・説教 マルコの福音書4章21-25節「光の中へ」
2017.12.31
鴨下 直樹
今日は大晦日ですが、教会の暦では今日が降誕節第一主日、主イエスの誕生を覚える主の日です。先日少し買い物に出かけたのですが、年末ということもあって、お店には物凄い人であふれかえっていました。もちろん、クリスマスの商品は隅に追いやれて、安売りされていて、真ん中にはお正月のものが並びます。今年も一年が終わるのだという実感がわいてきます。
でも、少しほっとするのは、クリスマスのイルミネーションの明かりは、すぐに片づけないで、そのまま夜の街を彩っているところが多い気がします。暗く、寒い夜に明かりの持つ力を誰もが認めているのではないかと思うのです。暗い寒い冬の夜空に輝く明かりは、冬にもたらされる風物詩となっています。
今日、私たちに与えられている聖書は、主イエスがお語りになったたとえばなしです。明かりの話しです。
あかりを持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためでしょうか。燭台の上に置くためではありませんか。
そのように21節に記されています。原文では「あかりが来る」と書かれています。でも、あかりは自分では来ることが出来ないので、翻訳としては誰かが持って来るという訳し方がされています。
先週の礼拝で燭火礼拝を行いました。礼拝堂の中を聖歌隊が、あかりを携えて歌いながら前に進みまして、クリスマスの讃美歌を歌い、そのあとで暗くした部屋のみなさんのところに明かりをともして回りました。おそらく、座っていた方々は「明かりが自分のところに来た」と感じられたのではないかと思います。誰が持ってきたかというよりも、暗い中で明かりが自分のところにやって来る。そう感じるわけです。それは、まさにクリスマスの知らせそのものです。暗い世界に主イエスがお生まれになる。光がもたらされる。それこそがクリスマスの知らせです。
主イエスはこのたとえ話を神の国を知らせるためのたとえ話となさいました。神の国、神の支配というのは、暗い所にいる人のところに明かりがもたらされるようにしてくるようなものだということです。そうやってもたらされた明かりを、隠すようなことがあるだろうかと主イエスはおっしゃっているのです。というのは、明かりを隠すということが起こり得たからです。 (続きを読む…)