の一人でありましたステパノが最初の殉教者になりました。エルサレムで、教会を快く思わない人達によって捕らえられて、石で打ち殺されたのです。血を流して死んだのです。そこでパウロ、その時には「パウロ」という名前でなくて「サウロ」という言葉で、名前で記されていますけれども、サウロはステパノが殺されることに賛成したとはっきり書いてあります。人殺しに賛成したのです。キリスト者を殺すことに賛成した。それどころでないのです。ここに記されているように、その後、教会を迫害して歩いたのです。生まれたばかりのキリスト教会をぶっ潰すというグループの先頭に立ったのです。とっ捕まえて牢に放り込む、キリスト者なんか殺されてしかるべきだと思っていた人です。

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