2018 年 10 月 7 日

・説教 マルコの福音書9章30-37節「上に立つ者と下に立つ者」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 18:41

2018.10.07

鴨下 直樹

 最近、よく耳にするようになった言葉で「炎上する」という言葉があります。テレビに出てくるような人、例えば政治家であるとか芸能人が、個人的な見解を公にする。その発言が偏った、差別的な発言をすると、それを聞いて嫌な気持ちになった人たちがネットを通して、そのような考え方をみんなで非難することを指して「炎上する」というのです。どんどん人々の批判が燃え上がってしまうと、火消しをするのが大変な状態になるわけです。最近は、多くの人がSNS、ソーシャル・ネットワーキング・サービスと言いますけれども、自分の情報を発信して他の人と交流する場所をインターネット上に載せている人が沢山います。そこで何か失言をしたり、ある偏った考え方を公に発言すると、すぐに本人に直接、非難の言葉を投げかけることができるわけです。最近、この手の事件がニュースなどでもよく報道されるようになりました。

 政治家にしても、芸能人にしても、テレビに出てくるような人はうかつに何か偏った意見を発言することは気をつけなければならなくなっています。この「炎上」というような現象は、一昔であればみなが心の中で感じていたことですんでいましたが、今は誰もがそのことについて意見を発信できるようになっていますので、みんなと違う少数派の意見というのは発言しにくい環境というのが、こうしてどんどんできあがっているようにも思います。そこで考えさせられるのは、自分が大勢の側の場合は比較的問題にはなりにくいのですが、少数の側に立つと、みんなから寄ってたかって非難されるということになるということを理解していなければならないと思うのです。

 さて、今日の個所は、主イエスがなさったご自分の受難の予告のことがこの31節に再び記されています。前回、主イエスが予告をなさったときには、弟子のペテロが主イエスを諫めようとしたのですが、反対に「下がれサタン」と怒られてしまいました。ここで、もう一度、主イエスが何を言われたのかを見てみたいと思います。

イエスは弟子たちに教えて「人の子は人々の手に引き渡され、殺される。しかし、殺されて三日後によみがえる」と言っておられたからである。


 まず、そのまま読みますと、主イエスは人々に殺されるということが言われているように受け止めることができると思います。ここはよく読んでみますと、この31節の言葉はここで改めて同じことを繰り返して言われたのか、それとも以前の言葉を思い起こしているのかはっきりしません。いずれにしても、前回の8章31節を見てみますと、8章のところでは「長老たち、祭司長たち、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日後によみがえらなければならない」と言われているのですが、今回のところでは「人々」と言い換えられています。

 つまり、ここで主イエスを苦しめる「人々」というのは、「長老、祭司長たち、律法学者たち」のことというのが分かるわけです。イスラエルの民の中の指導的な立場にいる人たち、上に立てられている人々が、主イエスを殺すのだということがここでもう一度確認されているのです。最初に言ったように、上に立てられている人々の言葉というのは力を持って、「人々の言葉」となる。みんなの意見となるということをここで言い表しているわけです。

 このように、主イエスは御自身が上に立てられているイスラエルの指導者たち、そして、その考えに支配されていく人々、大衆によって殺されるということを、ここで改めて語りなおしています。ところが、この主イエスの発言の意図は弟子たちにはよく理解できませんでした。それこそ、「炎上」してしまいそうな、人々を驚かせるような主イエスの発言なのですが、ここでは弟子たちの方が沈黙を貫いているわけです。何故かと言うと、主イエスが何を意図しているのかがさっぱり分からないからです。質問すると、かえってお叱りを受けてしまう。そんな思いが弟子たちの中にはあったのだと思います。

 さて、このことが、今日の聖書の伏線となっています。今日の個所はカペナウムというガリラヤ湖のほとりのペテロの家にまた戻って来たということが記されています。このカペナウムというのは、主イエスの弟子であるペテロの家、あるいはペテロの姑の家があったところです。ここをいつも主イエスは拠点としているのですが、主イエスはこの家で、弟子たちと大事な話をしたいと思っておられたようです。主イエスはこのカペナウムの家につくと、弟子たちにお尋ねになられました。

「来る途中、何を論じ合っていたのですか。」

33節です。
 弟子たちはこの主イエスの問いかけに答えません。ばつの悪い感じであったのだと想像できます。理由を続いて見てみると、

「来る途中、誰が一番偉いか論じ合っていたからである。」

と34節に書かれています。
 道中、弟子たちは誰が一番偉いか論争を繰り広げていたわけです。なぜ、こんなテーマで話し合っていたのか、色々想像することはできると思います。先週の聖書学び会でお尋ねしたら、ある方は「主イエスが殺された後、誰が主イエスのポジションに着くのか気になったのではないか」という意見を言われた方がありました。なかなか、想像力たくましい意見だと思いますが、確かにそういうことも頭に思い浮かんだかもしれません。あるいは、変貌の山の後の出来事です。三人の弟子、ペテロとヤコブとヨハネだけが主イエスの変容された姿を目の当たりにしていますから、やはりこの3人の弟子が頭一つ抜け出しているのではないかと考えたかもしれません。けれども、ペテロもすでに主イエスに「下がれサタン」と言われていますから、ペテロは違うと考えた弟子もいたかもしれません。弟子たちの中に色々な気持ちが入り乱れていたのでしょう。

 弟子たちの中には人の上に立ちたいという考え方があったようです。もちろん、これは珍しい考え方ではありません。私たちの社会は、人の上に立つことを推奨しているところがあります。そのために、子どもの頃から勉強やスポーツを習わせるわけです。そうすれば子どもが苦労しないようにと考えます。少しでも子どものいい部分があるなら伸ばしてやりたいと思うわけです。この弟子たちほど、露骨に人の上に立ちたいと議論することはないかもしれません。けれども、私たちの生きている社会というのは、当然のように人の上に立つことを求める社会です。それは、無意識であったとしても、自分はこの中で何番目なのだろうかという考えが頭をよぎるのです。

 そこには色々な考え方があると思います。人を見下したいというような意地悪な気持ちはないのかもしれません。上に立って人を支配したいなどと考えてはいないのかもしれません。けれども、上に立つ人がひとを支配するという社会のシステムの中で生きている以上、私たちはそういう社会の在り方に折り合いをつけながら、私たちなりに何とか生きているわけです。私たちはほとんど毎日、上に立つ人と、下に貶められないようにという苦労の中に身を置きながら生きているのです。

 もし、主イエスにあからさまに、今何について話していたのですか? と尋ねられるならば、胸を張って答えることはできないかもしれません。けれども、その時、私たちの頭に浮かぶのは、「もし、上に立つことが間違いというのであるのだとすれば、どうすればいいのか?」という問いです。それは私たちの頭から離れることはないのだと思うのです。

 主イエスはこのテーマがとても大切なことだとお考えになられたのでしょう。ご自分で腰を下ろすと、十二人の弟子たちにも腰を下ろすよう求められます。これは、うやむやにしておいてよいテーマではないのです。しっかり腰を下ろし、膝を突き合わせて話そうとなさるのです。それほど、このことは大切なことです。そして、言われました。
35節。

「だれでも先頭に立ちたいと思う者は、皆の後になり、皆に仕える者になりなさい。」

とても、短い言葉です。けれどもとても示唆に富んだ言葉です。

 新改訳の第二版や第三版では「人の先に立ちたいと思うなら、みなのしんがりとなり」と書かれています。「しんがり」というのは戦争の時などに部隊の最後列に就き、追いかけて来る敵を食い止める役割のことを言います。今は、あまり使われない言葉なので、2017年訳では「みなの後ろになり」と訳されました。前に出るのではなくて、後ろに立つ。上に立ちたいなら、下に立つ者となれと主は言われるのです。ここに、神の知恵があります。

 本当に認められる人になるためには、人に仕える人になることだと主は言われるのです。皆が人の前に出たい、上に立ちたいと考える中で、その逆を行く。むしろ、人を支える者となりなさいと主は言われるのです。もちろん、それは、とてもしんどいことです。簡単なことではないのです。人の下に立つということは、人を受け入れるということです。その人を認めていくということです。その人が自信をもって歩むことができるように支えていくということです。

 先日、ある方とかなり長い時間お話をしていました。小一時間話を聞いていたのですが、同じような話が続いて、少し聞いている私の集中力が途切れてしまいました。その途端、「あっ、私の話をちゃんと聞いてくれてない」と言われてしまいました。1時間忍耐深く話を聞いても、最後の10秒上の空だとすぐに怒ってしまう。へそを曲げてしまうのです。それが私たちです。

 こういう話をすると、その相手はいったい誰だろうと心配する方があるかもしれませんが、安心してください。その話の相手は妻です。別に、妻を辱めるために話したわけではないのです。人を受け入れるということは、とても力のいることだということです。それはほとんど際限がないのです。ここまでやればいいという目当てもない。一時間かけても最期の10秒で台無しになる。それほどのことです。ちょっと馬鹿をみているようなそんな思いになるのかもしれません。しんがりとなる、人の後ろに回る。人の下に立って人を支える。どうしたらそんなことができるというのでしょうか。
 
 主イエスはその話をより明確にするために、みなで腰を下ろしている真ん中に子どもを連れて来ます。大人の大事な話をしている真ん中に子どもを連れて来るというのは、非常識ということになるのかもしれません。主イエスと弟子たちが話している部屋の真ん中に子どもを連れてきます。誰の子どもでしょうか。はっきり書かれていませんが、ひょっとするとペテロの子どもだったのかもしれません。そんなことをイメージしてみると、この時の場面が描けてくるのではないでしょうか。教会の役員会で話をしている時に、子どもが入り込んでくる場面を想像してくださると分かりやすいかもしれません。私なら、すぐに「今は子どもの来る時間ではないから出て行きなさい」と言ってしまいそうです。普段は、大人たちの大事な話の中に子どもが割って入るなどということは認めらませんが、主イエスが受け入れられたのです。そうなるとみんな、認めるしかないわけです。

 ただ、そこで、主イエスはこう語られました。37節。

「だれでも、このような子どもたちの一人を、わたしの名のゆえに受け入れる人は、わたしを受け入れるのです。また、だれでもわたしを受け入れる人は、わたしではなく、わたしを遣わされた方を受け入れるのです。」

 前半部分はよく分かるのです。大人の大事な話のまんなに入って来る子どもを受け入れるというのは、まさに、主イエスが受け入れておられるから、自然に受け入れることはできると思います。けれども、その後の部分は何を言おうとしているのでしょうか。これは、この部屋の真ん中の子どもは、わたしそのものの姿なのだということを主イエスは言おうとしているわけです。

 ふつう受け入れられるはずのない子どもを、主イエスの御名のゆえに受け入れる。ここまではいいのです。しかし、主イエスはそこからこう言われるのです。この子どもはわたしなのだと。大人の世界に子どもが入り込んでくるように、わたしを遣わした方、父なる神はそのように主イエスをこの世界にお遣わしになられたのだと言うのです。だから、この神の御心を知るならば、あなたがたもわたしのことを受け入れて欲しい。それが、わたしをこの世に遣わした神ご自身のお心なのだということをここで言い表しているのです。

 つまり、主イエスは、受け入れられにくい子どものような小さな存在として、神は主イエスをこの世界に遣わされたのだと言っておられるのです。人の上に立とうとする心は、弱い者を造り出していく心と結びついてしまいます。そう意識していなくても、弱い者がうみだされてしまうのです。しかし、神はまさにそのようにして弱い立場に貶められていく人々を支えるために、もっとその下に立つ者として主イエスをこの世界に使われたのだと言おうとしているのです。

 ここに神の福音があります。神は、弱い者、助けを必要としている者を支え、その人が生きることができるようになるために、弱い者となって、来られたのです。それが、今日の冒頭で語られている「人の子」と呼ばれる方の本当の姿なのです。だから、人の子は、人々、人の上に立とうとする人々に押しのけられるように殺されるのだと語っておられるのです。

 このことは、まさに膝を突き合わせて語りながら、どうしても弟子たちに理解して欲しいと願っておられる大事なテーマです。人の上に立ちたいという願いを持ち続けるならば、この神の願いを壊してしまうことになるのです。主イエスは下に立つお方として、この世に遣わされて来たのです。みなのしんがりになるために神は主イエスを遣わされたのです。

 ぜひ、知ってください。もし、人の上に立つということになるならば、それは他の人を支えるためにその立場が与えられているのだということを。そして、もし、自分が上に立つ人によって苦しめられていると感じることがあるならば、知ってください。主イエスはその下で、私たちを支えてくださるのだということを。

 もし、誰もがここで主イエスの言われるように、人を支えることを自分に与えられた大切な使命だと受け止めるならば、この世界は平和な、愛の世界に変えられていくのです。

 主イエスはこの37節で4回も「受け入れる」という言葉を使っています。子どもを、弱い者、小さな者を受け入れること。それこそが、愛です。人を受け入れること、それこそが、神の御心。人を受け入れること、それがこの世界に平和をもたらすためになくてならないものなのです。

 今日の説教題を「上に立つ者と下に立つ者」としました。この説教題を毎日のように見ながら、色々なことを考えさせられています。2017年の春から、教団の代表役員という立場が与えられています。これまで、私たちの教会を長い間導いて来てくださった先生方が一気に定年退職を迎えました。2017年問題などと言いながらそのあと、教団をどのようにしていくのかということを話し合ってきたのですが、当時はどこかで他人事のように考えていたところがあったのですが、この二年間で教団の役員の顔ぶれが一気に変わりました。変わったということは、慣れていないということです。対応する経験がありません。それでも、責任というのがのしかかってくるわけです。

 この二年間、私に与えられている大事なことは、この「受け入れる」ということだと思っています。色々なことが起こります。予想していないことばかりです。どうして自分だけがこんな貧乏くじを引かされてと考え始めたら何もできなくなってしまいます。そこで見えてくるのは、いつも人の罪の姿です。けれども、そこで理解するのです。主イエスが支えて下さっているということを。また、多くの人が祈ってくれているということを覚えさせられるのです。そのことが分かると、こころがふっと楽になります。平安になります。自分が最後の砦ではないということが分かるのです。自分がもし、間違えた選択をしたとしても主が支えて下さるということを信じることができる。これは大きいのです。このことが分かると、「つらい」、「難しい」、「厳しい」という感情から解放されるのです。
私たちの主は、私たちを支えて下さる。主は私たちよりも低い所で私たちを支えるように神が遣わしてくださったお方なのです。この主の姿が私たちを支えてくれるのです。

お祈りをいたします。

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