・説教 マルコの福音書4章21-24節「自分が量るその秤」
2025.01.12
内山光生
また彼らに言われた。「聞いていることに注意しなさい。あなたがたは、自分が量るその秤で自分にも量り与えられ、その上に増し加えられます。」
序論
先週の金曜日の朝、車を動かすために外に出たら、車全体が雪で覆われていました。また、道路の方に目をやると、一面に10センチ程度の雪が積もっているのが分かり、少し驚きました。けれども、私は今までの人生の中で雪国で暮らした経験がありましたので、これぐらいならば車を運転することができると思いました。
ただ、いざ道路に出てみると、スタッドレスタイヤを装着していると言えども坂道やカーブが多い場所では、幾分、気を使いました。今までの経験上、雪が固まっている場所では、多少ハンドルが取られそうになる事が分かっていたからです。ですから、いつもよりも相当ゆっくりなスピードで坂道を下っていきました。その後、用事が終わって無事に帰ってくることができた時、神様に感謝をささげました。
一方、私の息子は、雪が積もった事を喜んでいました。そして、一生懸命になって雪だるまを作っていました。私自身の子どもの頃を思い出すと、やはり、雪が積もると楽しい気持ちになったものです。
このように同じ出来事でも、「車で移動するのが大変だ」と思う人がいる一方、「雪だるまが作れてうれしい」と思う人がいる、人それぞれ自分の置かれている立場によって考え方に違いが出てくるのです。この事は、私たちが聖書を読むうえでも同じような現象が起こります。ある人は、ある聖書箇所に対して、前向きに受け止めることができ、喜びに満たされていく。一方、同じ個所を通して、何も感動しない人もおられる。あるいは、否定的な受け止め方をしてしまう。そういう事が起こってしまうのです。
今日の説教題は「自分が量るその秤」です。これは聖書を読む時の態度について、どうあるべきかを考えさせられるみことばです。人それぞれ、いろんな状況の中に立たされています。そして、毎日毎日、その状況に変化があります。そういう中で、イエス様の伝えた福音に対して、どのような気持ちで、受け止めようとしているかが問われているのです。
I 明かりのたとえ(21~23節)
21節と22節を見ていきます。
この箇所は「明かり」がテーマとなっているたとえです。少しだけ読むと、あのマタイの福音書に書かれている、いわゆる「山上の説教」の教えと似ているように感じる方がおられるかもしれません。イエス様は山上の説教の中で、「あなたがたは世の光です」と宣言されました。つまり、私たちクリスチャンは、不正な事に手を染める人々や犯罪行為を犯す人々が存在するこの世界において、あるいは愛のある人間関係が少なくなっているこの世界において、「神様の子どもとして光輝く存在なんだ」ということを宣言している、そういう教えです。
ですから、クリスチャンというのはイエス様から受けた光を反射させるかのように、世の中を明るい社会にしていく役割が与えられているのです。神様が私たちの内に働き、光としての役割を果たすことができるよう導いて下さるのです。
ところが、マルコのこの箇所で語られている「明かりのたとえ」は、マタイに書かれているたとえとは、言わんとしているポイントが異なっています。マルコの方では、「明かり」はイエス様ご自身の事を指しています。あるいは、イエス様が伝えた福音の事を意味しています。このイエス様の福音というのは、一時的に升の下におかれた状態、あるいは、寝台つまりベッドの下に置かれたような状態になっているかもしれません。でも、この福音が隠され続けることはなく、最終的には明らかにされていく、ということを言っているのです。
少し前の箇所では、種蒔きのたとえの中で、種が「道端」や「岩地」や「茨の中」に落ちたと書かれているように、福音が語られているけれども、聞いている人々の心にその福音が入っていかずに、なかなか信仰を持つようにならない、そういう人々が存在することが示されていました。
同じように、福音が語られているものの、人々が心を閉ざしているがゆえに、福音がまるで升の下に置かれたような状況になっていたり、あるいは、ベッドの下に置かれているような状態になってしまっている事がある、確かに、そういう人々がいる。しかし、神様は福音が隠されている状態であり続けることを望んでいないので、一時的には心を閉ざしている人々の中からも、福音の本当の意味を悟るようになる人々が出て来るんだ、ということを伝えようとしているのです。
ある人々は、「もうあの人には福音を伝えたのだから、これ以上は語る必要がない」そういう思いが出てくるかもしれません。あるいは、「この地域には何度も教会案内を配ったのだから、もう配る必要がない」そんな思いが出てくるかもしれません。けれども、いつ人々が福音に対して心を開くようになるかは、私たち人間では分からないのです。
福音に覆いがかけられているかのような人々があまりにも多いので、伝道するモチベーションが下がってくるなど、霊的試練が続いているこの日本において、先に救われた私たちは、周りの状況を見て諦めるのではなく、むしろ、福音が人々の心に届くために、熱心に祈り続けることが求められているのではないでしょうか。なぜなら、神様の願いは、隠されている福音が人々に明らかにされていくことにあるのですから。
23節には「聞く耳があるなら、聞きなさい」と命じられています。これは、福音を聞くときに、イエス様に対して心を開いて、その本当の意味を悟るように、更には、悟ったことを実行に移すようにとの促しのことばです。
聖書を読む習慣を持つことはとても良いことです。1年の始めに、多くの人々は「今年こそは、毎日聖書を読むぞ」と決心をするのです。ところが、その中の何人かは、毎日聖書を読み続けることがいかに難しいかを味わうのです。たとえば「昨日は疲れていて、聖書を読むのをすっかり忘れてしまった」と自分自身を責めてしまうのです。そうすると、ますます、聖書を読むのが辛くなっていくという悪循環に陥る、そういう事が起こってしまうのです。
私自身のことを思い返しても、10代20代の頃は、なかなか聖書を読む習慣が身につかなかったのです。たとえ、続けたとしても途中で意味の分からない箇所が出てきた時に、つまらないという思いが出てきて、聖書を読むこと自体が苦痛に感じる、そういう経験もしました。たとえば、旧約聖書の創世記から順番に読んでいっても、レビ記辺りから、意味が分からないという思いが強くなり、途中で挫折をしてしまうのです。
ある時、私は「旧約聖書は難しいから新約聖書だけを読もう」と考えた時期がありました。それで、新約聖書だけを読んだのです。すると、新約だけならば、案外簡単に読み切ることができたのでした。新約を何度も何度も読んでいく内に、いつの間にか、旧約聖書にもすばらしいみことばがたくさんある事に気づかされ、そうこうしている内に、「旧約は難しいから読むのはやめよう」という考え方は愚かだったと気づかされたのです。そして、今では、聖書のどの箇所からでも、神様が伝えようとしている何らかのメッセージがある、と確信を持つことができるようになりました。
確かに聖書の中には意味が分かりにくい箇所があります。それでも、私が言いたいことは、そういう箇所からであっても、神様が伝えようとしている真理があるんだ、ということを受け止めようとする姿勢がある時に、心の覆いが取り除かれていき、聖書の教えから悟ることができるようになる、ということです。もちろん、神学的な視点での学びが必要な場合もありますし、聖書をよく知ってそうな人に質問をする、そういう助けがいる場合もありますが、大切なのは、どの聖書箇所からでも、神様が伝えようとしているメッセージがある、との確信を持つことなのです。
II 秤のたとえ(24~25節)
続いて24~25節に進みます。
24節でもイエス様は「聞いていることに注意しなさい」と命じられています。つまり、この箇所も同じテーマが続いているのです。すなわち、福音を聞いて悟るように、更には、悟ったことを実行するようにと促しているのです。そのためには私たち自身の心の状態がイエス様に向かっているかどうかが問われているのです。
ここでは「秤のたとえ」が記されています。「あなたがたは、自分が量るその秤で自分にも量り与えられ」と書かれています。このことは、私たちの心の状態によって、聖書の言葉がどれくらい理解できるかどうかに影響を与えるという事を示しています。
聖書の中の教えを要約すると、「あなたの神、主を愛する事」と「あなたの隣人を愛する事」です。この「あなたの神、主を愛する事」の教えをどれ程大切にしているかが、ここで問われているのです。
聖書を無理なく読み続けていくためには、色々な知恵や方法があるかと思われます。しかしながら、人間というのは色々な思考パターンがありますので、どの方法が一番良いかどうかは、人それぞれなのです。例えば、朝起きた時が一番頭がすっきりしている人もいれば、夕方の方が調子が良い人もいるかもしれません。また、じっくり読むのが好きな人もいれば、割と早く読み進めるのが得意の人がいるかもしれません。音楽を聞きながらの方が集中しやすい人もいますし、逆に、静かな方が集中しやすい人もいるでしょう。
ですから、聖書を読み続けるための人間の知恵というのは、それぞれが自分にあった方法を選び取っていけば良いのです。しかし、方法論では解決できない問題があります。それは「あなたの神、主を愛する」事、これを日々の生活の中で実践し続ける事についてです。
ここで、悔い改めについてお話します。悔い改めがどういう意味かについては、色々な説明の仕方があります。一般的な説明としては「神様から心が離れていた状態から神様の方へ向きを変える」という意味です。そして、この悔い改めが起こるかどうかについては、二つの視点で考えることができます。一つは、私たち人間側からの聖書のことばに対する応答という側面です。一方、人間側ではなく神様が一方的に悔い改めへと導いて下さるという側面もあります。その二つは、まるで矛盾しているかのように思えるかもしれません。しかし、両方とも聖書に記されている概念であって、どちらも排除することはできないのです。
キリスト教の歴史の中でも、この二つの側面について、議論が繰り広げられてきました。でも結局の所、両方の側面がある、としか言いようがないのです。
悔い改めについて説明したのは、それが神様を愛することと密接な関係があるからです。つまり、悔い改めとは単に「神様、こんな罪を犯した私を赦して下さい」と告白するだけの事ではなく、心が神様に向かっているかどうかが問われているのです。そして、神様に心が向かっている状態こそ、「神様を愛している状態」と言えるのです。
極端な話ですが、ある人が祈りの中において「神様、あなたを信用することができません。あなたは私を祝福してくださいません。あなたの事が嫌いになりました。」と言ってしまったとしても、その人が神様に対して真剣に心の叫びを放っているのだったら、その人の心は神様に向かっていると言えるのです。
反対に、言葉においては立派なことを表明していたとしても、それが本心ではなく口先だけの事ならば、その人は神様から心が離れている状態だと言えるでしょう。あるいは、行いがクリスチャンとしての模範であるかのように見えたとしても、その動機が「神様の栄光のために」ではなかったとすれば、すなわち、自己満足や人から褒めてもらうことを求めることが動機となっているならば、結局の所、その人の心は神様から遠いところにある、と言えるでしょう。
つまり、見た目の言葉や行いだけでは、その人の本当の霊的状態は分からないのです。
そういう中にあって、私たちの心が真の意味で神様に向かっている時、その時こそ、まさにみことばから悟ることができやすい状態なのです。そういう状態の中で聖書を読んでいく時、より多くの事を悟ることができ、更には、悟ったことを実行に移すことができるように導かれていくのです。
そのような事をイエス様は「自分が量るその秤で自分にも量り与えられ」と言われたのです。
25節に進みます。
ここに「持っている人」とありますが、これはみことばから悟る人、そして、悟ったことを実行に移している人のことを指しています。そういう人々というのは、聖書のことばを通して、どんどんどんどん霊的に成長していくことができる、というのです。
一方「持っていない人」というのは、みことばから悟ることができない人の事を指しています。このような人は、ますます神様との距離が遠のいてしまうのです。
ですから、イエス様は持っていない人のようではなく、持っている人のようになりなさいと、私たち一人ひとりにチャレンジを与えているのです。そして、どちらを選ぶかについては、私たち一人ひとりの信仰にかかっているのです。
まとめ
クリスチャン生活を続けていく時に、必ずしも良い出来事ばかりではないという現実があります。つまり、人間の感覚では、とても感謝できない出来事というのが起こりますし、喜ぶことができない状況に立たされることもあるのです。悲しみに陥ることもあるでしょうし、怒りの感情をうまく処理できない事も起こるかもしれない。そういう中にあって、たとえ祈りの中で神様に対して不平不満を言っていたとしても、神様と真剣に祈りの交わりを続けているならば、その状態はむしろ、神様を愛している証拠だと言えるのです。神様を愛しているからこそ、自分の本当の気持ちを神様にぶつけることができるからです。
私たちは神様の前では自分の心の中に浮かぶその思いや感情を隠す必要は全くないのです。神は私たちの心の痛みをすべて受け止めることができるお方だからです。そういう中で、神は私たちに必要な慰めや励ましを、聖書のことばを通して与えてくださるのです。神は私たちが神をどれ程愛しているかに応じて、私たちに神の愛を注いで下さるお方なのです。
お祈りしましょう。