2010 年 9 月 12 日

・説教 主の祈り「試みにあわせないで、悪からお救いください。」 マタイの福音書6章13節

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鴨下直樹

先週までの五週間の間、この芥見教会ではいつも水曜日と木曜日に行われている聖書研究祈祷会の時間に「信徒による聖書学び会」が行われました。十人の信徒の方々がそこで証しをしてくださったり、それぞれの日頃の生活の中からどのような主からの恵みを受けておられるかを証ししてくださいました。私もそのすべてに参加することはできませんでしたけれども、参加された方の口から本当にさまざまな感想を耳にすることができ、うれしく思いました。その中でも多くの方が言っておられたのは、自分たちの知らないところで、証しされた方々が悩んでいたり、困難を抱えたりしていながらも、主に祈りながら歩んでおられることを伺い知ることができて本当に良かったということでした。
普段親しくしている方のことは耳にすることがあるかもしれませんけれども、私たちはそれぞれがお互いの生活をよく知っているわけではありません。また、今回は教育部の長老が、なるべく役員に当たらないようにしたということもあって、普段なかなか耳にすることの少ない方々の証しを聞くことができたようです。

おそらくそこで多くの方が祈りの大切さ、あるいは祈りの力ということを改めて考えさせられたのではないかと思います。今、こうして主の祈りの言葉を一つずつ丁寧に学んでおりますけれども、そこで私がみなさんに本当に知ってほしいと願うのは、日ごとに祈るということの大切さを知ってほしいということです。祈りの働く力を、身をもって知っていただきたいのです。私たちは誰もが、人には一つ一つ報告することがなかったとしても、様々な日常の信仰の戦いがあります。そのような中で、私たちを支えるもっとも確かなものが祈りなのです。
特に、今日の祈りの言葉は、「私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。」という祈りです。私たちの日常の生活に実に深く結びついた祈りが、この祈りであるということができます。様々な試みがあります。私たちは毎日、あらゆる誘惑の中で生活しています。若い人には若い人の誘惑があり、人とのかかわりが多い人には、またそれに伴う誘惑があります。自分は誘惑などないから、いつも安心して生きていけるという人は誰もおりませんし、自分は絶対に大丈夫だと誘惑に対して確信を持つこともできません。主イエスですら、誘惑にあっておられるのです。それを考えますと、この祈りがどれだけ私たちの生活に、深く結びついた祈りであるかということは、よくお分かりいただけるのではないかと思います。

先日の金曜日の夜、F家で家庭集会が行われました。この集会は月に一度の集まりですけれども、一年の間、十戒の御言葉を学び続けました。先回はその最後で、第十の戒めを学びました。第十の戒めにはこう記されています。

あなたの隣人の家を欲しがってはならない。すなわち隣人の妻、あるいは、その男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを、欲しがってはならない。」(出エジプト記20章17節)

先週、この二つの御言葉の準備をしながら過ごしていました。いずれの言葉も、考えれば考えるほど、深く結びついていると言わざるを得ないと思うのです。この第十の戒めと、主の祈りの試みから守りたまえという祈りとは、同じことを主が教えておられると言ってもいいと思います。
この十戒の「欲しがってはならない」という戒めですが、多くの翻訳では「むさぼってはならない」と訳しております。これは、ただ「欲しいと思う」ことが罪であるという誤解を避けるためです。私たちは生活に様々なものを必要としていますから、何かが必要であると考えるたびに、「欲しがってはならない」と戒めにあたるなどと考える必要はありません。先日も話したのですけれども、この言葉は「不当な手段で手に入れようとする」、あるいは「必要以上に求める」という意味があります。それで新約聖書ではこの言葉を「貪欲」という言葉でされることが多いのです。ただ、欲しい、手に入れたいということを、度を過ぎて、あるいは必要以上に求めてしまうのです。
そして、私たちが誘惑される事柄について考えてみても、やはりこの「貪欲」という言葉で表されるものなのではないかと思います。特にこの主の祈りは「試みに会わせないで、悪からお救いください。」と祈ります。ただ、心が試みられているだけはないのです。そのことによって悪に支配されてしまいそうになるのだということを、ここで祈っているのです。欲しいものは何としてでも手に入れたいという思いが、人に罪を犯させてしまうのです。

この祈りは、「試みに会わせないでください」という祈りと、「悪からお救いください」という二つの祈りがあると考えられることがあります。確かにそれもひとつの考え方です。そうすると、主の祈りは七つに分けることができるなどとも言われますけれども、私たちは祈るときにこれを一息で祈ります。一つとして祈っているのです。それは、私たちが試みに会う、誘惑されるときに、その背後にあるものが何かということをよく知って祈ることが大事だということです。ですから、この祈りはやはり、一つの祈りと考えたほうがいいと思います。そうすると、ここで誘惑の背後にあるものは何かというと、「悪」ということです。しかし、これは単なる「悪」全般を指しているということではありません。新改訳聖書にはここに注がありまして、「悪い者」と記されています。悪しき者、悪魔が私たちを試みているのだということです。これは、どちらにも訳すことができるのですけれども、この「悪しき者」、つまり「悪魔」と考えるということはとても大事なことだと思います。
宗教改革者のルターは、ここでこれは悪魔が実にさまざまな攻撃をしかけてくるということをあげながら、「もし、神が私たちを支えてくださらないなら、一時間でも悪魔の前に安全ではいられないだろう」と言っています。それほどに、私たちは悪に対して、自分の力では抵抗しえないことを知っていたのです。

私たちはどういうときに誘惑されている、試みられていると感じるかというと、明確に意識するのはやはり、神はこのようなことを喜ばれないのではないかと考える時なのではないでしょうか。しかし、そうでありながらも、自分の意思を通してしまう。その時、私たちが何を考えているかというと、突き詰めて考えてみると、神のことを考えないようにしようということなのだろうと思うのです。そして、誘惑に敗れ続けていくに従って、だんだんと罪の意識も少なくなっていくのです。
初代教会の指導者であったアウグスティヌスは、かつて「告白」という大きな書物を記しました。これは、キリスト教を代表する書物となりました。私が神学校に入った時に、最初に書かされた宿題は、この「告白」のブックレポートでした。非常に分厚い本です。聖書とほぼ同じくらいの分量があるのではないかと思えるほどです。そこに、アウグスティヌスが信仰を持つまでにしてきた様々な罪の行いについて記されています。

自分の家にあったぶどう園のそばに一本の梨の木がありました。これは自分の家の梨ではありません。ところが、まだわんぱくな子供であったアウグスティヌスは、友達とともに、ある嵐の夜に、この梨の木からどっさりと梨を盗みました。別に、梨を食べたかったわけではなかったので、その梨は全部、豚に与えてしまいます。何のためにそれをしたのかというと、悪いことをしたという気分を味わいたくて盗みをしたのだと書いています。盗むなと禁じられているから、盗みをしたくなったのだというのです。アウグスティヌスは、やってはいけない、それは悪いことだと、わかっているがゆえに、盗みたいという欲望が目覚めさせられたといいます。未知なことに、興味を覚えるのです。そうすると、自分の興味が大きくなればなるほど、神に対する恐れというものは、軽んじられてしまうのです。これは、誘惑の一面をよく表しています。自分の欲望というのが、どんな理由であれ、とめられなくなってしまうのです。そして、それに引かれれば引かれるほど、神のことを見失ってしまうのです。最初に、この祈りは十戒の「むさぼってはならない」という戒めに通じていると話しましたけれども、この「むさぼり」がここで顔をのぞかせるのです。むさぼりの背後にあるのは何かというと、これさえ手に入れることができれば、自分は満足できるのではないかという考えです。そして、その満足を得るために、超えてはならない限度を超えて、それを手にいれようとしてしまうのです。
そのもっとも大きな力は「性欲」であるとある人は言います。若いときというのは、誰もがこの欲求を持て余してどうしていいかわからないと思うほど、それは大きなものです。また、ある人はそうではなくて「物欲」であるとか、「買い物欲」であるとか、「食欲」であるとかと、色々と言うことはできると思いますけれども、そこに潜んでいるものはすべて同じです。このような「むさぼり」を引き起こさせるのがそこで働いている「悪い者」、「悪魔」の存在なのです。もちろん、そこで気をつけなければいけないのは、悪魔のせいなのだということで、自分のせいではないのだと安心して肩を撫で下ろすなどということはできません。しかし考えなければならないのは、私たちが「悪魔」と聞くと、どこかでそれを非現実的なものと考えてしまったり、話半分で聞いておこうなどと考えます。それは、キリスト者であってもそうであるかもしれません。あまり、現実的でないのです。そして、「悪魔」について真面目に取り上げて話すなどということは、この現代において、ますます希薄になっています。聖書は興味深いことに、悪魔の姿について何も記されておりません。けれども、実に様々な言葉を用いて、この存在について記しています。「サタン」、「悪霊」、「訴える者」と訳される「ディアボロス」という言葉もあります。
かつて、イギリスの文学者のC・S・ルイスが書いた「悪魔の手紙」という本があります。この本は大変面白い本で、キリスト者を誘惑するために派遣された悪霊が、どうしたらうまく誘惑できるかということを、自分の上役である悪魔に相談する、悪魔と悪霊との手紙の往復書簡という形の読み物です。もちろん、C・S・ルイスは信仰を持った文学者ですから、大真面目に書いているのです。この本の冒頭にこんな言葉が記されています。
「悪魔に関して人間は二つの誤謬におちいる可能性がある。その二つは逆方向だが、同じように誤りである。すなわち、そのひとつは悪魔の存在を信じないことであり、他はそれを信じて、過度の、そして不健全な興味を覚えることである。悪魔どもはこの二つを同じくらい喜ぶ」。
悪魔を恐れすぎることも、悪魔を恐れないことも、どちらも誤りなのだというのです。夏になりますと、テレビでも私たちの周りでも、実にさまざまな人の恐怖心を煽り立てる番組が放送したり、そのような話を喜んでしたりします。また、ホラー映画というのも同じです。そういうものに、興味を覚えながら、悪魔を恐れる。あるいは軽んじる。しかし、そのどちらも、私たちをキリストから、そして、神の真実から遠ざけるのです。悪魔は実に巧妙に、この二つを利用しながら、人を神から引き離すということを私たちは知っていなければなりません。悪魔はこうしてあらゆるものを用いて、人を誘惑し神から引き離そうとしていることを、私たちは知っていないといけないのです。

宗教改革者ルターは、自分が悪魔に試みられていると感じた時に、机に向かって「私は洗礼を受けている」と書いたということはよく知られています。そのようにしながら、非常にはっきりとした自覚をもって、これと闘っていたのです。そして、このルターの態度にこそ、私たちは誘惑を受ける時に、どうすればよいのかということがよく表されているといえます。
私たちはこのような悪魔からの試みに会うときに、さまざまなものに誘惑されるときに、自分の力で立派に立ち向かうことができません。ですから、主イエスが誘惑にどうされたのかということをよく知っておく必要があります。

主イエスが十字架につけられる前の夜、ゲッセマネで祈られました。そこで、主イエスは「わが父よ、できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」と祈られました。そして、その時に、一緒に祈るように頼んだ三人の弟子たちに対しても「あなたがたは、そんなに、一時間でも、わたしといっしょに目をさましていることができなかったのか。誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」(マタイの福音書26章40〜41節)と言われました。
主イエスはここで、弟子たちに、自分が誘惑のなかでどのように祈ったのかを弟子たちの目に焼き付くようにされたに違いないのです。主イエスがここで語られたのは「誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい」ということでした。
主イエスもここで、誘惑と戦っておられたのです。悪魔と戦っていたのです。神の御心に従わないで、自分の願っていることが達成されるようにという思いが、主イエスの中でどんどん大きくなってきていたのです。ご自分がどのようなものであるかを、忘れさせるほどの強い誘惑と、主イエスは戦われたのです。私たちのためにです。そして、その姿を私たちに示すことによって、私たちが誘惑の中にあって、どうしてそれを打ち破ることができるかを、示してくださったのです。
それは、祈りをおいてほかにないのです。ルターは、「主イエスが私たちを支えてくださらないなら一時間でも悪魔の前に安全ではない」と言いましたけれども、まさに、それほどまでに祈りを大切にすることが、この誘惑からの戦いを打ち勝つ方法なのです。だから、ルターは、「わたしは洗礼を受けている」と机に向かって書きながら、「自分はもう神のものとされている」、「わたしは神の御手のうちにある」ということを、自分自身に語りかけたのです。

私たちは主イエスのように祈ることも、ルターのような力強い信仰に生きることもできないからどうしようもないなどと考える必要はありません。神は、私たちを、主イエスと同じように、あるいはルターと同じように、神の子供としてくださっているのです。だからこそ、私たちも同じように祈ることができるのです。私はもう神のものであると。
時々、私たちはこう考えることがあります。信仰の歩みがつらいと感じる時に、自分は不信仰で、すぐに誘惑にやぶれてしまうと感じる時に、カトリックの修道院のような、どこか自分の誘惑から回避された、全体に大丈夫だという安全地帯に生きられないかと考えることがないでしょうか。
みなさんもよくご存じだと思いますけれども、私たちの住んでいる岐阜市には少し前まで路面電車というのが町の真ん中を走っておりました。この路面電車が走っていたときというのは、確か緑色で囲われたところが道路の真ん中に島のように作られていまして、それを「安全地帯」と言っておりました。最近はもうあまり見かけなくなりましたけれども、よく覚えておられると思います。そこにいると、路面電車も、車も入ることができない、守られた所として、電車の乗り降りをするときに、そこで安心して立っていることができました。
信仰にもそのような安全地帯がないものかと考えるのです。以前、私はある方からこういうことを言われたことがあります。「先生は教会の中に住んでおられるから誘惑が少なくていいですね」と。私はそれを聞きながら、とんでもないと思いましたけれども、その方はおそらく、教会に住んでいたら安全地帯にいるようなものだと考えていたのだろうと思います。その方の気持ちはよく分かるのです。
キリスト者にとって、このような安全地帯に生きるということは、残念ながらできません。誘惑のない場所で生活するなどということはできないのです。たとえそれは修道院に入ったとしても、誘惑はなくならないと思います。ある神学者は、「人間に神が自由意思を与えられたということは、同時に誘惑と戦い続けるように求められたということだ」と言いました。私たちは、毎日、あらゆることについて、自分で考え、自分で決断して生きていかなければなりません。「ちょっとタイム」などと言って、子供の遊びのように、生きることをやめることはできません。けれども、私たちは、神に向かって祈るとき、心を神に向けているとき、私たちは自分が、いつも不確かなところで生かされているのではないということに気づくことができます。神が私たちを支えてくださるのです。
レンブラントというオランダの画家が描いたゲッセマネの祈りの素描があります。これは本当に小さな絵ですけれども、主イエスがゲッセマネで祈っている間、天使が傍らにひざまずいて、この祈りをささげている主イエスを支えている姿を描いたものがあります。大変心惹かれる絵です。私たちは、確かなお方によって、支えられているということを思い起こさせてくれる絵です。
主が私たちを支えてくださるのです。そして、御霊が、私たちと共にいて、私たちを祈りへと導いてくださいます。誘惑を感じる時に、祈る。いつも心を神に向ける。そうして、毎日、祈りの生活をしていくときに、私たちは、わたしはもう、神のものであるということを心からの確信をもって生きることができるようにされるのです。

お祈りをいたします。

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