2010 年 1 月 17 日

・奨励 賛美1「私・あなた」 詩篇32篇

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 13:44

本日は、芥見キリスト教会員の森岡泰子姉が奨励をして下さいました。

 

「讃美しましょう」ということばを聞くと、皆さんは、何を連想されるでしょうか? おそらく、クリスチャンの多くの方は、「歌う」ということを考えられるのではないでようか? 讃美歌を用意したり、歌集を用意します。つまり、「賛美しましょう」=「歌を歌いましょう」という意味で捉えています。皆さんはいかがでしょうか?

しかし、「賛美」は歌なのでしょうか? 歌わない「賛美」はありませんか?

「太鼓」では、讃美できませんか? 「踊り」ではどうでしょうか。私が神学生の時、一度、聾唖の方々の賛美を目で見た事があります。からだ全体を使って、まるで舞っているかのような、そんな賛美を見ました。そのとき、私の耳には、音声としての言葉は何も聞こえてきませんでした。また、手話も分かりません。けれども、手、足、体全体を使って確かに主を讃美している、これは賛美だ、と解りました。賛美を目で「見た」のです。そしてそれが、見る者全てに賛美であることが不思議にも通じていました。

このように、考えていくと、「賛美」には歌うことも含まれますが、「賛美=歌」ではないということが解ります。では、「賛美」とは何か? 今朝は、この事をご一緒に考えていきたいと思います。

 

賛美ということばは、教会の中ではよく使われますが、一般の、また普段の生活の場では、なかなか耳にしない言葉ではないでしょうか。私たちも、教会を出たならばそれほど使う言葉でもないと思います。単純に広辞苑で調べてみました。「賛美」は、「ほめたたえること」と出ていました。次に「ほめたたえる」を調べてみました。褒める(誉める)は、「ほ・む」。つまり、「傑出して秀でていると認める意」とあり、①祝う。ことほぐ。祝福する。②物事を評価し、よしとしてその気持ちを表す。たたえる。賞賛する。とありました。そして、「称える」は、「たた・ふ」で、「ほめていう」。「称揚(ほめ上げる)する」という意味で説明がされてありました。

 

私たちは、賛美をしましょう、という時に歌集を手にします。ところが、聖書の中にはすでに「賛美歌集」が入っていたのです。一体どれが、賛美歌集なのか? どこに、音符があるのかしら…? 皆さん、おわかりになりますか? それは「詩篇」です。

詩篇は、ヘブル語では「テヒッリーム」と呼びます。これは、皆さんよくご存じの「ハレルヤ」という語の動詞「ハッレール」(ほめたたえよ)を語源とした、名詞の複数形です。ですから、「賛美詩集」の意味と考えられます。一方、ギリシャ語での70人訳聖書では「プサルモイ」となっています。この言葉は、ヘブル語で「歌」を意味することば、「ジムラー」,あるいは「ミズモール」という語の複数形の訳です。ですから、「詩篇詩集」または、「詩篇歌集」といえるでしょうか。

 

いずれにしても、詩篇は、歌われるために書かれたものです。「歌うこと」を前提とした詩集でした。出エジプトしたモーセは歌いました。また、その詩を民に歌う事を教えました。出エジプト記15章や、申命記32章に書かれています。

では、詩といっても、これらの多くの文字をどのように歌っていたのでしょうか。作られた時代のままに、今ここで厳密に再現はできないでしょうが、ある種の節を付けて歌っているような、語っているような…その様に、聖書は読まれてきたことは、間違いはありません。

 

さて、今朝私たちは、中でもダビデの詩篇32篇に注目してみたいと思います。では、私たちは日本語で、ご一緒にもう一度読んでみましょう。

 

この詩篇は、7つの悔い改めの詩篇と言われるものの一つで、「ダビデのマスキール」と表題に記されてあります。マスキールという言葉の意味は、明確ではありません。ただ、8節の「悟りを与え」という語と同じことなどから、「教訓的な」内容の詩篇、という理解もあります。また、他のところでは、「マスキール」という言葉が、47章7節の「巧みな歌で」と訳されています。「マスキール」は、演奏上、技巧を要した曲、を意味するものとも考えられています。しかし、明確な意味は判りません。

 

それはさて置いて、この詩の内容を考えてみましょう。1節から2節にかけて、そむき、罪、咎などの言葉が連なって出てきました。明らかに、これらの事を作者は行ったのだということがわかります。では、どんな罪なのか。

この32篇は、51篇のあとに書かれたものと考えられています。ですから、51篇を開けてみましょう。

表題には「指揮者のために。ダビデの賛歌。ダビデがバテ・シェバのもとに通ったのちに、預言者ナタンが彼のもとに来たとき」と、わざわざ記されてあります。詳細は、第2サムエル記11、12章に書かれていますので、そこを開けてみましょう。

 

Ⅱサムエル記11章1~5節

11:1  年が改まり、王たちが出陣するころ、ダビデは、ヨアブと自分の家来たちとイスラエルの全軍とを戦いに出した。彼らはアモン人を滅ぼし、ラバを包囲した。しかしダビデはエルサレムにとどまっていた。

11:2  ある夕暮れ時、ダビデは床から起き上がり、王宮の屋上を歩いていると、ひとりの女が、からだを洗っているのが屋上から見えた。その女は非常に美しかった。

11:3  ダビデは人をやって、その女について調べたところ、「あれはヘテ人ウリヤの妻で、エリアムの娘バテ・シェバではありませんか。」との報告を受けた。

11:4  ダビデは使いの者をやって、その女を召し入れた。女が彼のところに来たので、彼はその女と寝た。–その女は月のものの汚れをきよめていた。–それから女は自分の家へ帰った。

11:5  女はみごもったので、ダビデに人をやって、告げて言った。「私はみごもりました。」

 

雨期が終わって出陣可能となった時期、諸国の王たちは、今がその時かと、あれこれ忙しくしている頃、ダビデは家来たち、兵士らを戦場に送り出します。しかし、ダビデだけは、エルサレム、つまり自分の王宮に残りました。仲間の家来たちは、夜露にぬれながら野営をし、自らは王宮のベッドで休む。この、エルサレムに留まったことが、彼の一生を左右する事件の始まりでした。

 

心地よい昼寝から覚めて屋上を散歩し、遠く戦っている兵士たちのことを考えていたのでしょうか? さて、突然、目に飛び込んできた刺激的な光景に、ダビデは、衝動的に行動を起こします。女の身元調査、召し入れ、妊娠、とこの物語は、わずか1節から5節までに急速に進みます。これは、決して隠密行動ではなく、人を介してなされました。つまり、秘密事なのですが公然となされています。口止めもされず、召し入れたにもかかわらず、女は自分の家に帰ります。そして、妊娠を告げられたダビデは、驚いたという記述もなく、淡々と話が進んでいます。一体ダビデの心情はどうだったのか?

 

11:6  ダビデはヨアブのところに人をやって、「ヘテ人ウリヤを私のところに送れ。」と言わせた。それでヨアブはウリヤをダビデのところに送った。

11:7  ウリヤが彼のところにはいって来ると、ダビデは、ヨアブは無事でいるか、兵士たちも変わりないか、戦いもうまくいっているか、と尋ねた。

11:8  それからダビデはウリヤに言った。「家に帰って、あなたの足を洗いなさい。」ウリヤが王宮から出て行くと、王からの贈り物が彼のあとに続いた。

11:9  しかしウリヤは、王宮の門のあたりで、自分の主君の家来たちみなといっしょに眠り、自分の家には帰らなかった。

 

まず将軍ヨアブは、なぜウリヤを?と思ったでしょう? ウリヤ自身も、なぜ私が? 戦況報告のために自分が召喚されたのか、疑問に思わなかったのでしょうか。そして、家に帰っても良いとの特権が与えられ、しかも何の手柄も上げていないのに、王からの贈り物が後から付いて来る、いったいどうしたことか?とウリヤは考えなかったのか? 皆さんだったらどうでしょうか? 「何かあるぞ」などと、ウリヤはそんな疑念を持った様子はありませんでした。

 

11:10  ダビデは、ウリヤが自分の家には帰らなかった、という知らせを聞いて、ウリヤに言った。「あなたは遠征して来たのではないか。なぜ、自分の家に帰らなかったのか。」

11:11  ウリヤはダビデに言った。「神の箱も、イスラエルも、ユダも仮庵に住み、私の主人ヨアブも、私の主人の家来たちも戦場で野営しています。それなのに、私だけが家に帰り、飲み食いして、妻と寝ることができましょうか。あなたの前に、あなたのたましいの前に誓います。私は決してそのようなことをいたしません。」

11:12  ダビデはウリヤに言った。「では、きょうもここにとどまるがよい。あすになったらあなたを送り出そう。」それでウリヤはその日と翌日エルサレムにとどまることになった。

11:13  ダビデは彼を招いて、自分の前で食べたり飲んだりさせ、彼を酔わせた。夕方、ウリヤは出て行って、自分の主君の家来たちといっしょに自分の寝床で寝た。そして自分の家には行かなかった。

 

ダビデは、ウリヤに疑念を抱かせないよう、いったいどんな顔をして語ったのでしょう? 彼は、それなりの筋書きを立てていたように思われます。最初の策は失敗しました。それで今度は、酒に酔わせて家に帰らせようとの策です。それに比べて、ウリヤの家来としての誠実な生き方、この行動。見事なまでの王への忠誠心であると、ダビデは本来喜ぶべきではないでしょうか。しかし、ダビデは喜べないのです。ダビデは最後の決断をします。ウリヤ殺害でした。

 

11:14  朝になって、ダビデはヨアブに手紙を書き、ウリヤに持たせた。

11:15  その手紙にはこう書かれてあった。「ウリヤを激戦の真正面に出し、彼を残してあなたがたは退き、彼が打たれて死ぬようにせよ。」

 

いったい何がダビデをそこまで追い込んだのでしょうか? 彼を殺人にまで追い込んだその理由は何か? そこまでして、バテ・シェバを自分のものにしたかったのか? もしそうであるなら、彼女を家に帰さなければよかったのです。しかし、召し入れておきながら、家に帰しているところを見ると、彼女に対するさほどの執着があったとは見て取れません。皆さんは、何だとお考えになるでしょうか? 

私は、ダビデは「子どもを消したかった」と考えました。つまり、バテ・シェバの胎に宿る子ども、それは「罪の証拠」、それを消したかったのです。自分とは関係のない事にしたかった。ウリヤが家に帰り、妻と過ごせば、その子どもはウリヤの子とごまかしがきき、この事実を隠ぺいできたはずです。しかし、それがかなわない。だから、ウリヤを殺し、後にバテ・シェバを妻に迎える。 そして、その計画は虎視眈眈と進みます。

 

11:16  ヨアブは町を見張っていたので、その町の力ある者たちがいると知っていた場所に、ウリヤを配置した。

11:17  その町の者が出て来てヨアブと戦ったとき、民のうちダビデの家来たちが倒れ、ヘテ人ウリヤも戦死した。

11:18  そこでヨアブは、使いを送って戦いの一部始終をダビデに報告するとき、

11:19  使者に命じて言った。「戦いの一部始終を王に報告し終わったとき、

11:20  もし王が怒りを発して、おまえに『なぜ、あなたがたはそんなに町に近づいて戦ったのか。城壁の上から彼らが射かけてくるのを知らなかったのか。

11:21  エルベシェテの子アビメレクを打ち殺したのはだれであったか。ひとりの女が城壁の上からひき臼の上石を投げつけて、テベツで彼を殺したのではなかったか。なぜ、そんなに城壁に近づいたのか。』と言われたら、『あなたの家来、ヘテ人ウリヤも死にました。』と言いなさい。」

11:22  こうして使者は出かけ、ダビデのところに来て、ヨアブの伝言をすべて伝えた。

11:23  使者はダビデに言った。「敵は私たちより優勢で、私たちに向かって野に出て来ましたが、私たちは門の入口まで彼らを攻めて行きました。

11:24  すると城壁の上から射手たちが、あなたの家来たちに矢を射かけ、王の家来たちが死に、あなたの家来、ヘテ人ウリヤも死にました。」

11:25  ダビデは使者に言った。「あなたはヨアブにこう言わなければならない。『このことで心配するな。剣はこちらの者も、あちらの者も滅ぼすものだ。あなたは町をいっそう激しく攻撃して、それを全滅せよ。』あなたは、彼を力づけなさい。」

 

ヨアブは指令通りウリヤを戦死させました。ダビデは、この報告を心待ちにしていた事でしょう。この戦いは、ヨアブの弁明の様に、明らかな作戦上の失敗であります。負けて当たり前。ですから、この報告をする使者も当然疑問を持ったでしょう。使者は、うすうす気づいていたのかも知れません。しかし、権力者には従わなければならない。知っていても、知らないふりをする。見て見ぬふりをしなければならない。今の世にも通じる、権力犯罪を見るようです。権力の背後にある、裏工作、迎合、暗殺、女性スキャンダル、陰謀、裏の裏、幕引き、等々…。ダビデは、直接自分の手でウリヤを殺害したわけではありません。この「戦」を用いてウリヤを殺害しました。ダビデは、このウリヤの死を、「戦死」として幕を引いたのです。

 

11:26  ウリヤの妻は、夫ウリヤが死んだことを聞いて、夫のためにいたみ悲しんだ。

11:27  喪が明けると、ダビデは人をやり、彼女を自分の家に迎え入れた。彼女は彼の妻となり、男の子を生んだ。しかし、ダビデの行なったことは主のみこころをそこなった。

【12章】

12:1  主がナタンをダビデのところに遣わされたので、彼はダビデのところに来て言った。「ある町にふたりの人がいました。ひとりは富んでいる人、ひとりは貧しい人でした。

12:2  富んでいる人には、非常に多くの羊と牛の群れがいますが、

12:3  貧しい人は、自分で買って来て育てた一頭の小さな雌の子羊のほかは、何も持っていませんでした。子羊は彼とその子どもたちといっしょに暮らし、彼と同じ食物を食べ、同じ杯から飲み、彼のふところでやすみ、まるで彼の娘のようでした。

12:4  あるとき、富んでいる人のところにひとりの旅人が来ました。彼は自分のところに来た旅人のために自分の羊や牛の群れから取って調理するのを惜しみ、貧しい人の雌の子羊を取り上げて、自分のところに来た人のために調理しました。」

 

主はナタンを遣わされました。ナタンは、はっきりとダビデを非難してよかったはずです。けれども、ダビデへの断罪を目的としていながらも、彼の語り口はとても柔らかでありました。神のお取扱が、人の目には、時には不公平に映る時があります。こんな人が赦されてはいけない。こんなことをするのだから、この人は排除されて当然である、などと考えるものです。

しかし、神ご自身のお取り扱いは、人の考えを超えた、人には知る事の出来ない方法で取り扱われるものです。 ナタンは、ひとつの事例をだして、ダビデに裁量を求めるようにな話しをしています。

 

12:5  すると、ダビデは、その男に対して激しい怒りを燃やし、ナタンに言った。「主は生きておられる。そんなことをした男は死刑だ。

12:6  その男は、あわれみの心もなく、そんなことをしたのだから、その雌の子羊を四倍にして償わなければならない。」

 

ダビデは、ここで富むものが、貧しいものに憐れみの心のひとかけらもないことを一番問題として話しています。ナタンはこの反応を一番待っていたと思われます。

 

12:7  ナタンはダビデに言った。「あなたがその男です。イスラエルの神、主はこう仰せられる。『わたしはあなたに油をそそいで、イスラエルの王とし、サウルの手からあなたを救い出した。

12:8  さらに、あなたの主人の家を与え、あなたの主人の妻たちをあなたのふところに渡し、イスラエルとユダの家も与えた。それでも少ないというのなら、わたしはあなたにもっと多くのものを増し加えたであろう。

12:9  それなのに、どうしてあなたは主のことばをさげすみ、わたしの目の前に悪を行なったのか。あなたはヘテ人ウリヤを剣で打ち、その妻を自分の妻にした。あなたが彼をアモン人の剣で切り殺したのだ。

12:10  今や剣は、いつまでもあなたの家から離れない。あなたがわたしをさげすみ、ヘテ人ウリヤの妻を取り、自分の妻にしたからである。』

12:11  主はこう仰せられる。『聞け。わたしはあなたの家の中から、あなたの上にわざわいを引き起こす。あなたの妻たちをあなたの目の前で取り上げ、あなたの友に与えよう。その人は、白昼公然と、あなたの妻たちと寝るようになる。

12:12  あなたは隠れて、それをしたが、わたしはイスラエル全部の前で、太陽の前で、このことを行なおう。』」

 

「あなたがその男です」。ダビデはこの言葉に身動きできなかったことでしょう。唖然としたまま、主の言葉を聞かせられました。

 

12:13  ダビデはナタンに言った。「私は主に対して罪を犯した。」ナタンはダビデに言った。「主もまた、あなたの罪を見過ごしてくださった。あなたは死なない。

12:14  しかし、あなたはこのことによって、主の敵に大いに侮りの心を起こさせたので、あなたに生まれる子は必ず死ぬ。」

12:15  こうしてナタンは自分の家へ戻った。  主は、ウリヤの妻がダビデに産んだ子を打たれたので、その子は病気になった。

 

ウリヤに対して行った罪は、主に対する罪でありました。ダビデは「主に対して罪を犯した」事を認めます。人に謝罪し、償えばそれでよい、という発想ではありません。それは、社会通念では当然の事です。しかし、聖書はさらに高い次元の理解を求めています。罪が、主に対する罪であるということを認識してこそ、初めて人への謝罪や償いが真実であり得るのだ、ということです。罪が、主の前に持ち出されないなら、主の赦しもない、と教えています。

ダビデは、罪を消す事が出来ると考えました。罪を隠しおおせれば、罪はなかったことになるとでも思ったのでしょうか。隠せたのかも知れませんね。しかし、ダビデは人の前には隠せても、絶対に隠し通せない御方の存在があること、あのダビデほどの人物が、その事を忘れています。これぐらいは大丈夫だ、と神を侮ったという事でしょうか。

 

「罪が見過ごされた」とは、この罪の為に死ぬことはない、「死を免れた」ということであります。しかし、罪に関わる一切が帳消しになったわけではありません。この罪に対して十分すぎる赦しではあるけれども、ダビデは、死は免れても罪の結果は負わなければならないのです。

 

12:16  ダビデはその子のために神に願い求め、断食をして、引きこもり、一晩中、地に伏していた。

12:17  彼の家の長老たちは彼のそばに立って、彼を地から起こそうとしたが、ダビデは起きようともせず、彼らといっしょに食事を取ろうともしなかった。

12:18  七日目に子どもは死んだが、ダビデの家来たちは、その子が死んだことをダビデに告げるのを恐れた。「王はあの子が生きている時、われわれが話しても、言うことを聞かなかった。どうしてあの子が死んだことを王に言えようか。王は何か悪い事をされるかもしれない。」と彼らが思ったからである。

12:19  しかしダビデは、家来たちがひそひそ話し合っているのを見て、子どもが死んだことを悟った。それでダビデは家来たちに言った。「子どもは死んだのか。」彼らは言った。「なくなられました。」

12:20  するとダビデは地から起き上がり、からだを洗って身に油を塗り、着物を着替えて、主の宮にはいり、礼拝をしてから、自分の家へ帰った。そして食事の用意をさせて、食事をとった。

12:21  すると家来たちが彼に言った。「あなたのなさったこのことは、いったいどういうことですか。お子さまが生きておられる時は断食をして泣かれたのに、お子さまがなくなられると、起き上がり、食事をなさるとは。」

12:22  ダビデは言った。「子どもがまだ生きている時に私が断食をして泣いたのは、もしかすると、主が私をあわれみ、子どもが生きるかもしれない、と思ったからだ。

12:23  しかし今、子どもは死んでしまった。私はなぜ、断食をしなければならないのか。あの子をもう一度、呼び戻せるであろうか。私はあの子のところに行くだろうが、あの子は私のところに戻っては来ない。」

 

先週の説教で、「悔い改め」とは、向きを変えることである。形だけ整えることではない、と語られました。そして、悔い改めは「荒野から始めることだ」と語られました。まさに、ダビデによって、この事が「荒野」となりました。罪の結果としての罰を負うことは定められていました。しかし、なおも主の憐れみに訴えて、「もしかすると、主が私をあわれみ、子どもが生きるかもしれない」と思って断食し、一晩中地に伏している。神の憐れみは、罰を受けながらでも、やはり最後の拠り所です。

ダビデは、この7日間、外界との接触を断ち、黙想し、祈った。ダビデ詩篇はこういうところから生まれました。

 

しかし、神は、ダビデのこの最も暗い部分、心の暗闇に光を差し込んでおられることに、皆さん気づくでしょう。闇から始まっています。人の思いが砕かれ、神の御思いに合わされていく。そして、ダビデの口は、ついにこの神をほめ讃える。それにはすでに、「祝福」の契約があり、それを取りさられない神の恵みが先行しているからです。

 

ダビデは、神の御顔に向かって立ち上がりました。いえ、神が、ダビデを立ち上がらせました。神は立ち上がらせてくださいます。

そして詩篇32篇は、ダビデの最も見せたくない、知られたくない、聞かれたくない事をとおして、神の栄光が現されました。

 

詩篇は、このようなお取り扱いをして下さり、祝福を下さるおかたであるから、「主に感謝しましょう!」「この神を褒めたたえましょう!」というものであります。「主を賛美しましょう!」というものであります。

賛美歌も同じです。賛美の「歌」で、音が付いています。しかし、音は、ことばを助けもしますが、邪魔もします。音とことばがずれてしまうことは、良く経験することではないでしょうか。ことばの為に音があります。音の為にことばがあるのではありません。

「歌」で主を讃美します。祈りによって主を讃美します。祈りは「賛美」になるまで祈らなければならないでしょう。聖書朗読で主を讃美します。私の生き様で主を賛美します。

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