2017 年 12 月 17 日

・説教 マルコの福音書4章1-20節「みことばを受け入れる祝福」

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2017.12.17

鴨下 直樹

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 先週の金曜日で、名古屋の東海聖書神学塾の私の受け持っている今年の講義が終わりました。やっと終わったというのが正直な感想です。10月から3月までが今年の後期の講義なのですが、今、私は三つの講義を教えています。その一つに新約聖書神学という講義があります。実は、この金曜日は私の後で講義をする予定の先生がお休みになったので、急遽もう一コマやることになりまして4時間の講義をすることになりました。

 その後も2時間の講義と1時間の講義が一つずつあります。何とかやりきったという思いで一年を終えました。その新約聖書神学の講義で、この福音書に記されている「神の国」というテーマで何回か授業をします。金曜日にもその話をいたしました。4時間では終わらないほど、さまざまな意味がこの言葉には含まれています。

「神の国」というのは、このマルコの福音書の冒頭15節で、主イエスが「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」とお語りになられて、主は神の国の福音を伝えようとしておられることを私たちは聞いてきました。

 昨日、ちょうど神学校の講義で、神の国ということばを考えるために、旧約聖書の時代にこの言葉がどのような響きをもっていたのかという話をしました。4時間もお話しませんので安心して聞いてください。

 旧約聖書のイザヤ書52章7節にこういうみ言葉があります。

良い知らせを伝える者の足は、山々の上にあって、なんと美しいことよ。平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ知らせ、「あなたの神が王となる。」とシオンに言う者の足は。


 これは、イスラエルがバビロンの支配のもと、捕囚を経験するなかで人々の希望となった預言の言葉です。「あなたの神が王となる」。イスラエルの人々はこの言葉に希望を持つようになります。異国、バビロンの支配の中で生きるのではなくて、もう一度、神が王としてわたしたちを導いてくださる。私たちの神、主がもう一度イスラエルを支配してくださる日が来ることを待ち望んでいたのです。この神が王となって支配してくださることを、「神の国」とか、「神の支配」という言葉で言い表して来たのです。それはまさに、イスラエルの人々が長い間聞きたいと思っていた知らせであり、それこそが、この神の国の福音だったです。

 そして、この「神の国」というのは、主イエスが語られた福音の中心です。ですから、主イエスが神の国をどのようにお語りになったのかということを、しっかりと理解する必要があるわけです。今日から、マルコの福音書の4章にはいります。ここは、いくつかの主イエスのたとえ話が語られているところです。そして、このたとえ話の中心的な内容もこの「神の国」です。

 今日の聖書の箇所ですと、11節に「神の国の奥義」という言葉が使われています。

あなたがたには、神の国の奥義が知らされているが、他の人たちには、すべてがたとえで言われるのです。

と語られています。

 神の国のメッセージというのは、秘密なのでその秘密を他の人たちには明らかにしないために、たとえばなしで主イエスはお話になっているのだと言われているのです。「他の人たち」というのは、この4章の冒頭に記されていますが、主イエスの話しを聞くために集まって来た「おびただしい数の群集」と言われている人たちです。湖の岸辺に大勢の人たちが集まっています。主イエスは船に乗って、湖から岸にいる大勢の人たちの方に向かって、たとえばなしをなさいました。ところが、この人たちは、神の国という主イエスがお語りになる福音の中心を知らされていないということなのです。

 何だか、かなりもったいない気がします。せっかく多くの人たちが集まって来ていて、しかも、主イエスもその人たちに向かって話しかけておられるのに、肝心なことは秘密にされたままだというのです。その秘密の話しというのは、種まきのたとえ話です。

 話そのものは特に難しい話ではありません。日常的な種まきの時におこる話です。種を撒く人が種まきに出かけ、種を撒いていると、その種は道端に落ち、岩地に落ち、いばらの中に落ちた。その種はカラスが来たり、日に焼けたり、いばらに邪魔されて実を実らせることはなかったけれども、良い地に落ちた種は、豊かに実を実らせたという話です。

 それだけ話をして、話が終わってしまったのかどうか、本当のところは分かりませんけれども、ここではその話のことだけが語られています。この話を聞いていた人たちも、きっとこの話は、何かの比喩なのだろうということは想像できたのではないかと思いますが、何の話か、分からなかったようです。そして、この後の弟子たちの質問をみると、そばで聞いていた弟子たちも、何のことだかよく分からなかったわけです。それで、主イエスは弟子たちに、このたとえ話は、神の国の秘密が語られているのだと、説明してくださったというのです。しかも、12節には少し気になることが書かれています。

それは、『彼らは確かに見るには見るがわからず、聞くには聞くが悟らず、悔い改めて赦されることのないため。』です。」です。

とあります。見ても、聞いても悟らないというのです。「百聞は一見に如かず」といいますが、聞くだけでもダメ、見てもダメというのです。

 もちろん、主イエスは意地悪な気持ちで秘密にされたわけではありません。群集にお語りになられた冒頭の3節でも「よく聞きなさい」と語られています。また、結びの言葉とし9節でも「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われたのです。けれども、人々には理解できませんでした。

 では、ここで主イエスが語られた神の国の秘密というのは何なのでしょう。それはまさに、たとえばなしをすることで、すぐに理解できないように秘密になさったわけですが、主イエスは13節から20節でこのたとえ話の解説をしておられます。13節を読みますと、まず主イエスの弟子たちや周りにいた人たちも分からなかったとあります。今週の聖書の学びの時に、このみ言葉を一緒に学びました。その時に、10節に

さて、イエスだけになったとき、いつもつき従っている人たちが、十二弟子とともに、これらのたとえのことを尋ねた。

と書かれている言葉を読んで、主イエスの弟子の他に「いつも付き従っている人たち」という新しい人たちが加わっていることに驚いたと言われた方がありました。ですから、ただ、癒されることを期待していただけの人ばかりでもなかったということです。主イエスの話を聞いても、みんなまるっきり分からなかったということではなくて、少しずつではあっても、主と共に生きる人たちが起こされてきていることが分かります。そして、そういう人たちに、主はこのたとえ話の説明を話しました。14節からです。

 まず、14節に「種蒔く人はみ言葉を蒔くのです。」とありますから、みことばをどう聞くかということがこのたとえばなしのテーマだということが分かります。ここには4種類の土地が出て来ます。聖書学び会でも、すぐにこの4種類はこういう4つのタイプと人がいるということではないかということになりました。

 最初に出てくるのは道ばたに蒔かれた種のことが書かれています。道というのは、この聖書の時代もそうであったと思いますが、踏み固められたところです。固い土地です。もちろん、種を撒くのにはいい土地ではありませんが、道路と考えると固くないと困るわけです。道がぬかるんでいたら、すぐに足をとられてしまいますし、雨がふるとたちどころにぬかるんでしまいます。けれども、種を育てるには良い土地ではないのです。

 整備された道路に、神の言葉は留まりません。もう、ここは大丈夫、ここは整えられて自分の強みと思っているところに、神の言葉は実を実らせることはできません。み言葉を聞いても、それはそのまま鳥がついばんでいくように、種はどこかに奪われてしまうのです。

 岩地も、いばらも似ています。岩地は、少し土があるのかもしれません。けれども、根をはるほど豊かではありません。表面的にみ言葉を受け取ってもそれで終わりだというのです。いばらのようなところ、さまざまな興味や関心のあることと同じように聖書のことばを聞いても、あれもこれも聞いているうちに大事なことが分からなくなってしまうのです。

 こういう話を聞く時に、私たちはクリスチャンだからもう良い土地なので、これは私の事ではないから大丈夫と思ってしまうなら、それは誤りです。

 私たちは毎週日曜日が来るたびに同じ経験をしているのだと思うのです。日曜日にみ言葉を聞いて、それが私たちの生活の祝福となるのか、それとも右から入って左に出ていってしまうのか。日曜に家に帰ってからみなさんが「サザエさん」を見るのか、「笑点」を見るのか、「大河ドラマ」を見るか分かりませんが、そうやって寛いでもうすっかりみ言葉が鳥についばまれていくように、どこかにいってしまっていないのかということを、私たちは考えなければならないと思うのです。

 主イエスはこう語っておられます。

良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いて受け入れ、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ人たちです。

 ここで語られているのは、何年み言葉を聞いたかではありません。何度聖書を読んだかでもありません。ただ聞いても、ただ読むだけでも、それを見たとしても、ダメだというのです。大切なことは受け入れることだというのです。受け入れるというのはどういうことなのでしょう。み言葉を受け入れるというのは、そこにはその人にとって何かが起こるということです。ぼんやりと聞き流している間に心に入って来る、などということはあまり期待しないほうがよいのです。神の語りかけは、この世界の常識を覆すからです。

 ある人にとって、み言葉を聞き、受け入れるというのは戦いです。たとえば人を赦すという場合、それは決断するために重たい戦いの末にようやく決断するのと同じです。このクリスマスの季節に何度となく聞くメッセージを考えてみてもそうです。ヨセフがマリヤのお腹に出来た子供を聖霊によるものと受け止めたのは、戦いの末であったはずです。マリヤがまだ結婚していないのに子供を宿すという言葉を受け入れたのも、戦いであったはずなのです。

 神のことばを聞くとき、私たちは何度も何度もそれをかみしめる必要があります。ただ、さらっと読んでそれで終わりというのではなくて、少し自分の生活の中でそれはどういう意味を持つのかとあれこれと思いめぐらしながら考えてみるのです。神の言葉を受け入れる時に、自分は何を神に差し出すことになるのか、そこにはどんな犠牲があるのか、祈りながら問うのです。そうやって、自分の生活の中へ取り込んでいく時に何が起こるのか、ドキドキしながらためしていくということもあるのだと思うのです。最初はぎこちないのかもしれません。自分のものになっていないと感じるのかもしれません。けれども、そのみ言葉に従っていく時に、そのみことばの味わいが分かって来る。実を実らせていくことになることが分かってくるのです。

 それは、子どものピアノの練習をみているようなものであるかもしれません。はじめはうまくいかなくて、泣きながら練習するのです。もう覚えたと思っても、また次の瞬間間違えるのです。それでも、何度も何度も、毎日毎日、練習しているうちに、ついに素晴らしく奏でることができるようになる。自分のものになったという気持ちになる。それは、5歳でも経験できることです。

 私たちにはもうここは耕されていて大丈夫というところがすでにたくさんあると思います。けれども、あるところは岩がゴテゴテしている。あるところはいばらが生えている。あるところはまだ固い頑固なところがある。そういうところに、み言葉が入っていくようになるには、少し時間が必要です。そのためには、その聖書のみ言葉と向かい合って自分のものとする時間が必要なのです。少なくとも10分、15分静まってその聖書のみことばと向き合う必要があるのです。そうして、そのみことばを心にとめながら生きてみる。生活の中でさらに考えて見る。そうすることによって、その聖書の言葉が自分のものとなる経験をすることになるのです。

 聖書を読んでみて、引っかかるところがあるなら、そこを考えてみる事です。そして、気をつけていただきたいのは、聖書を読んですぐに、この聖書のことばは自分の生活にどういう意味を持つか適用してみるとこういうことになる、と考えることをやめる事です。

 この金曜日、神学校で説教学という講義も教えているのですが、一人の神学生が、この日曜日にマリヤの夫のヨセフの箇所を子どもたちに話すことになっているのだそうで、私に質問をしてきました。今、神学生たちは来年、年明け早々に説教を実際に作ってやってみるという説教演習をしようとしています。そこで、私が、「簡単に聖書の言葉を今の生活に当てはめないこと」と言いました。適用するということではないと教えたのです。

 すると、その神学生が私にこう尋ねました。この日曜日に子どもたちにする説教の教案誌に、「このヨセフさんは神様のことばを信じて、マリヤさんを受け入れました。みなさんも、神さまのことばをヨセフさんのように信じて受けとめましょうと、この聖書のことばを適用して説教するようになっているのだけれども、それではダメなんですか」と質問しました。私は、「それではダメです。」と答えました。それでは説教にならない。聖書のことばと向かいあったことにならないと言いました。すると、この神学生は困ってしまうわけです。教案誌にそう書いてあるというわけです。そこで、私はその方に質問をしました。「ヨセフさんがそうしたら、わたしたちもそうしましょうというのは福音なんですか」と。聖書の言葉というのは、そういうふうに読んではダメなのです。

 ヨセフは簡単に天使の言葉を受け入れたのではなかったはずなのです。葛藤したはずです。神の言葉を聞くということは葛藤が生じるのです。でも、それでも受け入れようとするときに、自分の子どもではない子どもを、自分の子どもとして受け入れるという覚悟が生まれます。そして、そのヨセフの覚悟の中で、神のことばは実を実らせるのです。そこで、ヨセフは神と格闘して、神に自分を委ねるという決断をする。そこに、信仰が生まれるのです。そして、その時に、神の言葉が30倍、60倍、100倍の実を実らせることになるのです。

 まだ耕されていない土地は耕さなければならないのです。まだ、自分の心は堅いままで、このままではみ言葉を聞いてもすぐに鳥に奪われてしまうということに、自分で気づかないかぎり、そのところが耕されることはないのです。何度そこに種が蒔かれても、耕されないかぎり、神の言葉は実を実らせることはないのです。

 少し時間をとって神の言葉を味わってみる事。そこで、神の国の福音の秘密を発見することです。神の国の秘密とは、み言葉を聞いて受け入れることです。そうして、神がわたしを支配してくださるということが、わたしたちに何をもたらすのか、その実を見ることによって知るのです。神の言葉は、どのようにして自分のものになるのでしょう。それは、神の言葉を聞いて、考えて、格闘して、そうやって私たちがそれを受け入れる時、神は私たちに豊かな祝福を約束してくださるのです。

 お祈りをいたします。

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