・説教 マルコの福音書9章42-50節「小さい者として」
2018.10.28
鴨下 直樹
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今日のテーマは、「天国」と「地獄」の話しということができると思います。私は、父が牧師であったこともありますし、父が伝道者として色々な伝道集会で奉仕をしていたので、子どもの頃からたくさんの説教者の説教を聞いてきたと思います。その当時、教会の伝道集会であるとか、なんとかクルセードという名前の付けられた大衆伝道集会というものが比較的たくさん行われていました。クルセードというのは、もともとは「十字軍」のことを意味する言葉ですが、福音派の教会では「大衆伝道」という意味で使われていました。このクルセードという伝道集会で、福音派の著名な牧師たちは、天国と地獄の説教を何度となくしてきました。きっと今から30年ほど前に信仰を持たれた方は、そういう説教をよく聞く機会があったと思います。
その説教というのは、神さまを信じないと地獄に落ちてしまうので、信じて天国に行きましょうというようなお勧めを語ってきたわけです。そして、そのころに、よく語られた聖書箇所が、今日の箇所だと言っていいと思います。
ここに「ゲヘナ」という言葉が出て来ます。新共同訳聖書では「地獄」と訳しています。このゲヘナという言葉は、イスラエルに実際にあったベン・ヒノムの谷という、エルサレムの城外にあったゴミ捨て場のことです。そこでは、常にゴミが燃やされていたので、火が燃え続けている場所でした。そういう場所を語りながら、神の裁きを語ったのです。そして、神の裁きを受けるか、神の国に入るか、どちらが大切なのかということを、ここでは問いかけているわけです。
「神の国」のことを、マタイの福音書では「天の御国」と訳しています。私たちがよく耳にする「天国」というのは、この神の国、主イエスが共にいてくださること、神が支配してくださるこという意味があります。ですから、この「天国」という言葉は、死後の世界、それこそ頭に輪っかがついていたり、天使の羽がはえていたりというようなイメージの天国というよりも、今ここで神が私たちと共にいて働いてくださるという意味があるわけです。もちろん、この神の国は将来のこと、死後のことも含んでいますけれども、今すでにということが大事なのです。そうであるとすると、この「ゲヘナ」とか、「地獄」とされている言葉も、死後の世界に、永遠に燃えている火で苦しむ場所というよりも、神の裁きという意味であると理解してくださるとよいと思います。
さて、今日の箇所ですが、この直前の箇所までは、主イエスの寛容さが語られていましたから、ここから急に厳しいテーマに変わったという印象を持つ方があると思います。今日の前半の部分には何度も、「つまずき」という言葉が繰り返されています。このテーマはつまずきなのですが、最初の42節では「わたしを信じるこの小さい者たちの一人をつまずかせる者」が神のさばきの対象、つまり、首に石臼をつけて、海に投げ込まれた方がよいと書かれているわけです。 (続きを読む…)