・説教 マルコの福音書8章1-10節「七つのパン」
2025.11.16
内山光生
すると、イエスは群衆に地面に座るように命じられた。それから七つのパンを取り、感謝の祈りをささげてからそれを裂き、配るようにと弟子たちにお与えになった。弟子たちはそれを群衆に配った。
マルコ8章6節
序論
今日の箇所に書かれている出来事は、少し前に記されていた「五つのパンと二匹の魚」と似たような内容となっています。だから、ある人は「これは前の出来事と同じではないか。」と感じるかもしれないのです。そして、「この話は知っているから、軽く流し読みをすればいい。」と考えるのです。ある人々にとっては、同じような内容が繰り返されると、くどいと感じ、興味深く読み進めていくのが難しくなるというのです。
ですから、似たような内容が続くと、軽く流し読みをしてしまう人が出てくるのです。一方、説教を語る側の立場からすれば、同じような内容が書かれている聖書箇所から説教の準備を進めていく時に、どのような気持ちが出てくるのでしょうか。
率直に言うと、私自身、「これは以前の箇所と似たような内容だから、何を語ればいいかを見つけ出すために苦労するだろうな。」と感じるのです。それで、いつもよりも慎重にその聖書箇所の内容を見ていく事となるのです。つまり、より一層、何度も何度も読み返す作業が必要になってくるのです。そうしないと、何を語ればいいかが分からなくなるからです。
さて、聖書の中で似たような内容が出てきた時に、どのように解釈していけばいいかのコツがあります。それは「なぜ同じような出来事が記されているのだろうか。」と疑問に思いつつも、「きっと、それなりの理由があるに違いない。」と考えるのです。そして、そこに書かれている内容の意図が何であるかを考えていくのです。すると、今回の箇所の場合、何かを強調するために、敢えて、似たような内容が記されていることに気づかされるのです。
結論から言いますと、この奇跡がマルコの福音書に記録されている理由は、主イエスの弟子たちが「イエス様には奇跡を行なう力がある。こんな奇跡を行なうことができるのは神様だからだ。」ということを悟っていなかった事を伝える、そういう意図があるのです。
イエス様がまことの神様だということをなかなか悟ることができないこの現実は、主イエスの弟子たちに限った事ではありません。つまり、どの時代に生きた人々であっても、しかも、神様のみわざを直接、体験していたとしても、すぐに「イエス様って、本当に偉大な力があるお方だ。」ということを悟ることができるとは限らないのです。
人々の心というのは、簡単には変わらない。どうしても、自分の中にある常識によって物事を判断してしまう。そういう性質があります。だから、本当の意味で聖書の言っていることを理解するまでに時間がかかる事があるのです。
しかしながら、聖霊が働く時、「あの出来事は、こういう意味があったんだ。神様って本当に私を導いて下さっているんだ。」ということに気づかされるのです。そのような事を何度も繰り返していくうちに、神様に対する信頼関係が深められていくのです。
そういう訳で、神様はしばしば似たような出来事を通して、私たちにご自身がどういうお方なのかを伝えようとされているのです。そして、聖霊が私たちのうちに働く時、神様が私たちを正しい道に進むことができるよう守り導いて下さっていることに気づかされていくのです。
では順番に見ていきます。
I 空腹の群衆を憐れんだ主イエス(1~3節)
1節~3節を見ていきます。
イエス様がガリラヤ地方で宣教活動をされると、すぐ多くの人々が集まる程にイエス様の語られる福音の評判が高くなっていました。集まってきた人々はイエス様の福音に釘付けとなり、三日間もイエス様のもとから離れなかったのでした。
おそらく、この群衆は「イエス様によって病気を治してもらいたい。」あるいは、「お腹を満たしてもらいたい。」ということが目的で集まっていた訳ではないでしょう。もちろん、イエス様はご自身のもとに連れてこられた病人を皆、お癒しになったのですが、しかし、ここにいる人々は、あくまでも「イエス様の語られる福音を聞きたい、もっと聞きたい。」と思っていたのです。そのため、自分たちの食料がなくなってしまっても、それでも家に帰ろうとしなかったのでした。
そういう中にあって、イエス様は人々の状況を察知され、何か食べ物を与える必要があると考えられたのです。もしも人々を空腹のまま帰らせるならば、途中で動けなくなってしまう人が出てくる。そのような事が予測できたからです。
それで、イエス様は群衆の事を心配され、その思いを弟子たちに伝えられたのでした。ここでは、イエス様が人々の状況を細かく観察されている、健康面を心配されている、そういうお姿を垣間見ることができるのです。つまり、イエス様は愛のあるお方であって、人々の必要に対して、それを満たそうとされるお方だということが分かるのです。
確かに、イエス様は、ご自分お一人で、この群衆の空腹を満たすことがおできになるお方でした。しかしながら、いきなり奇跡を行なわれるのではなく、まず弟子たちに、何をすべきなのかを考えさせようとされているのです。そして、弟子たちに協力してもらいながら、群衆の空腹を満たそうと考えられたのです。
II 弟子たちの反応と主イエスの応答(4~5節)
4~5節に進みます。
弟子たちは、イエス様が弟子たちに食べ物を調達させようとされている事を察知したのでした。けれども、弟子たちは「どこでパンを手に入れる事ができるでしょうか。」と否定的な反応を示したのでした。
この弟子たちの反応は、ある意味、常識的な感覚によるものだと言えるでしょう。確かに、今自分たちがいる場所は、パンを買うためのお店もない。また、たとえお店があったとしても、大勢の人々のお腹を満たす量のパンを買うためのお金を持っていない。そう考えると、弟子たちが自分たちの力で人々のお腹を満たすことができそうにないことは、明らかだったのです。
とは言うものの、弟子たちは少し前に「五つのパンと二匹の魚」という出来事を通して、イエス様が神様に祈られた時に、わずかなパンと魚で男だけでも五千人以上の人々のお腹を満たされた、という奇跡を体験していたはずなのです。ですから、前と同じようにイエス様の奇跡によって人々のお腹を満たすことができると期待しても良さそうなのです。
ところが、弟子たちは、イエス様のお力によって人々のお腹を満たしてもらえる、という考えが出てこなかったのでした。不思議な事です。あれ程、強烈に印象に残る奇跡を味わいながらも、何も悟っていないとは。しかし、これが人間の姿なのです。
イエス様のお近くにいたとしても、そして、イエス様の行なわれる奇跡を間近で見ていたとしても、イエス様がどういうお方なのかに気づいているとは限らない、いや、全く分かっていない。そういう事が起こりうるのです。
神様からの祝福だと感じるすばらしい出来事が起こっている時、すぐに神様に感謝をささげる人々が出てきます。一方、その出来事に対して、「それは神様からの祝福だ。」とは受け取ることができない人もいるのです。そして、後になって「あの出来事は、神様が自分たちを祝福してくださっていたんだ。」と気づくこともあるのです。多くの場合、主イエスの弟子たちのように、後になって神様のすばらしさに気づく、そういう現実があるのではないでしょうか。
神様は私たち人間の反応が遅いということをよく知っておられるお方です。ですから、私たちが神様の偉大さに気づくことができるように何度も何度も語りかけて下さるのです。
5節において、イエス様は弟子たちを非難されることなく、前回と同じように、淡々と「パンはいくつありますか。」と尋ねられるのでした。その結果、パンが七つあることが分かったのでした。そして、いよいよ、奇跡のみわざが行なわれようとしていたのです。
イエス様は、全く何もないところからパンを作り出されるのではなく、その場にあるパンがどれくらいなのかを確認され、それを用いて、パンを増やそうとされているのです。このことで、私たちが神様に用いられるためには、全く何もない状態からではなく、わずかでもいいのでひとりひとりに与えられている賜物を用いて、愛のある行ないをするように導こうとされているのです。
賜物が全くない、というクリスチャンはどこにも存在しないのです。人間の感覚としては「私には賜物がない。」と感じてしまうことがあるかもしれません。けれども、それは「私には自信がない。」あるいは「私は、その奉仕が苦手です。」と感じているだけであって、本当に賜物が何もない人は、どこにも存在しないのです。ですから、わずかかもしれないですが、その賜物をイエス様に差し出す時、自分の持っていた以上の力が与えられ、驚くべき奉仕を行なうことができるのです。
しばしば、「私には祈りの賜物がない。」と感じる人がいるかもしれません。いや、私自身もそう思っていた事がありますし、今でも、時々、そう感じてしまうことがあります。ところが、拙い言葉であっても、いざ祈り始めると、次々と何を祈るべきかが示されていき、気がつくと神様との深い交わりとなっていた。そういうことがあるのではないでしょうか。ですから、賜物がないと感じてしまったとしても、まずは、自分の与えられているわずかな賜物を神様に差し出すと良いのです。それが、神様に用いられるための秘訣だからです。
III 群衆に食べ物が配られる~祈りの後で~(6~7節)
6~7節に進みます。
パンがある事を確認されたイエス様は、まず最初に群衆に座るよう命じられました。こうする事によって、今から何かが起こることをほのめかしておられるのです。また、食事をするためには立ったままよりも座った方が良い、そういう事もあったのではないかと思うのです。
そして次に、イエス様は七つのパンを取られて感謝の祈りをささげられたのです。ここに私たちクリスチャンが食事の前に祈りをささげる事の大切さを読み取ることができるのです。すべての食べ物は、根本的には神様が与えてくださる恵みによって生み出されているのです。確かに、人間が努力をして畑を耕して作物を育てたり、あるいは、漁師が海に出て魚を捕まえたり、あるいは、食品の原料を食品工場で加工したりするのですが、元々の食べ物そのものは、神様の恵みによって生み出されているのです。ですから、私たちが食事をする前に神様に感謝をささげる事は大切な事なのです。
さて、イエス様は祈りをささげ終わると、そのパンを裂いて弟子たちに配るように言われました。そして、弟子たちは言われるがままに群衆に配ったのでした。同じように、小魚も感謝の祈りをささげられた後、それが弟子たちに渡され、群衆に配られたのでした。
この時、弟子たちがどのような思いでパンと魚を配っていたのかについては、何も記されていません。また、受け取った群衆の驚きと感謝についても、何も記されていません。どういう雰囲気だったのかが気になるところですが、残念ながら推測することができたとしても、本当のところは分からないのです。
おそらく、十二弟子達はいろいろな思いを抱いていたと思いますし、群衆も、あまりにも多くの人がいたので、いろんな考え方があったのではないかと思われます。
ただ、もしも私自身がこの場にいたら、どんな気持ちだっただろうかと考えてみると、私ならば、ただぼっ~としていたのではないかと感じるのです。多少は、「今すごい事が起こっている。これはどういう事なんだ。」と思いつつも、しかし、イエス様の弟子たちもそうであったように、「こんな事ができるお方、イエス様は神様なんだ。」という事に気づけていなかったのではないか、と思うのです。
と言うのも、私が中学生くらいの頃、家族で聖書を読んでいた時に、私の父が「イエス様は神様だから、男だけでも五千人に食べ物を与えられた。しかも、同じような奇跡が二回もあった。四千人もの人に与えられた事もあった。」と力強く語っていたのを思い出すのです。ところが、その時私は、その話をぼんやりと聞いていたに過ぎず、残念ながら父の語っているその熱い思いまでは共感することができていなかったのです。それからだいぶ後になって、じわじわと父の言っていたあの言葉が思い出され、ようやく「あっ、イエス様は神様だからこそ、偉大な奇跡を行なうことがおできになったんだ。」ということに、心から同意することができるようになったのでした。
IV 満腹になった群衆(8~10節)
続いて8~10節に進みます。
七つのパンを手に取って祈りをささげられたイエス様、そして、そのパンが弟子たちに渡され群衆に配られ、群衆は受け取ったパンを食べました。パンの量は群衆のお腹が満腹になるほどに増えていたのです。しかも、余ったパン切れが七つのかごに集められるほどもあったのでした。
群衆の数はおよそ四千人と書かれています。ここには男性だけとは書かれておらず、単純におよそ四千人とあるように、前回の出来事程ではありませんが、しかし、決して少ない人数ではなかったのです。
さあ、人々のお腹が満たされたので、これで安心してそれぞれの町に帰らすことができます。それで、イエス様は群衆を解散させられたのです。そして、イエス様は弟子たちとともに舟に乗って移動されたのでした。
まとめ
今日の箇所全体で考えさせられたことをまとめてみましょう。
教会における礼拝というのは、霊的な糧を受け取るという側面が大きいのは確かな事です。みことばを通して、今始まった一週間が神様の導きによって守られる事、支えられる事を確認する部分が大きいのです。しかしながら、イエス様の宣教活動を見ていく時、イエス様が人々の必要に応えられていった部分もまた見逃せないのです。つまり、病人を癒されたり、悩み苦しんでいる人を励まされたり、あるいは、共に食事の時を持たれたりと、人々の実際の必要に応えていらっしゃるのです。
ですから、私たちはただみことばを聞くだけでなく、困っている人々、苦しんでいる人々に対して、何らかの愛のある行ないができるように祈っていく事が大切なのです。なぜなら、イエス様の宣教活動には、そういう部分が含まれていたからです。もしも私たちが、自分に与えられているわずかな賜物を差し出すならば、つまり、「神様、この私をあなたの御用のために用いて下さい。」と祈るならば、その時、神様はその人を用いてくださるのです。
神様は聖書の話を聞く人々、あるいは、聖書を読む人々に単なる知識だけを与えられるのではなく、実際に人々の生活の中で、その必要に応えてくださるお方なのです。「七つのパン」は、「五つのパンと二匹の魚」とよく似ている内容となっています。つまり、同じような奇跡が書かれているということは、「神様は私たちの必要を満たして下さる。」という事が確かな事であると強調されているのです。
最後にマタイの福音書6章33節をお読みします。お聞き下さい。
「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。」
お祈りします。
