・説教 創世記16章1-16節「荒野の泉のほとりにて」
2020.01.19
鴨下 直樹
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聖書の中にはいく人もの女性たちの物語が記されています。ここにも二人の女の人が登場します。一人はサライです。サライはアブラハムの妻で、後で名前がサラと変えられます。ここでは、まだサライと名前で出ています。ちょっとアブラムなのかアブラハムなのかと気になる方があるようですから、聖書の表記は「アブラムとサライ」ですが、この後で、「アブラハムとサラ」と名前がかわりますので、今後は「アブラハムとサラ」という名前でお話ししたいと思います。
サラはアブラハムと共にカルデヤのウルから出てきました。そして、その後、ハランに留まります。アブラハムとサラは10歳年が離れていたと後で書かれています。ですから、アブラハムがハランを出て来た時75歳ですから、サラは65歳ということになります。それから10年後の出来事が今日の出来事です。
そして、この時、サラは75歳です。つまり、アブラハムが神から子孫の約束を与えられた時、妻のサラもその約束を耳にして、喜んだはずですなのですが、その約束から10年の間、子どもが与えられなかったわけです。その時のサラの悲しみや悩みはどれほどだったことでしょう。
2節にこう書かれています。
サライはアブラムに言った。「ご覧ください。主は私が子を産めないようにしておられます。」
まずは、前半だけですが、この言葉の中に、サラの悲しみが込められています。75歳まで子どもがなかったことも悲しみですけれども、神から約束を与えられた時に、当然、はじめは自分に子どもが与えられると思ったはずなのです。ところが、その間も子どもが与えられなかった。きっと悩んだに違いないのです。いろいろと考えたに違いないのです。自分を責めたに違いないのです。
そして、一つの結論を出します。
「どうぞ、私の女奴隷のところにお入りください。おそらく、彼女によって、私は子を得られるでしょう。」
この言葉をアブラハムに告げるために10年という歳月を要しているわけですから、どれほど大きな選択だったかということを、私たちはここから知ることができます。
そして、聖書は続いてこう書いています。
「アブラムはサライの言うことを聞き入れた。」
このアブラハムの決断にも、寂しさを感じるのです。本当ならば「サラ、あなたはそう言うけれども、私は神様の約束を信じている。だから、そんなことを言うもんじゃないよ。」もし、そう書かれていれば、アブラハムという人は何という妻を愛した人物だったことかということが分かって、物語的にも美しい物語になるはずなのです。
けれども、アブラハムの口からそういう、信仰的な言葉は出てきません。
「アブラムはサライの言うことを聞き入れた。」この短い言葉の中に、私たちはこの決断がサラをどれほど悲しみに追いやったのかを知るのです。
もちろん、こういう話は、歴史の中では満ち溢れています。豊臣秀吉の妻、寧々に子どもがなく、茶々を側室として迎え入れたのも、同じことです。こういうことは歴史の中で何度も行われてきたことです。それは、子孫を得るためにどうしても通らなければならない道であるということは、誰もが分かるのです。
そして、結果もいつも同じです。4節。
「彼はハガルのところに入り、彼女は身ごもった。彼女は、自分が身ごもったのを知って、自分の女主人を軽く見るようになった。」
こうなることは、分かり切っていることです。そして、ここからはいつも同じ、ドロドロの展開です。
サライはアブラムに言った。「私に対するこの横暴なふるまいは、あなたの上にふりかかればよいのです。この私が自分の女奴隷をあなたの懐に与えたのに、彼女は自分が身ごもったのを知って、わたしを軽く見るようになりました。主が、私とあなたの間をおさばきになりますように。」
10年前にエジプトの王ファラオが見染めたサラの美しさは、もはやなくなってしまったのでしょうか。それとも、その美しさは外見だけのものだったのでしょうか。いや、それとも、人は誰でもこうなり得るということを、聖書は語ろうとしているのでしょうか。
サラのこの思いは、特別にサラが醜い心だったからということはできません。それほどに、サラが苦しんでの決断だったことがここには、現れています。自分がこんな苦しい思いで決断したのに、それに対して女奴隷のハガルの振る舞いは、更なる悲しみをサラに上乗せすることになったのです。
聖書にはお昼のメロドラマに出てくるような、人のドロドロした姿も、包み隠さず描かれています。人を美化して、綺麗なところだけを見せることに意味はないのです。
自分がした苦渋の選択が、報われないということはよく起こることです。それが、サラ自身の喜びのためではなくアブラハムを喜ばせるためであったとしても、そして、神の御業を行うための決断であったという思いであったとしても、それがうまく行かないということはあるのです。動機が正しければ、結果もまた常に正しいとはならないのが、私たちが生きている世の現実です。そして、その時、私たちはさらに深い悲しみに突き落とされることになるのです。
さて、サラがこう言ったとき、アブラハムのした決断はどうだったかというと、「見なさい、あなたの女奴隷は、あなたの手の中にある。あなたの好きなようにしなさい。」というものでした。
「うるせーな、自分の好きなようにしたらいいやろ!」というのに、限りなく近いニュアンスです。これが、前回、信仰によって義と認められた人の発言とは思いたくはないのですが、これをみると、アブラハムもそこらへんのおじさんと何の違いもない人だということが、分かります。しかも、この16章のアブラハムは、これで役割を終えているわけですから、いいところは一つもありません。「なぜ、星空を見上げなかったのかアブラハム」と言いたくなるところです。
さて、アブラハムにそう言われたサラはどうしたかというと、続いてこう書いてあります。
それで、サライが彼女を苦しめたので、彼女はサライのもとから逃げ去った。
どの程度いじめたのか分かりませんが、奴隷という身分、そして、身重という状況に置かれた女が逃げ出さなくてはと思うくらいはいじめたということです。つまり、相当のことをやったということが分かります。
もうちょっと聖書は美しい物語が書いてあると思ったとお思いになる方もあると思います。こんなドロドロとしたことを記して、ここから神様は何を言おうとしておられるのかと不思議に思うかもしれません。
けれども、まさに、こんな物語であるからこそ、これは、私たちの物語なのだということが見えてくるのです。きれいごとばかりではすまない世界に私たちは生きています。霞を食べて生きていくことはできません。私たちの周りには、自分を守ることしか言わない身近な人がいて、もう逃げ出したいと思えるほどに、私たちに冷たい人、攻撃的な人がいるのも事実です。そういう中で、私たちは毎日ぎりぎりの生活をしているのだという人も少なくないはずなのです。
さて、聖書の物語はサラからハガルへと視点が変わります。この後、サラがどうなったのかは、また次の章まで待たなくてはなりません。ハガルは、サラのもとを逃げ出します。聖書地図でどのくらい逃げたのか調べてみますと、マムレの樫の木のところから、べエル・ラハイ・ロイまで100キロ以上の道のりです。ハガルが妊娠何か月目か分かりませんが、相当な距離を歩いて逃げたことが分かります。
このあたりはずっと荒野です。アブラハムが追手をかけてきているかもしれないと考えて、必死で逃げたのかもしれません。妊婦の足でここまでどれくらいかかったのでしょう。江戸時代の旅人は一日だいたい八里から十里、32キロから40キロ程度歩いたそうですから、それを基準で考えれば3日から4日でしょうか。ローマの軍隊は一日100キロ行軍したという記録もあるのだそうです。あるいは、織田信長か明智光秀に討たれた時に、秀吉が備中から「中国大返し」といわれる強行軍で戻った話がありますが、それは10日間で230キロだったそうです。
そうやって調べてみると、この時ハガルはこの約100キロという距離を4~5日かけて歩いたのでしょうか。食べ物や水はどうしたのだろうかと気になります。きっと喉もカラカラの状態で、荒野の中に泉を見つけたに違いないのです。ここまでくればもう大丈夫。そう考えたのかもしれません。そして、アブラハムもサラも、子ども大事さに急いで追いかけたという記事もここには書かれていませんから、この時のアブラハムとサラの思いもなんとなく、見え隠れしています。
念願の子どもができたはずなのに、いなくなってどこかほっとしているところがあったように思えるのです。そんな悲しい物語です。ここには、人の心の醜さだけが描かれているのです。
しかし、聖書はそこでこう書くのです。7節。
主の使いは、荒野にある泉のほとり、シュルへの道にある泉のほとりで、彼女を見つけた。
と。
この哀れな女奴隷ハガルを追いかける気もない、サラとアブラハムとは裏腹に、主は悲しみの末に逃げ出したハガルを見つけておられるのです。主だけは、無関心ではおられないのだと、聖書は語っているのです。
ハガルを見つけたのは「主の使い」であると書かれています。これが、どういう姿なのか聖書はそれ以上書いていません。聖書にはこの後、何度も「主の使い」が登場します。主の使いの役割は明白です。「メッセンジャー」です。神のことばを告げるのが、主の使いの仕事です。そして、この主の使いは、やがて「天使」であると理解されていくようになっていきます。
ここでは、天使かどうかは書かれていませんが、この主の使いは、こう語りかけます。
「サライの女奴隷ハガル。あなたはどこから来て、どこへ行くのか。」
主はここでハガルの立場を明確にしておられます。名前で語りかけ、身分を語ります。どこにいた人で、これからどこに行こうというのか、所属と目的をお尋ねになります。目的なんてないのです。逃げたい。サラのいないところへです。「私の女主人サライのもとから逃げているのです。」ハガルはこう答えました。あの人はひどい人で、私はあそこにいたら生きていかれない。ただ苦しいだけ、だから、私は逃げて来たのだ。そんな自分の行為を正当化したくなる思いが、この問いに対するハガルの答えから見ることができます。
それに対して、主の使いはこう語りかけます。
「あなたの女主人のもとに帰りなさい。そして、彼女のもとで身を低くしなさい。」
私たちは、この主の使いのメッセージに驚きを覚えるのではないでしょうか。パワハラ、セクハラ、モラハラ、DV、ブラック企業、ここ数年、こういう言葉が当たり前に悪であるとして語られるようになりました。もちろん、それは悪いことです。そこに正しさなんかないのかもしれません。だから会社を辞める、だから離婚する、だからそこから離れた。私たちの社会はいろいろな理由をつけて逃避を許容する社会になりつつあります。それは、それで、ひとつの選択肢なのだと思います。そういう決断もあり得るのです。
けれども、ここで主の使いは、ハガルにこう言うのです。「帰りなさい。」と。奴隷制度はそもそも間違いだから、あなたは自由だというメッセージが書かれていたら、多くの人は納得するのでしょう。相手が悪だから、そこから自分を守る手立てを講じるのは、正当防衛である。それもそうです。けれども、主は「あなたの女主人のもとに帰れ」と言うのです。そして、さらにこう言うのです。
「彼女のもとで身を低くしなさい」
と。
ハガルの問題点をここで明らかにしておられるのです。自分は被害者であると思っている。けれども、本当にそうなのかということです。あなたはそこでどう生きていたのか。その本質的な問題をここで問いかけておられるのです。
戻っても、サラのいじめがなくなる保証はどこにもありません。それでも、主は帰れというのです。そして、このメッセージは、これから後の時代の中で、とてつもなく大きな意味を持つメッセージとなったのです。主がこう語られたことによって、人の身勝手な自己正当化を、相手が絶対悪で、自分には非はないのだという身勝手な正義を語ることを神はゆるしてはいないのだと言うことが、ここで明らかになったのです。
サラのもとに帰りなさい。あなたの嫌だと思う世界に戻りなさい、そして、そこで謙遜でいなさい。そうすれば、いままで嫌だとしか見えていなかった世界が、謙遜をまとうことによって、新しい世界が開けるということを味わうようになるのだと、主は語っておられるのです。
これこそが福音なのです。これこそが、神が示そうとしておられる生き方なのです。謙遜に仕えること、そこに愛の世界があらわれるようになるのだと、聖書は語っているのです。
サラははじめから意地悪なのではないのです。サラはハガルが軽く見るようになったから、その悲しみを訴えたのです。サラの心にあるものをハガルはまだ見ていないのです。サラもまた自分がハガルをどれほど追い込むことになったのか、その時は気付いてもいないのです。やられたからやり返す。だったら自分は逃げてやるでは、世界は回って行かないのです。それは、神が求めておられる世界ではありません。
主の厳しさは、新しい世界を創造するために必要不可欠な愛から来るのです。そのことに目をとめることが大切なのです。
聖書はパワハラもDVもブラック企業もみんな認めているということを言おうとしているのではないのです。このことは、しっかり理解する必要があります。もし、それしかないのであれば、それは長続きしないでしょう。そして、そこから逃げることも当然のことでしょう。けれども、人を叱ることがある、思わず手が出ることだってある、残業をしながらこの忙しい時期をみんなで乗り越えなければならないことだってあるはずなのです。それも全部、自分の都合でこれはブラック企業だなどと自分の側の視点だけで判断することはゆるされないはずです。それらのものを、一面だけ受け取って、完全悪にすることはできないはずなのです。もし、そうなっていってしまうなら、人はどんどん身勝手で、わがままになっていって、誰も愛を示すことができない社会になってしまうのです。聖書はその世界を望んではいないのです。
愛には、厳しさがともなうのです。「帰れ」という厳しさが必要です。「甘えるな」と言う必要があるのです。そして、自分の非にも目をとめるようにと、主は言われるのです。そして、そういう苦しさを乗り越えた者にしか味わうことができない世界があることを、主は示そうとしておられるのです。
この知らせを受け取ってハガルは何と言ったのでしょうか。ハガルはこの言葉を聞いた時に、神に向かってあなたは「エル・ロイ」と言いました。あなたはちゃんと見てくださっているお方なのですねと、ハガルは言うことができました。自分の身勝手さも、サラの悲しみも、あなたはちゃんと見ておられると言うことが出来たのです。
だから、ハガルは帰って行くことが出来たのです。そのあとどうなったのか。聖書にはその後のハガルとサラの関係について詳しくは書いていません。けれども、ハガルはその後のことをもはや心配する必要はありませんでした。なぜなら、神が見ておられるということを知ったからです。
私一人だけ、誰も知らない中で悲しんでいるのではない。私の悲しみは神が知っておられる。そうであれば大丈夫だと思うことができるようになったはずなのです。
私たちの神は、私たちのことをよく知っていてくださいます。私たちが今、何に悩み、何に苦しんでいるか、よく知っていてくださいます。そして、聖書を通して語りかけてくださるのです。聖書を通して、自分勝手な振る舞いはゆるされないと言われるときもある。帰りなさいと言われるときもある。そこで謙遜に振る舞いなさいと言われることもある。そのような神の語りかけを聞きながら、自分の生かされているところで神の愛の世界を作り上げていく。今まで自分が知らなかった世界をそのようにして作り上げていくことになるのです。
お祈りをいたします。