2010 年 2 月 7 日

・説教 「暗闇の地から」 マタイの福音書4章12節-17節

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 20:02

鴨下直樹

 私は、先週の月曜から水曜日まで名古屋で行われました説教塾に参加してまいりました。毎年この季節になりますと、全国から説教を学ぶ仲間が集まって共に説教の学びをいたします。いつもは、この三日間の間に、共に一つの聖書箇所から説教を作る作業を一緒にするのですけれども、今年は少し違う試みをいたしました。イーヴァントというドイツがヒトラーの支配下に会った時に活躍した牧師の説教学講義が、昨年、説教塾を指導して下さっております加藤常昭先生によって翻訳されまして、その本を共に三日かけて学んだのです。このイーヴァントが生きた時代は、まさに闇の時代であったと言うことができます。当時の教会は、ヒトラーを支持するドイツ・キリスト者というグループに支配されてしまっていました。その中で、それに抵抗する牧師たちが出てまいります。ディートリッヒ・ボッヘンファー、カール・バルト、そしてイーヴァントなどもその一人です。彼らは、ドイツ・キリスト者と呼ばれる人々に抵抗して、自らの教会を告白教会と呼びました。そのような中で、当時のこの告白教会の牧師たちは大きな問題にぶつかります。誠実に御言葉を語れば語るほど、人々は教会へ来なくなるのです。あるいは、人々はドイツ・キリスト者の方に行ってしまうのです。耳触りの良い言葉ばかりを語ることができないからです。また、同時に、告白教会の指導者たちはナチに捕えられて投獄されてしまう者たちも出てまいります。まさに闇の時代です。この三日間の学びの中で、私たちの現代の闇、あるいは現代の敵と言ってもいいかもしれませんけれども、それをどのように見ているかということが何度も語られました。今日の日本において、ドイツ・キリスト者と似たような日本・キリスト者などと呼ばれるような敵はおりません。けれども、教会は常にあらゆる敵に相対しています。私たちの敵とは何かということです。それは、私たちの持つ闇とは何かということでもあります。

 主イエスはここで、闇を見ておられます。ここにこのように記されています。

ヨハネが捕えられたと聞いてイエスは、ガリラヤへ立ちのかれた(12節)

とあります。新共同訳聖書でも「捕えられた」とありますけれども、新改訳聖書にはこの「捕えられた」という言葉に注がついております。注にはこう記されています。「直訳『引き渡された』」。この言葉を聞くと、すぐ思い出す言葉があります。聖餐の時にいつも読みます第一コリントの第11章の言葉です。「主イエスは、渡される夜、パンを取り」と続く言葉の中で語られる言葉です。ヨハネは主イエスと同じように、人の手に渡されたのです。何のためかと言うと、裁かれて殺されるために人の手に渡されたのです。ヨハネはここで主イエスに先立って、人の手に渡された、捕えられてしまったのです。この知らせを聞いて、主イエスは何をなさったかというと、「ガリラヤへ立ちのかれた」と記しています。「立ちのかれた」というのは、簡単に言ってしまうと「お逃げになった」ということです。

 主イエスに先立って、人々に語ったバプテスマのヨハネは「悔い改めなさい、天の御国が近づいたから」と3章3節で語っています。このバプテスマのヨハネが捕えられてしまう。この神からの告知の言葉を、世界に語らせないよう妨げているのです。まさに闇の世です。神の支配に、敵対するこの世の中の力、権力があります。それは、かつてのドイツにあったように、今の私たちの生活の中にも、姿を隠すようにして迫っている。神の力は無力だと感じさせるあらゆるこの世界の力があるのです。そして、そのようなこの世の持つ力が、神を信じる者を闇へと追いやるのです。

 主イエスはどこへ追いやられたのでしょう。「ガリラヤ」であると記しています。先ほど、イザヤ書の第9章の御言葉を聞きました。ここは、15節と16節で預言者イザヤの言葉として紹介されていますイザヤ書第9章の御言葉です。ガリラヤについて書かれている言葉です。その少し前の第8章の21節、22節を少し見てみますと、こう記されています。

彼は、迫害され、飢えて、国を歩き回り、飢えて、怒りに身をゆだねる。上を仰いでは自分の王と神をのろう。地を見ると、見よ、苦難とやみ、苦悩の暗やみ、暗黒、追放された者。(21節、22節)

 このガリラヤは紀元前八世紀のアッシリアに征服されてから、次々と外国の支配が続きました。その結果として人種も、信仰も、文化もすべてが混合され、主を信じる人々はほとんどいないと言われる地となりました。それが「異邦人のガリラヤ」という言葉の中にもあらわれています。その国の厳しい姿が、このイザヤ書第8章の最後に記されているのです。それはまさに暗やみの世界です。飢えてさまよい、人々は憤り、王と神をのろう言葉しか出てこない。そこに見えるのはただ、苦難と闇、暗黒と苦悩、暗闇と追放だという。そのようなガリラヤに主は逃れて来たというのです。一体なぜでしょうか。そこで、学者たちは色々なことを考えます。主イエスが身に危険を感じたので逃げたのだろうか。そうではなかったのではないか。色々なことをここから言うことができるのかもしれませんけれども、この「ヨハネが捕えられた」と新改訳で訳されている言葉は受動態で書かれています。一般ではこの言葉は特に主イエスの受難を言い表す時に「明け渡す」とか「引き渡す」と訳される言葉です。誰が明け渡しているのかというと、神がです。ですから、ある学者は、これは「神的受動態」と呼べることがらなのだと説明をいたします。ヨハネが捕えられたのは、神がその背後に働いておられるというのです。だから、主イエスもそれに応えておられるのだというのです。それは、何のためかと言えば、主イエスはヨハネと同じ道を歩むためであったということです。

 けれども、それだけではありません。暗闇の地、異邦人のガリラヤに主イエスが入ってこられたのです。そこには、背後に神が働いておられる。つまり、主イエスを神がそこに導いて来られたということです。何のためにかというと、暗やみに光をもたらすためにです。

 昨日も俳句の会、ぶどうの木の句会がありました。俳句というのは、かならず季語をいれなければなりません。必ずその月の季語を入れてみなが俳句をつくります。そういう所からすると、先ほどのイザヤ書の第9章はクリスマスの聖句だといってもいいわけで、闇と光と聞くと、すぐにクリスマスと人々は連想します。残念ながら俳句の季語にまではまだなっていないと思いますけれども、特にイザヤ書第9章はアドヴェントの時に読まれる聖句です。

 苦しみのあった所に、やみがなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は、はずかしめを受けたが、彼には海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは光栄を受けた。やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。(イザヤ9章1節-2節)

 この御言葉はクリスマスの季節に良く読まれる預言の言葉です。ところが、この言葉が、主イエスの宣教の初め、しかも、ヨハネが捕えられガリラヤに退いたときに、この御言葉が成就したのだとマタイはここで紹介します。それは、主イエスがこの世の闇の持つ力を恐れてガリラヤに逃れて行かれたのではなくて、闇に光をもたらす為に、神に導かれて闇の地、敵の支配する地に行かれたのだということを表そうとしてです。

 どのように主イエスは暗やみの地に入られたのかと言うと、「ナザレを去って」であると記されています。この「去って」と言う言葉は、「捨てた」と言う意味の言葉です。それは「もう二度とそこに住もうとはなされなかった」という意味を持つ言葉でさえあるといえます。つまり、主イエスは故郷をお捨てになったのです。マタイ8章20節で記されている「人の子には枕するところもない」という生活をここから始められたのです。なぜ、そのような生活を始められたのかというと、それは、自らが神の支配に身をゆだねるためです。主イエスはここで、自らが暗やみの世界に入ってこられて、まさに弱い者として、ただ、神にだけ信頼するものとして生きる道を示す為に、暗やみの地に自らおいでになったのです。

 

 暗やみの地で生きるというのは、本当に厳しいことです。昨日もMさんのお兄さんの葬儀に行ってまいりました。家族を失う者の悲しみがそこにあります。病のために入院している家族を抱えている方が何人もおります。両親の介護をしてみえる方、子どもが問題を抱えている方もあるでしょう。この世界には様々な悩みがあります。そして、それらの問題がいつのまにか、とてつもない大きな闇となってそこから抜け出せなくなるのではないかという不安感となって襲ってくるのです。闇の力がどんどんと大きくなるばかりで、神の力強さを感じることができないという思いにとらわれてしまうこともあるのです。現代の闇とは何でしょう。それはこう言い表すことができるかもしれません。それは、自分のことばかり求める人々の中で、誰もが感じる孤独である、と。そして、その孤独には神さえも立ち入ることはできないのだと思うほどの孤独です。

  ここで、バプテスマのヨハネは、間違ったことを語ったのではありませんでした。けれども、そのヨハネが捕えられてしまう。まるで、神の支配などそこにはないかのように感じる。そのような神の正義に抵抗するこの世界の闇の力があります。そして、神はそれをある面でお認めになっておられる。なぜかと問うても答えが無いように思えてくる。この闇は、神が無力だから訪れる闇なのではないかという気がしてくるのです。だから、私は孤独なのだと感じる。あるいは、自分の悲しみは誰も分かってもらえないと感じる。神さえも私を見離しておられるのだからと。

 

 しかし、知って下さい。そのような闇の支配の中に、主イエスは神に導かれて来られたのです。何のためでしょうか。それは、私たちと共にいるためです。マタイは語ります。それは、預言者イザヤが語る言葉が実現するためであったと。そう言って、このお方は、闇の中にあって光となるというあのイザヤ書を朗読するのです。

 「暗闇の中にすわっていた民は偉大な光を見、死の地と死の陰にすわっていた人々に光が上った。」(マタイ4章16節)

 ここから光がのぼるのです。主イエスがここに来られたところから光がのぼるのです。みなさんも、朝日がのぼるところを見たことがあるでしょう。太陽がのぼるまえからもう世界は明るくなります。まだ、太陽が見えていないのに、世界は光につつまれるのです。まさに、それと同じように、主イエスは闇の支配を打ち破るために、まことの光としてこの闇の地で御業を始められるのです。主イエスが闇の中に来られた時、まだ光自体は見えていなくとも、もう闇は追い出されているのです。そのようにして、ここから主イエスの宣教が開始されるのです。

 そこで、主イエスは語ります。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と。洗礼者ヨハネが語ったと同じ宣教の言葉を持って、主イエスもまた宣教をお始めになったのです。「悔い改めよ」と、主イエスは言われます。向きを変えなさいということです。闇の方を見ていたのであれば、光の方を向きなさいということです。闇に支配されていないで、神に支配していただきなさいということです。あなたは、闇に支配されてしまっているのではないか。だから、ただちに光に向きを変えなさい。今こそ、光に向き返りなさい。そのように呼び掛けてくださるのです。悔い改めるのです。向きを変えるのです。闇から抜け出して、光の中に生きるのです。

 主イエスが語る、悔い改めは難しいことを語っているのではありません。闇の支配は苦しいのです。重たいのです。耐えがたいのです。「天の国」というのは、神の国とも言いかえることができる言葉ですけれども、神が支配してくださるという意味です。ですから、前にも説明しましたけれども、死後の世界のことではありません。この天の国、神の支配は、あなたを闇の支配から向きをかえさせて、神の暖かな光のもとで生きることができるように、自ら闇の中に足を踏み入れて下さって、自分も闇の中に生きる者となって、私たちに向くべき方向を示して下さっているのです。この神の国に、天の国に、私と一緒に生きようと、主イエスが招いてくださるのです。そして、私が今ここに立ったから、私と一緒に歩もうではないかと、自らその道に生きることを私たちに示してくださるのです。

 

 先週の初めに説教塾で説教の学びをしてきた時に、イーヴァントの書物を共に学んだと言いましたけれども、このイーヴァントはその書物の中で、「福音が今日の世界において占める位置は無い」と語っています。この世界の中に福音は無いと言うのです。一瞬驚いてしまうような言葉です。イーヴァントがここで言おうとしているのは、福音は、この世界の中から、私たちが生きている世界から響いてくるのではなくて、外から響いてくる、神の言葉は外からくるというのです。私たちが期待する言葉、聞きたいと思っている言葉というのは、私たちの心の中にあります。あの人がこう自分に語ってくれたらいいのにと言う言葉が、自分の耳に飛び込んできたところで、本当はそこでは何も新しいことは起こりません。自分が想定していた言葉が聞こえてきたにすぎないからです。けれどもイーヴァントは、神の言葉は私たちの全く思いもしないところから響いてくるのだと言うのです。

 闇の中に生きながら、闇から聞こえてくる言葉にいくら耳を傾けても何も起こりません。けれども、この主の言葉は外から響くのです。事実ここで主イエスが、光の中におられたお方が、神の中に入りこんで来て下さったように、ここから聞こえて来る言葉は、闇の中にあって、光の言葉として響いてくるのです。その言葉には希望があります。その言葉には将来があります。その言葉には暖かさがあり慰めがあるのです。

 主イエスはこの光の言葉を、外からの言葉を、あなたのところに今日もたらしたいと思っておられるのです。私たちがそのような主の言葉と出会う時、そこで何かが起こるのです。ある人は悔い改めて、光の世界に生きることを願うようになり、ある人は、慰められて望みを見出すようになる。これが、主の言葉です。

 この主が、暗やみの中にいる私たちに語りかけてくださっているのです。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と。私と共にこの天の御国に生きよう、と主は語りかけてくださるのです。

 

 お祈りをいたします。

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