・説教 ルカの福音書20章20-26節「大切なものはその奥に」
2025.11.30
鴨下直樹
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今週からアドヴェントを迎えました。毎日少しずつ寒さが増して、クリスマスが近づいてきていることを感じます。先週、私は残念ながら、みなさんと一緒に礼拝を捧げることができなかったのですが、子ども祝福礼拝には大変大勢のご家族が集まられたのだそうで、あとで写真を見せていただきました。教会のインスタグラムにも、その時の写真が出ておりました。毎年のことですけれども、子ども祝福礼拝で子どもたちはアドヴェントカレンダーチョコレートを貰います。今回は、礼拝の参加者が増えるたびに、私は何度もお店にチョコレートを買いに行きました。合計で3度行ったでしょうか。お店の人も、またチョコレートをたくさん買っていく人が来たと思われたのかもしれません。
先日の祈祷会である方が、「子どもだけじゃなくてワシらも欲しい」と言われました。その時に、「敬老の礼拝の時にプレゼントを貰ったじゃないですか?」という話になったのですが、「何かしてもらったか?」と言われてしまいました。食事を一所懸命に準備された方々は残念な気持ちになってしまうかもしれませんが、「ワシもアドヴェントカレンダーチョコレートを貰って、クリスマスを心待ちにしたい」という気持ちの表れなのだと思います。
その話をしていた時に、チョコレートは24日までなのか、25日までなのか? という質問が出てきました。「24日までですよ」とお答えすると、「でもクリスマスは25日なので、25日までないのはおかしい」という声が出てきました。これは、ユダヤの暦の考え方にあるのですが、ユダヤでは日が暮れて夜になると、そこから一日が始まります。つまり、24日の夜は、ユダヤでは25日なわけです。主イエスは24日の夜、「聖夜」に生まれたので、24日の夜までしかチョレートがなくても何の問題もありません。
アドヴェントカレンダーチョコレートは24日の分のチョコレートが少し大きいのか、何か他の日のチョコレートと違いがあるのか、24日が来たら子どもたちに訊いてみたいと思っています。
何でこんなにチョレートの話を一所懸命しているかと言いますと、今日の説教題を「大切なものはその奥に」としましたが、最後の最後に、大切なものが出てくる。そんなことを覚えるのが、このアドヴェントの季節なのかもしれないと考えるからです。
さて、今日私たちに与えられている聖書の言葉は、全くもってクリスマスの雰囲気はありません。アドヴェントのみことばというわけでもありません。ここでなされているのは、税金の話です。先日、私も年末調整の書類を書いて提出したところですが、年末に税金の話というと、頭に思い浮かぶのは年末調整の話くらいなのかもしれません。
しかし、今日のところは、なかなか興味深いところです。主イエスのところに、一人のスパイが送り込まれてくるのです。20節に「義人を装った回し者」とあります。英語の聖書ですと、「スパイ」と書かれています。そのスパイが義人を装っているとあります。コンピューターで入力していましたら、一段下のキーと打ち間違えて「美人を装った」と入力してしまいそうでした。美人を装った人も沢山いるかもしれませんが、この義人を装った人というのも、案外沢山いるのかもしれません。
自分のことを考えてみてもそうです。他の人の前では立派そうに装う。昨日のニュースでも、ある政治家が、会議という名目で経費の中からスナックに51万円を支払っていたなんていうのがありました。その内訳には、ある演歌歌手のファンクラブの年会費も含まれていたというニュースでした。人前では立派な政治家の姿をしていても、裏で何をやっているのか分からない。もう、そんなニュースばかり毎日のように出てくるわけです。表向きの装いが立派に見えても、人というのは、その内側にさまざまな醜い姿を秘めている。そんなことを考えさせられるニュースです。
「スパイ」というのは変装が得意な人です。人を欺く。この人がどのように人を欺いているのかというと「義人を装っている」のです。つまり、神の義を装っているのです。神の御前に正しい人であるということを見せるのが巧みなのです。そして、そのスパイは何をミッションにしているかというと、20節の後半では「イエスのことばじりをとらえて、総督の支配と権威に引き渡すため」と書かれています。神の義を装った人物が、ローマの総督に主イエスを引き渡そうとしている。もうその時点で神の義はどこに行ったのか? という疑問が出てきそうです。ところが、これがまた実に巧みな方法で、主イエスを罠にかけようとするのです。21節。
彼らはイエスにこう質問した。「先生。私たちは、あなたがお話になること、お教えになることが正しく、またあなたが人を分け隔てせず、真理に基づいて神の道を教えておられることを知っています。」
まぁ、実に言葉巧みです。こう言うことで、あなたは人目を気にせずに思ったことをビシッと答えてくれる人だと分かっていますと誘導するわけです。その上で問いかけているのは続く22節です。
「ところで、私たちがカエサルに税金を納めることは、律法にかなっているでしょうか、いないでしょうか。」
だいたい公の立場にある人を陥れようと思ったら、政治の話を持ち出すことが有効なのは今も昔も変わりません。政治の話になると、いろんな考えの人がいるわけで、政治的な立場を語らせれば、人々からの人気を失いかねないことが分かっているのです。
この質問の意図はこうです。もし、主イエスがローマに税金を納めるべきですとお答えになれば、同胞のユダヤ人たちの支持を失うことになります。反対に税金を払わなくていいと言われれば、ローマへの反逆罪で捕らえることができるという作戦です。
聖書の時代に生きていたユダヤ人の歴史家でヨセフォスという人がいます。この人は紀元30年代後半から100年頃まで生きて活躍した歴史家で、聖書の時代前後の歴史を記録している人です。このヨセフォスの記録によると、紀元6年に、ガリラヤの指導者であったユダという人物が「ローマへ税金を納めることは奴隷のようなものだ」と言ってユダヤ人の納税反対運動を主導しています。
こういう背景があるので、主イエスが、もしカエサルに税金を納めるべきだと言われようものなら、多くのユダヤ人たちは反感を持つことになったのです。
ここに、祭司長、律法学者たちからのスパイとして送り込まれてきた人間の醜さが見えてきます。おべっかを使って主イエスの顔を立てているかのような物言いで、その心の中は、主イエスを陥れようという悪意に満ちているのです。そして、この問いかけに対する主イエスのお答えの中にもまた、主イエスの人となりが現れています。
主イエスは言われました。24節と25節です。
「デナリ銀貨をわたしに見せなさい。だれの肖像と銘がありますか。」彼らは、「カエサルのです」と言った。
すると、イエスは彼らに言われた。「では、カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい。」
「カエサルのものはカエサルに返しなさい」と言われた時、質問をした人は一瞬心の中でニヤついたはずです。「言質を取った!」と思ったはずです。「イエスは民衆の反感を買った!」この部分だけを聞けばそう思ったはずです。しかし、主イエスのお言葉はそれだけで終わりませんでした。「神のものは神に返しなさい」とお続けえになったのです。
これは、どういう意味なのでしょう。このお金にはカエサル、つまりローマ皇帝ティベリウスの銘が刻まれていました。このような皇帝の顔が描かれたお金を、ユダヤ人は神殿では使うことができませんでした。偶像崇拝になると考えたからです。それで、神殿用のお金には、何の銘も刻まれていないお金を使ったのだそうです。
このお金はローマが管理している。ローマのものであればローマに支払えばいいと主イエスは言われたのです。けれども、「神のものは神に」と言われた時に、誰もが驚きました。というのは、すべては神のものであることを知っていたからです。この世界は神の被造物であり、神の御手の中にあります。当然、自分自身も神のものです。もっと言うと、この言葉は私たちには「神の像」「神のかたち」が刻まれているということを思い起こさせるのです。人間は神のかたちに創造された存在です。ということは、神の支配の中には、当然ローマ皇帝も入ることになります。この主イエスのお答えは、ローマの支配は認めるけれども、そのローマの支配の上に、神の支配があることを覚えなさいという意味になるのです。また、この問いかけをしている人にも、この話を聞いている人々にも、あなた自身も神のものであるという明確な答えを主イエスは示されたことになります。つけ入る隙がどこにもない、完全なお答えを主イエスはここでなさったのです。
ちょうど、この前に主イエスはぶどう園の主人と農夫たちの譬え話をされています。農夫たちは、主人の土地をいつの間にか自分たちのもののように扱って、主人のしもべを追い返してしまい、主人のあととりも殺してしまって、その土地を手に入れようとしました。
カエサルは自分を王であるとしています。カエサルだけではありません。祭司長も律法学者たちも、自分が王であるかのように振る舞っていました。この回し者として送り込まれてきた者も、自分の義、自分の正しさやアイデアに溺れていた人間です。誰もが、自分の人生の主人は自分であり、自分の人生は自分のものであると考え、行動しています。
はたして誰が、自分の命そのものが神のものであるということを理解して生きていると言えるでしょうか。自分のものは自分のもの、他人のものも、できるだけ自分のものとしたい、そう考えているのが人の醜さというものです。けれども、主イエスは言われるのです。すべてのものは神のもの、主のものであると。
宗教改革者カルヴァンが、子どもに信仰を教えるために書いた『ジュネーブ教会信仰問答』というものがあります。これは、教会の教師が子どもに問いかけて、子どもがその答えを覚えて暗唱するために記されたものです。
その最初にこう書かれています。
問い1 「人生の主な目的は何ですか」
答え 「神を知ることであります」
問い2 「どんな理由であなたはそういうのですか」
答え 「神はわれわれの中にあがめられるためにわれわれをつくり、世に住まわせられたのでありますから。また、神はわれわれの生の源でありますから、われわれの生を神の栄光に帰着させるのはまことに当然であります」
少し飛んで問い6にはこうあります。
問い6 「では、神についての正しい知識とは何ですか」
答え 「それは神に全信頼をおくこと、みこころに従いつつ神に仕えること、われわれのあらゆる窮乏の中から、救いとすべての善きものを神の中に探し求めつつ神に祈ること、そしてすべての幸福はただ神から来ることを、口で認めると同時に心で認めることであります」
カルヴァンは、人間は神を知るために造られた存在だと教え、続いて、神を知るというのはどういうことかというと、私たちの貧しさの中から神を探し、祈ることを通して幸せは神が与えてくださることだと知り、そのことを心で受け止めて、口で告白することだと教えています。
これは、義人を装うということではありません。人前でだけ体面を保っていれば良いというものでもありません。自分自身で神を知ることが何よりも重要だとカルヴァンは教えています。
主イエスは言われるのです。「すべては主のものである」と。そして、この主の言葉は次のような私たち自身の言葉となって告白されるのです。「私も主のものである」と。
カルヴァンはこのことを、子どもの頃から知るべきだと教えます。すべては、神を知るところから始まるのだと。そして、この神が、私たちの人生を支配していてくださる、このお方を知ることを通して、この神に全信頼をおくようになる。そのために神を求め、祈り、告白することで、私のすべての幸せは神から来ることを知るようになるのだと。
大切なものは表面的なところに見えているものではないのです。大切なものは神を知ることを通してその奥に秘められた神の素晴らしさを知ることにあるのです。神を知り、神を信頼していくことで、このお方がどれほど私たちのことを大切にしてくださるお方であるかを知ることができるようになるのです。見せかけの義、表面的な義では、この神の素晴らしさを知ることはできないのです。神を知ること、よく知っていくこと、この中に、私たちの人生の幸福がかかっているのです。
お祈りをいたします。
