2010 年 1 月 31 日

・説教 「試みの中で」 マタイの福音書4章1節-11節

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鴨下直樹

 最初に一枚の絵をお見せしたいと思います。この絵は、スタンレー・スペンサーというイギリスの画家の描いたもので、「荒れ野のキリスト-さそり-」という題がつけられています。私がこの絵をみるのは、「誘惑」という題がつけられたドイツの神学者ボンへッファーの小さな書物に白黒で印刷された絵を見たのが最初でした。主イエスは四十日四十夜断食をなさった。その試みにあっておられた時の絵です。おそらく、私だけでなく、多くの方が思うのは、「四十日も断食をしていたのに、このでっぷりと太りきった主イエスの姿はどういうことか」ということではないかと思います。人々が想像する主イエスのイメージはまったくありません。この絵を見ていると、「主イエスの受けられた誘惑というのは、どうも、私が思い描いているようなものとはひょっとするとまるで別の事柄なのではないか」と、そんな気持ちでこの書物を開いたことを忘れることができないのです。
Christ in the Wilderness - The Scorpion -  この絵が表紙に載せられたこの書物の冒頭で、ボンヘッファーはこんなことを言っているのです。言葉通りではありませんけれども、こういう内容です。「聖書全体が語る誘惑というのは、自分の力をためすということではなくて、自分の持つ力がすっかり敵の手に落ちてしまい、荒野へと追いやられること、つまり、わたしは見捨てられてしまっている。全ての人からも見捨てられ、神からも見捨てられてしまっているということだ」と。自分は見捨てられている、誰も理解してくれない、神さえも自分を見捨ててしまっているのではないかと思う。誘惑というのはまさに、そのような荒れ野を経験することだと言うのです。

 この「荒野の誘惑」として知られるこの物語はこのように語り始めています。「さて、イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた」。主イエスは、「悪魔の試みを受けるために、御霊に導かれた」と言うのです。ちょっと考えにくいことです。「御霊が導いた」のです。神が、そのような試練の場、自分は見捨てられていると感じるような場所に、主イエスを導いたという。それは果たして何のためなのでしょう。考えると、答えは一つしかないのです。それは、私たちのためです。私たちが荒野で生きているからです。私たちが誘惑に陥るからです。誰からも理解されないで、一人でこの試練に耐えなければならないと思うことは、私たちの歩みの中で少なくありません。自分が抱えている悩みは、誰かに話したところで理解してもらえない。家族ですら理解できない。ひょっとすると、神からも見捨てられているのではないかと、考え始めてしまうことほど、私たちにとって厳しいことはないのです。そして、そのような荒野で孤独を感じながら祈る。主はまさにそのようなところに、聖霊に導かれておいでになったのです。そして、そのような場所で、主は試みを受けられたのです。

 

 この物語には三つの主イエスが受けられた誘惑が記されています。最初に記されているのが、パンの誘惑です。

 先ほど私たちは子どもたちと共に主の祈りを祈りました。今、私たちは子どもたちと共に礼拝を捧げるということを考えていきたいと思っています。礼拝、共に祈りをささげる。この祈りにおいて私たちは「日ごとのパンを求める祈り」を致します。生活に必要な物が与えられるようにという祈りです。子どももともに、「日ごとの糧を与えてください」と祈る。お父さんや、お母さんは、「パンはわたしたち親がしっかり与えているから、子どもは祈らなくてもいい」などとは言いません。私たちはこの祈りを子どもたちと共に祈ることによって、親も、子どもと同じように神の前に祈り求めなければならないものだということを覚えることができる。これは本当に幸いな経験です。決して当たり前のことだなどと言えないことに気がつくのです。私たちは、日ごとの必要を神に与えていただきながら、毎日の生活を営んでいるのです。

 主イエスはここで、四十日四十夜の断食をなさった。当然のことながら空腹を抱えています。そうすると、そこに悪魔が出てまいりまして、こう言う。

「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい」(3節)

と語りかけます。主イエスにとって「石をパンにかえることくらい何でもないこと」と考えることはできます。私たちは日常の生活の中で、そのような祈りをすることがあるのではないでしょうか。「あなたは神さまなのですから、私にはどうすることもできないこの問題を解決してください」と祈る。ごく日常的な祈りです。まして、パンを求めるというのは、必要なことを求める祈りですから、それを求めることは当然であるとさえ私たちは思います。けれども、主イエスはこう答えられた。

イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある」(4節)

と。イエスはこの求めに対してきっぱりと言い切っておられます。「人はパンだけで生きるのではない」と。一体どういうことなのでしょうか。

 この時代「日ごとのパンを求める」ということは、非常に切実なことでした。毎日人は今日食べていくことができるかという心配があったのです。今日のように、大抵の人が飢えということと離れた生活をしている中にあって、「パンを与える」というのは、何よりも具体的な救いでした。けれども、ここで主イエスはそのような救いを自ら拒絶しておられるのです。わたしが人々に与えようとしている救いは、日ごとにパンを与えることではない。十字架による救いなのだと。これは、主にとっては、本当に大きな試みです。人々の希望に答えてあげることが、人々は救いだと思うのです。実に簡単なことです。けれども、そうではない。毎日食べるものがある。パンがある生活ができても、神の言葉によって生きるのでないなら意味はないのだと、主イエスがここで応えられる。それは、私たちがそのような荒野に行きながら、パンさえあれば幸せ。そうすれば私は一人ではないと思える、という人からもたらされる誘惑と、主イエスはここで戦っておられるのです。

 

 しかし、試みる者はそんなことで誘惑をやめたりはいたしません。つづいてこう記されている。

すると、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の頂に立たせて、言った。「あなたが神の子なら、下に身をなげてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる』と書いてありますから」(5節、6節)

 イエスよ、あなたは今、聖書に書いてあることが大事だと言った。ならば聖書にこう書いてあるぞ、と詩篇91篇を引用して言うのです。この誘惑は、こういうことです。「神をためす」ということです。信頼に値するかどうか、試してみたらよいではないかということです。

 先日、この説教のために書物を呼んでおりましたら、そこにこんな言葉を見つけました。「苦しい時の神離れ」という言葉です。「苦しい時の神頼み」という言葉は良く耳にします。しかし、これを書いた牧師は、牧師としてつくづく思うのは「苦しい時の神離れ」ということもあるのだと言うのです。苦しくなると神が信用できなくなるのです。これまで、一所懸命に信じて来たのだから、それに見合うような恵みを見せてくださればいいのにと思うのです。けれども、そのしるしが一向に見えてこない。「あなたが、神ならば、どうかこの苦しみの中にあってあなたの幸をみせてください」と、神を試してしまうのです。そのような心は、ここで主イエスを試みている悪魔と同じ心になってしまっている、ということなのです。私たちは役に立つ神を信じたいと思ってしまうのです。信仰というのはそういうものだといつの間にか思いこんでしまうのです。

 神を信じるというのはどういうことか。それは、自分の役に立つお方だから信じるのではないのです。神が自分の役に立つか試してみるというのは、そんなつもりは無くても、それは、信じていないということです。それは、神を愛するという行為ではないのです。疑うということと、愛するということとは相反するものです。私たちは神を信じると言う。それは、このお方が、私を信じてくださっていることが分かるからです。私を愛して下さっていることを知ったからです。それなのに、私たちがこの方を疑う。いつのまにか、自分の役に立つかどうかと考えて試している。私たちが神を愛するというのは、このお方を信頼して、従うということ以外にないのです。

 

 今、古川さんの家で毎月行われております家庭集会で、十戒を準備学んでおります。先週は第三の戒めである「あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない」という御言葉を共に聞きました。この戒めが語るのは、神の名を正しく呼ぼうということです。といいますのは、イスラエルの民も、あるいは私たちも、すぐに主の御名を正しく呼び掛けることができなくなってしまうのです。名前を正しく呼ぶということは大事なことです。ドイツにおりました時に、時々夫婦で名前ではない呼びかけを耳にすることがあります。「シャッツ」あるいは「シャッツィー」などとお互いに呼び掛ける夫婦があるのです。最初あまり耳慣れない言葉でしたので、「あなたの名前はシャッツィーと呼ぶのですか」と尋ねようものなら笑われてしまいます。「宝物」という意味なのです。英語ですと「ハニー」などと呼ぶのに似ています。そんな会話をしていると、「日本では妻の名前以外に何と呼ぶのか」という質問が返ってきます。それで、日本では「おい」とか、「ちょっと」とか、あるいは、もっと一般的なのは「お母さん」と呼ぶと言いますと、そこまではまだ理解を示します。しかし、「家の家内」、「奥さん」という呼び方をすると言って、妻は家の中にいるものだという理解からこういう呼びかけが生まれると言いますと、人によって怒る人もいるほどです。正しく名前を呼ばれないということは、慣れてしまえば当たり前のように感じてしまうかもしれませんけれども、本当はとても残念なことです。夫婦の呼びかけであっても悲しみがそこに伴うとしたら、まして、私たちのことを良く御存知で、私たちに語りかけてくださる神を、正しく呼び掛けることができないとすれば、神の悲しみはどれほどのことかと思います。それは、神を知らないことに他なりません。

 この十戒の学びの後で、夫婦がどのように信頼しあっているかという話になりました。いつもこの集会に来ておられる一人の求道中の方が、こう言われた。「結局のところ、夫婦というのは、どんなことがあっても相手を信頼できるかどうかではないか」と。相手を疑い始めたら、もう何もやっていけなくなるのではないかと。その通りだろうと思います。この言葉は同時に、信じ続けていけるはずだという言葉でもありました。人間の夫婦の関係でも信頼しあうことがこれほど大事だとしたら、どうして、神を信頼しないで試すようなことをしてしまうのか。主イエスはここではっきりと言っておられるのは、「あなたの神である主を試みてはならない」ということです。神が神であるがゆえに、試みてはならないというのです。私たちは神を「主」とお呼びしているのです。「主人」です。私の「あるじ」である方を信頼できなければ、「あるじ」の名に値しないのです。ですから、信頼するということは、同時に神を愛することになる。ここでそのことが問われているのです。

 

 最後の誘惑は、こうです。

 今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、言った。「もしひれふして私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」(8節、9節)

 最後の誘惑は、ここまでくると、悪魔は単刀直入に語ります。すべての国々と栄華をあなたに差し上げるから、私を拝めというのです。私たちはこの誘惑はあまり現実的に考えられないかもしれませんが、この誘惑ほど、立ち向かうことが難しいことはないのです。

主イエスが、悪魔に仕えるはずがない。礼拝などするはずがないと私たちは簡単に考えます。主イエスはここで、この世界の輝くばかりの栄光を見させられる。心奪われるような世界です。

 さきほどの牧師の言葉をここでも紹介したいと思うのですが、その牧師は、二十年信仰者の姿を見て来て、どういう時に人の信仰が失われていくかというと、ひとつは苦しみだと言います。苦しい時との神離れということもある。けれども、もうひとつは、その人が栄光の中に立った時だと言います。世の脚光を浴びる時です。こう言い換えてもいいと思います。その人が忙しくなって、人生が充実していると感じることができるようになった時だと。礼拝に来る暇がなくなるほど忙しくなるということがあります。確かに、そういう生活は一方では大変なことでしょう。けれども、もう片方では、その生活に心奪われていくのです。悪魔はこの世のものを見せながら言うのです。これがお前のものになる。これはお前が描いている生活ではないか。あなたが、幸せだと思う全てのもの、理想的な仕事も、名誉も、幸せそうな家族も、子どもも、お金も、知恵もを全て与えるから私を拝めというのです。私に仕えよというのです。

 そして、この最後の誘惑をも主イエスは退けられます。

 イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ』と書いてある。」(10節)

 主は、この誘惑をもきっぱりと拒まれます。主は、もっとも大切なことは神のみに仕えることであるとお答えになった。どれほど生活が充実しようと、どれほどそのような生活に心奪われようと、それと神とを取りかえることができはしないのだと、主は言われるのです。

 

 私たちは日毎の祈りにおいて何を神に祈っているでしょう。私たちは祈りにおいて罪を犯しやすいのです。神へ信頼しているつもりでいながら、神を試みることをしてしまうことがあることを、私たちはよく知っていなければなりません。主イエスはここで、このような誘惑に対してすべて御言葉で応えられました。このような誘惑は、主イエスが神であるから退けることができたと私たちは考えてしまうかもしれませんが、そうではありません。私たちに与えられている御言葉は、私たちの生活を具体的に助けるのです。私たちが誤った信仰に立ちそうになることも、御言葉が私たちに語りかけてくれるなら、私たちは正しい決断をすることができるのです。主イエスが、荒野で誘惑にあわれたのは、実にそのことを私たちに示す為でした。

 こう言ってもいいのです。これは、私たちの出来事だと。主イエスは荒野で、御霊に導かれて誘惑にあっておられる。「荒れ野」とは私たちの生きているところだと先に言いました。そこで、人々はカラカラに乾いているのです。孤独だと感じながら、全てのものを期待しているのです。待っているのです。そして気がつくと、私たちは理想的な神が訪れてくれるのを手ぐすね引いてまっているのです。そこに、主イエスがおられる。何ももっていないはずなのに、主イエスを殺す毒を秘めて主イエスを待ち構えているのです。ここで主イエスを誘惑する悪魔と、わたしたちとどこに違いがあるのかと思えるほどです。

 最初にお見せした絵の中に、大きな主イエスが描かれています。その手の中に小さなサソリが置かれている。小さいのに、その力は強いのです。この絵は、私たちと主イエスを描いたものであるに違いないのです。私も荒野で、主イエスを苦しめているのです。そして、そこで、主イエスは私たちの思いと全く異なった生き方を示す為に戦っておられるのです。

 私たちは、本当に自分のために祈り、自分のために生きてしまう者です。何が御心かと問う祈りにおいても、しばしば私たちは過ちを犯してしまいます。私たちは考えます。神の御心を知るなら、誤った選択はしなくて済むだろうと。だから、御心を教えて下さいと祈る。けれども、そのような祈りも、本来は神の意思に従うために祈っていたつもりが、気がつくと、自分が失敗しないために、誤った道を歩まないため、自分で決断をすることが怖くなり、神に自分がしなければならない決断さえも、「御心を示して下さい」と祈ることによって頼ってしまっていると言うことになってしまうのです。それほど、私たちは自分本位なのです。失敗したくないと思うのです。そのようにして神を試みてしまう者なのです。だからこそ、私たちは主を主とすること、信頼することが大事なのです。御言葉に生きることが、神に従うことが大事なのです。

 私たちが求めるのは、自分のためではない、主のためです。神の栄光を求めて、神に従うことを決断するなら、そこに神の御心があるのです。神に敵対して生きるのではなく、神と共に歩む、主イエスが向かっておられるところに私たちも歩むのです。そのとき、私たちは見るでしょう。それが、どんな荒野であったとしても、その人生は幸いなのだと言うことができるのです。

 主はそのような幸いな道に私たちを導くために、自ら先立って試みを受け、私たちの先を歩んでいてくださるのです。

 

 お祈りをいたします。

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