・説教 マルコの福音書6章1-6節「心の痛みに寄り添って」
2018.02.11
鴨下 直樹
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マルコの福音書を順に読み進めております。このマルコの福音書は主イエスがガリラヤ湖のほとりのナザレの出身であるということを第一章のはじめに記して、ここまでの間、ガリラヤ湖からはあまり遠く離れたところには行かないで、この近隣を巡りながら伝道を続けているように記してきました。
今日のところは、「イエスはそこを去って、郷里に行かれた」と記しています。広い意味で言えば、ここまでの間、主イエス一行はずっと郷里であるガリラヤ湖のあちら側、こちら側という具合で進んできましたから、ここで「郷里に行かれた」とわざわざ説明しているのも少し違和感を覚えるほどです。けれども、今日のところは、郷里周辺ということではなくて、まさしく、ご自分の郷里に行かれたということです。自分の郷里に行くというのは、どんな気持ちだったのだろうかと思います。
皆さんの中には、もう何年も郷里を離れて岐阜に住んでおられるという方が何人もあると思います。そういう場合、久々に故郷に里帰りするということになると、色々な懐かしさや、あるいは苦い思い出を抱えながら郷里に赴くということになるのだと思います。主イエスの場合、伝道しておられた期間は全部で3年程度と考えられています。しかも、まだこの6章の時点で考えてみますと、郷里を離れてからもう何年もたっていたとは考えにくく、長くても1年とか、数カ月、そのような期間だったと思うのです。
ただ、今と違って、この時代というのは少し違った地方に移るということでも、すでに大変なことだったわけです。今、NHKの大河ドラマで西郷隆盛をやっています。今からわずか数百年前の時代であっても、隣の藩にまで行くというだけで、脱藩ということになって大きな問題となるわけです。今の感覚からすると、何百年か違うだけでも理解を超えているわけです。ですから、主イエスの時代、今から二千年も前の時代に、自分の住んでいるところを離れて、わずか数カ月であったとしても、さまざまな場所に出かけて行って、数カ月ぶりに戻って来るということも、大変なことであったに違いないのです。しかも、主イエスの働きはあっという間に有名になって、一度は悪い噂まで立てられて家族が迎えに来たという出来事も3章の20節以下で記されていますから、そういう主イエスが何カ月ぶりかに郷里に足を向けるということは、きっと秘めたる思いがあったと考えて間違いないのです。
その秘めたる思いとは何かというと、郷里の人にも神の国の福音を伝えたいという思いです。それは、郷里の人々への愛と言ってもいいものです。問題は、主イエスの心のうちにはそのような郷里の人々に対する思い、愛があるのにも関わらず、それが伝わらないというもどかしさです。 (続きを読む…)