・説教 主の祈り「罪を赦したまえ」 マタイの福音書6章12節
鴨下直樹
私たちは礼拝で主の祈りを祈ります。みなさんの中には、毎日この主の祈りを祈っておられるという方も少なくないと思います。宗教改革者ルターは、ここで教えられている祈りの一つ一つは、生涯にわたって祈らずにはおられないほどの重大なものばかりである、と言っています。それで、長い教会の歴史の中でも度々この祈りを私たちの日毎の祈りとするようにと勧められてきました。
しかし、日毎にこの祈りを真剣に祈ろうとする時に、どうしても立ち止まらざるを得なくなるのが、今朝私たちに与えられている御言葉であるということができると思います。
「私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。」という祈りです。
長く慣れ親しまれて来た文語訳聖書の主の祈りの言葉ではこうなっています。
「我らに罪を犯す者を我らが赦す如く、我らの罪をも赦したまえ。
「私たちに罪を犯した者を私たちが赦したように、私たちの罪も赦して下さい。」と祈るのです。そうすると、そこでどうしても考えなければならないのは、「私たちが罪を赦したように」、文語訳の言葉では「我らが赦す如く」という言葉の持つ意味です。ここでは、もう私は人のことを赦していますから、どうか私の罪も赦してくださいと言うのです。
私が以前奉仕しておりました教会で、耳が聞こえなくなってしまった方が来ておられました。それまでは普通に聞こえていたのです。ところが、務めている会社でひどいいじめを受けて耳が聞こえなくなってしまったのです。やがて教会を訪ねるようになり、信仰を持つようになりました。そして次第に耳も聞こえるようになっていきました。ところが、その方がある時、私にこんな話をしてくださいました。私はこの主の祈りのこの部分になると声を出して祈ることができないのですと。いつも、ここだけは祈ることができずに黙っているというのです。このように心からは祈れないというのです。
このような厳しい経験はないかもしれませんけれども、みなさんの中にも主の祈りのこの部分が祈れなくなるというようなことがあるのではないでしょうか。同じような話としてもっともよく知られたのは戦争の時代、第一次大戦の時、あるいは第二次大戦の時のヨーロッパの教会、特に攻め込まれた地域の教会ではどこに行っても礼拝の中でこの祈りの言葉にさしかかると、誰もが口ごもったと言います。自分たちを責めて来るあの敵を、家族を、あるいは同国の者を殺害するあの人たちを赦しましたから、私の罪を赦してくださいと素直に祈ることができなかったのです。こういう思いは私たちにも良く分かることだと思います。
先週まで私とマレーネ先生は熊本まで青年たちを連れてキャンプに行っておりました。そこで、ヨナ書から御言葉を聞き続けました。このヨナ書のテーマも同じです。イスラエルを苦しめるアッシリアの人たちを憎むことはできたとしても、彼らが救われるということをヨナは考えたくありませんでした。だから、アッシリアの街、ニネベに行くようにと主から命じられた時、ヨナは主に逆らったのです。ヨナの心の中にあった思い、それは自分は正しいという思いです。自分を、あるいは自分たちを苦しめた者は裁かれるべきであって、神の憐みの対象であるはずがないと考えたのです。そして、同時に、神が憐み深い方であるということが分かれば分かるほど、そのことが受け入れがたいものになっていくのです。そこで、私たちはヨナと同じように苦しむのです。
この祈りは、私たちにさまざまなことを考えさせます。ここで、どうしても考えざるを得ないのは、主に罪を赦していただくためには、私たちがまず赦さなければならないのかということでしょう。赦されるためには、自分の方から赦すことが前提である、あるいは条件なのかと考えるのです。
そうすると、すぐに心に浮かんでくるのは、「神の恵みによって救われる」という言葉です。救いは行いによるのではないというのが、聖書が語るところであるということです。だとしたら、私たちがまず赦すということが条件ではないはずだと考える。確かに、そのように考えることはできるのです。私たちを救われる神、主は、私たちが立派な行いをしたら救いを与えようとか、恥ずかしくない人間になれたら信仰を与えようということではありません。私たちが神の御前に自らの足りなさ、自らの罪を認めて神の前に正しく生きようと願う時に、神は私たちに恵みをもって信仰を与えてくださる、救ってくださるのです。
ではなぜ、主イエスはこの祈りにおいてこう祈るようにと教えられたのでしょうか。訳の間違いなのでしょうか。それとも、これはそれこそ沈黙して祈らなければいいということになるのでしょうか。私たちがどうしても知らなければならないのは、人を赦すということと、赦されるということがどれほど深く結びついているかということです。
さきほども、この祈りの文語訳の祈りを紹介しました。この主の祈りの中でも、もっともよく知られているのは文語文の主の祈りです。これは、1880年に文語訳の新約聖書に訳されて以来、今日に至るまでほとんどの教会でこの祈りが用いられています。そこでは今日の箇所は「我らに罪を犯す者を我らが赦す如く、我らの罪をも赦したまえ。」という言葉になっています。私たちの芥見教会では昔から新改訳聖書の主の祈りを礼拝の時に祈っています。ここでは「私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。」となっています。
ここですぐに気づくことは「罪」という言葉と「負いめ」という言葉の違いです。新改訳聖書にはこの12節の下に注が載っておりまして、そこには「あるいは『罪』」と記されております。この言葉は「負いめ」とも訳せるし、「罪」とも訳せるということです。大きな意味では「負いめ」と「罪」というのは同じことです。けれども、このマタイの主の祈りの方では、「負いめ」と訳すのがよいのではないかと考えられています。
「負いめ」という言葉を私たちが使う場合、あの人に「負いめ」があるとか「借り」があるなどというように使います。その人に対して顔向けできない何かがあったり、あるいは、大きな助けを受けてそれにまだ応えていない、借りを返していないというような時にこの言葉を使います。人に負いめがある時に、負いめのある人に対して私たちは大きな顔をすることはできません。「負いめ」があるということは、人間関係の間に大きな負債があるということです。そして負債があるということは、私たちの自由が奪われているということです。
人に対して負いめがあるということを具体的に考えてみますと、例えばその一つは人を傷つけてしまったというような場合です。人と、人との心が離れるようなことをしてしまう時に、私たちはその人との間に負いめが生じます。確かにそれは「罪」とすることもできると思いますけれども、「負いめ」とすると、それが何であるのかが具体的になるということが言えるのだろうと思います。人と人を引き離すものの中でも大きなものは何かというと、その一つに「嘘」をつくということがあります。これは、夫婦の間であろうと、親子関係であろうと、友人や社会の中での人との関わりであろうと、嘘が入りこみますとお互いの間を引き裂く大きなものとなります。たとえそれがとっさに自分を守ろうとするためについてしまった嘘であったとしても、嘘というものが二人の間に入り込むと、それはどうすることもできないような力を持って互いを引き裂くのです。
もちろん、そのような「負いめ」というのは「嘘」だけに留まりません。「いじめ」の問題も、もっといえば国と国との争いである「戦争」も、両者の間を引き裂く力となるという意味ではどれも同じことです。このような「負いめ」というのは、そのような具体的な罪の姿となって表れるのです。すると、そこでは人間関係がぎこちないものになってしまいます。それまでの関係が築くことができなくなるので、自由が奪われてしまいます。そして、悲しみや怒りがそこからいつまでもいつまでも生まれてくるのです。
そのような負いめが生じてしまった場合、二人の間を引き裂き、人と人とを引き裂き、民族同士を争わせ、被害者だと思う方には自分は正当である、正義であるという思いを抱かせ、傷つけた側にも理由があるのだとか、仕方がなかったのだとか、自分を守るためにはこれしか方法はなかったなどというような理由を生じさせて、両者が決して相容れないものとなっていくのです。
けれども人間関係は、人が生きていく上での土台です。そんなに簡単に壊されていいものではないはずです。そういうこともあるからでしょうか。この主の祈りの言葉は、「そして」という言葉から始められているのです。
この「そして」という言葉は、祈りの中には言葉として訳されて出てきていないのですけれども、その前の祈りである「私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。」に続いて「そして、私たちの負いめをお赦しください。」と言葉が続いているのです。つまりどういうことかというと、日ごとのパンと、罪の赦しというのは、私たちの生活の中で切っても切れない土台であるということが表されているのです。
ルドルフ・ボーレンというドイツの神学者がおります。今年の二月に残念ながら亡くなったのですけれども、先日私たちの特別伝道礼拝に来て下さった加藤常昭先生と共にドイツで説教を教えておられた神学者です。この方の言葉にこういう言葉があります。
「赦しを求める願いは、パンを求める願いと一体である。我々は日ごとのパンを必要とするのと同じように、赦しを必要としてる。パンが不足すれば滅びてしまうのと同じように、赦しを欠けば、はじめに魂が、それから体が滅んでしまう。赦すが伴わなければ、パンは我々の役には立たない」。
このボーレン先生の言葉にあるように、生きるために「パン」がどうしても必要なように、いやそれ以上に、「赦し」が私たちの日ごとの生活にどうしても無くてならないものなのです。
つまり、「負いめ」が人と人とを引き離すものであるとすれば、赦しこそが、人と人とを結び合わせるものとなるということです。赦しは、いや、赦しこそが、人と人を引き裂く力に勝って強く働く、人を結び合わせる力なのです。
考えてみていただきたいのですが、先ほどもあげた「嘘」が、自分と誰かとの間にあるとすると、その間にある大きな壁を取り除くのは赦しの言葉以外にありません。そして、赦すという言葉を耳にしたとたん、それまで以上に深い愛で結ばれることになるのです。自分は愛されているということをそこで人は覚えるのです。
子どもが親に嘘をつくということがあります。私も子どもの頃に何度も嘘をついた経験があります。その時に親はどのような思いでいたのだろうか、と今考えれば思います。けれどもそこで、自分がついた嘘が赦された時に、自分は受け入れられているということを感じることができた。おそらく誰もがそのような経験をお持ちなのだろうと思います。
福音館という絵本の出版社があります。子どもに絵本の喜び、言葉の喜びを伝えるために松居直さんは福音館を始めました。この松居直さんの本の中にカトリックの司祭でドン・ジョバンニ・ボスコの言葉としてこういう言葉が紹介されています。
「子どもを愛するだけでは足りない。愛を感じさせないといけない」と。愛を感じさせるというのは、赦しの中でこそ生まれてくるのです。これは、子どもだけのことではありません。あらゆる人間関係の中でも言えることです。立派なことを語ったところで、それが心に届かなければ、その人のものとはなりません。愛を感じさせることこそが、その人を本当に変えることになるのです。そして、それは赦しの中で起こるのです。
私たちはこの赦すということについて、本当に日ごとに心を向けていかなければなりません。しかし、人を赦すということは簡単ではありません。赦しには、人を隔ててしまう力を打ち払い、さらに人を結びつける力を持っているのですが、同時に、人を縛り付ける力ももっていることも知っていなければならないのです。ある神学者は「赦しを与えることが、他者をさらに支配する方法になる場合がある。」と言っています。人を赦すことによって、赦した者と赦された者という上下関係を造り出してしまうことが簡単に起こるということを、私たちはよく知っていなければならないのです。ではどうしたらちゃんと赦すことができるのでしょうか。私たちはそのためにもまず、赦すことよりも、赦されるということをやはり、よく知らなければならないのです。
もう一度、ここで「負いめ」という事を考えてみたいと思います。負いめというのは負債です。しかし、ここで問題になっているのは金銭的な負債ではありません。しかし、この金銭的な負債について考えてみると、ここに小さなヒントを見出すことができます。
誰かに金銭の負債を負っている場合、それを返すことができないという場合の理由としては二つあります。一つは返すお金がないという場合です。そして、もう一つは、返す気がないという場合です。お金がない場合というのは、返す手段、方法がないということです。しかし、返す気がないという場合は、相手のことを軽んじているということになります。
これが、人間関係の場合はどうなるかと考えてみればいいわけです。返す気がないという場合、そこには、相手への思いやりの心はありません。自分に負いめがあるのにもかかわらず、どこかでそれを正当と思う心があるので、返さなくてもいいだろうと考えてしまうのです。その場合、どうしても気づかなければならないのは、そのような自分の心は正しいのかということです。
もう一つの最初に上げた、返すことのできない負いめというのがあるという場合、その負いめはどのようにしたら返せるのでしょうか。返せる方法がない。当てがない。ないものをどうしたら生みだせるかということになります。
そこでどうしても考えなければならないのは、私たちがどのような負債を、負いめを神に対して持っているかということです。私たちが神に対して犯した罪、過ちは、嘘などではすみません。神に逆らって生きていたのです。申し訳もたたないほどに、大きな負いめを私たちは神に対して負っていることになります。私たちは自分の負いめの大きさを知れば知るほど、神に対してこの負いめが、この罪が赦されるはずもないと思うようになります。
先日の祈祷会でもある方がそのような話をしてくださいました。その方は、自分の罪の大きさが分かった時に、この罪を赦していただけるはずもないと思って一度洗礼を辞退したと言われました。ところが、それから半年後に洗礼を受けた。その間に、神の赦しの大きさ、恵みの大きさが分かったというのです。これほどまでに大きな罪を神が赦して下さったのだから、この神を信じて、信仰に生きようと決断したのです。神の憐みは、網の赦しは、大きなものです。私たちの罪を、負いめを覆ってくださるほどの大きな恵みです。そして、この恵みを受けた時に、私たちは神の愛を体験するのです。神が私のようなものを愛してくださっているということが分かるのです。
そうです。負いめは、何よりも、まず私たちが神の恵みによって赦されることを知る必要があるのです。そして、その赦しのゆえに、私たちは人を赦すことができる赦しを得ることができるようになるのです。それは、当てつけのような赦しではなく、いやいやするのでもなく、心から神の赦しに支えられて、人を赦すことのできる思いへと変えられているのです。返せないはずの、人への負いめも、神から頂いたあまりある恵みのゆえに返すことのできるあてを、根拠を得るのです。
わたしたちはこの祈りを日ごとの祈りとするといい、と多くの牧師たちが、いや信仰の先人達が語り続けています。毎日、日ごとに祈ることによって、この赦しが、自分の身についていくからです。赦されるという恵み、日ごとに自分の中に明らかになっていくのです。日ごとにパンが必要なように、人との豊かな関係も必要なことがこの祈りを祈り、この祈りに生きることによって、私たちに具体的なものとなっていくのです。
私たちに与えられる赦しは、人を赦すことによって与えられる条件ではありません。けれども、赦されることと、赦すことは分け隔てることができないほど深く結びついているのです。赦されたものは、赦すものとなるのです。それは、「私たちに負いめのある人たちを赦しました。」と確かな思いで祈ることができるようになるほどに、私たちの心を確かなものとしてくださる神の恵みが、それに先立っているということを私たちに確かにする神の恵みです。
この神の大きな恵みの前で、私たちは毎日、心から神を信じて、今日も私たちに赦しを与え、赦す心を与えてくださいと祈り続けていくのです。
お祈りをいたします。