2010 年 1 月 3 日

・説教 「苦しみの現実の中で」 マタイの福音書2章13節-23節

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 21:51

鴨下直樹

 今年の御言葉として私たちは元旦の朝に、ヨハネの福音書14章1節の御言葉を聞きました。

あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。

 

 私たちはこういう御言葉を聞く時に、時折思うことがあります。聖書は簡単にこういうことを言うけれども、現実の生活にはそれほど単純ではない、そんなに簡単にいくはずがない。心を騒がせてしまう時に、神を信じるなんてことはお題目としては分かるけれども、実際の生活というのは聖書通りにそう簡単にはいかないのだと思うのです。

 FEBCというキリスト教ラジオ番組があります。御存知ない方も多いと思いますので、少しこのラジオのことを紹介する必要があるかもしれません。このラジオ番組はキリスト教のラジオ放送で、毎晩夜の9時45分から10時45分までの1時間15分の放送で、AM1566kHzで聴くことができます。大変よいラジオ番組です。日曜日には、各地の礼拝のもようを聴くことができます。あるいは、各地の教会や、牧師の働きが紹介されることもあります。その中で各地の牧師たちが紹介されている番組があり、昨年の事ですけれども、東海地区の牧師たちというシリーズでお話いただけないかという依頼が私の所にもありました。電話でお話を聞いたところ、よくリスナーからラジオ局に問い合わせが来る。それは、牧師たちは講壇ではいつも聖書から話しているけれども、牧師の本音はどうなのかというところを聞いてみたいということのようです。牧師だって、説教してはいるけれども、本音ではそんなに簡単にうまくいくはずがないと思っているのではないか。だから、そういう話を聞いてみたいということなのでしょう。こういう問いの中にもあらわれているのが、信仰というのは、現実の生活の中では役に立たないのではないかと多くの方が思っているということです。現実の生活はあまりにも厳しくて、説教で聴くほど単純ではない。幸い、私はこの教会に来て、まだ一度もそういう言葉を聞いたことはありません。けれども、そういう思いが、多くの人の心の中にあることを私は説教者としてしっかり向き合っていかなければならないと思っています。

 現実の生活は厳しい。それは確かにそうでしょう。ここでその例をあげるまでもなく、私たちは誰もがさまざまな悩みを抱えています。社会の問題も深刻でしょう。経済の事も、こどもの今日の教育についてもそうでしょう。けれども、そのような現実の厳しさは、神が私たちにもたらしてくださるものを、簡単に吹き飛ばしてしまうのでしょうか。そうではありません。聖書はいつも単純なハッピーエンドの物語りだけを語り聞かせているのではないのです。

 今日、私たちに与えられている聖書は、クリスマスの物語りのすぐ後の出来事です。主イエスの物語りは、みどりごが無事に生まれ、みんなが礼拝に来ましたという、いわゆるハッピーエンドで終わったりはしないのです。もちろん、主イエス御自身、まだ、赤ちゃんですから、何かができるということではありませんでした。ただ、神に身をゆだねるしかできない時に、その厳しい現実の中で歩みをなされたことがここに、しっかりと物語られているのです。

 

 先ほど、聖書をお聞きになりながら、みなさんはどのようにこの聖書の御言葉をお聞きになったでしょうか。今日の聖書の箇所というのは大変厳しい箇所です。ここから何か慰めの言葉を見つけ出そうとしても困難を覚えます。直接的な慰めの言葉、あるいは、神の恵みを示す言葉は見えません。まさに、主イエスを見舞った現実の厳しさを、この聖書自体がよく表わしていると言えるかもしれません。この物語を支配しているのは、ヘロデの殺意です。主イエスのもとに訪れた東の国の博士たちが戻って来た時に、どこに新しいエルサレムの王となる者がいるのかを知ろうと思っていた。ところが、博士たちは、「夢でヘロデのところに戻るなという戒めを受けたので、別の道から自分の国に帰って行った」と聖書は記しています。ヘロデは恐ろしい王であったのです。先週もお話ししたように、自分の身を守るためには、両親も、三人の子どもも、伯父も殺害しています。その残忍さが、ここでよく表れています。ヘロデは、ベツレヘム近辺の二歳以下の子供を全て殺すようにと命じたのです。これが、ヘロデが自分の生活を続けていくために導きだした結論でした。

 自分にのし掛かってくる現実の厳しさに押しつぶされそうになって、自分より弱い者を虐げることで問題を解決しようとする者の姿がここにあります。自分の代わりに王が立つかもしれない。自分の時代はこれで終わってしまうかもしれないという、現実に抵抗する者の姿がここにあります。もちろん、これは一人の姿です。他にもやり方はいくらだってあるでしょう。ヘロデのように他のものにあたり散らすという形もあれば、自分はもうダメだと、自己憐憫に浸るということだってできるかもしれません。厳しい現実を直視したくないために、他事をして気を紛らわすということだってできます。「あーだめだ、だめだ」と叫びながら、いつかどこからか助けが現れるのではないかと何となく期待して待つ人もあるでしょう。ここに、人間が困難という厳しい現実と向かい合う時の姿があります。

 

 そして、ここにはもう一人の人の姿が描き出されています。ヨセフです。興味深いのは、このヨセフはここで一度も口を開いていないのです。マタイが描く父ヨセフは、この福音書においてただの一度も口を開きません。そしてこれは大事な姿だと私は思います。黙したまま、神の意思に身をゆだねる者の姿がここにはあるのです。

 このヨセフの姿は大変美しい。そのためでしょうか。「エジプトへの逃避」あるいは「エジプトへの避難」というテーマの絵画は、いくつも残っています。多くの画家たちがこの時の主イエスの姿を心に留めたからなのかもしれません。17世紀初めにオランダで生まれ、私が最も愛する画家のレンブラントは、この「エジプトへの避難」というテーマの絵をいくつか描いております。レンブラントについては、キリスト教美術講座で岐阜県美術館の館長をしておられる古川さんがすでに何度か取り上げてくださいました。おそらく、このテーマはまだだでしょうか。今年はどんなテーマでお話し下さるか、私も今から楽しみにしておりますけれども、レンブラントは、素描でもこのテーマをいくつも書いております。

 この最初の絵は、レンブラントがまだ若い時に書いたもので、「エジプトへの逃避」というものです。

 

レンブラント作 「エジプトへの逃避」

レンブラント作 「エジプトへの逃避」

ここに描かれているヨセフはロバに大工道具を乗せていますけれども、非常に力強い父親として描かれています。足などは裸足で、ロバの足などよりもよほど丈夫なのではないかと思わせるほどです。このようにして描かれている父ヨセフの姿というのは、迫りくる恐怖の中にあっても、不安そうな顔をしながら怯えながら逃げているのではありません。多くのこの同じテーマが描くように、不思議な光で包まれています。レンブラントの絵というのは、いつもどこかからか光が差し込んできていますけれども、この絵も同様に、光に照らされています。まだ若い時の絵ですので、晩年に与えた光の意味とは異なるようですけれども、それでも、外からの光に照らされています。神の光に照らされながら、神に導かれるようにして旅を続けるのです。そして、このヨセフの姿はなんとも楽しい姿です。このように、ヨセフを信仰の人として美しく描くのです。

 

 もう一枚、レンブラントが描いたものがあります。これは「エジプト避難途上の休息」というタイトルです。

 

レンブラント作 「エジプト避難途上の休息」

レンブラント作 「エジプト避難途上の休息」

このテーマの絵も、色々な画家が描いております。エジプトに向かう途中でこの家族が休みを取ったであろうということに想像力を膨らませながら、様々な画家たちが色々な絵を残しています。中でも、このレンブラントのものは非常に特徴的です。というのは、画面左側の大きな光、今まさに焚火をくべようとしているところにいるのはヨセフとマリヤではありません。火の回りに家畜が寝そべり、そこには火をおこす者と休んでいるものが三人描かれています。 マリヤとヨセフはどこにいるのだろうと探して見てもすぐには見つかりません。良く見ると画面の右側に小さなランプを持った人の姿がぼんやりと描かれています。その後ろにロバの背にのっている人の姿がある。そうです。それがマリヤとおそらくあかごの主イエスです。ランプの光はわずか数メートルを照らしだすのみで、やがてこの大きな光のもとで休息をすることができるのかどうかということを見る者に考えさせる絵です。

 おそらくレンブラントは、ヨセフとマリヤがここを通りかかる前に、すでに神は備えをしてくださっているということを描いたのだろうと思います。ここに、ひとつの答えがあります。自分たちを殺すために追手が来るかもしれないというような厳しい現実の中で、まさに闇の中をひたすら歩んでいるかのように思える中で、レンブラントはそのように神に信頼して歩む者は、神が先々に備えをしてくださっているということを描いて見せたのです。厳しい生活の現実という闇に、飲み込まれてしまうということのないように、神が配慮してくださっているのだと。

 そのような信仰を描いたのは美術の世界だけではありません。シリヤに古くから伝わる伝説で「銀の糸」という物語りがあります。この物語りは、牧師をしておりました私の父が漫画で福音を伝えようとして最初に作ったトラクトでしたので、私はこの物語りを子どもの時から知っていますが、この時作ったトラクトは「クモの巣の城壁」という題でした。本来は「銀の糸」ということを私はだいぶ後になってから知りました。このような、文学においても、この時の信仰の歩みが描かれるのです。この物語りは、ヘロデの虐殺から逃れるためにエジプトに向かうマリヤとヨセフは幼子を連れて旅を続けているところから始まります。旅を続けるこの家族を、ヘロデの追手がいつまでもつけ狙います。日も暮れて、疲れ果てたマリヤとヨセフは洞穴(ほらあな)の中で休息することにしました。その夜は寒い夜で辺り一面は霜で真っ白であったといいます。すると、小さなクモはイエスを見て、自分に出来ることを何かしようと決心しました。それは、少しでも暖かくするために洞穴の入口に巣をかけて、少しでも風よけになるようにということでした。やがて、ヘロデが遣わした兵たちがやってきます。子どもを探し出して殺し、ヘロデに差し出すためです。兵士たちは洞穴の前に来た時に、誰かが隠れているかもしれないとその中を探そうとしました。マリヤとヨセフはびくびくしたことでしょう。ところが、小隊長が言ったのです。「見ろ、その洞穴はクモが巣を張っているではないか。誰かが隠れているとしたら破れているはずだから誰もいないはずだ」と。こうして、兵士たちはこの洞穴を通り過ぎ、この家族は救われたという物語りです。それで、クリスマスツリーにこの銀の糸を飾るという習慣ができたということのようです。

 

 もちろん、これは物語りであって事実ではありません。けれども、そのように昔から人々は私たちの予想を超えた神の働きを様々な形で言い表してきました。それは、それぞれの信仰者たちの信仰告白の歴史であると言うことができます。神は私たちの思いを超えたことをなさるのです。

 今年、私たちに与えられているローズンゲンによる2010年の御言葉は「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。」というヨハネの福音書14章1節の御言葉です。私たちは、自分の理解や、想定を超えている出来事が身に降りかかってくるとすぐに心を騒がしてしまいます。そして、信仰など立て前であって、実際には何の役にも立たないのではないかという考えが、心をかすめるのです。

 洞穴に入ったヨセフはまさかクモまでも神が用いて自分たちを助け出されるなどと考えはしなかったでしょう。あるいは、レンブラントが描いたように、自分たちの前に家畜をつれた一団が暖をとる用意をしているなどというようなことは思いもしなかったことでしょう。しかし、神はそれをなさることがおできになるのです。これは物語りの話、絵画の話であって現実ではない。聖書の話も同じで、現実の厳しい生活の助けにならないなどということができるでしょうか。神は全てを用いてお働きになられるお方です。

 ですから、このヨハネの14章の1節は、これから主イエスが十字架に付けられてしまう前に、主がお語りになったのです。神は、いつも前に、前にとすべてを備えてくださっています。すべて、神にとって必要なことだからです。そこには、神のお働きがあります。神には神のやり方があるのです。

 自分の都合によって邪魔なものを消していこう、などという決断は神のやり方ではありません。問題があるからそれを取り除けば良いということで、神のやり方がすべて解決するのではないのです。

 私たちはすぐに、ヘロデの罪を犯してしまいます。自分の都合でいつも物事を考えてしまうのです。ヘロデのことを醜い姿であると言うことは簡単ですけれども、そのような面を私たちは常に持っているといわなければなりません。

 あれも嫌、これも嫌、自分に害をなす者はみんな嫌、そうだみんないなくなってしまえばいい、自分を大事にしてくれる人たちだけなら良いのになどというのは、2歳以下を皆殺しにするヘロデと何の違いもないのです。はっきりしたことを私たちは知らなければなりません。そうです。私たちとヘロデとの間に何の違いもないのです。ヘロデの罪は、私の罪です。だからこそ、私たちはこの罪の姿に立ち向かわなければなりません。現実としっかり向かい合わなければならないのです。

 

 私たちが知らなければならないのは、信仰は立て前の世界ではないということです。神を信じるのはお題目ではありません。暗闇の中に置かれていると感じる時に、心騒がせることなく、神を信じることです。主イエスを頼りにして神を信じるのです。

 私たちは知らなければなりません。自己憐憫に陥っている時も、神など現実の厳しさに何もできはしないと思っている時にも、それは、闇に飲み込まれてしまっているのだということを。自分自身を卑下して見ても、神を恨んでみても、あるいは、邪魔なものを排除しようとしようとも、それらは、どれも、現実を受け止めたくないということでしかありません。ただ、そこでもがいているに過ぎません。

 ここに描かれているヨセフのように、ただ、ひたすらに神に信頼して、歩み続ける時に、そこに、神は光を備えていてくださいます。どれほどの悲しみの中にあったとしても、神に慰められない悲しみはなく、神が打ち破ることのできない闇などないのです。なぜなら、主イエスは光をもたらすためにこの世に来られたからです。闇を打ち払い、悲しみを押しのけ、不安を消し去ってくださるのは、この神とともにあるからです。

 ヨセフが家族を伴ってエジプトへと避難している時、そこに一緒におられるのは主イエスでした。たとえ闇の中を歩んでいたとしても、洞穴の中にいたとしても、主イエスは共におられたのです。これは、ヨセフだから主イエスが共にいて下さったということなのでしょうか。そうではありません。この主は、私たちと共にいてくださるために、クリスマスにお生まれになられたのです。ですから、誰もが、このヨセフと同じように歩むことができます。主イエスが共にいてくださるのです。つまり、私たちの歩みを神はよくご存知で、いつも心に留めていてくださって、私たちを導いてくださるのです。

 主イエスは遠くにおられるのではありません。もし、主が遠くにおられると感じるのなら、それは私たちの方が神から遠いのです。私たちが神に悔い改め、祈る時、私たちは知るでしょう。神は、ここにおられたのだと。主イエスだけが、私たちの厳しい現実の中にあって、唯一の慰めを与えることのできるお方なのです。

 

 お祈りをいたします。

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