2017 年 11 月 12 日

・説教 マルコの福音書2章23-3章6節「祝福の戒め」

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2017.11.12

鴨下 直樹

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 今日の聖書の箇所はちょっと面白いところです。安息日、働いてはならないと言われていた日に、主イエスの弟子たちはうっかりなのでしょうか。麦畑に入って、麦の穂を摘んで食べてしまったという出来事が事の発端となっています。普通に考えれば悪いことをやったのは弟子たちの方です。悪いこととまではいかなくても、禁止されていた戒めを破ってしまったわけですから、注意されても仕方がないわけです。ところが、主イエスは非難されているご自分の弟子たちをかばわれたわけです。律法にも安息日に働いてはならないと記されていますから、聖書の戒めに背いた弟子というのは弁解の余地もないような気がするわけですが、主イエスはその弟子への非難を通して、そもそも律法、神の戒めとは何なのかというテーマで話をされています。それが、今日の箇所です。

 ここで、パリサイ人たちが主イエスの弟子たちを非難した時、主イエスが何と答えられたか。この主イエスのお答も、とても興味深いものでした。かつて、ダビデがサウル王から逃げていた時のことです。ダビデは祭司のところを訪ねて、律法では祭司しか口にすることが許されていなかったパンを、いただいていきます。26節に、アビヤタルが大祭司のころと書かれていますが、聖書を読んでみますと気づくのは、実際はアヒメレクです。聖書を記す時に覚え違いをしたのかもしれません。いずれにしても、祭司しか食べることの許されていなかったパンを祭司アヒメレクはダビデに与えます。この時のことを主イエスはここで語られて、だから主イエスの弟子たちが安息日に麦の穂を食べてもいいのだという理由にしたわけです。

 おそらく、これを聞いていたパリサイ人はこの主イエスの答を聞いて、口をポカーンとあけていたのではなかったかと私には思えるわけです。というのは、このダビデのケースは全くの例外として、困った緊急の事態の場合は、律法よりも緊急の事情が優先されるというケースとして当時の律法学者たちには理解されていたのです。けれども、主イエスの弟子たちは緊急でもなんでもないわけです。むしろ、あまりよく考えもしないで麦畑に入って行って食べたわけですから、この主イエスのお言葉は、普通の感覚からすると、この状況ではふさわしくないわけです。しかし、わざわざこう答えられたということは、主イエスには明確な意図があるはずです。主イエスはここで何を気付かせようとしておられるのでしょうか。

 今日の説教題を「祝福の戒め」としました。少し説教題に違和感を覚えるかもしれません。「戒め」という言葉と「祝福」という言葉は合わないように感じるわけです。何でもそうですが、決まりごとが一つできると、本当のその決まりごとの意味は忘れられてしまって、その決まり事は自分を束縛するもののように感じるわけです。たとえば、体調を整えるために塩分の取り過ぎは良くないので、塩分を控えるとなるとたちどころに不自由に感じます。今まで何でもおいしく感じたものが、塩味を薄めた食べ物を残念に思う気持ちが出てくるわけです。決まり事というのは、本来その人のためになるためにあるはずなのに、決まりごとが、戒めが出来た途端、人を縛り付けるものとなってしまうのです。そして、塩分の濃いものを食べるのが自由だと思って塩分の濃い食事をとっても、喜べるかというと、実際自分の体に良くないし、かえって罪悪感が伴うことになるわけです。戒めに縛られるのも不自由ですが、戒めを破るのも不自由さを感じてしまうのです。

 今日の箇所は、「安息日」の戒めが問題となっています。本来、安息日の戒めには二つの意味があります。私たちは礼拝で、十戒を唱えます。お気づきのように、十戒は出エジプト記と申命記の二か所に記されていますが、出エジプト記の20章では安息日に仕事をしてはならない理由をこう記しています。

それは主が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。

と記しています。戒めの理由は神が天地を創造し、7日目に休まれたのが理由だというのです。出エジプト記にはその後でもう少し丁寧な説明を記しています。そこにはこう書かれています。23章12節です。

六日間は自分の仕事をし、七日目は休まなければならない。あなたの牛やろばが休み、あなたの女奴隷の子や在留異国人に息をつかせるためである。

 ここに記されているのは、安息日は普段労働に精を出している人たちのためにある。つまり他者のためにあると記されているわけです。これが、そもそもの安息日の律法の神の心だったわけです。ところが、人は安息日に仕事をしてはならない、働いてはならないという言葉にだけ目をとめるようになってしまいます。だから、ここで主イエスの弟子たちが働いてはいけないと言われていた安息日に、不用意にも麦畑に入って行って穂を摘んで食べたという行為をパリサイ人たちが咎めたのです。けれども、主イエスはここで安息日の戒めの本質は、他者を生かすため、虐げられて働いている人が、神の安息の日に、厳しい労働から解放されて、その人が生き生きとするためにある。だから、27節で

「安息日は人間のために設けられたのです。人間が安息日のために造られたのではありません」

と答えられたのです。

 ここまでくると主イエスの意図は明らかで、神の戒めというのは、そもそも人が神の御前で喜んで生きることを助けるためのもので、安息日を守らせるために神が人間を創造されたのではないのだということを気付かせておられるわけです。ですから、その前にお答えになられたダビデの時のことも、緊急な事態には許されるという意味ではなく、戒めというのは、人を生かすためにあるのだからということを説明するために語られていることが分かるわけです。神の戒めは、人に守らせるための戒めなのではなく、人が安心して生きるためだということがそもそもの意図だと言うことに、主イエスは気付かせようとしておられるのです。

 さて、3章にもう一つの安息日の出来事が記されています。これは会堂でのできごとです。ここに病の人、手の萎えた人がいました。パリサイ人は主イエスがここで、この人に何をするか興味深く見ていたと記されています。2節には「訴えるためであった」と記されています。2章からこの3章の8節までのところに5つの論争の物語が記されていますが、これまでのところはパリサイ人の問いかけは悪意があったというよりは、素朴な疑問といってもいいような性質でした。ところが、ここにくると明らかな悪意が見て取てるように記されています。病の人をみながら、その人を憐れむ心というのはどこにもみられず、かえって、意地悪な、主イエスを訴える口実にできるのではないかと見ているわけです。
 ここになると主イエスの意図はさらにはっきりと記されています。4節にこう記されています。

「安息日にしてよいのは、善を行うことなのか、それとも悪を行うことなのか。いのちを救うことなのか、それとも殺すことなのか。」と言われた。彼らは黙っていた。

とあります。
 安息日というのは、何のためのあるのか。それは人を自由にすること、神の戒めとは人を自由にするための戒めなのだと問いかけておられるのです。

 私たちは、こういう主イエスの出来事を読んでいますと自然に、自分も主イエスの側に立つ人間という意識で聖書を読むのが普通だと思います。ですから、ここでパリサイ人の心の狭さに腹を立てるわけです。けれども、実際の生活において、私たちはほとんどの場合、このパリサイ人の側で物事を考えているのだと思います。

 先日の祈祷会でこんな話がでました。ある方が、電車に乗ろうと駅で並んでいたのだそうです。みな扉の前に並んで、まず列車に乗っている人が降りるまで待って、それから、順番に列車に乗り込みます。ちょうど、ラッシュの時間帯だったそうですが、一人の女性が列とはまったく違う入り口のところで待ち構えていて、さっと横から列車に入って椅子に座ろうとしたというのです。並んでいた人は、おそらくみなむっとした顔でその人を見たのでしょう。その人は、思わず、「すみません、私、座らないといけないんです」と一言口にしたのだそうです。それで、何か事情があるのだとみんな察したのか、誰も文句を言わなかったのだそうです。

 みんながちゃんと一列に並んでいる時に、一人だけ横入りをする。子供のときから、そういうことは良くないことだと教えられます。ですから、私たちはそういう共通のルールをきちんと守ろうとします。ですから、ルールを守らない人を見つけると、つい嫌味の一つでも言いたくなるわけです。パリサイ人たちがここで主イエスの弟子に対して思ったことというのは、みんなで守っている安息日のルールです。神様が定めた決まり事です。ですから、守ることが当然なのです。守らないほうが悪いのです。

 私も車の運転をしている時に、時々、妻に言われてしまうことがあります。「あなたは運転をすると別人になる。とても牧師とは思えない言葉を口にする」と。ちゃんと運転をしない人、自分勝手な運転をする人に、つい車の中で悪態をついてしまうのです。

 私たちは自分が正しいことをしていて、周りにそれをきちんと守らない人を見かけると鬼の首でもとったかのようにして攻撃してしまいます。そういう弱さがあるのです。妻に言われるのですが、「もしかしたら、あの人は家族が病気で急いで帰らないといけないのかもしれないでしょ」と。そうすると、「いや、あの車は前にも覚えがある・・・」そんな会話を私はしてしまうのですが、妻の方がよほど想像力があるのだと思うのです。

 人を攻撃する時わたしたちは自分が正しいところに立っていますから、気持ちがいいわけです。人を裁くというのは、自分が優越感に浸るにはもっとも効果的な行為です。けれども、私たちはその時、自分の正しさしか見えなくなっていて、まさにそのことが神ご自身を悲しませることになっていることに気づいていないといけないのです。

 神の戒めは、人をさばくためのものではありません。神の戒めは、人に自由を与えるためのもの。人が、私たちの回りに生きている人が喜んで生きることができるためにあるのです。私たちは、自分の正しさに立つのをやめて、神の思いに立ち返る必要があるのです。

 ここで、パリサイ人はどうなったかというと、最後の6節にこう記されています。

そこで、パリサイ人たちは出て行って、すぐにヘロデ党の者たちといっしょになって、イエスをどうして葬り去ろうかと相談をはじめた。

 結果どうなったかというと、パリサイ人の心の中に殺意が生じたというのです。自分の考えの方が正しいのだということに固執する時に、自分の考えを否定するものを殺してしまってもいいと考えるようになると、ここで聖書は記しているのです。

 ニュースに出て来る殺人犯だけがものすごく悪いということではなくて、聖書はここで、正しく生きようとする人が、自分の正しさに固執していく心の中に、主イエスを殺そうとする心が生じるのだと書いているのです。いい加減に生きている人の中に出て来るというのではないのです。パリサイ人のように、きちんと生きよう、誠実に神の戒めに従おうとする人の心の中に、醜いものが潜んでいると記しているのです。

 私たちは、気づく必要があります。正しいのは自分の考え、となっていく時に、一歩下がって、神のお考えがどこにあるのかに目をとめることが求められるのです。

 この安息日の会堂で、パリサイ人が意地悪な気持ちで手の萎えた人を見ていた時、主イエスは何を見ておられたのでしょうか。それは、この人が神の御前に出る時に喜んで生きることができるようになることです。主はそのためにこの人に手を伸ばすよう語りかけ、お癒しになられます。主の眼差しは神がこの人をどう見ておられるのか、そのことを示しておられるのです。

 ここで、主イエスがなさったのは本当に、ごく日常的な一コマであったに違いないのです。安息日につい、麦畑に入って麦を摘んで食べる。こんな小さな出来事が、主イエスを殺したいという引き金に成り得るのです。「あっ、あの人、こんな悪いことをやった」と思う時に、主は、悪い出来事に目を向けて、自分は大丈夫と考えるのではなくて、神はその悪いことをしてしまった人を、どんな眼差しで見ておられるのか、その神の眼差し、主イエスの眼差しに気づくこと。想像力をもって、きっとあの人は妊娠していて満員電車で座らないといけなかったかもしれない。そんな小さな気持ちのゆとりを持つことが、神の愛に生きることになるのだということを、私たちは心に刻みたいのです。

 お祈りをいたします。

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