2018 年 10 月 28 日

・説教 マルコの福音書9章42-50節「小さい者として」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 10:55

2018.10.28

鴨下 直樹

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 今日のテーマは、「天国」と「地獄」の話しということができると思います。私は、父が牧師であったこともありますし、父が伝道者として色々な伝道集会で奉仕をしていたので、子どもの頃からたくさんの説教者の説教を聞いてきたと思います。その当時、教会の伝道集会であるとか、なんとかクルセードという名前の付けられた大衆伝道集会というものが比較的たくさん行われていました。クルセードというのは、もともとは「十字軍」のことを意味する言葉ですが、福音派の教会では「大衆伝道」という意味で使われていました。このクルセードという伝道集会で、福音派の著名な牧師たちは、天国と地獄の説教を何度となくしてきました。きっと今から30年ほど前に信仰を持たれた方は、そういう説教をよく聞く機会があったと思います。

 その説教というのは、神さまを信じないと地獄に落ちてしまうので、信じて天国に行きましょうというようなお勧めを語ってきたわけです。そして、そのころに、よく語られた聖書箇所が、今日の箇所だと言っていいと思います。

 ここに「ゲヘナ」という言葉が出て来ます。新共同訳聖書では「地獄」と訳しています。このゲヘナという言葉は、イスラエルに実際にあったベン・ヒノムの谷という、エルサレムの城外にあったゴミ捨て場のことです。そこでは、常にゴミが燃やされていたので、火が燃え続けている場所でした。そういう場所を語りながら、神の裁きを語ったのです。そして、神の裁きを受けるか、神の国に入るか、どちらが大切なのかということを、ここでは問いかけているわけです。

 「神の国」のことを、マタイの福音書では「天の御国」と訳しています。私たちがよく耳にする「天国」というのは、この神の国、主イエスが共にいてくださること、神が支配してくださるこという意味があります。ですから、この「天国」という言葉は、死後の世界、それこそ頭に輪っかがついていたり、天使の羽がはえていたりというようなイメージの天国というよりも、今ここで神が私たちと共にいて働いてくださるという意味があるわけです。もちろん、この神の国は将来のこと、死後のことも含んでいますけれども、今すでにということが大事なのです。そうであるとすると、この「ゲヘナ」とか、「地獄」とされている言葉も、死後の世界に、永遠に燃えている火で苦しむ場所というよりも、神の裁きという意味であると理解してくださるとよいと思います。

 さて、今日の箇所ですが、この直前の箇所までは、主イエスの寛容さが語られていましたから、ここから急に厳しいテーマに変わったという印象を持つ方があると思います。今日の前半の部分には何度も、「つまずき」という言葉が繰り返されています。このテーマはつまずきなのですが、最初の42節では「わたしを信じるこの小さい者たちの一人をつまずかせる者」が神のさばきの対象、つまり、首に石臼をつけて、海に投げ込まれた方がよいと書かれているわけです。

 この42節を読んでいますと、何だかひと昔前のドラマか何かで、ドラム缶にコンクリート詰めにされて海に放り出されるというようなセリフがよく語られていましたが、そんな恐ろしいイメージを抱きます。つまずきを与える者はそのようにされると語られているわけです。そこで、大切なキーワードはこの「小さい者」です。

 「小さい者」とは誰のことなのでしょうか。42節をそのまま読めば、それは「わたしを信じる者」のことだということはすぐに分かります。この前の箇所で誰が一番偉いのかという議論を弟子たちがしていたことが書かれていました。その時に、主イエスは子どもを前に立たせて、小さい者を受け入れることを語り、大きなものと成りたがるのではなくて、主イエスのように、小さな者、人を受け入れ、人を愛する者となるように求められました。

 この42節で語られているのは、この前の箇所をそのまま受けた言葉です。小さな者となる、キリストのような者として生きる。そういう生き方をしようとしている者をつまずかせる、小さな者として生きる生き方を否定するような者は、神の裁きの対象となるということを、ここで語られているわけです。

 「つまずき」という言葉で、すぐに連想するのは「障害物」のことだと思いますが、実際には「信仰を失う」という少し強い言葉です。つまり、つまずくというのは、小さい者であることをやめてしまうということになるわけです。主イエスを信じる者というのは、主イエスのような小さな者となるということです。謙遜な者、人を受け入れる人、人を愛して、人を赦す人になるということです。そして、そういう信仰を失ってしまうと、大きな人、人の上に立ちたいと思う、そういう生き方をしたいと考えるということになるわけです。

 ですから、このあとの43節からの、「もし、あなたの手や、足や、目があなたがたをつまずかせるなら」というのも、そういう意味で理解する必要があるわけです。人は手で人を傷つけてしまったり、物を奪ったりします。足で、悪い場所に向かおうとします。目でいけないものを見ようとすることによって罪を犯します。手に入れたい、奪いたい、自分のしたいようにしたい、もっと欲しいと望むことによって、小さい者であることから、私たち自身を引き離そうとしてしまうわけです。

 神が支配してくださっている私たちの歩みを捨てて、悪の支配を求めてしまう、そうやって神の裁きを受けて果たしてよいのだろうかと、主イエスはここで大切なことに気づかせようとしてくださっているわけです。

 そこで、主イエスは「ゲヘナ」、消えない火による神の裁きということを語られて、そうではなくて、神の国に、神が一緒にいてくださるのだから、神の御手の中に留まろうではないかと招いてくださっているわけです。

 ここで、ゲヘナ、地獄、神の裁きのことを「火」という言葉で表現していることが分かると思います。そうすると、次の言葉が理解できるようになります。

49節です。

「人はみな、火によって塩気をつけられます」

とあります。普通に読むとまったく理解できない言葉です。焼き鳥をしようと思って、鶏肉を串にさしても、火を通しただけでは、塩味はしません。塩コショウを振って、やっと塩の味がするわけです。けれども、この火というのは、神の裁きのことだということが分かると、この「塩」というのが分かって来るわけです。

 つづく50節に

「塩は良いものです」

とあります。ここ数日のニュースを見ていると、だんだん塩はよいものであると言えなくなっていることに、私などはショックを受けます。最近、私はマイクロプラスチックという言葉を聞きました。プラスチックのつぶのことです。プラスチックのゴミなどが海にたくさん捨てられています。そのプラスチックのゴミによって、魚が汚染され、あるいは塩を汚染して、その汚染されたものを体内に摂取することになるというのです。そして、先週のニュースではそれが人間の体内にあることが分かったというのです。最近の調べでは岩塩の9割はこのマイクロプラスチックに汚染されているというのです。それで、最近プラスチックのコップだとか、ストローなどを使うのをやめようというような動きが世界中で起こっているのだそうです。

 そうなると、塩は良いものです、などということが、簡単に言えなくなっている世界に私たちは生きているということになります。塩の役割と言うのは、さきほども「聖書のはなし」の中に出て来ました。まさか、「梅と鮭とクリスチャン」とくるとは思いませんでしたが、塩があることで引き立つというクイズのような話がありました。子どもの頃に、母の親戚が北海道の出身のために当時は季節になるとよく新巻鮭を送って来ました。初めて見た時は、あんなに大量の塩がついているのかとびっくりしたものですけれども、沢山塩を振りかけることによって、腐らず、かえって美味しくいただくことができるわけです。

 神の裁きである「火」が語られることによって、塩の味わいが出るというのです。ピリッとするというのです。もし、この神の裁きが語られないと、塩気を失ったものとなるというのです。それこそ、汚染されて、意味のないものとなってしまうというのです。

 昔から、教会ではこのような塩気の効いたクリスチャンの歩みのことを、「聖化」という言葉で表現してきました。祈祷会でそのことをお話したら、聞いたことがないという方が案外多かったことに、私は驚いたのですが、わたし自身、芥見に来て10年たちますが、その間、この「聖化」について確かにあまり語って来なかったのかなと反省させられています。

 「聖化」というのは、聖く化けると書きます。化けるなんて言わないで、変化するの化と言った方がいいかもしれません。聖いものに変化するわけです。確かに、昔の福音派の伝道説教ではこの「聖化」ということが、よく語られていたと思います。神の裁きを語ることによって、信仰の歩みがシャンとするのです。ところが、罰則を語って、脅して、正しく歩ませようとするのは、方法としては消極的です。積極的な言い方をすると、神を愛して生きるとか、神の愛に応答して生きると言った方がよいので、そういう言い方はあまり語られなくなりました。それは、ある意味ではとても大事なことです。スピード違反をすると罰金があるからちゃんと運転しましょうという言い方はしないで、安全運転を心がけましょうと言った方が、耳には優しいのです。

 神は何でも赦してくださるから、どんな生き方をしても大丈夫、などというような理解になるのだとすると、神を畏れる生き方とはなりません。宗教改革者のカルヴァンは、「コーラム・デオ」という言葉を大事にしたと言われます。「神の顔の前で」ということです。神の御顔の前で、神の面前で生きているという気持ちを大切にしてきたのです。そうやって神を畏れて生きるという時に、私たちの信仰の歩みは、しゃんとする。聖い生き方になるのです。

「あなたがたは、自分自身に塩気を保ち、互いに平和に過ごしなさい」

と、最後の50節に書かれています。塩気を失ってしまうと、どんどん腐敗が始まっていきます。それでは、神の裁きに身を置くことになりかねないのです。神を畏れて生きる。神の御前で、聖く生きることを求める。そういう生き方が、味のあるクリスチャンとして生きることになるのです。

 今日の説教題を「小さい者として」としました。小さい者として生きようというのです。それが、聖く変えられる生き方、聖化の歩みです。自分は、キリストのように小さな者となることを求めて生きるのです。つまずいてしまっても、小さな者になることをやめないで生きる。そうすると、そこに待っているのは、「神との平和」、「人との平和」を築き上げるような歩みとなるのです。私たちの主は、私たちが神の国に生きることを、主と共に歩むことを願っておられます。それは、私たちが主イエスのように生きるということです。主のように、人を愛する者として、人を受け入れる者として、主イエスのように小さな者として歩む時に、神の平和が築き上げられていくのです。

お祈りいたします。

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