2024 年 10 月 13 日

・説教 マルコの福音書3章20-30節「永遠に赦されない罪」

Filed under: 内山光生師,礼拝説教 — susumu @ 07:47

2024.10.13

内山光生


序論

 今日、マレーネ先生とドイツの教会の方々が芥見教会の礼拝に集って下さった事を神様に感謝いたします。そして、ドイツと言えば私も一つ思い出すことがあります。

 今から7年前、すなわち西暦2017年はドイツ人のルターによって行われた宗教改革500周年の記念の年でした。そして、その年の6月に同盟福音の牧師や信徒たち10数名で、ドイツの教会や宗教改革にゆかりのある町を訪れました。その時、鴨下直樹先生や川村真示先生が参加しましたし、当初、私は参加する予定がなかったのですが、神様の恵みよって、私のために費用を出すと言って下さった方がおられ、ドイツ訪問をすることができたのでした。

 マールブルクの教会やハンブルクの教会で礼拝をささげる事ができ感激したのを思い出します。ドイツの方々が喜んで迎えてくださっていることがよく伝わってきたからです。また、ドイツの諸教会の方々が日本の教会のために祈っている事を実感する事ができたからです。

 ですから、私はドイツからお客さんがお見えになった事に対して、うれしい気持ちになるのです。

 さて、今日の説教のタイトルは「永遠に赦されない罪」です。ある程度、聖書を知っている人にとっては、あ~あの箇所か、と想像できるかもしれません。けれども、まだ、聖書をよく知らない人や教会に来て間もない方にとっては、どきっとするタイトルかもしれません。

 最初にお伝えしておきますが、今、はっきりとイエス様が救い主だと信じているならば、その人は「永遠に赦されない罪」に陥ることはないという事を心にとめて頂きたいのです。なぜなら、神は一度救われた人は、その人の信仰が全うすることができるように守り導いて下さるお方だからです。私たちが自分の努力によって、信仰を保つのではなく、神の助けと導きによって、信仰が守られるのです。

 つまり、今日の箇所は、イエス様を信じている人にとっては、安心することができる内容だということ。一方、私たちはまだ信仰を持っていない方々が、ちょうど良い時に、はっきりと信仰を持つことができるようにと祈っていく必要がある事を覚えたいのです。

I 主イエスを連れ戻そうとした身内の者たち(20~21)

 20~21節を見ていきます。

 20節でイエス様が家に戻られたと書かれています。この家は、恐らく、カペナウムの町のペテロの家だと思われます。イエス様が町に戻ったとのうわさが広まり、多くの人々がイエス様の元にやってきたのです。イエス様と弟子たちは食事をする暇もない程忙しくなり、肉体的にも疲れを覚えていたと思われます。

 すると、イエス様の身内の者たちが、イエス様をイエス様の故郷ナザレの町に連れ戻そうとしたのです。身内の者たちは、人々の変なうわさを聞いて黙っていることができなくなったのです。イエス様は多くの人々から人気を得ていました。一方、「イエスはおかしくなった」と悪口を言う人がでてきたのです。イエス様の身内の者たちは、これ以上、イエス様が人々の前に立つと、ますます悪い評判が広がる、そんな事を恐れたのです。身内の者たちは、イエス様が悪く言われると、自分たちや自分たちの住んでいる町全体の評判が悪くなる、そんなことになってほしくない、と考えたのでしょう。

 また、実際に、イエス様と弟子たちはあまりにも忙しくて、疲れ果てているので、休ませる必要があるとも考えたのでしょう。

 身内の者たちは、イエス様を連れ戻そうとしましたが、これはあくまでも、イエス様に敵意がある行動ではなく、むしろ、身内としてイエス様たちを守ってあげる必要がある、そう考えての行動だったと思われます。

 一方、22節に書かれている律法学者たちは、イエス様に対して敵意や悪意がある言動をとっていました。
 

II 主イエスに酷い評価を下す律法学者たち(22)

 22節に進みます。

 ここではエルサレムから律法学者たちがやって来たことが記されています。これは、イエス様の言っている事やイエス様による癒しのみわざが、多くの人々に影響を及ぼしはじめたので、当時、権威のある立場の律法学者たちが、わざわざ、イエス様に議論を吹きかけようとしたのです。彼らは、偏見に満ちていて、かなり早い段階で、イエスは自分たちの敵だとみなしていたのです。

 律法学者たちは言います。「彼はベルゼブルにつかれている」と。ベルゼブルとは、サタンあるいは悪霊どものかしらという意味です。そもそもイエス様は、父なる神から霊的な力を与えられ、聖霊の力によって悪霊を追い出しているのです。イエス様の力の背後にあるのは、悪ではなく聖なるものです。にも関わらず、律法学者たちは、根拠のないことを言ってイエス様の評判を落とそうとしたのです。

 また、律法学者たちはイエス様に対して「悪霊どものかしらによって、悪霊どもを追い出している」と言っていたのでした。

 これは、たまたま口がすべって言ってしまったという事ではなく、継続的に何度も言っていたことを意味しています。律法学者たちの目的は、イエス様から人々が離れていくことです。ですから、でたらめでも、なんでも、イエス様の評判が落ちればそれで良かったのです。 

 では、イエス様はどのように反応したのでしょうか。

III 冷静に反論する主イエス(23~27)

 23~27節に進みます。

 律法学者たちは、なにも根拠のないことを言ってイエス様の評判を落とそうとしています。もし私たちが誰かから、変なうわさを流されたとすれば、どう思うでしょうか。多くの場合、怒りの感情がでてきたり、仕返しをしてやりたいと思う事でしょう。ところが、イエス様は、律法学者たちが冷静になって考えることができるようにと、たとえを用いて反論していくのです。

 イエス様はののしられても、ののしり返すお方ではありません。悪口を言われても、相手に怒りをぶつけるのではなく、むしろ、相手が自分の過ちに気づくようにと諭そうとするのです。

 イエス様のたとえは、常識的な感覚のある人ならば、すぐに納得できる内容でした。すなわち、サタンがサタンを追い出すというのはおかしいのではないか? と律法学者たちに考えさせようとしているのです。なぜなら、国が内部分裂したら、その国は立ち行かない。また、家が内部で分裂したら、その家は立ち行かない。だから、サタンの国で分裂が起こっていたとしたら、サタンは滅んでしまうのではないか、と。

 サタンの国が分裂しているというのは、おかしな話になります。だから、イエス様は律法学者たちの言っていることは、あきらかに間違っている、ということに気づかせようとしているのです。

 更には27節で、イエス様は「強い者を縛り上げることによって、その家を略奪することができる」と説明しています。これは、イエス様が悪霊を追い出しているならば、イエス様は悪霊よりも霊的な力が上回っていることを示そうとしています。また、イエス様がサタンの力によって悪霊を追い出していることはあり得ないことであり、むしろ、イエス様は父なる神から与えられた権威によって、そして、聖霊の力によって悪霊を追い出しているのだということに気づかせようとしているのです。

 イエス様は、このように説明することによって、律法学者たちがなんとか自分たちの過ちに気づき、そして、イエス様がまことの救い主だということを信じるようになってほしいと願っているのです。

 繰り返しますが、イエス様は自分に悪口を言ってくる人に対して、悪口で返すお方ではありません。むしろ、その人が自分の過ちに気づくように導こうとする、そういうお方なのです。ここに、私たち人間が取る態度とに大きな違いがあるのです。

 ただし、イエス様の愛のある忍耐は、いつまでも続くものではありません。私たちが地上で生きている間に、イエス様を受け入れるかどうかの決断をしなければならないのです。それで、イエス様は、律法学者たちに厳しい警告をしたのです。

IV 永遠に赦されない罪(28~30)

 28~30節に進みます。

 まず、28節ではイエス様がどれ程、忍耐深いお方なのか、また、父なる神がどれ程、忍耐深いお方なのかが示されています。

 人の子、すなわち、イエス様は、私たち人間が、どれ程大きな罪を犯したとしても赦して下さるお方です。私たちがイエス様こそ罪を取り除くことができるお方だと信じる信仰によって、イエス様の十字架のゆえに、罪が赦されるのです。

 私たちは、自分に敵意を持っている人に対して、どうしても、怒りの感情が出てきてしまい、しばしば相手の事が嫌いになってしまいます。悪口を言われたならば、悔しくて仕方がないとの思いが出てきます。そして、そのような人を赦すことなんて、簡単にはできない、そういう思考回路に陥ってしまうのです。けれども、イエス様は、どのような悪口を言われても、相手に対して憎しみの感情を抱かなかったのです。むしろ、憐れんでくださるのです。

 また、神は私たちが神を冒瀆するような発言をしたとしても…それ自体は良いことではなく、私たちは神を冒瀆しないように努める必要がありますが…しかし、無知のゆえに、すなわち聖書の教えを知らないがゆえに、神を冒瀆したり、神様が悲しむような行いをしたとしても、しかしそれでも、イエス様の十字架の愛のゆえに、その人は赦されるのです。

 ですから、今、イエス様をはっきりと信じている人々は、過去に犯した自分の罪のことでいつまでもくよくよする必要はないのです。むしろ、私たちが真実な悔い改めの告白をする時に、それらの罪をすべて赦して下さる神に感謝をささげるのが良いのです。

 けれども、29節には、赦されない罪のことが記されています。一言で言うと、「聖霊を冒瀆する者は永遠に赦されない」との警告がなされています。では聖霊を冒瀆するとはどういう事なのでしょうか。聖霊の悪口を言ったら、その人は二度と、罪が赦されない、そういう事でしょうか。もしそうならば、クリスチャンと言えども安心できなくなります。

 でもそういう事ではありません。神は、イエス様に対して悪口を言ったとしても、父なる神を冒瀆することを言ったとしても、その人が悔い改める時に赦すことができるお方です。また、万が一、聖霊の悪口を言ってしまったとしても、しかし、それでも、その人がその罪を悔い改める時、赦されるのです。

 この箇所で、「聖霊を冒瀆する者は永遠に赦されない」と指摘されているのは、律法学者たちが、イエス様の福音を聞いていながら、また、イエス様が多くの人々を癒したり、悪霊を追い出している、その事実を知っていながら、故意にイエス様の行っているみわざを、サタンの力によって行っていると主張していることに対する警告なのです。

 律法学者たちは、イエス様の福音を信じるチャンスがありました。けれども、彼らは、素直な心でイエス様の福音を受け入れようとせず、また、イエス様が悪霊を追い出している事実に対して、聖霊の力によって行っていると認めようとしませんでした。

 もしも人がこのような状態に陥るならば、その人は、イエス様を信じる信仰を持つチャンスを失ってしまう、そうならないために、強烈な印象の残ることば「聖霊を冒瀆する者は永遠の罪に定められます」と表現することによって、悔い改めさせ、更には福音を信じるように導こうとされたのです。

まとめ

 聖書に出てくるイエス様の言葉は、ときどき、非常に厳しい内容が含まれています。けれども、それはまだイエス様を信じていない人々が、自分の罪に気づき、イエス様を信じることができるようにとの願いが込められた愛のある言葉なのです。

 神は私たちが信仰を持つようにと、聖書の言葉をもって語りかけることがあります。また、色々な出来事を通して、神が生きておられる事を示そうとされます。そのようなチャンスが与えられていながらも、故意にイエス様を拒絶しているならば、その人は「永遠の罪」に定められますよ、と
警告しているのです。そして、その警告は神の愛に基づくものなのです。

 お祈りします。

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