2010 年 2 月 28 日

・説教 「主イエスの語る幸いな生き方」 マタイの福音書 5章1節-12節

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 12:44

鴨下直樹 

  今週からマタイの福音書の第五章に入ります。この第五章から七章の終りまでを一般的に「山上の説教」と言います。聖書の中の最も有名な箇所と言うことができます。私の書斎にも様々な書物がありますが、ここの箇所の書物は群を抜いて多いのです。それだけ、多くの牧師たちも語ることに心を傾けてきたということもできるでしょうし、多くの人々がこの「山上の説教」と呼ばれる聖書の言葉に関心を払っていると言ってもいいかもしれません。

 この第五章から七章の終りに至るまでの長い箇所が「山上の説教」と呼ばれているのには、この1節に「この群衆を見て、イエスは山に登り」と記されているからです。少し、前回の所に戻る必要がありかもしれません。主イエスは、漁師をしていたペテロ、アンデレ、ヤコブとヨハネたちを弟子に加えられ、ガリラヤ地方で宣教を始められます。

すると、様々な困難や状況に置かれている人々が主イエスの前に連れられて来たのです。主イエスはこれらの人々を癒された。そうすると、そこで何が起こるかと言いいますと、人々は自分の問題を解決してくださる方にようやく出会うことができたから、このお方について行こうとしたのです。そして、その人々が主イエスと弟子たちに従ってついてくるようになった。この間の説教でもお話しましたけれども、主イエスはこのような従い方を拒んではおりません。むしろそのような人々も招くように、ここで主イエスに従って山の上までついて来た人々にお語りになられたのです。 (続きを読む…)

2010 年 2 月 21 日

・奨励 「私たち、そしてあなた方」 コロサイ3章16節

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 12:04

本日は、芥見キリスト教会員の森岡泰子姉が奨励をして下さいました。

 

まずは、前回お聞かせできなかった、へブル語による詩篇の朗誦を聞いていただきましょう。

これは、詩篇42篇です。聞いていますと、歌い方に抑揚があります。私たちには、言葉の意味は分かりませんが、語り手が強調したいところ、聞き手に注意を呼び覚ましたいところなどは、音が高められたり、ある種の節回しなどをつけています。これはことばの意味に基づいた感情を表出するのにより表現豊かな手段として歌われています。これは、詩篇が歌われている例の一つです。

 

さて、前回はダビデの詩篇32篇をとおして、ダビデの口から賛美が生まれるまでを皆さんと共に読み、考えました。ダビデは、自らが犯した罪をナタンによって示された後、その罪を認め、神の前に深い悔い改めに導かれていました。内側にひそむ闇。これに対して、自分の力ではどうすることもできない、また神の罰を受けながら、その苦悩を味わいつつも、それでもなお、神のみ手によらなければ自分には救いがない、救われないと、ただただ神の前に伏していました。そして、主なる神は、約束の通り、ダビデをこの穴から救い、ダビデの思いは砕かれて神の思いに合わされていく。つまり、ダビデが、神の祝福受ける者として生き直す事が出来るように整えていかれました。そして、ついには、このダビデの口にあった苦悩のことばは、神を褒めたたえ、感謝を表す「賛美のことば」に変えられたのでした。 (続きを読む…)

2010 年 2 月 14 日

・説教 「わたしについて来なさい」 マタイの福音書4章18節-25節

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 20:12

鴨下直樹

 今、総会のために準備を進めております。その総会資料が出来上がりまして、今日みなさんのメールボックスに入れられております。特に今年の総会ではこれまで私たちの教会ではまだ長老が選ばれておりませんでしたけれども、長老補が選ばれることになっております。また、さまざまな伝道計画案などが資料に出ております。特に今年の特別伝道礼拝に加藤常昭先生を講師にお招きすることになりました。加藤常昭先生は、私が神学生の頃から説教の手ほどきを受けている先生です。多くの著書や、翻訳された本などもありますので、御存知の方も少なくないと思います。教会で、毎年様々な伝道の計画を立てます。そのために祈り、備えるのは、ひとえに主イエスと一人でも多くの方が出会ってほしいと願うからです。主イエスとお会いする時に、そこに信仰が生まれます。新しい自分の生き方が示されます。そのような出会いを多くの方々に持っていただきたいと願っているのです。

 今日、私たちに与えられております聖書は、多くの人々が主イエスと出会ったこの出会いの経験が記されたところです。初めに記されているのが、主イエスの弟子となった人々との出会いです。ペテロと呼ばれるシモンと、その兄弟アンデレ、また、ゼベダイの子ヤコブと兄弟ヨハネという漁師たちです。マタイの福音書で、主イエスの最初の弟子とされたのが漁師であったのは、とても興味深いことです。 (続きを読む…)

2010 年 2 月 7 日

・説教 「暗闇の地から」 マタイの福音書4章12節-17節

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 20:02

鴨下直樹

 私は、先週の月曜から水曜日まで名古屋で行われました説教塾に参加してまいりました。毎年この季節になりますと、全国から説教を学ぶ仲間が集まって共に説教の学びをいたします。いつもは、この三日間の間に、共に一つの聖書箇所から説教を作る作業を一緒にするのですけれども、今年は少し違う試みをいたしました。イーヴァントというドイツがヒトラーの支配下に会った時に活躍した牧師の説教学講義が、昨年、説教塾を指導して下さっております加藤常昭先生によって翻訳されまして、その本を共に三日かけて学んだのです。このイーヴァントが生きた時代は、まさに闇の時代であったと言うことができます。当時の教会は、ヒトラーを支持するドイツ・キリスト者というグループに支配されてしまっていました。その中で、それに抵抗する牧師たちが出てまいります。ディートリッヒ・ボッヘンファー、カール・バルト、そしてイーヴァントなどもその一人です。彼らは、ドイツ・キリスト者と呼ばれる人々に抵抗して、自らの教会を告白教会と呼びました。そのような中で、当時のこの告白教会の牧師たちは大きな問題にぶつかります。誠実に御言葉を語れば語るほど、人々は教会へ来なくなるのです。あるいは、人々はドイツ・キリスト者の方に行ってしまうのです。耳触りの良い言葉ばかりを語ることができないからです。また、同時に、告白教会の指導者たちはナチに捕えられて投獄されてしまう者たちも出てまいります。まさに闇の時代です。この三日間の学びの中で、私たちの現代の闇、あるいは現代の敵と言ってもいいかもしれませんけれども、それをどのように見ているかということが何度も語られました。今日の日本において、ドイツ・キリスト者と似たような日本・キリスト者などと呼ばれるような敵はおりません。けれども、教会は常にあらゆる敵に相対しています。私たちの敵とは何かということです。それは、私たちの持つ闇とは何かということでもあります。 (続きを読む…)

HTML convert time: 0.173 sec. Powered by WordPress ME