2010 年 1 月 24 日

・説教 「わたしたちのために」 マタイの福音書3章13節-17節

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鴨下直樹

 昨日のことです。毎月行われております俳句の会、「ぶどうの木」の句会がありました。私は、今まで一度も投句したことはないような俳句の書けないものですけれども、昨日は、この句会で食事も兼ねてということもあって食事をするところで行われました。そのために、皆さんが出された句の中から良い者を選ぶという選句という作業をさせていただきました。教会で行われる句会ですから、中には信仰を歌った句も多いのですが、その中に一つ心に残った句がありました。

 

 「白鳥や泥水に顔突つ込んで」という句です。

 

 白鳥がその美しさを気取ることなく、生きるために泥水に顔を突っ込んで食べ物を探しているというのです。句会「ぶどうの木」で指導してくださっている辻恵美子さんの句です。ちょうどこの句会で、角川書店から恵美子さんが昨年出版された句集「萌葱」(もえぎ)が、「俳句」という雑誌に特集が組まれまして、その紹介された記事のコピーを頂きました。そこに恵美子さん自身の言葉で「俳句の基本は即物具象と写生」であると書かれていまして、自分の進む道はこれを深めることだと書いておられます。俳句というのは、見たままを詠んで、そのまま書き写すわけです。私は自分で俳句が作れませんので、それについて何か俳句はこういうものだ、などと言うことはできません。けれども、この俳句の会に出ていながら、色々な話を聴いていますと、聖書の正しい読み方というのも、案外同じかなという気がしてくるのです。

 白鳥が泥水に顔を突っ込んでいる。その姿を想像するのは難しくありません。見事に描写しているからです。それでいて、そこからさまざななものを感じることができます。美しいものが、たとえ泥水であろうとも餌を求めて顔を突っ込む。白鳥と泥水というそのギャップに、生きるたくましさ、ひたむきさを感じるのです。

 主イエスがここで洗礼を受けておられる。この姿を見て、写生するとやはりこの句と同じように書くしかないのではないかという気が、私にはしてくるのです。そして、この聖書をしっかり読み取るためには、まずここで起こっていることを、そのまましっかりと受け止めることです。神の御子である主イエスが、罪人と同じように人々の列に並び、水に体を浸している。洗礼を受けているのです。一瞬はっとする光景です。聖いものが、それに当てはまらない行動をしていると、思わず目を奪われてしまう。その福音書を記したマタイは、主イエスの公生涯のはじまりを、まずそのように書き記したのです。

 

 もちろん、読み手に問いが起こるのは当然でしょう。一体、何故なのだろうと。そして、その時、主イエスはこの白鳥のように、自らがたくましく生きるために、泥水に顔を突っ込んでいるのではないことは明白です。すると、誰のためにそうしておられるのかと、問わざるを得なくなるのです。

 何よりも、この出来事を驚いたのはヨハネでした。主イエスが、洗礼を受ける人々の列に並んでいる。だからヨハネは言うのです。

「私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたが私のところにおいでになるのですか。」(14節)

ヨハネは分かっていました。このお方が、人々と同じように、神の前に正しく生きることを望んで洗礼を受けに来られたのではなかったということを。

 マタイの福音書には書かれておりませんけれども、他の福音書では、この時主イエスは三十歳であったと記されています。今日で言えば三十歳といえば青年です。けれども、この時代は三十という年齢は青年とは言えません。というのは、この時代の人と言うのは二十代の半ばで75%の人が既に死亡していたと言われています。そして、六十まで生きることができたのはわずか3%に過ぎなかったというのです。

 もし、そうであるとするならば、人々は現代の人々よりも死を現実的なものと受け止めていたでしょう。死はいつか来るものなのではなくて、必ず来るものという認識を持っている。そうすると、自分の人生について呑気ではいられません。

 昨日の句会で、もうひとつ心に残った句があります。恵美子さんと同じくこの句会を指導してくださっている、江崎成則さんの句です。

 

それは、「天国へ単位不足や初硯」という句でした。

 

自分の死を見つめながら、このままではいけないと、今年の目標でも書き初めに記そうというところでしょうか。死を見据えている者が持つのは、共通して不安です。その恐れは、死を自覚しない者には良く分かりません。

 先々週の祈祷会の時のことです。今、パウロの生涯を学んでいるのですが、そこで、パウロの言葉を聴きました。ユダヤの王、アグリッパに信仰の道を説いた時、「あなたはわずかなことばで、私をキリスト者にしようとしている」と言います。すると、それに対してパウロが答えます。「ことばが少なかろうと、多かろうと、私が神に願うことは、あなたばかりでなく、きょう私の話を聞いている人がみな、この鎖は別として、私のようになってくださることです」。有名なパウロの言葉です。「自分のように生きたらいい」とパウロは言うことができました。いや、パウロだけではありません。私たちも、パウロのように、自分のように生きたらいいと、言えるでしょうか。

 その時に、ある方が、長崎の二十六聖人の話をしてくださいました。ここで殉教した一番若かった子どもも、そのような信仰に生きていたと教えてくださいました。後で調べてみますと、その子どもの名前はルドビコ茨木(いばらぎ)という尾張出身の十二歳の少年です。十字架にかけられる前に、少年を殺すには忍びないと思った役人が、ルドビコに尋ねます。「わしが砂で踏み絵を作るから、その端を少しでいいから踏みなさい。そうすれば、助けてやるから」と声をかけます。すると、ルドビコは「つかの間の命と、永遠の命を取りかえるわけにはいきません」と答えたという話が伝えられているのです。祈祷会で教えて下さった方は、そして、役人に「あなたも私と同じ信仰に生きたらよいのに」と言ったということを教えてくださいました。翌日の祈祷会でもこの話になりました。そうすると、ある方が、死ということを目の当たりにした時、果たして同じように言えるか自信がないという話になりました。江崎先生の俳句がうたっていることも同じ心境なのだろうと思います。そして、ヨハネのもとに洗礼を受けるために並んでいる人々も、考えていることは同じなのではないかと思います。

 

 そして、今、ここで、そのような思いで洗礼を受けようとしている者の列に、主イエスが加わっているのです。なぜか。それはヨハネにも分かりませんでした。そこで主イエスはこうお答えになった。

 「今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにはふさわしいのです。」(15節)

 主イエスは、ここで「すべての正しいことを実行する」と言われます。ここで「正しい」と言う言葉は、パウロが良く使う「義」と言う言葉です。聖書の中でよく使われる「神の義」というのも、これと同じことばです。主イエスが、ここで洗礼を受けられることが、義となる、正しいこととなるというのです。これは一体どういうことなのでしょう。

 主イエスは、他の人々と同様に罪人であったということではありません。だから、ここでは、白鳥が泥水に顔を突っ込んでいるよりも、奇異に感じる出来事が起こっているのです。けれども、主ご自身がここで、洗礼を受けることは、正しいことだと言われる。この「正しい」、あるいは「義」という言葉は、関係概念を表すことばです。私たちは普通「正しい」という言葉は法律的な概念で考えます。決められたことを守っていれば、正しいということになりますけれども、ここではそうではないのです。神と正しい関係で生きているということです。神に対して正しく振舞って生きるということです。

 バプテスマのヨハネはそのために、人々に語り、洗礼を施していました。あなたの生活は大丈夫か。神の前に正しく生きていると言えるかと。この時代の人々は、先ほども言いました通り、今日ほど寿命が長くありません。死と向かい合って生きている人々にはこの言葉は特に響いたことでしょう。神の前に正しく生きていると言えるかと言われて、自信のある者はいない。それで、悔い改めに来ているのです。けれども、洗礼を受けたからと言って、では大丈夫かと問われると不安になる。それこそ、新年を迎えるたびに、硯をすりながら、今年こそは正しく生きて、天国への単位がまだ足りていないかもしれないからと思う。その生き方は、本当に真実な生き方です。けれども、神に対して正しい生き方に変わったか、私はもう神に義と呼んで貰えるかと思うと、そうは思えない。そこで、そういう私たちの生活の中に、主イエスが入りこんで来て下さるのです。主イエスは、天の座に着きながら、「それでは駄目ではないか」と言われるのではなく、神との正しい関係に私たちが生きるために、自ら私たちの中に入りこんで下さって、それこそ、顔を突っ込んでくださっているのです。

 ですから、「わたしたちにはふさわしいのです」の私たちというのは、一つ目の意味は、主イエスと、ヨハネのことですけれども、同時に、主イエスが言われる「わたしたち」とは、そこには、今ここに生きている私たちのことも数えていてくださっているのです。まさに、今ここで生きている私たちたちが、神に「あなたは正しい」、「義」である。「もう天国の単位はとれているから大丈夫だ」と言ってもらえるために、わたしがそれをしようと、主イエスが洗礼を受けておられるのです。それは、白鳥が泥水に顔を入れる以上の、神が泥水の中に顔をうずめるようなことをしていてくださるのです。しかも、自らのためではなく、私たちが逞しく生きるためにです。

 

 こうして、主はバプテスマのヨハネから洗礼を受けられます。

すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、御自分の上に来られるのをご覧になった。(16節)

 どういうことなのだろうかと思います。俳句の基本は見たままを言い表すことになると最初に言いました。おそらく、ここでもそれが当てはまるのだろうと思うのですけれども、見たままを記した。どういうことなのか。聖霊が鳩のようにイエスに下って来たという。島村亀鶴しまむらきかく、鶴と亀と書き表します名前の牧師がおりました。牧師であり、俳句もなさる人です。その牧師が今から50年ほど前に「講話イエス・キリスト」という書物を書きました。先日古書でその本を見つけて買い求めまして、今楽しみながら読んでいるのですが、この人はここでこんなことを言っています。「聖霊のイエスに下る姿は鳩のようであったという。鳩が自分の巣にかえる・なつかしんで宿りをする姿を思い浮かべるとよい。無邪気のイエスの上にこそ、聖霊の鳩は恐れなしに来る。」あるいは、こうも言う。「鳩は鳩の鳴き声を聞いてくる。聖霊は聖霊を呼ぶ」と言うのです。神の御霊が、神の前に正しく生きようとしている姿に、自らの巣を見つけたかのようにして舞い降りてくると、この牧師は言います。まさに、俳人の読み方だろうと思います。おそらく、聖書学者はこうは言えないと思います。けれども、まさにそのようであったろうと、この文章に私は非常に心惹かれるのです。神の前に正しく生きる。それは、神の御霊が、戻って来たくなるような、この牧師はここで、神に対して「無邪気」という言葉を使いしましたけれども、「邪気」の無い思いでいること、そこに、神は聖霊を使わしてくださると言うのです。子どものように神に信頼する姿が、ここに言い表されています。

 

 そして、そのとき、天から声がするのです。

「これはわたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」(17節)

主イエスが洗礼を受けられたその時、神はこれまでの沈黙を破られたのです。神が自らの声をもって主イエスを承認したというのは、まさに、神との正しい関係の姿をここで神自らが、そのことばをもって証して下さっているということです。

 「沈黙」というと、すぐにおそらく多くの人が思い起こすのはカトリックの作家、遠藤周作が書いた小説ではないかと思います。先ほど、長崎の二十六聖人の話をしましたけれども、この物語も長崎の物語りです。しかも、信仰に生きたのではなく、信仰を棄てたと言う物語りです。12歳の少年と同じように、司祭ロドリゴは踏み絵を突き付けられる。しかも、もし、自分はそれを踏むならば、踏むことによって、信仰を捨てた人々の命を救うことになるのです。いざという決断の前に、長い間沈黙してこられた神が、そこで「踏むがよい。お前のその足の痛みを、私がいちばんよく知っている。その痛みを分かつために私はこの世に生まれ、十字架を背負ったのだから」と言って沈黙を破るのです。

 私はここで、この作品の評価をしようとは思いません。神は、これまで、多くの人々が信仰の決断を強いられる時に、長い間、いや、今日まで沈黙し続けておられます。私たちは時折考えます。神がどこかに現れて、「私が本物だから、教会へ行きなさい、とでも言ってくださればいいのに」などと考えます。様々な場面で、神が直接に語りかけて、何が正しいことで、何が正しくないかをひとつひとつ分かるように、語ってくださればこんなに苦労はしなくてすむのにと考えてしまいます。だからこそ、遠藤周作の語るここで沈黙を破る神に心惹かれるのでしょう。しかし、果たしてそうでしょうか。私は、主イエスが、洗礼を受けられた時、天から声がした時、神がこの時だけ沈黙を破られたというので、十分だと思うのです。主イエスがここで私たちに示そうとして下さっている、神との正しい関係を、ここで、神が承認して下さる。ここで言われた「これが私の愛する子」という言葉は、詩篇二篇、王の詩篇と呼ばれる個所の言葉です。「わたしはこれを喜ぶ」と言う言葉は、新共同訳では「わたしの心に適う者」となっておりますけれども、イザヤ書42章の「神のしもべの歌」として数えられている箇所からの言葉です。主イエスが、「王」として、また、同時に「神のしもべ」として、正しい生き方を示してくださる。そして、これを見よと、ここで神がこれまでの沈黙を破って語って下さっているのだから、このお方の生き方を見れば、それで、私たちがどう生きるかは分かると言っていいのです。

 主イエスは、神を棄てるために生きたりはなさいません。死の支配を恐れ、それに打ち敗れるために生きられたのでもありません。神との正しい関係を、私たちに示すために、私たちの生活の中に入りこんで下さる。私たちの一つとなるために、私たちと同じように洗礼を受けておられるのです。それは、私たちに確かな望みを与えるためなのです。

 この主イエスの正しさは、真の正しさです。このお方を信じているならば、神は、私たちをも義となさるのです。それこそ、私たちが、無邪気に、主イエスを信じるならば、神の御霊は私たちにも同じように注がれるのです。主イエスの霊が、私にも注がれる。鳩が鳩の鳴き声を聞いて来るように、私たちが神を求める時に、神は私たちに御自身の霊を下さるのです。そして、それは、私たちに賜物として与えられ、私たちにいつまでも残るのです。もし、今日、死ぬことがあったとしても、神が与えて下さった御霊は、私たちから取り去られることはありません。醜いアヒルのようなものでしかない、私たちを、主イエスは、白鳥のようなもの、いや、聖霊の鳩を受けるものとしてくださるのです。それは、このお方を信じた時に、信じて洗礼を受けた時に、与えられるのです。

 

 ここから、主イエスの生涯が始まろうとしています。このところから私たちは主イエスの歩みを見ることになります。そして、私たちがこのお方の歩みを知る度に、このお方がここで、始められた神との正しい関係を知って下さい。そして、その義は、私にもたらす為であることを、私たちに与えるためであることを、知って下さい。そうして、主は、私たちに、神との平和をもたらそうとしておられるのです。主の生涯を知ることを通して、主がどのように私たちの生活に入りこんで来てくださるかを知ることができるのです。そして、私たちはこのお方を知るほどに、私たちに与えてくださった信仰が、どれほど私たちに平安を与えてくださるかを、私たちは知るのです。 この主イエスは、私たちに、まことのいのちを、私たちに与えるために、生きてくださるのです。私たちのために、神の御子が、今、ここで洗礼を受けることを通して、泥水のような私たちの濁った生活の場に、顔を突っ込んで下さる。主はそのようにして、私たちと共に生きようとして下さっておられるのです。

 

お祈りをいたします。

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