・説教 ルカの福音書15章11-24節「家へ帰ろう!」
2025.01.26
鴨下直樹
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皆さんは、自分の人生をやり直したいと考えることがありますか? この世の中には、高校生から人生をやり直して勉強したいとか、会社の選択をやり直したいとか、結婚生活をやり直したいとかいろんなことを考える人たちがいます。私は最近、特にコロナ禍に入ってからでしょうか、Amazonプライムという動画配信サービスでいろんなドラマやアニメを見ることがあります。そこで感じるのは特にアニメの作品では「異世界転生もの」と呼ばれる作品がたくさんあるということです。
そんなことを言っても皆さんにはあまりピンとこないかもしれませんが、自分がひょんなことから異世界に飛ばされてしまって、そこで新しく人生をやり直す、そんな設定のアニメやドラマがたくさんあるのです。
実は、この異世界転生ものの先駆けとなったのは、イギリスのキリスト者の小説家、C・S・ルイスの描いた『ライオンと魔女』から始まるシリーズ『ナルニア国物語』です。ナルニアという異世界はアスランというライオンの王が治めている世界です。しかしその世界は魔女の力によって氷漬けにされ、人々は自由を奪われてしまっているのです。そこに、現代から(と言っても古い作品なので第二次世界大戦中のイギリスから)ナルニア国に招き入れられた主人公たちによって、世界が回復されていくという物語です。
C・S・ルイスはこの作品を通して、「信じる力」をテーマにキリスト教の信仰を分かりやすく物語ろうとしています。その他にも「転生もの」とは少し違いますが、やはりキリスト者の作家で『指輪物語』を記したトールキンの描いた世界も異世界でした。このトールキンの物語は多くのファンタジー作品の土台となった作品でもあります。
今、子どもたちや若い人たちが好むゲームや映画、アニメや小説などでは、この異世界で冒険をする物語がたくさん描かれています。この最近の流行りを見ていると、どこかこの世界ではない別の世界でなら自分は自由に羽ばたいて生きることができるのではないか? そんな憧れをこの世界の人々が持っているのではないか、そんな気がしてなりません。
今日の聖書の中にも、そんな一人の若者が登場してきます。彼は二人兄弟の弟で、父親のもとを離れて新しい世界に旅立つことに憧れを抱いていたようです。誰も自分のことを知らない世界、それこそ異世界のようなところへ行って、うるさい親から離れて、自分の力で好きなことをやって生きていく。彼にはそんな希望が有ったに違いありません。自分の家のしきたりや、親のもとでの生活は窮屈に感じられ、自分の生きている世界は魅力の無い世界だと感じていたようです。それで、今の生活とは全く異なった新しい世界に希望を見出したのです。そういう思いというのは、私たち誰もがどこかで抱いたことがある考えなのではないでしょうか?
それで、この物語の弟息子は父親に、ある日こう言います。
「お父さん、財産のうち私がいただく分を下さい」と。唐突な申し出です。自分の権利を主張するわけです。
皆さんがこの弟息子の父親ならば、この申し出になんと答えるでしょうか? いかにも自分勝手な言い分です。父親への尊敬を欠いています。欲しいのは父親の持つお金だけ。弟息子はその言葉が、どれほど父親に対して失礼な言葉であるかさえ気づいていません。世の多くの父親であれば、いや親であれば、ここは大事な局面だということは、すぐに分かります。子どもの態度を改めさせるには、またと無いチャンスです。考えを改めさせる言葉はいくつでも有ったと思うのです。ところが、この物語の父親は、あろうことか財産を二人の息子たちに分けてやったというのです。「なんて甘い父親だ」という声も聞こえてきそうです。主イエスはこの譬え話の中で、そんな父親の姿を人々に話してお聞かせになりました。
さて、こうして父親から財産を手に入れた弟息子は、早速、準備を整えて遠い異国の地へと旅立って行きます。手元には莫大な財産があります。うるさい父親も自分のことを監視する兄もいない。これからは、もう自分の好きなことを自由に行うことができます。
皆さんが、この物語の主人公、財産を手に入れた弟息子だったら、そこでどうするでしょうか? 潤沢な資金を手に新しいビジネスを始めることもできます。どこか好きな所へ行って、そこで土地を手に入れて、新しい生活基盤を整えることも良いかもしれません。あるいは、まずは少しお金を使って今まで我慢していたものを少しだけ買ってみようかなと考えるかもしれません。あるいはギャンブルをして、さらにお金を増やしてみようと考えることもできます。この時点では、どんな未来も描けたはずです。
ところが、13節の後半、聖書はこう記しています。「そして、そこで放蕩して、財産を湯水のように使ってしまった。」まだ改行も行われぬうちに、その財産は泡と消えたと記しています。
ここには、「放蕩して」という言葉と「散財して、湯水のように使ってしまった」という言葉が記されています。
あまりにも早く、あまりにも短絡的な結末に私たちは愕然とします。原文では「放蕩して」という言葉の前に「生活する」という言葉があります。放蕩生活の挙句、財産を散財してしまうという、最も残念な生活ぶりが描き出されています。
誘惑の大きさが、ここには描き出されていると言えるかもしれません。一度や二度、羽目を外してしまったというのではないのです。放蕩を続けて財産を散財してしまったというのです。気がついたら、放蕩生活から抜け出せなくなってしまっているのです。しかも続く14節ではこう記されています。
何もかも使い果たした後、その地方全体に激しい飢饉が起こり、彼は食べることにも困り始めた。
人生とは、なんと残酷なのでしょう。「何もかも使い果たした後」、「彼は一念発起して、裸一貫から再スタートした!」そういうことならば、物語は起承転結の「転」に差し掛かかって、ここから快進撃を始めることとなったといきたいところです。けれども、世の中は飢饉であったというのです。ここに残酷な現実の姿が描き出されています。自分の力だけでは、どうにもならない現実が待ち構えていたというのです。飢饉ということは、どこに行っても食べ物が無いわけで、そこでは人がいくら努力したとしても、それは何の力にもなり得ないわけです。
どうしようもなくなった彼は、ある人のところに身を寄せますが、そこで彼は豚の世話をすることになります。豚というのは、ユダヤ人たちは汚れていると考え、食べることをしません。ですから、かなり遠くに来ていたことが、ここからもよく分かります。そして、そんな、自分たちがこれまで忌み嫌ってきた豚の食べるものさえも欲しいと思うほどに、彼が落ちぶれていったことが描き出されています。
「いなご豆」それが豚の餌でした。少し気になって調べてみました。すると、このいなご豆というのは、豆そのものは食べられないのだそうです。ただ、いなご豆のさやの方には甘みがあるので、最近ではスーパーフードとか言われ、乾燥させたいなご豆のさやは、チョコレートの代替え品にもなるのだそうです。日本でもペットショップでうさぎの餌として売られていたりはしますが、一般的には食用としては食べられていないようです。この聖書の時代、当時は飢饉の状態でも見向きもされない食べ物であったことは間違いありません。ユダヤ人が忌み嫌っていた豚の餌でさえも欲するというのは、本当に惨めな生活をしたのだという表れです。
しかも、その豚の餌すら誰も食べさせようとはしてくれない、誰からも配慮されることの無い孤独な生活、ここにはまさに限界を迎えた弟息子の姿が示されています。人生のどん底を経験して、ここで弟息子は重要なことに気づきます。17節から19節です。
しかし、彼は我に返って言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が、なんと大勢いることか。それなのに、私はここで飢え死にしようとしている。
立って、父のところに行こう。そしてこう言おう。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。
もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください。」』
弟息子はここに来て我に返ります。自分がこれまでいた世界、これまでの父のもとにいた生活というのは、どれほど豊かな生活だったのか、そのことに改めて気づくのです。自分がもといた世界の本当の価値を、魅力を再発見したのです。
先日の祈祷会で、この箇所を学んだ時に、この弟息子の気づきの場面を「悔い改め」と呼べるものなのか、これはまだ悔い改めではないのかということが議論になりました。とても楽しい議論でした。「まだ独り立ちしていない、父親に甘えようとしている姿が見えるので、これは十分ではないのではないか」とか「この時の弟息子の決断というのは、父親の赦しの姿が見えていない状態でしかない。まだ本当の意味で父親の気持ちに気づいていないので、やはり父親と対面して初めて悔い改めと言えるのではないか」という意見が出されました。このように、いろいろな考え方ができる箇所だと言えると思います。
ルカの福音書の第15章の大きなテーマの一つは「悔い改め」です。この悔い改めを主イエスは三つの譬え話で、少しずつ角度を変えて話しておられます。その中で、キーワードと言える言葉があります。それは「いなくなった」という言葉です。この言葉はギリシャ語で「アポリューミー」という言葉です。いろいろなところで使われる言葉です。元々の意味は「失う」とか「死ぬ」「殺す」「滅びる」という翻訳がなされる言葉です。本来、あるべきところに無い状態を表す言葉でもあります。
失われた羊の譬え話も、失われた銀貨の譬え話も、主イエスはその結論として「一人の罪人が悔い改めるなら」と話しておられます。ところが、羊も、銀貨も悔い改めてはいません。本来いるべき所、元々あるべき所に戻ってきたことを、ここで「悔い改め」と呼んでおられるわけです。失われた羊の譬え話では、悔い改めとは「いのちの回復」が意味されていました。失われた銀貨の譬え話では「価値の回復」「人生の意味の回復」が語られていました。
そして、この「失われた息子」の譬え話においてもそうです。息子は、本来いるべきところから自分が離れたことに気づいた。そのことの大切さをここで主イエスは話しておられるわけです。
我に返った弟息子は、父親のいるところ、自分の本来いるべき家へ帰ろうと思い立ちます。そして、立ち上がって家へ帰るのです。するとどうでしょう。20節の続きにこう記されています。
ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけて、かわいそうに思い、駆け寄って彼の首を抱き、口づけした。
父親はずっと待っていたのです。いつ帰るとも知れない弟息子の帰りを待ち焦がれていたのです。そして、父親の方から走り寄っていったとあるのです。そして、息子に悔い改めの言葉をすべて言い終える間も与えず、この家の息子として、弟息子を、放蕩してきた息子を受け入れるのです。この失われた息子の譬え話では、父親との関係の回復が語られているのです。父親は、ダメな息子をそのまま、まさにありのまま受け入れたのでした。
感動の場面です。けれどもこの美しい物語も現実の話であれば皆さんはどう反応するでしょうか? 父親から財産を受け取るや否や、いなくなって、遊び歩いてきた挙句、また元の鞘に収まるという話は、美談というよりも子どもを甘やかしてしまうダメ親父の物語とも言えるのではないでしょうか。
人生で失敗した経験を活かし、それを吟味させることもなく、元どおりに受け入れるなんて、そんなものは甘やかしにも程がある。そんなことだから子どもたちはつけあがるのだ。この聖書の時代にSNSが有って、この物語を投稿したら、おそらくアンチコメントで瞬く間に炎上すること間違いなしです。
「厳しく叱るべきだ」「反省を促すべきだ」「態度が改まったかどうか見極めてから判断しても遅くない」それが、この世界の声です。なぜなら、この父親の対応は正しくないと思うからです。これでは弟息子は成長しないと人は考えるのです。
でも、そこで私たちは問う必要があるのです。たしかに反省を促し、厳しく叱り、態度が変わったかどうかを見極めてから判断するというのは、この世の常識から言えば正しい判断なのかもしれません。それに対して、誰も異を唱えないのかもしれません。
けれども、そこで私たちが問う必要があるのは「それでは、それは福音なのか!」ということです。その問いを私たちは持つ必要があるのです。
主イエスが求めておられるのは「正しさ」なのか? 「悔い改め」とは「反省すること」なのか? 聖書がここで語っているのは「あるべきところに戻ること」つまり「神の家に帰ること」これが、これこそが福音なのです。
主イエスというお方は、出来が悪い者を、いや出来が悪い者こそを愛されるお方です。失敗を繰り返し、罪を何度も犯し、神のみ心に反してしまう者を、愛して、赦して、何度でも何度でも、受け入れてくださるお方なのです。それこそが罪の赦しなのであり、神との和解なのです。側から見ればそれは本当に、甘いのかもしれません。甘すぎるのかもしれません。もっと厳しくした方が良いのかもしれません。しかし、これが神のなさり方なのです。
「そうだ、家へ帰ろう!」そう思うことのできるところを備えてくださっているのが、私たちの主です。「あんなひどいことを言ったのだから、もう二度と家の敷居を跨ぐことはできない」それが、この世の常識だったとしても、神はそうではないのです。「何度失敗しても、親の顔に泥を塗ってしまったとしても、いつでも家に戻っておいで!」これが、ここで語られている神からのメッセージです。私たちの神であられる主は、私たちを受け入れたい、赦したい、いつでも待っている。いつでも、私たちとの関係が回復されることを待ち望んでおられるのです。そして、これこそが福音なのです。
父親は、戻ってきた弟息子を、雇い人の一人として受け入れたのではなく、そのまま息子として受け入れました。そして、子牛を屠って焼肉パーティーが始められたのです。長い間ひもじい思いをしていた弟息子からすれば、この食事の席はどれほど嬉しかったことでしょう。父親の大きな愛に、どれほど感謝したことでしょう。自分がつまらないと思っていた世界が、どれほど自分にとって光り輝いた世界であったかと気づいたことでしょう。
父親は言いました。24節。
「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから。」
これが父親の思いです。これが主なる神様のお心です。「いなくなっていたのに見つかった」今、まだ目の離せないような未熟なままの愛する息子は私の家にいる。そのことが嬉しい。自分のもとにいてくれて嬉しい。これが、父なる神のみ思いなのです。
私たちは誰も自分のことを知らない世界に行けば、ひょっとしたら自分の人生をやり直しできるのではと考えるのかもしれません。そんな思いが、異世界への憧れだったり、自分の人生をやり直したいという方向に向かわせるのかもしれません。けれども、私たちが行くべきなのは、「誰も知らない世界へ」ではなくて、「私のことを本当に一番よく知ってくださっておられる主なる神のもとへ」帰ることこそが、本当に必要なことなのです。主は私たちが戻るべき家、ホームなのです。主のみもとにいることが、私たちにとって本当に幸せなことなのです。
お祈りをいたします。