・説教 ルカの福音書15章1節-7節「迷子の羊」
2017.11.19
子ども祝福礼拝
鴨下 直樹
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先ほど、「せいしょのおはなし」の中で絵本を読んでいただきました。羊飼いがいなくなった羊を見つけに行った話です。ちょうど、今日の聖書の物語を絵本にしたものです。ただ、聖書と絵本がひとつ大きく違っているところがあります。それは、絵本では99匹の羊は柵の中にいれておいて、迷い出た一匹を捜しに行きました。けれども、この聖書には柵の中に入れておいたので大丈夫だとは書かれていません。
4節にこう書かれています。
あなたがたのうちに羊を百匹持っている人がいて、そのうち一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。
ここには、「九十九匹を野原に残した」と書かれているのです。別の聖書の翻訳(岩波訳)ではもっとはっきりと「九十九匹を荒野に放っておいて」と訳されています。この話は、羊飼いが迷い出た一匹の羊を探すために九十九匹を野原に放っておいて、いなくなった一匹の羊を捜したという話しが、今日の聖書のはなしです。ちょっとびっくりするような話です。
今年の夏休みに、私は書店で面白い本を見つけました。「羊飼いの暮らし」という本です。イギリスの湖水地方の羊飼いが、実際にどんな生活をしているのか、その四季の生活ぶりを綴った本です。御存知の方も多いと思いますが、今年、イギリスの湖水地方が世界遺産に登録されました。それで、脚光を浴びるようになったのがピーターラビットの作者のビアトリクス・ポターです。このビアトリクス・ポターは絵本・ピーターラビットの収益で自分の育ったこの湖水地方を購入してこの土地を守ったということが知られています。ところが、この本は、そういう湖水地方にまつわる美しいエピソードとは全く異なる、この土地に古くから生き抜いてきた羊飼いたちの実際の生活ぶりが、どれほど過酷なものであるかを紹介する本として注目を集めました。
この本を読んで知ったのですが、この湖水地方の羊の毛はほとんど価値がないんだそうです。羊一頭の毛刈りを人に頼むとすると、日本円で180円ほどなんだそうですが、そうして一匹の羊の毛、フリースというのだそうですが、わずか70円。毛を刈れば刈るほど赤字になるというほどのようです。なんのために毛を刈るかというと病気にならないためだそうで、実際は食肉用として飼育しているということでした。というのは、この湖水地方というのは自然の厳しい環境で、ウールとして売れる羊を飼うのにはふさわしくないんだそうです。
中でも私が大変興味深く読んだのは、羊の毛刈りの時の話です。この湖水地方の広大な土地に放牧された羊たちを、毛刈りのためすべての羊を一か所に集めるためにどういう方法をとるのかというところを、私はとても興味深く読みました。地域の羊飼いたちが一斉に集まって、チームを組んで同時に羊を集めるのだそうです。なだらかな土地の羊を集めるのは簡単な仕事なので、新米の羊飼いにやらせて、丘陵地帯の藪の多い地域はベテランのそれ専用の牧羊犬を持っている羊飼いが担当します。それはまるで軍隊の統率のような徹底した戦術を練って、一匹も見逃さないように行われるのだそうです。羊飼いは四輪バギーに乗って、それぞれの土地に合わせて訓練された牧羊犬とで行われるとても精密で大変な作業なのだということが分かってきます。そういう時に、迷子の羊が出たということは書かれていませんでしたので、そうならないように羊を集めるのだということがわかります。
けれども、この本の中にも迷い出た羊の話が最後の方に書かれています。いなくなるのは生まれたばかりの子羊のようで、二匹以上いなくなる時は、何者かに連れ去られるか、動物に襲われるということを意味するのだそうです。一匹だけいなくなる場合、考えられるのは他の母羊が間違えて自分のところに入れてしまうか、突発的な事故が起こった時で、川に落ちるか、どこかにはまり込んで抜け出すことができなくなるとか。羊飼いにとってこの生まれたばかりの子羊を失うことほどつらいことはないと書いているほどです。
また、この本の中に羊飼いの仕事の掟三箇条というのが書かれています。そこにはこう書かれています。
一、自分自身のためでなく、羊と土地のために働くこと。
二、『常に勝つことはできない』と自覚すること。
三、ただ黙々と働くこと。
これが羊飼いとしての心得だというわけです。
この本を読みながら色々なことを考えます。聖書の時代の羊飼いは、この本に書かれているような今の時代よりも何倍も大変だったに違いないのです。四輪バギーもありませんし、牧羊犬もいなかったかもしれません。有刺鉄線もありませんし、羊をまとめて乗せて運ぶトラックもないのです。もちろん、変わらないこともあるのです。それは、羊飼いは羊のために働くということです。もし、この聖書の時代、自分の一匹の羊が群れから離れてしまうようなことがあるならそれはどれほど大変なことだったでしょう。そのまま九十九匹を野原に残してでも、いなくなった羊を捜しに行くと書かれていますが、それは、それほどに羊を大切に思っているからでしょう。きっとその心は今も聖書の頃も変わっていないのだと思います。
私がドイツに住んでいた時に、牛を飼っている友人がいました。彼の名前はヴォルフガングといいます。髭をたくわえた筋骨たくましい男です。教会で、ヴォルフガングは子どもの集会の担当をしていて、子どもたちからは「ヴォル」という愛称で呼ばれていました。とてもユーモアがあって、でも、とても厳しい人です。教会にはこのヴォルの、子どもたちを叱る大きな声がいつも響いています。そんな彼の家によく遊びに行きました。当時飼っていた私の犬も、彼の家に遊びに行くときはいつも興奮して、ヴォルと一緒に納屋に入っていきます。二、三十頭の牛を飼っているのですが、彼はまるで恋人に語りけるような甘い声で牛の名前を呼んで世話をはじめます。そんな彼の声は教会では聞いたことがないのです。いつも、この聖書を読む時に、私がイメージするのは彼のイメージです。きっと、この聖書に出て来る羊飼いも彼のように、羊を一頭一頭名前を呼んで心をこめて世話をしたに違いないと思うのです。
群れから迷い出た羊を羊飼いが必死に探しに行くというのは、この聖書の時代、とてもイメージしやすい物語だったと思います。迷い出た羊はきっと餌を食べることに夢中になっているうちに、気が付くと変な所にはまり込んでしまうのです。子羊であればなおさらです。羊飼いにとって、羊はかけがえのない生き物です。自分のためでなく羊のために働く。それが羊飼いというものです。そんな羊飼いのイメージは神さまと私たちの関係と似ているのだと、主イエスはここでお語りになられています。
教会でノーバディーズ・パーフェクトという子育て支援のプログラムを行っています。完璧な人はいないという意味です。大人も完璧ではありませんし、子どもも完璧ではありません。私もそうですが、子どもが親の思い通りにならない時、親としては腹を立てて叱ります。子供は完璧ではないということは分かっているつもりですが、毎日つづくと、そういうことはどこかに忘れてしまいます。羊飼いが九十九匹を野に残して一匹を捜しに行く間に、また別の一匹が迷い出る。そんなことばかりを繰り返していたらどこかでブチ切れてしまって、二度と群れから外れないように懲らしめたくなるのが普通の感覚だと思うのです。
主イエスは、神さまは、私たちが迷い出てしまう羊に対して、その羊を見つけるまで捜し歩くのと同じようなお方だとここで語っています。何度も何度も道を踏み外すような羊であったとしても、探し出すために必死に働かれるお方なのだというのです。迷い出た羊をきびしく叱って懲らしめるというのではなくて、自ら捜し歩いて、見つけたら肩にかつぎあげて帰って来る。そんな愛にあふれた羊飼いのようなお方が、神さまなのだというのです。
しかも、今日の箇所の最後の部分にこう書かれています。
あなたがたに言いますが、それと同じように、一人の罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。
詳しい解説をするつもりはありませんが、一つのことだけ話したいとおもいます。この失われた一匹の羊を捜す羊飼いの話というのは、結論で悔い改めというテーマでまとめています。「悔い改める」というのは、何か悪いことをして反省して、それまでの悪い行いを改める時に使う言葉です。けれどもここで見つけ出された羊の側から考えて見ると「悔い改め」というような何かをしたのかと考えて見ると、別に「羊が反省して今度は群れから離れないようになりました」とは書いていないわけです。書かれているのは羊飼いが見つけ出したと書かれているだけです。
聖書は悔い改めということをよく書いています。私たちは悔い改めと聞くと、今までの自分の人生を反省して、一大決心をしてキリスト教に入信するというような、ちょっと壮大なことを考え始めるわけですが、聖書は、少なくとも個々の箇所ではそんなことは書いていないのです。ここで書かれているのは、羊飼いに見つけてもらった羊のことを、悔い改めたと書いているのです。
羊飼いに見つけ出してもらう。まるでそうやって見つけだされた羊のように、私たちは神様の腕に抱えられてほっと息をつく。そうやって羊の牧場のような教会に足を運び入れる。そうすると天国では、ああ、無事にあの羊が帰って来たね、と喜んでいるのだとここに書かれているのです。また、道を踏み外すかもしれません。また、迷い出るかもしれません。いや、自分の方から楽しさを求めて抜け出していくこともあるかもしれません。けれども、羊飼いである主イエスは、私たちを探し出そうと必死になって私たちを探し出してくださる。これが、聖書の約束なのです。
柵に囲われていないのがいいんです。がんじがらめにされて、この中に入れておけばもう大丈夫と、人の自由を奪うのは、この羊飼いである神さまのやり方ではないのです。聖書の神というお方は、私たちを、野原で自由に跳ね回りながら喜んで生きられるようにしたいと思っておられ、そして、この羊飼いである神様のみもとで安心して生きることができるということを知って欲しいと思っておられるお方なのです。
そして、こういうことを知っていると、私たちも自分の子どもに対しても豊かな子育てができるようになるのだと思うのです。確かな羊飼いのもとでのびのびと育てられた羊は、羊飼いのもとで生きることがどれほど安心で、朗らかに育つことができるか、その安心を子羊に示すことができるでしょう。聖書の語る神は、まさにそのような羊飼いとして、私たちを探し出し、私たちを豊かな緑の牧場におらせてくださるお方なのです。
お祈りをいたします。