・説教 「神が来られる」 マタイの福音書3章1節-12節
鴨下直樹
今、私たちは礼拝で、マタイの福音書から順に御言葉を聞き続けています。それは言ってみれば、主イエスの歩みを順に追っていくということです。そうすると、どの福音書も、主イエスの生涯、これを<公生涯>と言いますけれども、公の主イエスの歩みを記す前に、バプテスマのヨハネ、あるいは洗礼者ヨハネと言われた人物から書き始めます。主イエスの生涯が始まる前にその道備えをした人があったとどの福音書にも書き記しているのです。それは、他の福音書を読み比べて頂いてもすぐに分かります。この洗礼者ヨハネは、少し変わった人物であると言わなければなりません。彼がいるのは、街の中ではなくて荒野です。そして、5節にヨハネの姿の事が記されていますけれども、「らくだの毛の着物を着、腰には川の帯を締め、その食べ物はいなごと野蜜であった」。最近のはやりの言葉でいえば、「エコ」な生活ということになるのでしょうけれども、もちろん、そんなものではありません。彼の心に占めているのは、一つの思いです。それは、神が来られた時に、相応しいこのお方に相応しい生活をしたいということでした。富とか権力とかそういう人々の求めるものを求めるのではない、ただ、神だけに信頼するという姿がここにあらわされています。
間もなく、神が来られる。神がおいでになる。これが、ヨハネの心を支配していた思いでした。ですから、このヨハネの語る言葉は一つです。
「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」というのです。このヨハネのメッセージは、福音書を続けて読みますと、第4章で主イエスの伝道が開始される時に、まったく同じ言葉をもって始められたと記されています。ですから、このヨハネと、主イエスは同じことを願っていたことが分かりますし、言ってみれば、主イエスはこの洗礼者ヨハネの信仰を引き継いだということができます。そして、この洗礼者ヨハネがどのような人であったのかを知ることが大変大事な事だとお分かり頂けると思います。
少し想像していただきたいのですけれども、街中ではない荒野で変な格好をした人が、「間もなく神がおいでになるから、悔い改めるように」と語っている。不思議なことですけれども、聖書を見ますと、そこには「エルサレム、ユダヤの全土、ヨルダン川沿いの全地域の人々がヨハネのところへ出て行き、自分の罪を告白して、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けた」と記されているのです。荒野の、ヨルダン川といえば、普段はあまり人の集まるような所ではなかったでしょう。そんな所に大勢の人々が押し掛けて来ているのです。そして、後から後からこの人のもとにやって来ては、バプテスマを受ける人が後を絶たなかったのです。これは、言ってみれば一つの社会現象ともいえる出来事です。人々はヨハネの言葉を、荒野にいる変わった男が何やら変な姿で叫んでいるとは聴き取らずに、彼のもとに集まって来たのです。そこには、真実なものがあると、多くの人々が聴き取ったのです。そのヨハネの語った言葉、使信が「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」というものでした。
「天の御国」という言葉は、私たちが一般に使う「天国」という言葉と同じ言葉です。私たちは「天国」という言葉を聞きますと、それは人間の死後の世界のことであって、死んだ人はそこに行くのだなどと考えたりします。けれども、ヨハネが語っているのは、そういう死後の国のことではないようです。「天の御国が近づいた」というのですから、私たちが死後にあちらの世界に近づいて行くということではなくて、「あちら」の方から私たちに近づいてくる、と言うのです。「天国が近づいています」という言葉を、私たちはどう聞くでしょうか。一つの間違った私たちのイメージは、「もう間もなく死んでしまう」という意味に捕えられかねません。ヨハネはそういうことを語ろうとはしていません。このように「天国」、あるいは「天の御国」という言葉を使っているのはマタイだけで、他の福音書では「神の国」という表現がなされています。マタイがこの言葉をあえて使ったのにはおそらく理由があるからだろうと思います。というのは、当時の人々の関心があったのは、地上の国での生活です。天で、あるいは神のもとでどのような生活をするかということではありませんでした。自分の生活が整っているかどうかが、一番の関心であったのです。そのような人々に、ヨハネは、「自分の生活、この世の生活、この地上の生活のことばかりあなたがたは考えているけれども、神がこの世界に来られたら、神が天で支配しておられるように、その神の御支配がこの私たちの生活の中に及ぶとしたら、今のままの生活でいいと思うのか。」と人々に問いかけたのです。つまり、「天の御国」というのは、天で生活しているかのように、神が支配しておられるような生き方か、ということです。神があなたの生活をご覧になった時、今の生活のままで神に喜んでいただくことができると思うのか、というヨハネの問いかけは、この時代の人々の心を動かしました。多くの人々は、今のままではいけないと思ったのです。
ではどうしたらいいのでしょうか。そこで、ヨハネは「悔い改めなさい」と人々に語ります。その知らせを聞いた人々は、神の前に正しい生活をしたいと願い、この悔い改めのバプテスマを受けたのです。このヨハネが人々にもたらした問いは、今、私たちにも同じようにつきつけられているのです。神があなたの生活を支配なさる、天の御国が、今、あなたの生活の中にもたらされるとすれば、あなたは今のままでいいのか、と問いかけられているのです。
ヨハネはここで、するどい一つの問いを私たちに突きつけています。それは、この洗礼を受けようと希望する列に、パリサイ派やサドカイ派の人々が並んでいるのを見たのです。彼らは聖書の専門家たちでした。ヨハネはその彼らを見て言います。「まむしのすえたち。だれが必ず来る御怒りをのがれるためにように教えたのか。それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい」と言ったのです。「悔い改めにふさわいい実を結ぶ」というこの言葉は、様々なところで用いられるようになりました。昨年、私は何度この言葉を聞いたか分かりません。良く使われる言葉です。厳しい言葉です。あの人は悔い改めたと言っているけれども、悔い改めにふさわしい実を結んでいるのか、と問うのです。私たちがこう言う言葉を耳にすると、恐らく誰もが自信が無くなってしまうのではないかと思います。悔い改めていると口では言っているけれども、あなたのその悔い改めというのは、どういうふうに生活の中に現れているのかと、詰め寄って来て問いかけられる。たとえば生活習慣の中にキリスト者としてふさわしくないものがある。あなたは洗礼を受けてキリスト者となったのにも関わらず、まだ、そういう生活が残っているとすると、それは悔い改めの実を結んでいるとは言えない。生活をきちっと改善できて、はじめて悔い改めたと言えるのではないか。つまり、キリスト者になったといって安心しているかもしれないけれども、まだ、昔からの悪習慣が改善されていない以上、安心することなどできないのではないかという問いです。このような問いというのは、時々皆さんの口から昇ってくることがあります。自分はまだ不十分ではないか。まだ救われていると言えないのではないか、という問いでもあります。
しかし、洗礼者ヨハネはここでそういうことを語っているのでしようか。洗礼を希望する人々の中に、パリサイ派や、サドカイ派という聖書の戒めに生きて来た人々がいた。その人々にヨハネが「まむしのすえたち」と厳しい言葉をつきつけます。これはどういうことかというと、この言葉には色々な解釈があるのですけれども、その一つに、野原に忍んでいるのをあぶり出すために野に火を放つという方法がありました。これと同じように、神の裁きが近いのなら、そこからするすると抜け出して、このパリサイ人たちは、危機を回避しようとしたのではないかという解釈があります。あるいは、この芥見の地は、まむしと言われた斎藤道三の立てた岐阜城のお膝元ですけれども、ずる賢いという意味があります。上手に立ち回って、厳しいところは回避するという性質の事を言葉で表すのではないか、とか色々です。いずれにしても、良い意味ではありません。ヨハネは彼らに、あなたがたは悔い改めたつもりでここに来ているようだけれども、あなたがたが本当に悔い改めたのかどうかは、悔い改めの実で見分けることができると語ります。ここでのヨハネの言葉は明らかです。形だけ整えたってだめだということです。
そのことをあらわすように、続く9節からの言葉の中で、彼らの言葉を見通しているかのように、
「『われわれの先祖はアブラハムだ』と心の中で言うような考えではいけません。あなたがたに言っておくが、神は、この石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。」(9節)
と語ります。そもそもわれわれはイスラエル人だ、アブラハムの民だから大丈夫なのだ。あるいは、洗礼を受ければ大丈夫だということではない。そのように形だけ整えればいいというようなことは、「悔い改め」の名に値しないでしょう、と問い事を問いかけているのです。
では、「悔い改める」というのは、どういうことでしょうか。この「悔い改め」という言葉は、もともとは「向きを変える」という意味の言葉です。昨日まで生きて来た方向から、向きを変えて生きるようになるということです。それは、ただ形を整えるというようなことではありません。思いを入れ替え、明日からは正しくやっていきます、というようなことでもありません。悔い改めというのは自分の弱い部分だけを改めたらよいというのではないのです。そうではなくて、自分そのものの、一番深いところにある思いからガラッと変わってしまうということです。生き方が変わるのです。向かう方向そのものが変わるのです。それは、自分はアブラハムの子孫だから大丈夫であると言えるようなものではないのです。「神は、この石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことができる」という言葉はどんな小さなものであったとしても、それをまるで違う存在に変えてしまうことがおできになるのです。
ここで、ヨハネが語っている大事な事は、私たちの性質ではないという事です。全てをなしてくださるのは神です。小さな、無価値だと思えるようなものであったとしても、神は、新しいもの、しかも神にとって価値あるものに造り変えることがおできになるというのです。心を入れ替えて、行いを正しくしていくということではなくて、神がたとえ私たちが石ころのようなものであったとしても、神が私たちをアブラハムと同じように選んでくださって、この小さな者をもアブラハムの者のように数えることがお出来になるということです。
ある人が「悔い改めとは荒野から始めることだ」と言いました。「荒野」は、ヨハネがいるところです。荒れた野、何もないところです。そこには人もおらず、繁栄もなく、豊かさとは遠いところです。大地は枯れ、水を慕い求めている。そうやって、かろうじて植物たちは枯れた野原を保っている。ここに、洗礼者ヨハネは留まったのです。なぜでしょう。それは、荒れ野に生きることを通して、ただ、神のみを期待して生きることができるからです。悔い改めというのは、そういうものだというのです。何かを期待するとすれば、それはただ、神の恵みのみ。向きを変えざるを得ないのです。神の方を向かざるを得ないのです。神にのみ向くほかない。神を求める以外にない。地上の自分の生活、地の国での生活に心奪われるのではなく、神の御支配、天の御国で生きると決めることです。そこには神以外の何も必要ではないのです。「悔い改めとは、荒野から始めること」というこの言葉が、このテキストの語ろうとしている全てを言い表していると言えます。私たちは、私たちをアブラハムのように選び、祝福してくださると信じて、そのお方に自分の存在を向けて生きるならば、たとえ荒野のような渇いた地に生きていると思えたとしても、そこに神がいてくださる。支えてくださる。そのように信じて生きることなのです。そのような生き方は、ただ、どんな渇いた地にあったとしても、神から豊かな養分である恵みを頂くので実が実っていくのです。
この聖書には続いてこう記されています。「斧もすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。」と。このヨハネの危機意識は、神がおいでになるならこのままの生活、神を神としていない生活が裁かれてしまうから、その前に、神の前に正しい生き方をするのだということでした。そうでなければ、あなたは滅ぼされてしまう。それ故に、そのヨハネは神が来られるということを真剣に受け止めたのです。ですから彼の言葉は人々の心に届いたのです。そして、この洗礼者ヨハネを引き継ぐようにして、主イエスが現れます。この主イエスと出会う時、私たちは知ることになります。それは、斧で打倒されてしまうのは、神の前に正しく生きていなかった私たちではなく、神の前に、まさに神の国に生きていたその人である主イエスが滅ぼされてしまうということを。
どうなっているのかと思うほどです。考えられない事がここで起ころうとしているのです。もちろん、そのことが明らかになるのはまだ後のことですけれども、私たちは知っているのです。悔い改める必要のない主イエスが、神に裁かれて死なれたことを。ここに、私たちの理解を大きく超えた神の恵みがあります。人々の弱さ、不完全さ、罪というどうしようもないものがあります。あなたの悔い改めは不十分ではないか。実を実らせていないではないかと問われれば、それを認める他ないほど小さな私たちなのです。正しく生きたいと思い、思いを改めようと思ってもうまくいかない。
けれども、この主が私たちに代わって、神の裁きを身に受けられる時、主は、本当に石ころのような取るに足りない私のような者を愛し、受け止めて、新しく造り変えようとしてくださっていることを知るのです。それゆえに、私たちはこの方を信じることができます。私も、このお方さえいてくださるなら生きていくことができると。私たちは、このお方に自分の存在そのものを向けて生きることができるのです。この神の恵みに信頼して、荒野の中にあっても、始めることができるのです。
そうです。私たちも、悔い改めに相応しい実を実らせることができる、という希望を持って生きることができるのです。
お祈りをいたします。