2017 年 11 月 30 日

今月の礼拝予定(2017年12月)

Filed under: 今月の礼拝予定 — susumu @ 18:27

12月3日 待降節第一主日

主日主題: 神の家族
聖餐式礼拝: 午前10時30分
聖書: マルコの福音書3章20-35節
説教:「新しい家族」 鴨下直樹牧師
子ども:「救い主を待ち望む」鴨下愛
聖餐式

午後:聖歌隊練習(礼拝後)

12月10日 待降節第二主日

主日主題: 待ち望む
公同礼拝: 午前10時30分
聖書: (未定)
説教: マレーネ師
子ども:「マリヤとヨセフの見たクリスマス」山田茜

午後:聖歌隊練習(礼拝後)、手話講座

12月17日 待降節第三主日主日

主日主題: いのち
合同礼拝: 午前10時30分
聖書: マルコの福音書4章1-20節
説教:「みことばを聞く祝福」 鴨下直樹牧師
子ども:「羊飼いたちの見たクリスマス」河合和世

午後:聖歌隊練習(礼拝後)

12月24日 待降節第四主日・聖夜

主日主題: クリスマス
公同礼拝: 午前10時30分
聖書: ルカの福音書2章1-20節
説教:「闇の世界に輝く天の栄光」 鴨下直樹牧師
子ども:「宿屋の見たクリスマス」鴨下愛

午後:クリスマス祝会(もちより)

12月31日 降誕節第一主日

主日主題: 光
公同礼拝: 午前10時30分
聖書: マルコの福音書4章21-25節
説教:「光の中へ」 鴨下直樹牧師
子ども:「私のクリスマスと私の新しい一年」鴨下愛

午後:特になし

2017 年 11 月 26 日

・説教 マルコの福音書3章7節―19節「大衆と弟子たち」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 19:04

2017.11.26

鴨下 直樹

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 先週の日曜日教会で子ども祝福礼拝をいたしました。その後で、少し前から気になっておりました村上進さんのお父さんの村上伸先生のお宅を訪ねて小さな聖餐の集いを持ちました。

 村上伸先生のことをあまりご存じない方も多いかもしれません。日本基督教団の安城や岡崎で伝道なさって、最後は東京の代々木上原教会で牧会をなさっておられた先生です。退職されてからは、岐阜の池田町に住まわれて、執筆活動などを続けて来られました。福音派という言葉を私はあまり使いませんけれども、福音派の中ではそれほど知られた先生ではなかったかもしれませんが、日本のキリスト教会では本当に大きな貢献をなさった先生です。

 特に、ディートリッヒ・ボンヘッファーの研究家として、さまざまな翻訳をしてくださいましたし、ドイツの色々な神学者たちの著作を日本語に訳してくださって、大きな貢献をされた先生です。少し変な言い方かもしれませんけれども、私には雲の上のような存在の先生でしたので、気軽に訪問するというようなことも、あまり考えていなかったのですが、もう長い間聖餐をされていないのではないかと、急に思い立ちまして、この日曜日の夕方にお訪ねしたのです。

 今週の木曜日、祝日の日でしたが、夕方に進さんからお電話をいただきまして、伸先生が亡くなられたと聞きました。本当に、日曜日にお会いした時にはまだ、顔色も良さそうでしたので、できるだけこれからは訪問をさせていただこうと思っていたところでしたので、本当に言葉も出ないほど驚きました。そして、昨日、葬儀をいたしました。家族の方々とごくわずかな方だけの小さな葬儀でしたが、よい葬儀であったと思います。

 その葬儀でもお話したのですが、村上先生が献身の召命を主から受けたのはまだ18歳。高校生の時です。青森の八戸という町で伝道しておられた渡辺牧師がさまざまなところを訪問する時に、伸先生は一緒に連れられていったのだそうです。そうしているうちに、自分も牧師になりたいという思いを持ったのだそうです。けれども、家は貧しくて、牧師になって食べていくことができるだろうかということが心配で、親に話すことができずに思い悩んでいた時に、天からの声を聞いたのだそうです。その声は「死ねばいい!」という声だったのだそうです。気のせいだったかもしれないけれども、確かにそう聞こえたと自伝の中に書かれていました。そして、青森から東京にでて神学の学びをして、牧師になったということでした。 (続きを読む…)

2017 年 11 月 25 日

故・村上伸師告別式

Filed under: 特別説教 — susumu @ 13:00

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2017 年 11 月 19 日

・説教 ルカの福音書15章1節-7節「迷子の羊」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 09:10

2017.11.19
子ども祝福礼拝

鴨下 直樹

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 先ほど、「せいしょのおはなし」の中で絵本を読んでいただきました。羊飼いがいなくなった羊を見つけに行った話です。ちょうど、今日の聖書の物語を絵本にしたものです。ただ、聖書と絵本がひとつ大きく違っているところがあります。それは、絵本では99匹の羊は柵の中にいれておいて、迷い出た一匹を捜しに行きました。けれども、この聖書には柵の中に入れておいたので大丈夫だとは書かれていません。

4節にこう書かれています。

あなたがたのうちに羊を百匹持っている人がいて、そのうち一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。

 ここには、「九十九匹を野原に残した」と書かれているのです。別の聖書の翻訳(岩波訳)ではもっとはっきりと「九十九匹を荒野に放っておいて」と訳されています。この話は、羊飼いが迷い出た一匹の羊を探すために九十九匹を野原に放っておいて、いなくなった一匹の羊を捜したという話しが、今日の聖書のはなしです。ちょっとびっくりするような話です。
 
 今年の夏休みに、私は書店で面白い本を見つけました。「羊飼いの暮らし」という本です。イギリスの湖水地方の羊飼いが、実際にどんな生活をしているのか、その四季の生活ぶりを綴った本です。御存知の方も多いと思いますが、今年、イギリスの湖水地方が世界遺産に登録されました。それで、脚光を浴びるようになったのがピーターラビットの作者のビアトリクス・ポターです。このビアトリクス・ポターは絵本・ピーターラビットの収益で自分の育ったこの湖水地方を購入してこの土地を守ったということが知られています。ところが、この本は、そういう湖水地方にまつわる美しいエピソードとは全く異なる、この土地に古くから生き抜いてきた羊飼いたちの実際の生活ぶりが、どれほど過酷なものであるかを紹介する本として注目を集めました。

 この本を読んで知ったのですが、この湖水地方の羊の毛はほとんど価値がないんだそうです。羊一頭の毛刈りを人に頼むとすると、日本円で180円ほどなんだそうですが、そうして一匹の羊の毛、フリースというのだそうですが、わずか70円。毛を刈れば刈るほど赤字になるというほどのようです。なんのために毛を刈るかというと病気にならないためだそうで、実際は食肉用として飼育しているということでした。というのは、この湖水地方というのは自然の厳しい環境で、ウールとして売れる羊を飼うのにはふさわしくないんだそうです。

 中でも私が大変興味深く読んだのは、羊の毛刈りの時の話です。この湖水地方の広大な土地に放牧された羊たちを、毛刈りのためすべての羊を一か所に集めるためにどういう方法をとるのかというところを、私はとても興味深く読みました。地域の羊飼いたちが一斉に集まって、チームを組んで同時に羊を集めるのだそうです。なだらかな土地の羊を集めるのは簡単な仕事なので、新米の羊飼いにやらせて、丘陵地帯の藪の多い地域はベテランのそれ専用の牧羊犬を持っている羊飼いが担当します。それはまるで軍隊の統率のような徹底した戦術を練って、一匹も見逃さないように行われるのだそうです。羊飼いは四輪バギーに乗って、それぞれの土地に合わせて訓練された牧羊犬とで行われるとても精密で大変な作業なのだということが分かってきます。そういう時に、迷子の羊が出たということは書かれていませんでしたので、そうならないように羊を集めるのだということがわかります。 (続きを読む…)

2017 年 11 月 12 日

・説教 マルコの福音書2章23-3章6節「祝福の戒め」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 17:28

2017.11.12

鴨下 直樹

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 今日の聖書の箇所はちょっと面白いところです。安息日、働いてはならないと言われていた日に、主イエスの弟子たちはうっかりなのでしょうか。麦畑に入って、麦の穂を摘んで食べてしまったという出来事が事の発端となっています。普通に考えれば悪いことをやったのは弟子たちの方です。悪いこととまではいかなくても、禁止されていた戒めを破ってしまったわけですから、注意されても仕方がないわけです。ところが、主イエスは非難されているご自分の弟子たちをかばわれたわけです。律法にも安息日に働いてはならないと記されていますから、聖書の戒めに背いた弟子というのは弁解の余地もないような気がするわけですが、主イエスはその弟子への非難を通して、そもそも律法、神の戒めとは何なのかというテーマで話をされています。それが、今日の箇所です。

 ここで、パリサイ人たちが主イエスの弟子たちを非難した時、主イエスが何と答えられたか。この主イエスのお答も、とても興味深いものでした。かつて、ダビデがサウル王から逃げていた時のことです。ダビデは祭司のところを訪ねて、律法では祭司しか口にすることが許されていなかったパンを、いただいていきます。26節に、アビヤタルが大祭司のころと書かれていますが、聖書を読んでみますと気づくのは、実際はアヒメレクです。聖書を記す時に覚え違いをしたのかもしれません。いずれにしても、祭司しか食べることの許されていなかったパンを祭司アヒメレクはダビデに与えます。この時のことを主イエスはここで語られて、だから主イエスの弟子たちが安息日に麦の穂を食べてもいいのだという理由にしたわけです。

 おそらく、これを聞いていたパリサイ人はこの主イエスの答を聞いて、口をポカーンとあけていたのではなかったかと私には思えるわけです。というのは、このダビデのケースは全くの例外として、困った緊急の事態の場合は、律法よりも緊急の事情が優先されるというケースとして当時の律法学者たちには理解されていたのです。けれども、主イエスの弟子たちは緊急でもなんでもないわけです。むしろ、あまりよく考えもしないで麦畑に入って行って食べたわけですから、この主イエスのお言葉は、普通の感覚からすると、この状況ではふさわしくないわけです。しかし、わざわざこう答えられたということは、主イエスには明確な意図があるはずです。主イエスはここで何を気付かせようとしておられるのでしょうか。

 今日の説教題を「祝福の戒め」としました。少し説教題に違和感を覚えるかもしれません。「戒め」という言葉と「祝福」という言葉は合わないように感じるわけです。何でもそうですが、決まりごとが一つできると、本当のその決まりごとの意味は忘れられてしまって、その決まり事は自分を束縛するもののように感じるわけです。たとえば、体調を整えるために塩分の取り過ぎは良くないので、塩分を控えるとなるとたちどころに不自由に感じます。今まで何でもおいしく感じたものが、塩味を薄めた食べ物を残念に思う気持ちが出てくるわけです。決まり事というのは、本来その人のためになるためにあるはずなのに、決まりごとが、戒めが出来た途端、人を縛り付けるものとなってしまうのです。そして、塩分の濃いものを食べるのが自由だと思って塩分の濃い食事をとっても、喜べるかというと、実際自分の体に良くないし、かえって罪悪感が伴うことになるわけです。戒めに縛られるのも不自由ですが、戒めを破るのも不自由さを感じてしまうのです。
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2017 年 11 月 5 日

・説教 マタイの福音書16章26節「いのちの重さ」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 19:06

2017.11.05

鴨下 直樹

⇒ 説教音声はこちら

 先日、以前牧会していた教会の長老とばったり出くわしました。懐かしくて昔話に花をさかせていました。話はこの長老の奥様の実家が徳島にあるのですが、徳島のご両親が病気で入院していたところを訪問したということでした。それで、病室で、イエス様を信じて天国に行きましょうという話しをしたら、二人とも「はい」と答えてくれたと、にこやかな表情でお話くださったのです。

 実は、私が牧会していた当時、この長老のお父様がご高齢で、病気になられて入院しているところを、訪問したことがありました。何度も病室を訪問して、色々なお話を聞かせていただきました。その中で、お父様がこんなエピソードを話されたことがあります。この長老の奥様も、クリスチャンなのですが、まえに、この奥様が入院をして手術を受ける時に、手術室に入る時、にっこりと笑いながら「行って来るね」と言われたのだそうです。その顔が忘れられないというのです。

 よくよく話を聞いてみると、自分もその後で何度も手術室に入ったけれど、いつも不安で不安で仕方がなくて心がつぶれそうになるのだそうです。その時に、いつも自分の息子のお嫁さんの顔が出て来て、どうしてあんなに安心でいられるのか不思議でしょうがない、と思うのだということでした。そして、私にこう話されたのです。「信仰を持つということが、それほど平安を得られるというなら自分も信仰が欲しい」と。そして、病室でご夫妻そろって洗礼を受けられたのです。後日、その長老とお会いした時に、懐かしそうに、ご自分の両親がそうやって病室で洗礼を受けて、その後天国に招かれていったので、本当にそのことが嬉しい、自分の妻の両親も最後に信仰を持ったことが嬉しいと話してくれました。

 このように、人生の晩年に信仰を持つ方は少なくありません。特に、キリスト教会で葬儀を行った後というのは、いつも色々な相談を受けます。自分の人生はこれでよかったのかということを、振り返りながら考えるのだと思うのです。若い時というのは、死はいつか自分にもやってくるけれども、まだ、今ではないからと、考えるのを後回しにできます。けれども、いろいろなことがきっかけになって、自分の人生を振り返る時に、自分は自分に与えられたいのちの価にふさわしく生きることが出来たのか。これで良かったのかと考える時が訪れるのだと思うのです。その時に、どのような答えを出すのか、それもまた人それぞれです。

 もちろん、そこで自分の人生を振り返ってみて、後悔することが沢山あったとしても、もはやどうすることもできません。自分の人生の大事な局面で、今の道を選択してきたのは自分ですから、その人生を否定してみてもどうにもなりません。ただ、私たちにあるのは、常にこれからどうするかという決断しかないのです。

 今日の聖書はこういう言葉です。

人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。

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2017 年 11 月 1 日

今月の礼拝予定(2017年11月)

Filed under: 今月の礼拝予定 — susumu @ 17:37

11月5日 三位一体後第21主日

主日主題: 召天者記念礼拝
公同礼拝: 午前10時30分
聖書: マタイの福音書16章26節
説教:「いのちの重さ」 鴨下直樹牧師
子ども:(合同)

午後:墓地礼拝

11月12日 三位一体後第22主日

主日主題: 祝福
聖餐式礼拝: 午前10時30分
聖書: マルコの福音書2章23節-3章6節
説教:「祝福の戒め」 鴨下直樹牧師
子ども:「カルメル山での主の裁き」河合和世
聖餐式

午後:臨時総会(役員選挙)、新旧合同役員会、聖歌隊練習(礼拝後)

11月19日 三位一体後第23主日

主日主題: 子ども祝福礼拝
合同礼拝: 午前10時30分
聖書: 創世記 17章1-8節
説教:「迷子の羊」 鴨下直樹牧師
子ども:「迷子になった子羊」鴨下愛

午後:手話講座

11月26日 終末主日

主日主題: 新しい名前
公同礼拝: 午前10時30分
聖書: マルコの福音書3章7-19節
説教:「大衆と弟子たち」 鴨下直樹牧師
子ども:「神、エリヤに現れる」鴨下愛

午後:大掃除、アドベント飾り付け、教団総会(於:岩倉教会)

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