2024 年 10 月 6 日

・説教 ルカの福音書13章31-35節「信仰の戦いに生かされて」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 06:59

2024.10.6

鴨下直樹

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 少し前になりますが、前回の説教で私は岐阜市内を走っていた市電の話をしました。懐かしく思われた方がいたようで、あの後何人かの方と、昔の岐阜市内の様子の話をしました。あの市電は、当時はこの芥見まで通っていたのですね? 前の教会の建物は、この市電の駅の近くにあったように記憶しています。市内には道の真ん中に「安全地帯」なるものがありまして、当時は道の真ん中に駅があり、その安全地帯と呼ばれた所で市電を乗り降りしておりました。もう、今から30年ほど前の話です。

 私は前回の説教で、「信仰の歩みにはこの安全地帯は存在しないのだ」という話をしました。驚かれた方もあったと思います。人によっては「信仰というのは神のくださる安全地帯の中で安心して生きることができること」と考えておられる方がいてもおかしくないのです。

 救いというのは、とても柔らかな真綿に包まれて安心していられる歩みになることだと連想することがあるかもしれません。しかし、主イエスの歩まれた道は、十字架への道でした。死への道でした。そして、私たちは、この主イエスに倣って生きる者とされているのです。

 お分かりいただけていると思うのですが、私たちは常に罪の誘惑や、試練を味わう歩みの中に生かされております。そこでは、キリスト者は信仰の戦いを強いられることがあるのです。もちろん、その時、神は私たちを助けてくださらず、見て見ぬふりをなさるということではありません。私たちはひとりぼっちで信仰の歩みをするのではなく、主が傍にいてくださって、私たちと共に生きてくださるのです。

 今日の聖書箇所は、主イエスに向かって明確な殺意がヘロデから向けられていますよという言葉から始まっています。31節にこうあります。

ちょうどそのとき、パリサイ人たちが何人か近寄って来て、イエスに言った。「ここから立ち去りなさい。ヘロデがあなたを殺そうとしています。」

 こういう言葉からはじまっています。読みようによっては、このパリサイ人はわざわざヘロデの殺意を教えてくれたわけですから、親切な人たちであったと読むこともできるかもしれません。ただ、主イエスはこのパリサイ人の言葉を、好意とは受け取っていないようです。むしろ、主イエスの返答を見ると、「余計なお世話」と感じているのかもしれません。

 ただ、この福音書の著者であるルカは、ここから明確に主イエスに対する殺意が向けられるようになったということを、描き出そうとしています。

 「ちょうどそのとき」という31節の冒頭の言葉がそのことを伝えるのです。「そのとき」というのは、主イエスがエルサレムへの旅の途中で、救われるはずの人は後になり、異国の人々が、神の国に招かれているとお語りになった、「ちょうどそのとき」です。

 つまり、その場にいたパリサイ人をはじめとするユダヤ人たちは、神の選びの民であるイスラエル人ではなく、異邦人たちが神の国に招かれているという話を、これ以上聞きたくないと思ったのです。だから、主イエスに向かって「ここから立ち去りなさい」と彼らは言ったのです。ヘロデがあなたを殺そうとしていると、告げることで主イエスは逃げ出すだろうと考えたのです。

 主イエスに対して、死を、殺意を向けているのです。それほどに、主イエスの言葉は、人々の心の中に、切り込んでいったのです。

「あなたの生き方を変えなければ、あなたに救いが訪れることはない」これが、主イエスが人々にここで語ろうとしている言葉なのです。

 主イエスの言葉を聞くならば、主イエスの言葉に聞き従うか、拒むかという選択を問われることになります。自分の、これまで神の思いを中心としていなかった人生を、改める必要があることを、主イエスは問いかけておられるのです。そして、だから人は主イエスの言葉を、聞かなかったことにする、その言葉の源である主イエスを殺そうとするのです。

 主イエスは、この死、殺意が自分に向けられていることを承知の上で、その人の生き方を変えることが、今必要なのだと訴えようとしておられます。ここで主イエスが語りかけておられるのは、なにもヘロデに対してだけではありません。ここにいたパリサイ人たちに語りかけているのであり、ユダヤ人たちにでもあり、そして、ここにいる私たちにも語りかけておられるのです。

 主イエスはここでヘロデ王のことを「あの狐」と呼んでいます。獲物を狙う動物です。先月のことでした。夜、娘と一緒に車で家に戻るとき、田んぼの間の道に狐がいるのを見つけました。こんな街中でも狐が出るのかと驚いたのですが、よく考えてみれば、教会の周りは田んぼばかりで、裏は山ですからそんなものなのかもしれません。この辺りにはいろんな動物がいます。たぬき、ヌートリア、イタチ、アライグマ…。そんな田舎ですから、狐も餌には困らないのかもしれません。

 主イエスがヘロデのことを狐にたとえたのは、ルカの福音書ですでに描き出されています。ヘロデは自分の兄の妻を奪った男です。そのことをバプテスマのヨハネに指摘されると、咎めたヨハネを殺してしまうのです。自分だけの喜びを求めるのです。そして、自分のやることにとやかく口出しする者を殺してしまうのです。獲物を狙う狐のようだと見ているのです。

 主イエスはこのヘロデの中に、すべての人の罪を見ています。誰もが、自分の願いが遂げられること、自分の思い通りに、ことが進むことを求めています。そして、うるさく言う者がいれば排除する、無視する、聞かなかったことにする。もし、そこで誰かが、「それは救いではない」「あなたが求めているものは、あなたを救いはしない」「それは、身を滅ぼすものだ」などと言おうものなら、そんな話は聞きたくないと言って、どこかに行ってしまう。そんな私たちの姿を主イエスは見ておられるのです。

 自分にとって疎ましくおもえるものであれば殺してしまう。そうして、神の言葉を殺してしまうのです。主イエスの言葉に耳を塞いでいるのは、私たち自身であることを忘れてはならないのです。

 今日の聖書箇所は、このパリサイ人の語り掛けに対して、主イエスがひたすら語り続けています。ここで、狐に代わって描かれている生き物がいます。それが、ひなをかばうめんどりです。狐にいのちを脅かされても、必死でひなを自らの翼の下にかくまう姿です。
34節で主イエスはこう言われました。

エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者よ。わたしは何度、めんどりがひなを翼の下に集めるように、おまえの子らを集めようとしたことか。それなのに、おまえたちはそれを望まなかった。

 この34節で主イエスが語られたのは、これまでの神の御業の歴史です。神ご自身の姿を、ひなをかばうめんどりに譬えておられるのです。めんどりは決して強い生き物ではありません。狐と戦ったら勝ち目はありません。弱い存在です。けれども、そこには子を思う深い愛があります。

 そんなめんどりの姿を、神の姿として語られているのです。確かに、安全地帯はないのですが、私たちには、このめんどりのような力強い愛を神から感じることができるのです。めんどりという生き物は、絶対的に大丈夫と言えるほど心強い守りではないかもしれない。お祈りしても、病は襲いかかるし、困難や試練はなくならないかもしれません。けれども、そこに間違いなくあるのは、神の大きく深い愛です。ひなたちに襲いかかる狐がいたとしても、そのめんどりの翼のもとに入っているならば、そこには安心感と平安があるのです。

 主イエスはここで、自分自身の信仰の戦いを語っています。自分は、悪霊を追い出し、人の病を癒し、そしてエルサレムで死ぬというのです。三日の後に死ぬと言うのです。けれども、自分はヘロデに殺されるのではない。かつての預言者たちがそうであったように、自分もやがてエルサレムで死ぬと言うのです。そして、神ご自身もめんどりのように、ひなをかかえるように、信仰の戦いに生きた。信仰に生きることは、信仰の戦いから解き放たれることではないことをここで明らかにしておられます。

 そして、そんな信仰の戦いの中に生かされていたとしても、父なる神の思いは、ひなをかかえるめんどりのように大きな深い愛の心で満ちていることを、ここで明らかにしておられるのです。

 河野進というキリスト者の詩人がおります。残念ながらそれほどよく知られた人ではありません。素朴な信仰の詩を記し続けた牧師の詩人です。この河野進の詩集に『母』というタイトルの詩集があります。その中に、「それなら」という詩があります。少し紹介したいと思います。

  それなら  
 
静かに祈りはじめる
どうして知るのか悪魔がすぐ襲いかかる
恐ろしい空想、みだらな想像が縦横に暴れ狂う
祈りが罪の足場となり執拗に打ちのめされる
それでもなお祈らなければなりませぬか
傷つき破れの祈りを受けられますか
乱れの矛盾の祈りなればこそ求められますか
それなら祈ります 祈らせてください
主イエスさま

 この河野進の詩には、戦い得ない弱さが滲み出ています。祈りにおいてさえ、悪魔の戦いが生じ、いつもそこで戦いに敗れ、絶望に打ちのめされる。そんな祈りの経験は、誰もがあると思うのです。

 お祈りしはじめると、なぜか他のことが頭に浮かんできて、祈りがどこかに行ってしまうなんてことは、しょっちゅうある私たちです。信仰の戦いを立派に戦い抜けるなどと誰かに誇って言うことなどできない私たちです。けれども、めんどりの翼の下に隠れるくらいのことは出来そうです。心が乱れ、矛盾だらけの祈りであっても良いと言ってくださるのなら、それなら祈れそうですと言うのが精一杯の私たちです。

 けれども、そんな信仰者を主は求めておられるのです。主イエスの言葉を殺すのではなく、耳を傾ける。自分は自立しているから、自分の好きなように生きると言って、主の身許から離れてしまうことを、主はとても寂しく思われるのです。

 主イエスの言葉が私たちの心に響く時、そこでは私たちは決断を求められます。自分の思いのままにいくのか、神の思いに従うのか。むかしからこれを「抵抗と服従」という言葉で表現してきました。あるいはもっと簡単に言えば「YesかNoか」です。

 そこで「Yes」「はい、従います」と答え出すことは簡単ではありません。河野進の先ほどの詩ではありませんが、私たちはそれほど強くないことを私たち自身がよく分かっているからです。

 けれども、そんな時こそ、私たちはひな鳥のように主のみ翼の陰に移動したら良いのです。主はそのことを求めておられるのです。立派に戦い抜くだけではない、さまざまな戦い方があることを、主は私たちに示してくださるのです。

 私たちは弱い存在です。そのことは、主ご自身が誰よりもよく理解しておられます。そして、私たちの周りには、多くの敵の目があり、私たちキリスト者を生きにくくしようとする声や人が満ち溢れていることも、主はご存知です。それゆえに、主は私たちと共に歩もうとしておられるのです。

 私たちの信仰の戦いは、立派に信仰を守り抜くための戦いというよりも、主イエスの近くにいつも留まり続けることの戦いと言うことができるのかもしれません。主のみもとにとどまるならば、そこで私たちはめんどりの愛を知ることができるように、主なる神の愛と恵みを知るようにされるのです。

 私たちの主は、私たちを見捨てることなく、私たちを生かすために、ご自分の命をも犠牲にすることを厭わないお方なのです。私たちがその主のお姿を知ることを、主は何よりも望んでおられるのです。

 お祈りをいたします。

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