2017 年 11 月 5 日

・説教 マタイの福音書16章26節「いのちの重さ」

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2017.11.05

鴨下 直樹

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 先日、以前牧会していた教会の長老とばったり出くわしました。懐かしくて昔話に花をさかせていました。話はこの長老の奥様の実家が徳島にあるのですが、徳島のご両親が病気で入院していたところを訪問したということでした。それで、病室で、イエス様を信じて天国に行きましょうという話しをしたら、二人とも「はい」と答えてくれたと、にこやかな表情でお話くださったのです。

 実は、私が牧会していた当時、この長老のお父様がご高齢で、病気になられて入院しているところを、訪問したことがありました。何度も病室を訪問して、色々なお話を聞かせていただきました。その中で、お父様がこんなエピソードを話されたことがあります。この長老の奥様も、クリスチャンなのですが、まえに、この奥様が入院をして手術を受ける時に、手術室に入る時、にっこりと笑いながら「行って来るね」と言われたのだそうです。その顔が忘れられないというのです。

 よくよく話を聞いてみると、自分もその後で何度も手術室に入ったけれど、いつも不安で不安で仕方がなくて心がつぶれそうになるのだそうです。その時に、いつも自分の息子のお嫁さんの顔が出て来て、どうしてあんなに安心でいられるのか不思議でしょうがない、と思うのだということでした。そして、私にこう話されたのです。「信仰を持つということが、それほど平安を得られるというなら自分も信仰が欲しい」と。そして、病室でご夫妻そろって洗礼を受けられたのです。後日、その長老とお会いした時に、懐かしそうに、ご自分の両親がそうやって病室で洗礼を受けて、その後天国に招かれていったので、本当にそのことが嬉しい、自分の妻の両親も最後に信仰を持ったことが嬉しいと話してくれました。

 このように、人生の晩年に信仰を持つ方は少なくありません。特に、キリスト教会で葬儀を行った後というのは、いつも色々な相談を受けます。自分の人生はこれでよかったのかということを、振り返りながら考えるのだと思うのです。若い時というのは、死はいつか自分にもやってくるけれども、まだ、今ではないからと、考えるのを後回しにできます。けれども、いろいろなことがきっかけになって、自分の人生を振り返る時に、自分は自分に与えられたいのちの価にふさわしく生きることが出来たのか。これで良かったのかと考える時が訪れるのだと思うのです。その時に、どのような答えを出すのか、それもまた人それぞれです。

 もちろん、そこで自分の人生を振り返ってみて、後悔することが沢山あったとしても、もはやどうすることもできません。自分の人生の大事な局面で、今の道を選択してきたのは自分ですから、その人生を否定してみてもどうにもなりません。ただ、私たちにあるのは、常にこれからどうするかという決断しかないのです。

 今日の聖書はこういう言葉です。

人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。


 ここで、主イエスはいのちの重さについて問いかけておられるのです。私たちのいのちと全世界とを天秤にかけながら、わたしたちのいのちと全世界とどちらが重たいのかと。この主イエスの言葉の中に、損とか得という言葉がでてきています。なんだか不謹慎な気にもなります。生きているだけで得をしているとか、死んでは損だという言い方をする人も世の中にはおります。けれども、どれだけ生きている間に得をしたとしても、それこそ、もし、世界を手中に収めるような大金持ちや、力強い王になったとしても、いのちを失ったら何の得があるのでしょう。この主イエスの言葉は、色々なことを連想させます。これが、たとえば「全世界」でなくても、ここは色々なものに置き換えてみても同じでしょう。たとえ大金を手に入れたとしても、たとえ有名人になれたとしても、たとえ仕事に成功しても、たとえ憧れの人と結婚できたとしても、いのちを失ってしまったら何の意味があるだろうか。

そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいのでしょう。

と続く言葉も、そのまま意味をもつと思います。
 人は何のために生きているのか。何のための勉強するのか。何のために良い会社に就職したいと願うのか。何のために良い人と出会いたいと思うのか。どんなにすばらしいものを手に入れても、全世界を手にすることができたとしても、自分のいのちの重みが、自分が何のために生きているのか理解することができないのだとしたら、何の意味があるのでしょう。

 わたしたちは自分のいのちは自分のものだと思っています。自分のいのちの使い方は、自分で自由に決めることができると思っています。それは、そうです。間違いではありません。けれども、自分が何のために造られたのか、自分のいのちの製作者であるお方の意図はなんであるのか知ることなしに、自分のいのちの価値を、重みを知ることはできないのです。

 主イエスはここで、あなたのいのちの重さを、あなたは知っているのかと問いかけておられます。あなたのいのちは全世界よりも重いと言っているのです。なぜ、主イエスはそんなことを言われるのでしょうか。それは、他の誰でもない、神ご自身が、私たちに与えられているいのちの重さを知っていて、私たちのいのちを重要に思っておられることを、主イエスは知っておられるからです。

 主イエスが、十字架で死なれたのは、自分が悪いことをしたからではありませんでした。人間の身勝手さ、わがままによって、主イエスは殺されてしまいました。何の罪もない、まさに完璧であったお方を、この世界は殺したのです。その時、この世界は神から反対に問いかけられることになりました。神の御子をも殺すこの世界に生きる人間に、どんな正義があるのかと。そこにどういう理由があって、どういう理由で人を、神の御子であるイエスを殺すのかと。主イエスを十字架で殺したこの世界は、同時に、神から裁かれることになることをその身に負ったのです。

 主イエスを殺した理由、それは、自分さえよければよいという考えが、神の御子イエス・キリストを十字架につけて殺したのです。この、「自分さえよければよい」という考えを持っていない人間は、世界に一人もいません。だから、十字架の主イエスの前に、私たちは誰もが、そうやって生きた自分の生き方が、神の前に胸をはって誇れるものではないことを認めざるを得ないのです。神の御子を殺したこの世界の人々は、何をしても、どれほど立派な結果を残したとしても、この神の前に立つとき、胸をはることができません。

 けれども、神は十字架で殺されたイエス・キリストを墓の中に留めることを良しとはされないで、よみがえらされました。その時神は、人間に罪だけを負わせることをしないで、死の先にあるいのちの生活をお示しになられたのです。それは、同時に、神には人間の罪を赦す備えがあることの宣言となったのでした。

 人は、人の罪は、自分のことだけを考えて、主イエスを殺しました。しかし、神は主イエスをよみがえらされて、この主を殺すような弱さが自分の中にあることを認めて、神の前に正しく生きることを求める者に、新しい生き方があることを約束されたのです。

 主イエスが死なれたことによって、私たちのいのちの重さが、まさに、神の御子、主イエス・キリストのいのちによって償われる道があることを、神はこの世界に示してくださったのです。私たちの神、主は、私たちのいのちを主イエスのいのちを犠牲にしてでも、取り戻したいと考えてくださった神です。私たちのいのちをそれほど重いと考えておられるのが、聖書の語る神です。

 神は、私たちを救うために、主イエスのいのちで償って、私たちが、神に喜ばれるような生き方をすることができ、そして、死んで後も神の御前で永遠に喜んで生きることができるいのちを与えたいと思っておられるお方なのです。聖書の神は、私たちが死んだあとも、永遠の神の御国で平安に生きることができることを教えてくださいました。だから、主イエスの十字架によって、私たちの罪が赦される道を神が備えてくださったと信じるならば、私たちは、そこから神の前に正しく生きることが出来る者としていただけるのです。

 そのことを、もう一度見出したのが宗教改革者ルターです。ルターの発見は「信仰義認」と呼ばれるようになりました。主イエスを信じる信仰によって、神から私たちは義と認められる。神からもはや罪とされることはないというのです。この10月31日、このルターの宗教改革から数えて500年目を迎えました。このことを世界中の教会でお祝いし、私たちの教会でも今年4日間をかけてこのための記念講演会をしたのです。

 ルターは宗教改革の発端となる福音の再発見といわれる出来事を経験するまでは、人間は正しい神の前に、自分も正しく生きることを通して神の目に叶う生き方ができると考えていました。ですから、徳を積むというような生き方が良いと考えていたのです。ところが、自分が正しく生きようと思ってもなかなか正しく生きることが出来ません。それで、人間にできもしない不当な要求をする神の義という性質は、ルターにとって意地悪な神としか映りませんでした。ですから、神に対して不信感を持つたびに、自分のこの考え方が悪いのだと、いつも自分を責めていたのです。それが、ルターにとっての大きな悩みだったわけです。

 ところが、聖書を読む中でルターは、聖書の神の義という性質は、人間を裁くための神の義というのではなくて、人間にもその義を与えようとしておられる神の性質を聖書から発見します。神は、人間が正しく生きるための神の義、神の前に正しく生きる生活を与えたいと思っておられる。だから、人間が神の前に自分が正しく生きられないことを認めて神の義を求めるならば、神はその義をイエス・キリストを通して与えてくださる。それが、主イエス・キリストを信じるということなのだということを発見するのです。その時から、ルターは神の前に罪の悔い改めをすることを進んでするようになります。

 聖書の神は、人を罪から解放し、神の義を与えて、その人が神に与えられたいのちにふさわしく生きる事を願っておられるお方です。私たちのいのちの重さを、一番よく知っておられるのは、他の何物でもない神ご自身です。この神が、私たちを救うために、私たちが正しく生きるために神の御子である主イエス・キリストをこの世界にお遣わしになり、私たちの救いのために十字架にかけられることをお認めになられたのです。私たちのいのちを取り戻すために、神の御子を犠牲にする。ここに神の重たい愛の決断があります。私たちのいのちを重たいと考えておられる神の真実さが示されています。この神の心を受け取って主イエスを信じる時に、私たちは神の前で正しく生きることができるように、神から義の性質を与えられて正しく生きることができるようになるのです。

 今日、私たちは先に天に召された方々のことを覚えて礼拝をしています。そして、私たちのいのちをその重さに従って生きて欲しいと願っておられる神の心を受け取ることができるために、毎年こうして召天者記念礼拝を行っているのです。私たちはこの時、私たちのいのちの重さを、誰よりもよく知っておられる神ご自身の心を知り、私たちも、私たちに与えられているいのちにふさわしく生きることができるよう、私たちのいのちの重さが、主イエスによって贖われたほどに重いことを心に留めて、歩んでまいりたいと思います。

お祈りをいたします。

 

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