・説教 マルコの福音書6章6節-13節「主に遣わされて」
2018.02.25
鴨下 直樹
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今、私たちは「レント」と呼ばれている、主イエスの十字架の苦しみを受けられた期間を覚える季節を迎えています。主イエスはどのような苦しみを受けられたのか、そこのことを覚えようというわけです。けれども、私たちが主イエスの受けられた苦しみを理解しようと思っても、それは簡単なことではありません。不当な裁判を受けたり、鞭で打たれたり、十字架刑にされるということは、話では理解できたとしても、どこかで自分とは関係のない出来事だと考えてしまいます。私たちはあまり、そのような極端な試練を経験するということはないのです。けれども、聖書を読む時に、主イエスがその歩みの中で受けられた困難というのがどういうものであったのかを知ることはできます。
今日、私たちに与えられている箇所は十二弟子の派遣と言われるところです。主イエスは御自分の弟子たちを二人ずつ組みにして、伝道に遣わされました。その際、弟子たちを送り出す時に心がけることは何かということが記されています。
まず、7節から分かることは「ふたりずつ」ということと、「権威をお与えになった」ということです。二人ずつというのは、一人で行くなということです。一人で出かけて行って挫けてしまうと、もうそれで働くことができなくなってしまいますから、支えてくれる人が必要なのだというわけです。そして、「権威をお与えになった」とあります。どんな権威かというと、「汚れた霊を追い出す権威」と書かれています。私たちは、汚れた霊などという言葉を聞くと、どんなことかといろいろ考えてしまいます。昔の人は悪霊につかれた人が今よりも沢山いたのだろうかという考えも浮かんでくるかもしれません。
けれども、以前、汚れた霊に支配されていたレギオンの時にも話しましたが、レギオンのような極端な場合もありますが、神の霊に支配されていない人、つまり罪人は誰もがこの汚れた霊の支配のもとに生きているわけです。クリスチャンになっても、私たちがこの罪と決別するということは簡単なことではありません。主イエスは、ご自分の遣わされた弟子たちに、人をこの罪から、汚れた霊から、自由にするための権威を与えて遣わされたということなのです。主イエスの弟子は、人を罪から解放するためにキリストの権威を与えられて遣わされるのです。というのは、主イエスの弟子であったとしても、罪と無関係ではありません。その罪人が、人の罪のことをとやかく言えるのかということになると、もう何もできません。けれども、そのような力のない、弱さを持っている弟子たちに、主イエスは御自分の権威を与えられて、私の権威によって語りなさい、人と向かい合いなさい、と言われたのです。
宗教改革者ルターが説教をする前にした祈りというのがあります。その祈りは、まず、自分の罪を赦してください。自分の罪が妨げとなって神に近づくことができなくならないようにと祈りました。自分も罪を犯す弱さがある。そういうものが人に悔い改めを勧めるのだとすると、まず、そのまえに自分の罪を、自分の汚れを清くしていただかなくてはならないと考えてそのように祈ったのです。悔い改めていない者が、悔い改めについて語ることはできないので、祈ったのです。ルターは説教を語る前に常にそのように祈ったのです。このルターの祈りは、それ以来すべてのみ言葉を語る者の祈りとなりました。
私自身、まだ神学生として学んでいた時のことです。イギリスの大説教者と呼ばれているロイドジョンズの本を読んだ時に、そこにこんな言葉が書かれていました。「望むと望まないとに関わらず、いつでも私たちの生活ぶりが、まず最初の説教者の発言者となる。私たちの唇が私たちの生活以上のことを語っても、それは無益である」。 (続きを読む…)