・説教 マタイの福音書27章32-44節「ののしられた主イエス」
2025.04.13
内山光生
わが神 昼に私はあなたを呼びます。/しかし あなたは答えてくださいません。/夜にも私は黙っていられません。/けれども あなたは聖なる方/御座に着いておられる方 イスラエルの賛美です。(詩篇22篇2~3節)
序論
今日から受難週となります。個人的な事ですが、毎年、この時期になると花粉症による苦しみで身体が重くなったり、集中力が低下し、祈ろうとしても賛美をしようとしても、声がかすんでしまう状態となってしまいます。「苦しいな。しかし、もうしばらく忍耐すればこの苦しみから解放される」と自分にいい聞かせながら、説教の準備をしておりました。
もちろんイエス様の十字架の上での苦しみと自分自身の花粉症の苦しみは、比較にならない程だと言うことは分かるのですが、しかし、自分自身も多少、辛い状況になっていた方が、イエス様の受けた苦しみについて思い巡らすのに、ちょうど良いと感じています。
I 十字架を背負わされたシモン(32節)
では32節から順番に見ていきます。
イエス様が裁判にかけられ、十字架刑という判決を受けた後、いよいよ処刑される場所へ移動することとなりました。通常、十字架刑となった人は、十字架の横木を自分で担いで移動することとなっていました。ところが、この時点でイエス様はすでに肉体的な限界がきていたようです。横木を担いで前に進もうとしても、歩けない程、弱っていたのです。それで兵士たちが見るに見かねて、たまたま近くにいたクレネ人シモンに、イエス様が担ぐはずだった十字架の横木を背負わせたのです。マタイの福音書だけでなく他の福音書すべては、イエス様の十字架での苦しみについては直接的には表現していません。しかし、文章の背後をよく思い巡らすことによって、イエス様がどのような苦しみを味わったかについてイメージすることができるのです。
II 苦味を混ぜたぶどう酒を飲まなかった主イエス(33~34節)
33~34節に進みます。
イエス様は、ついに、ゴルゴタの丘に到着しました。ゴルゴタが「どくろの場所」という意味からすると、いかにも処刑する場所にぴったりの名前だと言えるでしょう。この名前を聞いただけで不気味な雰囲気がある場所だと感じてしまうのです。
さて、イエス様が十字架につけられる前に、兵士たちは「苦みを混ぜたぶどう酒」を飲ませようとしました。これは、十字架につけられた時の痛みを和らげるもので、鎮痛剤の役割を果たすものでした。ところが、イエス様は、「苦味を混ぜたぶどう酒」をお飲みにならなかったのです。どうしてなのでしょうか。それは、十字架で受ける苦しみを味わい尽くすために、敢えて、鎮痛剤のようなものに頼ろうとしなかったと考えられます。
もしもイエス様が「苦みを混ぜたぶどう酒」を飲んでいたのならば、悪意のある人々は「どうせ痛みをあまり感じてなかったでしょう。」と言って、イエス様がまるで苦しまなかったかのように言い張るかもしれません。しかしながら、イエス様は十字架の苦しみをすべて背負うために、敢えて、兵士たちから差し出された「ぶどう酒」を飲まなかったのでした。
III 主イエスの衣を分けた兵士たち(35~36節)
35~36節に進みます。
ここには、兵士たちがイエス様の衣を分けた事が記されています。当時の習慣では、兵士たちの特権として、十字架につけられた人の衣を分けることが許されていたのです。イエス様の生きていた時代では衣が貴重だったこともあって、兵士たちは喜んでその衣を受け取った事と思われます。
そして、彼らはすでに自分たちの役割すなわちイエス様を十字架につける役割を終えていましたので、リラックスしたかのように腰を下ろして、イエス様を見張っていたのでした。
この兵士たちは、上から与えられている仕事をしているだけであって、恐らく、イエス様が苦しみを受けている事に対して何とも思っていなかったでしょう。人が苦しんでいる事で自分の心の痛みを感じる事なく、淡々とイエス様の手と足を木につけるために釘を打ったことでしょう。
マタイの福音書では、イエス様が釘を打たれていることについて省略されていますが、私たちが想像力を働かせて、この場面を思い巡らす時に、イエス様の痛みを覚え、同時に私たち自身のために苦しい思いをさせて申し訳ないという気持ちが出てくるのではないでしょうか。
IV 罪状書きが掲げられる(37~38節)
37~38節に進みます。
続いて、十字架の上に罪状書きが掲げられる場面です。イエス様の罪状書きは「これはユダヤ人の王イエスである」と書かれていました。この内容に対して、イエス様を十字架に追いやった人々は、「ユダヤ人の王と自称した」と書いてほしいと願い出たのですが、裁判官のピラトは、自分に与えられている権限によって「ユダヤ人の王イエスである」とするように命じたのです。
イエス様が十字架につけられた時、二人の強盗も同時に十字架につけられていました。ここには記されていませんが、彼らの罪状書きには「強盗」と書かれていたと思われます。この二人は恐らくローマ帝国に反逆するほどの強盗をしたと思われます。というのも、強盗といえども、世間を騒がす程の大きな犯罪行為でないと十字架刑を受けることがなかったからです。
さて、今日の説教では、ここまでが導入部分であって、ここから先が今日の中心テーマとなっていきます。すなわち、タイトルの通り「ののしられた主イエス」についてがテーマとなっています。
V 通りすがりの人々が主イエスをののしる(39~40節)
39~40節に進みます。
通りすがりの人々とありますが、たまたまゴルゴタの丘の近くを通った人というよりも、わざわざイエス様が十字架につけられるのを見学するためにやってきた人が大半だったと思われます。彼らは、すでにイエス様が捕らえられ、裁判にかけられ、十字架刑という判決が下されたことを知っていた人々なのです。
裁判官のピラトからしてみれば、イエス様は決して死刑に値するような罪を犯していないと判断していました。ところが、群衆が扇動されて「イエスを十字架につけろ」と叫び続けたので、ピラトは暴動になる事を恐れて、不本意ながらもイエス様を十字架につける判決を下したのでした。その裁判の中でイエス様がかつて「神殿を壊して三日で建てる」と言ったという証言がでていましたので、その言葉を用いながら「もしお前が神の子なら自分を救ってみろ。」とののしったのです。
彼らはイエス様がどういうお方なのかを何も分かっていないから、こんな酷いことを言うことができたのでしょう。ここにイエス様に対する信仰がない人の姿が描き出されているのです。いや、今はイエス様を信じている私たちの、信仰を持つ前のイエス様に対する態度が、ここに表わされているのではないでしょうか。
私はクリスチャンホームで育ち、毎週、教会学校に集っていましたが、小学5年生の頃までは、まだイエス様をはっきりと自分の救い主だとは信じていませんでした。教会や親の前では、「僕は信じていないよ」とは決して口に出して言わなかったものの、突き詰めて考えてみると、「信じていない」あるいは「信じたくない」という気持ちがあった事を思い出すのです。どうしてそのように思っていたのかを振り返ってみると、どうやら、小学生の頃の自分は、運動が苦手だったり、本当に仲が良い友達がいなかったり、むしろ、いじめっ子によって辛い出来事が何度もあったりと、とてもしあわせだと思える状況ではなかった事を思い出すのです。そういう状況の中でイエス様の話を聞いたとしても、自分自身とイエス様がどういう関係があるのか、そのつながりを見出すことができなかったのではないか、そういう事だったのではないかと思うのです。
それゆえ、教会学校で十字架の話を聞いたとしても、イエス様の苦しみの場面のお話を聞いても心が痛むような感覚になることがありませんでしたし、イエス様がののしられている場面のお話を聞いたとしても、何も感じる事がなかった、そういうことを思い出すのです。しかし、やがてイエス様を信じる事ができるようになった後で、ようやく、イエス様の十字架の苦しみについて、色々と思い巡らす事ができるようになり、そして、そのイエス様の十字架のおかげで、自分の罪が赦された事に感謝を覚えるようになったのでした。
ですからまだイエス様に対する信仰を持っていない人にとっては、「イエス様が全人類のためにいのちをささげて下さった」という聖書の教えを聞いても、その苦しみに対して深く思い巡らしたりすることは難しいと思うです。一方、イエス様を信じることができるようになる時、イエス様の十字架に対して、それまでに経験したことのないような感情が生まれてくるのです。
VI 祭司長・律法学者・長老たちが主イエスを嘲る(41~43節)
41~43節に進みます。
人々がイエス様をののしっている時、同じように、イエス様を逮捕し、裁判にかけ、十字架刑へと追いやった人々、すなわち、祭司長たちや律法学者たちや長老たちが、イエス様を嘲ったのです。
彼らは「今、十字架から降りてもらおう。そうすれば信じよう。」と言っています。しかしながら、もし仮にイエス様が十字架から降りたとしても、彼らはイエス様が救い主だと信じることはないと思われます。イエス様はすでに数多くの奇跡を示してくださり、また、福音を大胆に語ってきました。それらを見聞きしながらも、イエス様が救い主だと信じなかった人々は、たとえ更なる奇跡を目撃したとしてもイエス様を信じるようになるとは思えないのです。
イエス様を十字架に追いやった人々は、自分の罪の大きさに全く気づいていません。それどころか、あらんかぎりの言葉をもってイエス様を嘲ったのです。彼らは、「イエス様が自分を神の子だと名乗っているのだから、十字架から降りることもできるはずだ」と言い張ります。この言葉はイエス様にとって、とても辛い内容だと言えます。
というのも、イエス様は実際に神の子として地上に遣わされましたし、神の子の力を使えば十字架の上から降りる事も可能だったからです。しかし、イエス様は決して、十字架の上から降りる訳にはいかなかったのです。なぜなら、もし十字架から降りたならば、イエス様に与えられている使命、すなわち、全人類の罪の身代わりとなるという使命を果たすことができなくなるからです。
私がかつて親しくさせていただいていたクリスチャンの友人がいます。今は、住んでいる場所が離れている事もあって、めったに会うことがなくなりましたが、心の中では今も友人だと思っています。その彼は、クリスチャンになる前に異端と呼ばれている宗教に足を突っ込んでいました。ところが、ある時、普通のキリスト教の聖書を読んでいる中で、自分自身が十字架につけられているイエス様をののしっている、そういうイメージが湧き出てきたというのです。そして、自分がローマ兵という立場になって槍でイエス様を突つこうとしていたというのです。彼は恐ろしさのあまりに、我に返ったそうですが、その出来事を通して、彼は自分がいかに罪深い人間かを自覚することができ、イエス様が自分の罪の身代わりとなってくださったという聖書の教えが深く理解できるようになったというのです。
多くの人々は、自覚していないだけで、実は、心のどこかでイエス様を十字架に追いやろうとしている自分がいる事、そして、十字架にかけられているイエス様をののしっているという事に気づいていないのかもしれません。しかし、そういう本当の自分の姿に気づかされた時、自分の考えの過ちを悔い改め、イエス様に対する信仰が生れ出て、救われている喜びで満たされていくのです。
そのように考えるとき、私たちは誰一人、十字架にかけられているイエス様をののしった人々に一方的に非難を浴びせる資格はないのかもしれません。なぜなら、かつてイエス様を信じる前の私たちも、同じように、心のどこかでイエス様をののしっていたのかもしれないからです。
VII 強盗たちも主イエスをののしる(44節)
最後、44節に進みます。
イエス様が十字架につけられた時、二人の強盗も十字架につけられていました。この二人はまぎれもなく、十字架刑に値する程の犯罪行為をした人々です。イエス様はこの地上で生きている間に全く罪を犯していなかったにも関わらず、十字架につけられています。一方、強盗たちが十字架につけられているのは当然の事でした。結果的に、イエス様と強盗たちは十字架につけられているという点では同じ立場にたたされています。それにも関わらず、強盗たちは人々がイエス様をののしったのと同じようにイエス様をののしったのです。
強盗たちの内一人は、しばらく後で、自分が罪びとだということを告白します。そして、イエス様から「あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます」と宣言されます。つまり、十字架につけられる程の犯罪行為を犯した人でさえも、死ぬ直前にイエス様を信じることによって、天国に入れられたのです。ここに神の憐れみが示されておりますが、マタイではその部分が省略されていますので、ここまでにしたいと思います。
さて、二人の強盗は、最初のうちは、イエス様をののしったのです。なぜ彼らがののしったかというと、イエス様が十字架から降りることができるのならば、自分たちも同じように十字架から降ろしてもらいたい、そういうもくろみがあったからかもしれません。しかしながら、イエス様は決して十字架から降りようとしません。それで、強盗たちは自分たちの願いが叶わずに怒りが込み上げてきていたと思われます。
強盗の姿には、自分たちの犯した罪の大きさを顧みることをせずに、自分に都合のいいことばかりを期待しようとする、そういう人間の罪深さが表されているのではないでしょうか。
彼らの態度は決して良いものとは言えません。でも私たちも自分の心の中を見つめていく時に、自分の罪を罪だと認めようとしない心がある事に気づかされることでしょう。あるいは、神様に自分の都合のいいことばかりを願っている、そういう姿があることに気づかされる事でしょう。
まとめ
十字架につけられているイエス様に対して、多くの人々がののしりの言葉を発しました。これはイエス様にとって、辛い事であると同時に、イエス様を信じている私たちがこの場面を読むときに心が痛む思いにさせられるのです。
しかしながら、視点を変えて読んでいくときに、イエス様をののしった人々と同じような罪が私たちの中にある事に気づかされていくのです。そう考えるときに、私たちがかつてイエス様を知らずに歩んでいたその時は、私たちが自覚していなかったにせよ、イエス様をののしる側にいたということに気づかされるのです。
確かに、私たちがいつまでもイエス様をののしる側に立ち続けるならば、大変な事となります。しかしながら、私たちクリスチャンは、今すでに、イエス様の十字架に感謝を捧げる側に立っているのです。イエス様の十字架の場面を思い巡らす時、イエス様の御苦しみを覚えつつ、自分自身の罪深さに気づかされ、しかし、最終的には、「こんな私の罪のために十字架にかかってくださったイエス様、感謝します。」という気持ちが湧き出てくるのです。
イエス様は、私たちの罪を赦すために、身代わりとなって十字架にかかって下さいました。ですから、イエス様を信じている私たちの罪は、すでに赦されているのです。それゆえ、赦されている者として、イエス様に心からの感謝を捧げていきましょう。
お祈りします。