2018 年 1 月 28 日

・説教 マルコの福音書5章1-20節「心の底から変えられて」

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2018.01.28

鴨下 直樹

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 今日は少し長い聖書の箇所です。特にこの箇所には、「汚れた霊につかれた人」が出て来ます。しかも、その人は墓場に住んでいるというのです。墓場というのは、今日でいう霊園のような墓石が並んでいるところを想像しますが、そうではありません。横穴の洞窟です。そういう穴蔵に当時の人々は亡骸を収めて墓としていたのです。この人はそういうところを住処としていたというのです。ちょっと普通ではないなという気がします。

 ここに記されている「汚れた霊につかれる」あるいは、「悪霊につかれる」などいう言葉を耳にすると、ちょっとおどろおどろしいものを想像してしまいます。けれども、この「汚れた霊につかれる」というのはどういう状態にある人なのでしょうか。何か特別な精神的な状態に置かれているということなのでしょうか。

 実は、この箇所には幾つかの、日本の牧師のした説教があります。それを読みながら、全く対照的な考察をしているものを見つけました。一人の牧師は、この人は社会から締め出されてしまって墓場に追いやられてしまったというように、この人のことを理解しようとします。社会が、周りの人々が、この人を墓場まで追い込んだのではないかと考えるのです。

 また、もう一人の説教者は正反対のことを考えます。この人は仕事に失敗し、住む家を失った。けれども、プライドだけはあったので、惨めな自分の姿を人前にさらすことのないように墓場に住み着いたのだろうと考えるのです。いずれにしてもこういうことは、墓場に行くことはなくても、私たちにも理解できる部分があるのではないかと思います。私たちでも、もう人に疲れて誰も知らない世界に抜け出したいというような望みを持つことがあるのです。現実逃避などと言われるけれども、そうしなければやっていられないような気持ちになることがある。そこまではいかなくても、追い詰められるとどこかで気楽に息抜きをしたいという思いに至ることは、誰にだってあるのだと思うのです。この聖書の時代というのは車のない時代です。他の民族のところに出かけると命が危ない。そういう中で、誰も普段は来ることのない墓場で生活するというようなことは、この時代に生きた人の選択肢となりえたのではないかということは、想像するに難しいことではない気がするのです。

 この二つの説教が語るように、周りの人がこの人を追い込んだということも考えられるでしょう。あるいは、自分が人を避けて墓場に住むことを選んだ。どちらもありそうなことです。けれども、回りの人の眼差しが優しくなったら、社会が変わったら、こういうことはなくなるのでしょうか。あるいは、自分がプライドさえ捨てればそれで問題は解決するのでしょうか。事柄はそんなに簡単ではないと思うのです。というのは、私たちが生きている世界というのは、悪の支配、悪い支配と言った方がイメージしやすいかもしれません。そういうものがいたるところにあるのです。この聖書に出て来る「汚れた霊につかれた人」というのは、何か特別な問題を抱えている人というよりも、「悪の支配」、悪い習慣、悪い人の支配、そういったもののもとで生きる人の姿と言ってもいいわけです。つまり、神に支配されないで生きる生活というのは、いつも、この汚れた霊に支配される生活と結びついているのです。

 1節にこう記されています。

こうして彼らは湖の向こう岸、ゲラサ人の地に着いた。

湖の向こうのゲラサ人の地というのは、「他民族の土地」ということです。「異教の神の地」、つまり、イスラエルの神の支配の外にある世界ということです。

 マルコの福音書の主題は「神の国」ということは、もう初めから何度もお話しています。「神の国」というのは、神が支配してくださる地ということです。ですから、この箇所は神の国というのは、イスラエルの世界限定なのであって、湖の向こう側は神の支配はない、つまり汚れた霊が支配している世界ということができるわけです。そういう、異教の地、他民族の地で、まさに神の支配から遠く離れ、汚れた霊に支配されて墓場を住処にしている人がいる。そういう人のところに、主イエスは赴かれたということなのです。

 果たして、湖の向こうのゲラサ人の地に神の支配はあるのだろうか。そのことが、ここで問題になっているのです。それは、こう考えてくださるといいと思います。教会には神の支配がある。では、自分が家に帰るとそこには神の支配はあるのか。自分の家、職場、そういう一歩教会から外に足を踏み出したところでも、神は私たちと共にいてくださり、私たちを支えて下さるのかということです。

 世の中では聖書のルールは通用しません。家庭の中では教会で聞くようにはうまくいかない。それこそ、この世のさまざまなしきたり、その地域の習慣や家の慣習、そういうこの世界の霊に支配されているところに身を置いて私たちは生活しています。そういうところで、自分の生活の場所で、神は働いてくださらないのではないか。私たちはついついそのように考えてしまうことがあるのではないでしょうか。

 汚れた霊はこの人を支配していました。3節には「鎖をもってしても、彼をつないでおくことができなかった」とあります。他の人もどうすることもできなかったのです。そして、主イエスがこの人と出会った時に、名を尋ねると、この人は「レギオン」と答えます。

 「レギオン」というのは本当の名前ではありません。当時のローマの軍隊の単位で、レギオンというのは「一部隊」というような意味です。この1レギオンで4000人から6000人の構成だったそうです。つまり、この人はそのくらい多くの、さまざまな霊に支配されていたということです。

 会社のしがらみ、家のしがらみ、学校のしきたり、近隣の人のと関わり、数えていくと、私たちを支配しているものというのは沢山あることに気が付きます。二人か三人いればもうそこには何かのルールづくりがなされます。秩序が作られます。もちろん、すべてが悪いものではないと思います。けれども、私たちは毎日生きているだけで、いくつもの、神ではないものに支配されて生きているわけです。それは、まるで神ではないものに支配されるのが当然であるかのように、さまざまな支配によって、私たちは人との関わりを築き上げているわけです。そうして、気が付くと、神に支配されなくても生きていくことができるのだという生活を作り上げていくわけです。

 そういうものから解放されて、自由になりたいと思うならば、もう行ける場所はだれも来ない墓くらいしか残っていない。死者とともに生きている方が、自分を守れるなどということになるのだとすると、それこそまさに、生きているとは言えないわけです。墓場に住むということは、生きているとは言えないのです。なぜか、生きることに希望がないからです。慰めがないのです。もうどうしたらよいか分からなくなっているのです。

 ここでレギオンは主イエスに訴えます。10節。

「自分たちをこの地方から追い出さないでください。」

この言葉は、レギオンとこの人自身の意思とは別者だということです。レギオンの方が、汚れた霊どもの方が、この人から出て行きたくないと訴えているのです。それほどまでに、人を支配する強い霊の働きというのがあるのです。そして、そういう霊に支配される者もまた、自分には抵抗する力がないと考えてしまっているのです。自分を縛り付けているものをそのままにしておきながら、墓場で生きる、死んだような生き方をしている。もう誰にもどうすることもできないのだと諦めてしまっているのです。

 しかし、主イエスはわざわざ、そういう人のところに足を向けられるのです。イスラエルの人だけ神を信じればいいというのでない。教会にいる人だけが安心して生きられればいいというのではない。主イエスはわざわざこの人のところにまで足を運んで、墓に生きているようなこの人のところに出かけてくださって、その人が本当に生きるということを味わうことができるようにしたいと考えておられるのです。

 そして、主イエスはこの人を支配していた汚れた霊から、この人を自由にします。この人を支配していた汚れた霊をこの人から追い出します。その時、姿は驚くような光景で描かれています。二千頭の豚に霊が乗り移って崖から湖までなだれ落ちたというのです。この人がどれほど多くのものに支配されていたのか、そして、そこから解放された姿というのは一目瞭然です。この人は、今やすべての煩わしさから解放されて、過去の出来事から自由になったのです。

 お風呂で体をこすったらアカがごっそり出たというようなレベルではありません。それだって相当すっきりしただろうと思えるわけです。ところが、ここでは豚が二千頭ですから、その人が支配されていたものがどれほど多くのものだったのか、見ることができるわけです。

 こういう箇所を読むと、私はどこかで心惹かれる思いがあります。自分が抱えている悩みなどというのは、普段人に見せたくても見せることができません。かといって、人に一所懸命説明してまわるのはみっともないので、そんなこともできません。でも、どこかで、誰かに分かって欲しいという思いがある。痛みがどれほどなのか、悩みや苦しみがどれほどなのか。こうやって目に見えたら、さぞすっきりするのだろうなぁという気がします。

 そして、主イエスという方はそういう私たちが思い描くことを分かっておられるかのような描写で、この人をお救いになられるわけです。

 今日の説教題を「心の底から変えられて」としました。もうそう表現するしかないと思ったからです。すっかり、自分の抱えているものが取り除かれる。主イエスというお方は、私になんて何にも起こりっこないと諦めて、人を遠ざけて死んだような生き方をしていたこの人を、まさに心の底から変えてくださった。同じように、主は私たちにも、そうすることがおできになるのです。

 神の国、神の支配というのは、限界がありません。私には届かない、私とは関係ない。そう考えていても、主イエスの方からその垣根を超えてくださって、私たちに近寄ってくださり、そして私を、あなたを変えてくださるのです。

 さて、この物語はどうなったのでしょうか。14節以降に、この人は正気に戻ったと書かれています。人の手に負えなくて墓に住んでいた人が正気に戻ったのです。素晴らしい出来事がここで起こったのです。ところが、人々は、それを喜ぶどころか、その光景を見て恐ろしくなったとこの後書かれています。自分の常識や理解を超えたことが起こると、それを受けとめるのではなくて、拒絶してしまうのです。自分の遠くに置くことによってやり過ごそうと考えたのです。この反応もよく分かるのです。17節には、この人々は主イエスにこう訴えます。「彼らはイエスに、この地方から離れてくださるよう願った」。どこかに行って欲しいというのです。

 本当ならとっても素晴らしい出来事が起こったのです。こんなにも多くのものに苦しめられていたということが分かるほどに自由になった人が目の前にいるのです。そして、そのように、人を自由にすることのできるお方を目の当たりにしながら、それを喜ぶことができなくて、どこかに行って欲しいと願う。自分の生活はそのままでいたいので、私は変わりたくないので、人を、心の底から変えてしまうことのできるあなたが近くにいると落ち着かないので出て行って欲しい。そう願うのです。まさに、それが神の支配にない世界、自分の世界に生きるあるじは自分でありつづけたいという意思は、このように表されるのです。

 しかし、当の本人は主イエスと一緒に行きたいと申し出ます。しかし、主はそのことをお許しになりませんでした。ただ、こう言われました。19節。

「あなたの家、あなたの家族のところに帰り、主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを、知らせなさい。」

 主は家族のもとに帰って、主がしてくださったことを知らせるようにと言われたのです。ここに面白い言い方がされているのですが、この「主が」というのは、自分がしたということではなくて、神がなさったという意味です。そのように伝えなさいと語りかけられているのです。ところが、この人は20節で「イエスが自分にどんなに大きなことをしてくださったかを、デカポリスの地方で言い広め始めた」のでした。

 この人にとって、「主」と呼ぶべきお方は、「神」という抽象的な存在ではなくて、イエスなのだと言い広めたのです。「言い広める」というのは、説教するという意味の言葉です。誰に説教したのかというと、自分を追い込んだ人々、あるいは、自分を支配していた人々、デカポリスの人のところ、つまり汚れた霊の支配している世界に出かけていくようになったということが書かれているのです。もう、ここでこの人は、人を避けるようにしてひっそり生きるのではなくて、人の中に入っていく勇気を与えられて、自分がどれほど嬉しく生きることができるようになったのか、それを与えてくれたのはイエスで、このお方こそが、主と呼ぶべきお方なのだと語ることが出来るようになったのです。

 明らかにこの人の中で何かが起こったのです。大きく変わったのです。希望も、望みもなく死んだように生きていたこの人は、人のことなど頭の片隅にもなかったこの人が、自分を疎外したであろう人々のところに出かけて行って、主イエスのことを言い広めたのです。それだけ嬉しかったのです。喜びを知ったのです。生きるということが分かったのです。

 私は大丈夫。もう大丈夫。私は、自分で立つことができる。人から隠れなくてもいい。今度は他の人にも、自分の生き方が変わることを知って欲しいと思う。それができるようになったのです。

 神の支配。それは教会の中にだけあるのではありません。私たちが生きるところ、どこにでも、それはあるのです。そこで、私が生き生きとすることができるように、もう私は大丈夫と立つことができるようになる。それが、まさに神が私を支配してくださる、神の国に生きるということなのです。

 自分の悲しみを見つめて生きるのではなく、外を見ながら、人を見ながら、しっかりと力強い生き方をすることができるように、主は私たちを支えてくださるのです。

 お祈りをいたします。

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